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おかえり、と言ったが返事はなかった。彼の兄は仕方なくゲームをポーズさせた。それから振り返ってドアの方を見た。だがそこにいたのは弟ではなく、全身黒タイツの小汚い中年男だった。兄はぽっかりと口を開けたまま、何を言ったものか考えた。二人は似たような顔で見つめあっていた。
弟が兄の部屋から首だけ出して聞いた。「兄貴、エアガンはどこにある」
「そんなもの何に使うんだよ?」
「人助けだ」と弟はキッパリ言った。「どこにある?」
兄は教えてやった。「黄色の箱の中」
それから兄はその男に近づいていった。銀行強盗みたいな格好だな、と思った。鼻糞か鼻血の固まったやつがついてるし、ニット帽は斜めに額を覆っていた。兄はなんとか笑顔を作り、いやあこれはどうも、いつも弟がお世話になって、と言った。男はあっけに取られたまま曖昧にうなずいた。
彼はトカレフを見つけ出した。微妙にグリップのデザインが違っており、一瞬冷や汗をかいたが、握ってしまえばわからない程度のことだった。同じ箱には電池も入っていたので、ついでに頂いた。彼は廊下の反対側にある自分の部屋のドアを開けて、そこへ入るよう男に促した。男は黙ってそれに従った。彼は財布を開けて二万円を取り出し、兄に渡そうとした。兄は受け取る代わりに、小声で質問を続けた。「あの人は誰だ?」
彼はしばらく考えてから答えた。「ちょっとした知り合いだ」だが兄は信じなかったようで、視線を落とした。「オレには偏見はないし、バカにもしないから、だから正直に答えてくれ」それから顔を上げて、真剣そうな表情で続けた。「お前もしかして、ホモだったのか?」
彼は首を横に振った。「このエアガンはどこで買った?」
「イオンのオモチャ屋だけど」
「いつ?」
「三年くらい前かな」
彼は満足そうに頷いて、兄に携帯電話を返した。そして部屋に入ってドアを閉め、おとなしく正座していた男に対面する位置に立った。とにかく時間がなかった。いかなる手段を用いても、こいつの頭に叩き込まなければならないことがあった。
「今から事情聴取の訓練をする」彼はじっと男の目を見た。「時間がないから、体で覚えてもらうことになる。いいな?」
男はニタニタ笑い始めた。なんでお前みたいなガキに指図されなきゃいけないんだ、と顔に書いてあった。
彼はその膝をエアガンで撃った。「『はい、わかりました』だ。三秒以内にそれが聞こえなかった場合、問答無用で発砲する。例えばこんな風にだ」それからもう三発が腹部に浴びせられた。「今のはほんのお遊びだ。これからは本気で目を狙う。失明させるつもりでな。わかったな、わかったらどうするんだ?」
男は困惑していたが、眉間に銃口を向けられると、はい、わかりました、と力なく言った。
「よろしい」
話はこうだ。男はイオンのオモチャ屋でエアガンを買った。三年前だ。犯行に至るまでの経緯についてはこう話す。『金がなくてやむにやまれぬ状況だったが、もっと冷静になれば良かった。あの青年や、店の方には関係のないことだった』。動機は金だ。『金が欲しかったのだろう?』には常に『はい』と答える。犯行には計画性があった。これは誤魔化せないので、正直に話す。改造拳銃だ、と言ってエアガンを突きつけたもののオモチャであることを見破られ、スマートフォンを奪って逃亡した。動機については『その機械が特別なものに見えた』で通す。『欲しかったのか』には『たぶんそうです』だ。そして公園まで逃げたところで青年と出くわしたが、電話の着信音に気が付いて逃亡を再開、このマンションの前の道を少し行ったところで御用となった。
兄はドアに耳を当てて聞いていたが、内容はよくわからなかった。
「これは改造拳銃だな。どこで手に入れた?」と聞こえた。
「ええと、同僚だったじいさんから」
バシュンと音を立てて電動式のスライドが後退した。短い悲鳴も聞こえた。
「それはオモチャです。イオンで買いました」
「よろしい」
一体何をしてるのか、兄は不思議で仕方なかった。ともかく、性的な行為でないことにホッとしていた。
彼らはもうすぐそこまで来ていた。青年は男の肩を掴んで、歩かせた。公園の傍にはパトカーが停まっていて、警官三人がその周辺を歩き回っていた。そこには店長と、マリちゃんもいた。青年としては、まだ不安だった。だがもう時間がなかった。四の五の言わず、やるしかないのだ。
手筈どおり行くぞ、と彼は耳元で囁いた。
