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最初に立ち上がったのは男の方だった。男は片方ずつの手に銃と、スマートフォンを持っていた。血で汚れたタッチ式のパネルが、パッと光った。青年はそれを見ていた。男もそうしていた。暗証番号の入力画面が映っていただけだが、それは何か特別なことを意味しているように思われた。
男は通り沿いではなく薄暗い市街の方へ逃げた。青年もすぐに立ち上がり、それを追おうとした。だが走り出した瞬間、片足を強く掴まれたように感じて、そのまま前のめりになって倒れてしまった。青年はようやく自分のダメージを認識した。被害を受けたのは背中ではなく、男を蹴り飛ばした右足だった。おそらく捻挫か、悪ければ骨折していた。痛みよりも麻痺してかかっている足首の感覚の方が恐ろしかった。彼はそいつの姿を目で追った。駐車場を挟んで一本向こうの通りにいた。ふらふらと左右に揺れながら歩いており、スマートフォンのバックライトが、蛍みたいにあっちへ行ってこっちへ行った。前進しているのかいないのか、とにかく疲労困憊しているのは明らかだった。コンビニへ戻るべきだろうか、と一瞬だけ考えた。だがそれが一体何になるのだろう?店の奥で寝ているであろう店長のことが思い浮かんだ。怒られるだろうなと思った。だがそれは今帰っても、後で帰っても、結局は同じことだった。彼の勤務態度は最悪だったので、目をつけられているのだ。何やかや言われて怒られるに決まっていた。万引き犯が大挙して押し寄せ、商品を洗いざらい盗んでいくところを想像した。ダンボールまで持ってきたやつもいるが、店長はまったく気づかず眠り続ける。それは悪くない想像だった。
男は完璧に安全な場所を探していた。ハワイとかグアム島とか、行ったことはないけどテレビで見た風景が思い浮かんだ。あそこなら完璧に安全だった。最後の楽園のように思えた。だがご近所にあるものといえば『パラダイス南国』くらいのものだった。ずいぶん昔に行ったことがあった。絶対に目線を合わせない作業的な女たち。あの冷たい瞳。あまりにも惨めで、勃起もしなかった。バカヤロウ、と男は一人呟いた。そんなことはなかった、全部嘘だ、とハッキリ口に出して言った。とにかくわかっているのは、安全な場所はないということだけだった。自宅へ帰るべきだと思い当たったが、反対方向だったし、かなりの距離があった。肺を全力で動かして唾を飲み込み、それから膝をついて振り返ると、街灯の光を背に受けた黒い影のようなものがこっちへ向かってきていた。そいつは人間の形をしていて、明らかに自分を追ってきていた。決して速くはなかった。それがひとまずの脅威だった。とにかくそいつからは逃げなくてはならない。考えている暇などないのだ。彼は木々を切り分けた砂利路を進んで、舗装された道路へ向かった。呼吸の音が聞こえたが、それが相手のものなのかどうかはわからなかった。
パッと視界を光が覆うとともに、タイヤがアスファルトのかけらを擦る音が聞こえた。その光の向こうには原付に乗った若者がいた。あぶねぇよオッサン、と若者は言った。あやうく轢くところだったじゃねぇか。その声と顔には懐かしさがあった。それは三ヶ月前まで一緒に働いていた同僚のホンダ君だった。テーブルを挟んだ向かいがホンダ君の作業場だった。だからいつも男の目の前にいたのだ。喋ったことはなかった。彼はもともと誰かと楽しく喋ったりするタイプではなかったからだ。ホンダ君は男に対してあまりいい印象を抱いていなかった。指名手配犯みたいな目で気持ちわりぃな、と事あるごとに思っていた。ホンダ君は男の正体に気がつかなかったようだ。そんな格好で歩いてたら危ないぜ、気をつけてくれよ、とホンダ君は言った。ギアを蹴って2速に落とし、ハンドル操作で男を避けてスロットルを回した。
青年は胸に衝撃を受けて尻餅をついた。眩しくて前が見えなくなった。まいったな、大丈夫ですか、と声がした。青年は立ち上がり、そっちに向かって思い切り前蹴りを入れた。光が大きく揺れてそっぽを向くと、その正体が明らかになった。
ちょうどいいな、と青年は思った。「そのバイク、貸してくれませんか」
はあ、とそいつは攻撃的に聞き返した。二人はしばらく見詰め合っていたものの、やがてバイクは彼を避けて走り出し、脇を通って大通りの方へ行ってしまった。
青年は男を捜したが、見失ってしまっていた。きちんと区画整理された市街地の真ん中で、一人取り残されていた。そこはインターネットの向こう側とはまるっきり違う世界だった。あそこなら、放っておいても誰かが喋って、沈黙を埋めてくれた。だがここでは違うのだ。市街地はしんとしていて、遠くの国道を走る車の音が一度だけ聞こえると、もう何の音も聞こえなかった。薄暗い町並みも、自分の体も、青みがかって見えた。足音や呼吸の音やズボンがずれる音、自分の発している音がよく聞こえた。だがその全てが、今や世界中から無視されていた。
少し離れたところで電話が鳴った。青年は素早く首を振ってその方角を見た。
男は驚いて携帯電話を落っことしてしまった。だが暗証番号がかかっていたため電話は繋がらずコールだけが響いた。
「この野郎、自分のやっていることがわかってるのか?」と店長はコール音に向かって言った。「世の中をナメるなよ。オレをナメるなよ。だんまりか?上等だ。だが責任は取ってもらうぞ。絶対に逃がしはしない。いいか、絶対だからな。覚悟しておけ!」そして諦めて電話を切った。
