13. 最後のチャンス
本当にそれでよいのだろうか?
どこまでも直観的、感情的な疑問だった。理由はない。
ぼくにしては珍しいことだった。そんなことでいいのか。理屈じゃないから答えは出ない。
ただただ漠然とした、気分の問題だった。それは一種の哀感に似ていた。
まるで人が息を引き取る瞬間を見ているような気がした。少しだけ悔しさも混じっていた。
ぼくは(そして世界は)、逃げているんじゃないか?
たとえはっきりと見えないとしても、これっぽっちも想像できないとしても、拓かれるかも知れない可能性に賭けるべきじゃないのか?
――それは、君が決めることだ。
あの男の言葉を思い出した。
ぼくはふぅ、と息をついて、まぶたの上から眼を押さえた。
それから、パズーのことを思った。あの優しい歌の旋律が、胸の内によみがえった。
パズーにあって、ぼくにないものとは何なのだろう?
パズーに出来て、ぼくに出来ないことって何なのだろう?
そんなことばかり考えていた。
そんな、十三歳の誕生日だった。
「や。ジャスティン。待たせたね」
いつもの声が聞こえた。教授は今日もいつもと同じカジュアルな服装で、親しみやすさを装っている。
でも実は、駅の手あかのついた手摺りに手が触れる度に、彼が除菌したハンカチで慎重に手を拭っていることをぼくは知っている。
彼はぼくに、手を差し伸べた。
「さあ。行こうか」
ぼくは彼の手を握りかけた。
その時、視界の隅を、あの男が横切っていった。
ぼくは息を呑んだ。
黒の長髪、伸び放題のヒゲ、汚れた服、黒縁のメガネ、そして、深く鋭い眼。
間違いなく、あの日本人のホームレスだった。
彼はあたかもどうでもよい群集の一人であるかのように、駅を行き交う人々の中に紛れ込んでいた。
足早に駅の奥、地下へ向かう階段へと立ち去ろうとしている。
普段なら決して気づかないような、一瞬のすれ違いだった。
――次に逢うときが最後のチャンスだ。
また、あの男の言葉が耳の奥に響いた。
その瞬間、周囲の雑踏の音が全て断ち切られ、ぼくは自分の思考の中に入り込んでいた。
これが最後の選択なのだろうか。
逃した選択は帰ってこない。彼はそうも言っていた。
分岐点は常に一度きりしか通ることが出来ない。取り返しはつかない。
今、目の前にはぼくの前途を祝福せんとする立派な人物の手が伸ばされている。
他方で、正体の知れないホームレスの男がぼくのそばを通り過ぎようとしている。
本来なら迷う余地などどこにもない選択だ。この駅にいる人千人に訊いて全員が同じ答えを返すだろう。
しかし。
しかし、だからこそ世界は閉塞しつつあるんじゃないか?
だからこそ世界は、終わりつつあるんじゃないか?
選択の集積が時間であり人生であり歴史であるならば、その結果として終末の現在があるならば、たった一人の感覚に拠った不条理で愚かしい決断が、やがてこの世界を大きく変えるのではないか?
そうして世界はこれから、始まるんじゃないか?
混沌と懐疑の中に跳躍し加速するぼくの思考は、次第に一点へと凝集していく。
最後に残ったのはこの上なく単純で、そして暖かな、小さく幼い言葉だった。
――道を決めるのは、ぼくだ。