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遊泳  作者: まつうらさん
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 その夜こそ決行しようと彼は思ったが、玄関まで行って靴を履いたところで空しくなり、そのまま戻ってきた。四畳半のその部屋は汚れてきっていて、床に散乱したコンビニ弁当の梱包や自分のものなのかさえわからなくなったシャツや内容物の異なるビニール袋たちの山があり、押入れのゴミの山の一番上から零れ落ちたマヨネーズのカラが、ちょうどその上に落っこちたところだった。それらをよけて作った円形のスペースには小さなテレビがあり、NHKの報道特番が映っていた。これからは個人としてスキルを磨く必要があるということだった。昨日は洋画劇場の『ダイハード』で、その前は千葉県あたりの田舎の風景を守ろうとかそんなような内容で、どちらも彼にとっては見逃せない番組だった。コメンテーターの眼鏡をかけた大学教授によると、保守的な価値観や神話はやがて崩壊し、それらに依存している人々は生き残っていかれない時代が来るだろうということだった。本当にけしからんと彼は思った。ずいぶん昔に付き合っていた年下の女が、自分を捨てたことを思い出した。彼女はおとなしい女だった。したいようにさせてくれて、だからどうとでも料理できた。だがその日だけは違った。あなたと一緒にダメになるわけにはいかない、と彼女は言った。彼は月並みな言葉を吐いたり、肌を重ねることで彼女は元通りになるだろうと考えた。だが彼女はブラウスのボタンを外されながら、首を横に振った。あなたは騙されているの、と彼女は言った。これは何もかも嘘なのよ。その顔には表情というものがなかった。彼は手を止めて、その言葉を噛み砕こうとした。だがうまくいかなかった。それからもう十年以上もの時間が経ったが、あと一歩のところで理解できなかった。その女の顔と、本棚に囲まれて映る大学教授の姿が重なった。二人はよろしくやっているのだろうと思った。男はテレビを消した。そしてポケットからガス込め式の遊戯銃を取り出し、それをじっくりと撫でたあと、扉を開けて外へ出た。


 その男は五十三歳の無職、やや太り気味の体形で、全身黒タイツを着て黒のニット帽を被り、医療用のマスクをつけていた。新聞配達の仕事をしていたが、三ヶ月前に仕事を辞め、現在は無職だった。奇跡的に試験をパスして普通自動車免許を取ったが、更新するのを忘れていたため失効すると、その後は二度と取り戻せなかった。所持していた遊戯銃は同じ職場で働いていた老人から九万円で購入したもので、本物ではないが、それに匹敵する威力があるという触れ込みだった。その老人は髭だらけの太っちょで、どういう理由か戸籍を持っておらず、偽名を使っていた。所長も含め周囲の人間もそれを承知していたが、事情を尋ねても人なつっこい笑みでいつも誤魔化された。新聞紙で包んであったその遊戯銃はもちろん本物には匹敵しなかったが、当たり所によっては人が殺せる代物ではあった。BB弾の代わりにベアリングの弾を込め、暴発寸前までガスの圧力を高めてあったのだ。老人は男にそれを売った次の日、突然姿を消してしまった。もともと幽霊のようにふわふわした存在であったために誰も不審には思わず、望郷の念に似た感情がかすかに残っただけだった。みなどこか安心したような微笑みを浮かべていたが、男だけは違った。改造拳銃と一緒に何かを託されたような気がして、誇らしかった。触れるだけで自分が強くなったように感じた。胸に抱いて寝たこともあった。これを使って、何か伝説的なことをやるのだ、そう心に誓った。