はい、わかりました、と正しい返事が聞こえた。
警官たちは公園の入り口に二人を見つけると、素早く走り寄ってきて時計を確認し、ゲンタイゲンタイ、と叫びながら男を引き剥がし、手錠をかけた。男を乗せたパトカーは、すぐに走り出していった。
それから二台目のパトカーが来るまで、公園でかいつまんで事情を話した。怪我はないかいと聞かれたが、首を横に振った。
「お前は本当にわけのわからないやつだ」と店長が言った。「だが、よくやってくれた。感謝するよ」
彼は黙っていた。おべっかであることは明らかだった。やがて制服とエプロンを脱いで、それを店長に渡した。その下には、真っ白なシャツを着ていた。
店長はそれを持ったまま、眉間にシワを寄せた。「どうしろって言うんだ?」
「辞めます」と彼は言った。「オレは今日で辞める」
店長は彼を指差して、警官の方を見た。警官は苦笑していた。
「あたしも辞めよっかな」とマリちゃんは言った。「レイプされそうになったし」
「本当かい?」と警官は聞いて、店長とマリちゃんを交互に見た。
「嘘だ。嘘なんです。なあ、そんなこというのはやめてくれよ」
青年はじっとマリちゃんの目を見た。彼女もこっちを見ていた。
「そうね、同意の上だったわね」と彼女は言った。「少なくとも前回は」
「いや、そうだけど、そういうことじゃなくて」と店長は言った。
「前にもあったよな」と彼は言った。「よくわからない理由で辞めた女がいたよな」
そして二人は視線を交わしてニタニタ笑った。決して悪い気分ではなかった。でももう十分だということに、二人とも気がついてしまった。これ以上追及すると、リスクだけが膨れ上がることになる。
「冗談よ」と彼女は警官に言った。
「それは冗談では済まされないよ」と警官は忠告した。「れっきとした犯罪だ。今回は見逃そう。だがその気になれば、君を逮捕することができるんだからね。発言には注意しなさい」
彼女はちゃんと返事をした。
すぐにパトカーが来て、彼とタキモト氏を乗せて発進した。パトカーに乗るのは初めてだったが、中へ入ってしまえばほとんど普通の車で、通信用の機械がいくつかあるだけだった。
「君、若いのに落ち着いているね」と助手席に座っていた警官が言った。
そうですかね、と彼は答えた。そんなことを言われたのは初めてだった。捉えようによってはちょっと失礼な話だったが、彼にはその言葉が、何かの暗示みたいに思えていた。落ち着いている。たしかにそうだった。これから偽証をやるのだ。だが他人事みたいで、妙に落ち着いていた。そういうことはこれまでの人生で何度もあったが、どちらかと言えばそれは悪いことのように思っていた。でも考え方が変わった。たぶんこれは、ある種の才能なのだ。活かす方法を探さなけりゃならない。
聴取は無事に済んだ。青年は落ち着いていて、冷静に状況を考えながら『本当のこと』を話した。何度かわざと訂正したり、記憶違いかもしれないと答えたりした。スマートフォンを壊したのは自分で、盗まれたことに関してはどうでもいいので、それだけはどうにか忘れてもらえないかと訴えた。そういうわけにはいかないが、考えておくよ、とのことだった。それから再びパトカーで現場へ戻り、ルートを説明した。すっかり忘れていたが、ついでに自転車も回収した。そしてそれが済むと、家へ帰れることになった。感謝状をもらえると言われたが、どうでも良かった。だが断ると勘ぐられる可能性もあるので、受け取ってやることにした。その日はどっと疲れていて、家に帰るなり泥のように眠った。
男は無事に試練を乗り越えた。男にはもう何が本当なのかわからず、彼に仕込まれた『教育』に頼らざるを得ない状況だった。それを必死に思い出して答えた。あまりにも上手くいったので、かえって拍子抜けだった。男の話は辻褄が通っており、罪に対する反省の姿勢も見られた。時折謎の老人が登場することもあったが、警官たちには錯乱しているだけのように見えていた。孤独は人を狂わせる。人生に望みはなく、ただ死だけが待っている。それならば老人の夢くらい見ても不思議はない。警官たちは取調べの最後に、あの落ち着いた青年からの言葉を伝えた。希望を捨てずに生きて下さい、とのことだった。
事件から一ヶ月の間、青年は貯金を切り崩して静かに生活していた。ガス抜きをして改造拳銃を分解し、部屋にあった不要なものと混ぜ、燃えないゴミの火曜日に捨てた。兄には何も話さなかった。何が不手際があればすぐに連絡が来るはずだった。想定外の万が一ということがある、それは覚悟していた。だが男が全てを暴露した場合でも、時間が経てば経つほど、信憑性が薄れるのだ。何しろあんなしょぼくれたオヤジが改造拳銃を持っているということ自体、信憑性がない。それはちゃんとわかっていた。
