10. 世界は終焉を迎える
近所の通りを独りで歩きながら、ぼくは昨日あった出来事についてずっと考えていた。
あの男が何者かなんてそんなの分かるはずもない。たぶん彼の言っていたとおり、ただのホームレスなのだろう。可能世界論に多少造詣が深い。
問題はそんなことではなかった。可能性に向かって拓けた世界? それって、一体どんなものなのだろうか。
ぼくにはさっぱりイメージすることが出来なかった。この世界に残された可能性? 何だろう。
顔を上げて目の前の通りの様子を見てみると、いつものように雑然としていた。
ボロいトラックががたがたと揺れながら走っていき、途方もなく大きな声で笑い合っている露出過多なお姉さんたちがいた。
雑貨屋のおじさんはお客の相手もろくにせず、テレビでフットボールの試合を見て昼間からビールを飲んでいる。
集合住宅の脇を通り過ぎると、三階の窓からどこかのおばさんの血管が千切れそうな怒鳴り声が響いてきてぼくは縮み上がった。
どこもかしこも奇跡的なまでにいつものままだった。
ぼくにとっての世界は実のところこんなところで完結していて、それ以上もそれ以下も想像できなかった。
あの男との議論みたいなものは何時間だって続けられるけど、それは論理の上のことに過ぎない。
いざ世界の可能性について現実に思い浮かべてみろ、と言われても、何も出て来なかった。
歴史を勉強すると昔の人たちは、世界を変えようと本気で立ち向かい、命を賭し、そして死んでいっている。
ぼくにはそれが、ずっと不思議に思えてならなかった。その頃の彼らは間違いなく、世界の可能性に夢を見ることが出来た。
強く、本気で。そこには命を賭けるだけの価値があった。
今、ぼくらにそんなことは思いも寄らない。世界を変えようとする奴なんか、どこにもいやしない。
必要がないのだから仕方ない。世界中を見廻したって、そもそもそんなものを求めている奴がどこにもいないのだ。
そうだ。昨日の問題にしても、きっと結局のところそこへ行き着く。
今、ぼくは何をすべきか。いかにして生きるべきか。
何もすべきでない。どのようにしても生きるべきでない。少なくとも、生きるという言葉に動的な意味が含まれている限りにおいては。
それが結論だ。今の世界は過去の記憶にひたすら固執し、無限回の再生産を望んでイモムシのようにもがいている。
そんな世界で、果たしてどんな生き方があるというのだろう。
床に置かれた時計のように、ただ淡々と在り続けて時を刻む。それしかぼくらに生きる道はない。
それを生と呼ぶのか、ぼくにはすこぶる疑問だ。だからぼくらには、生きる道などない。
どこにも、欠片も、ない。だからぼくには、可能性に向かって拓けた世界など、想像することすら叶わない。つまるところ、そういうことなのだ。
世界はすでに終焉へ向けて秒読みを始めている。
抗うすべはない。
ぼくはゆっくりと、息をついた。
「ジャスティン!」
突然呼びかけられて、ぼくは眼を見開いた。
足元を見ると、小さくて白いものがまとわりついていた。
彼女はケチャップのついた口でニッコリと笑った。近所に住む、五歳の女の子のリズだった。
この辺りにしては珍しく白人の子で、くるくるしたきれいな金髪だった。今日もウサギのぬいぐるみを手にしている。
幸福というものを象徴するとちょうどこんな姿になるんじゃないかな、という具合だった。