 一軒あたり十万円で、十軒十地域やれば一千万円になる計算だった。最初の一軒目と決めていたそのコンビニは、新設された駅前通りにあった。周囲の店は電気が消えていて、店から漏れ出る白い光が、遠くからでもよく見えた。通りの反対側へ行って観察したところ、どうやら客はいないみたいだった。男の事前調査によると、週の前半は目の暗い青年が店番だった。背は高いが痩せ細っており、くしゃみをしただけで骨折しそうな、いかにも貧弱まるだしといった風貌の青年だった。青年は店の裏に通じる小さなスペースで、口をぽけっと開けてスマートフォンを弄くり回していた。すべてはうまくいくに違いなかった。男は道路を渡って、コンビニへ近づいていった。店の入り口の上には、アイドルグループの女の子が映った布が掛かっていた。それを見ていると突然世界中からバカにされているような気がして、ふと立ち止まった。だがもうやるしかないのだ。男はポケットの中の銃に触れることでなんとか覇気を取り戻し、自動ドアに近づいていった。


 青年は本当に退屈していた。掃除が済んでしまうと、あとは暇だった。店内に客の姿はなく、カーペンターズの曲が流れていた。カーペンターズは一日中リピート再生されていて、ずっと聞いていると家に帰ったあとも幻聴が聞こえるようになるので、青年は早々に考えるのをやめて耳栓をつけ、簡易事務所の椅子に座った。そして大手掲示板サイトにアクセスし、古参ユーザーが新参者をとっちめる、いつもの流れを見て暇を潰した。

 やがて客が来た。いらっしゃいませ、と青年はそっちを見ないで言った。それからスマートフォンをポケットにしまって、レジの方へ歩いた。客はレジから少し離れたところで立ち止まり、青年の方をじっと見た。タバコだろうと思ったが、そのまま踵を返して店を出て行ってしまった。男はしばらくのあいだ入り口付近をうろうろしたのち、すぐに戻ってきて、コンビニの中を何週か回った。そいつは背が低く、腹が出ていた。全身黒ずくめに黒のニット帽、それに医療用のマスクをつけていた。紙パックの飲料の前で腕組みしながらこっちを見て、目が合うとさっと視線を逸らした。万引きか、と青年は思った。前にもそういうことはあった。でも青年としては何を盗まれようが痛くも痒くもないし、どうでもいいことだったので、自発的に対応しようとは思わなかった。見逃してやるから早くやれよ、と言ってやりたいくらいだった。そいつは『厳選熟女100連発』というタイトルの雑誌を両手で持ってしばし立ち止まったのち、それを棚に戻して真っ直ぐにこっちへ来た。そしてズボンのポケットから黒っぽい何かを取り出して、両手を上げて目一杯前方に伸ばした。顔が真っ赤で、見てわかるくらいブルブル震えていた。金だ、とそいつは言った。金を出せ。

 青年は口をぽっかり開けて、そいつが構えているものをじっと見ていた。拳銃の形をしているということは認識できたが、その存在は非現実的で、厚い空気の膜の向こう側にあるように感じた。それに銃口はわずかに外れていたので、身の危険を感じることもなかった。青年はしばらくそうしていたものの、やがて思い当たってスマートフォンを取り出した。画面を親指でなぞってウェブブラウザを開き、グーグルで検索をかけた。いくつかのキーワードを入力して絞り込むと、すぐにその情報は見つかった。コンビニ店員がエアガンだとカマをかけ、強盗を退けた事例だった。実銃だったらどうするんだよ、という質問がユーザーコメント欄にあり、それに対して誰かが答えていた。『実銃を手に入れたらもったいなくてそんなしょうもない犯罪はやらないだろ』とのことだった。たくさんの高評価がついていた。そりゃもっともだ、と青年も思った。

「それ」と青年は銃を指差して言った。「オモチャでしょ。わかるんですよ、そういうの」

 男は口を閉じた。喉の奥が締まって呼吸ができなくなった。どうして見破られたのかわからなかった。銃身を傾けて確認したが特にそれらしい印もなく、なんとかして構えなおした。それからようやく答えを思いついた。改造拳銃だ、と辛うじて言った。相手は再び例の機械を弄り、画面を見ながら短く笑った。