やがてリミットは来た。あっという間に捜査は終了し、そのうちに裁判も始まるという情報をマリちゃんから電話で聞いた。それが自由になる合図だった。
彼は就職活動を始めた。説明会にも足を運び、高卒の自分でも雇ってくれそうな会社を探した。膨大な会社のリストがあったものの、どれも見ただけでうんざりした。だがそこで腐らず、何が不満なのかを自分なりに考えた。技術を磨ける、保守的でない、というのが彼の望む条件だった。条件を整えてから考えると、思っていたよりもたくさんあった。彼はその一つに目をつけた。それはフルフレックス制を導入しているウェブデザインの会社だった。ホームページやユーチューブで、ちょっとしたアニメーション映像を作ったりしているらしい。学歴不問、履歴書の形式は自由。
必要なものは知識だった。彼は図書館へ行ってデザインや構図に関する書物を借りてきた。勉強は嫌いだったが、必要とすれば知識は簡単に頭へと滑り込んだ。それと併行して履歴書を書いた。自分のことを書くのは嫌いだったが、必要とすればそれは言葉に出来た。『死んだ目をしていると言われて育ったが、物事と距離を置けることが自分の才能だと気がついた』と書いてやった。それはきっと何かに活かせるはずだった。
面接は社長と一対一だった。社長はキレイなスーツを着たデブだった。たっぷりと顎髭をたくわえていて、白い歯を見せてニカっと笑った。
「たしかに面白い目をしている」と社長は言った。「だが、それは君を信用する理由にはならない」社長はパソコンのソフトウェアに関する何冊かの本と、DVDを机の上に置いた。「アイデアマンになるつもりなら、お引取り願おう。そういう人間は雇わないことにしている。必要なものは技術だ。来週の月曜までにこれを全部読んで、何か作ってこい」
執行猶予なし、禁固刑三年半の判決だった。
青年は時折あの男のことを思い出した。希望を持って生きる、と言ったが、それがほとんど不可能に近いということはわかっていた。現実はそれほど甘くない。それに前科持ちの五十六歳が希望などというものを持ったところで、何かが変わるとも思えなかった。四畳半の部屋で口を開けてテレビを見続ける男の姿が思い浮かんだ。残酷な発想だったが妙に現実的で、事あるごとに頭に浮かんだ。そしてその度に、『ならば自分はそうなるまい』と硬く心に誓った。
その想像はほとんど当たっていた。男には青年がどうして自分を殺さず、あんな行動に出たのか、最後まで理解できなかった。ましてや希望などというものを抱くことなどなかった。二年の服役を終えて、新聞配達の仕事に戻った。それからわずか三ヶ月後の出来事だった。男は朝刊を配達中、深夜の市街地で泥酔した若者に目を付けられ、教科書通りのワンツーをもらって地面に倒れた。そしてその拍子に路側帯のコンクリートに側頭部を強く打った。意識を失った状態で脳内出血が進行し、そのまま放っておかれて死んだ。市街地はしんと静まり返っていて、通りのずっと向こうには、交差する二車線の国道が見えた。たくさんの赤いランプがそこを通っていった。意識を失う前、男の目はそっちを向いていた。何かイメージが浮かんだ。男はテレビを見ていた。そこにはあの青年とは違う若者が映っていた。オレ、就職するよ、とそいつは言った。本当に良かったなぁ、と男は思った。出来れば触れてやりたかったが、テレビの向こうだった。画面は冷たくて、硬かった。そうこうしているうちに、どんどん視界は狭くなっていった。画面の向こうにはどうして触れられないのか、その疑問がかすかな色となって意識の底を漂っていたが、それも最後には消えた。
兄はスーツを着た彼の姿を見て驚いていた。
「就職活動か?」と兄は聞いた。
「いや、これから会社に行くんだ」と彼は答えた。
そうか、とだけ兄は言った。他にどう答えようもなかった。
「金が溜まったらすぐ出てくからさ」と彼は革靴を履きながら言った。「今まで迷惑かけて悪かったな」
気にするなよ、と兄は言った。
彼は玄関の横に設置してある鏡を覗き込んだ。死んだ目をした男がそこにいた。初出社の緊張は、それで吹き飛んだ。こいつを活かすのだ、と彼は自分に言い聞かせた。
「行ってくるよ」と彼は言った。
そして玄関のドアを開けて、外へ出た。