青年は捻挫した足を引きづりながらそっちへ向かった。絶対に許すわけにはいかなかった。いくつか角を曲がり、点滅式の信号のある小さな交差点を渡ったところで、若い女とすれ違おうとした。だがその女は彼の目の前に素早く移動して、両手を広げて道をふさいだ。彼は衝動的に殴りつけようとしたが、途中でやめにした。その女は同僚のマリちゃんだったからだ。
「どこへ行こうって言うの?」とマリちゃんは言った。「強盗?何の話をしてるの?なんで店から逃げたのよ。こっちはそれで呼び出されたんだから。あたしは疲れてる。本当に疲れてるの。今日は昼間も働いてたのよ。一日中ニコニコして携帯売って、自分でもよくわかんないのに新しいプランの営業やって、とにかく命がけで働いてるの。それなのに、なんでそういう意味不明な行動をするの。それで誰かが迷惑すると思わないの。あなたは知らないだろうから教えてあげるけど、あなたがそうやってサボった分だけ、誰かが働くことになるの。例えば私とか、店長がね。いい迷惑よ。あたしより年上のくせしてさ。ねぇ、こういうの何回目よ?何回目だって聞いてるのよ!」
青年は答えに窮した。彼女がこれほどまでに強い口調で怒るのは初めてだったが、大体において彼女は正しかった。弁解の余地さえなかった。二人は市街地で向き合っていた。月明かりが、ぼんやりと彼女の姿を浮き上がらせていた。寝ぼけ眼で、七三に分けられた長い髪はボサボサだった。唇をきゅっと結んで、鼻から息を吸い込んで肩を上下させていた。
「謝って」と彼女は言った。
彼は首を横に振った。「お前の選択だろ。嫌ならサボれよ」
マリちゃんは平手で彼の頬を打った。「私はもう帰るから。もういいわ。バカらしい。あんたが店に戻りなさいよ。いいわね?」彼女はそのまま踵を返し、去って行こうとした。
彼は何も答えなかった。怒りは一瞬のうちに消え去り、今は奇妙に落ち着いていた。腹の底から活力が沸いてきたが、それは感情とは無縁のエネルギーだった。だんだん目の前にいる女が、硬い殻に覆われた虫みたいに思えてきた。
「お前が望んだことだ」と彼は言った。「だからお前はここまで来た」
いくつかの反論を述べる必要があった。まずマリちゃんは『お前』と呼ばれたくなかった。こいつがそんな口を利くのは初めてだったので、なんとなく遠慮していたけど、嫌だった。彼氏にもそう教育してきた。『君』もしくは『マリ』、許せるのはその二つだけだ。そしてそれを口に出そうとしたとき、マリちゃんは彼の目の中に何かを認めて、黙り込んだ。風が吹いて、あらゆるものが揺れた。だが彼の顔だけは無表情のまま、空中に嵌まり込んだように見えた。そこに開いた二つの穴が、じっとこっちを見ていた。
マリちゃんは後ずさりして、それから全力で駆け出した。追われているという確かな実感があって、両の足をひたすら動かした。自宅へ帰ろうとしたが、追い詰められると思うと足が止まった。下手に戻るよりは、人のいる場所の方が安全だった。マリちゃんは角をいくつか曲がって、コンビニへ向かった。道路を照らす光に向かって真っ直ぐに進み、自動ドアにぶつかりながら滑り込んだ。店長はそっちを見た。その女の子は土気色の顔をして、大きな声でえづいた。何人かの客がそれを見ていた。店長は屈みこんだ。どうしたの、と店長は言った。女の子は何か言っていた。だがうまく聞き取れなかった。事情を知らない客も周りを取り囲んだ。どうして誰も聞いてくれないのだろうと彼女は思った。だんだん自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。警察を呼んで欲しかったのだが、その自覚を持つまでには時間がかかった。
男は後悔していた。ほとんど前には進めなかったが、それでも足を動かした。あのままテレビを見続けていたらどんなに良かっただろうと思った。銃を手に入れた時は伝説的なことをしようと思っていたのだが、一体何をすればいいのかわからなかった。最初に思いついたのは銀行強盗だった。デンゼル・ワシントン主演の『インサイド・マン』をNHKで観たのだ。素晴らしい映画で、アカデミー賞を山ほどもらったに違いないと思った。だがあれをやるには警察を騙せるだけの知性と、豊富な道具と、信頼に足る仲間が必要だった。無論、彼は一つも持っていなかった。そこで目につけたのがコンビニ強盗だった。コンビニ強盗についてはニュースで何度も見ていて、簡単そうに思えた。いわば流行物だ。ニュースで何度も見たということは店側の対策が進んでいるということなのだが、そんなことは考えたこともなかった。
男は市街地の中にある小さな公園にたどり着いた。入り口の階段に座って息を整え、それから蛇口をひねって水を飲んだ。あせって飲もうとしたためか、むせてしまって大きな咳をした。それからゆっくりと飲みなおして、ベンチに座り込んだ。もはや精も根も尽き果てた。家に帰って眠りたかったが、市街地は迷路のように入り組んでいて、どっちが自宅なのか見当もつかなかった。銃とスマートフォンをベンチの上に置いた。そして筒型の小さなトイレへ行って、用を足した。
鏡を見ると、そこには男がいた。彼はニットの帽子を脱いだ。髪の毛はすっかり禿げ上がり、頬はたるんでいて、あちこち染みがついていた。蛍光灯の白い光が、その顔を青白く見せていた。彼はぐっと近づいてそれを覗き込んだ。そこにいるのは死人同然の男だった。彼はその事実についてじっと考え始めていた。