「スライドを引いてチャンバーを見せてもらえますか?」

 チャンバー。なんだそれは、と男は思った。とんがり帽子を被ったメキシコ人歌手、みたいなものが頭に浮かんだ。最近の若いのは本当にわからないのだ。今や男は肩で息をしていた。威嚇射撃をしたかったが、弾は一発だけだった。狙いのつけ方もわからないまま、なんとかして胸の真ん中に向けてトリガーを引こうとしたが、どうしても引けなかった。たぶん撃たずに済むだろうと思っていたのが間違いだった。NHK教育の仲良し人形劇や、反戦番組を見すぎたせいだろうか。ともかく殺傷目的で人を撃つのはとても難しいことなのだとようやく理解したが、一度臆してしまうともう挽回することはできなかった。相手の持っている機械が、男の視界に入った。ずるいと思った。何一つ持ってない若造の分際で、このヘンテコな機械の力を使ってオレを追い詰めようとしているのだ。それはフェアではなかった。少なくとも、男にとってはそうだった。

 青年はそれからどうしたものか考えていた。完全に論破したものの、お帰り頂く方法がわからなかった。やがて男はこっちへ突進してきてレジの上に体を乗り出し、滅茶苦茶に手を振り回した。青年は体を突き飛ばされてタバコの棚に背中をぶつけたが、それ以上の危害を加えられることはなく、男は開きかけの自動ドアにぶつかりながらコンビニを出て行った。青年は周囲を見回して、脅威が去ったことを確認した。だが何か違和感を覚えた。何かが足りないのだ。青年はその正体もわからないままに、半ば本能的に自分の両手を見た。さっきまであったはずのものがなかった。それが何なのかわからず混乱し、ネットで検索しようとして、すぐにそれに思い当たった。スマートフォンだ。あれを奪われたのだ。奪われた場合の対処法をネットで検索しようかと思ったが、肝心のデバイスがなかった。いくら望んでもそれは不可能なことだった。警察に、と思った。だが動けなかった。通報する方法をネットで検索したかった。警察に、ネットで検索を、その二つの考えが彼の頭の中でグルグル回った。彼は息苦しさを感じていた。巨大な穴の中へ落ちていくような気分だった。あまりに寂しくて、そのまま消えてしまいそうだった。インターネットに依存して生きてきたせいで、その中毒症状が出たのだ。家にはパソコンがあったし、買い換えることもできたが、それは問題ではなかった。彼が欲していたのはあのスマートフォンだった。あれがなければ、もう生きていけなかった。

 青年は店を飛び出し、自転車に跨った。勢いよく車道へ出て、左右を見回した。道沿いに並んだオレンジの色の街灯のおかげで、遠くまでよく見えた。そしてその姿が認められると、そっちへ向かって一目散に走り出した。この野郎、と彼は呟いた。両足に力を込めて、全力でべダルを漕いだ。

 男は自分の体力のなさを呪っていた。早くも限界だった。それでもかなりの距離を走ったように感じていた。膝に手をつこうと思ったが地面に転げてしまった。なんとか座り込み、それからようやく後ろを振り返った。視界に何かが飛び込んでくると同時に鼻のあたりに衝撃を受けて、そのまま後ろへ転がった。あらゆるものがグルグル回って、ようやく地面を掴まえた。酸っぱい臭いが鼻の中にきつく漂った。息が出来なくて、何度も寝返りをうった。顔をめちゃくちゃに擦ってマスクを外した。ひいひい言いながらなんとかまぶたを開けると、両の手のあちこちに黒い染みのようなものがあった。持っていた改造拳銃と似た色だった。オレンジ色の光のせいでそう見えただけで、それは血液だった。さらに二、三滴が地面に落ちた。明らかに自分の体から出てきた。それは鼻血だった。背筋が凍りつき、同じ衝撃がまた来ると思って戦慄した。男は座ったままあちこち見回した。そして衝撃の正体を認めた。少し離れたところ自転車が倒れていて、タイヤが高速で空転していた。そしてその脇では、エプロンを着た青年が背中を抑えて悶絶していた。

 そして二人は視線を交わした。男は正座していて、青年も手をついて体を起こした。お互いに目を見開いて、何かを確かめるようにしてじっと相手の目を見ていた。

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