008
次の日は朝からシトシトと小雨が降っていた、
俺はどうにも腹の虫が治らなくて学校を無断欠席したのなんてコレが初めてかも知れない、それで午後になってからLINEで相田美咲を呼び出して、一足先に放課後の部室を訪れていた、
丁度都合の良い事に早美都は今日も所用有って部活は欠席で、博美先輩も昨日に引き続き休みで一人きりの部室で手持ち無沙汰に自己啓発本を開いていると、やがて申し訳無さそうに畏まった相田美咲がやってきた、
「昨日はご迷惑おかけして申し訳御座いませんでした、」
相田は菓子折り持参で俺に深々と頭を下げる、全く律儀な奴である、
聴くとクラスのみんなにはGW中に買ったコンタクトレンズが目に合わなくて痛みで泣き出してしまった、と言う説明で事なきを回復してくれたという事だった、
「分かった、けど、一体何があったのか話してくれるんだろうな、」
「はい、」
相田美咲は暫くじっと俯いて、それから漸く怯えた目で俺の顔を覗き見て、いよいよ覚悟を決めて浅い深呼吸を一つそして、
「私、振られてしまいました、」
照れ笑いとも苦笑いともつかない複雑な表情で困り眉を潜めながら、あっけらかんとそう言った、
「振られた? 相田がか?」
「恋路は思いのままにならないものですね、」
そう言って相田はもう一度ほんの少しだけ笑う、
「前の晩に彼から電話が掛かってきて、私とは会えないと言われました、……今の彼には、放って置けない女性が居るんだそうです、だから私とはもう会えないと、謝って下さいました、」
「そうか、」
相田は黙ったままコクリと頷き、俺は神妙な眼差しで相田の瞳の奥を覗き込む、
「何がいけなかったのでしょうか?」
もしかして昨日は一晩中泣いていたのだろうか、相田の目には薄っすらと隈が出来ている、
「私はどうすれば良かったのでしょうか?」
俺は相田が持ってきた菓子折りの袋をビリビリに開けて、缶入りクッキーを一つつまみ食いする、
「どうすれば、か、」
恐らくそう言う事なのだろうと昨晩から俺にも大体の察しは付いていた、こんな心変わりがたった一日二日で起こるとは考えられなかったし、何よりも俺には相田美咲が振られるなんて事はどうしても信じられなかったのだ、あり得るとすれば絶大な権力を振るう相田の父親が何らかの圧力を加えて二人の中を引き裂いたのではないかと言う疑いだったのだけれど、
今にして思えば男の言い訳は相田美咲を傷つけない為の優しさだったのかも知れないし、同衾を匂わせるような無茶な逢引の計画は、相田美咲を諦めさせる為の思い遣りだったのかも知れない、
でも、聡明な相田美咲がそんな簡単な絡繰に気付かない訳が無い、相田美咲は最初からこの障害の大きさを分かっていて、だからこそ自らの貞操さえ刺し違える覚悟でわざわざ北海道迄男に会いに行こうとしたのだ、確かめに行こうとしたのだ、
一体何を?
いや、何を言っているんだ? 俺は知っているじゃないか、
人はどんな不利な状況も強大な障害も、自分と思い合う相手との間の「運命的な絆」をひっくり返す事など不可能だと、夢見てしまう、勘違いしてしまう、思考停止してしまう、
だからやはり恋愛なんか俺は信じられないのだ、
男は最初から相田美咲を諦めていたのだ、相田美咲はそれを認めたくないのだ、だったら俺はどうすれば良い? これ以上相田を傷付け無いようにする為には相田に何を言ってやれば良い?
「諦めるしか無いと思うぞ、人の心は変わるものだからな、」
急に驚いた風に俺の事を凝視する相田美咲、
「そして女のお前にはそれが有り得ない事の様に思えているのだろうが、それはただの生物的な男と女の感じ方の違いに過ぎない、男は手に入れる事に必死になり、女は逃がさない事に躍起になる、相田の彼は一度手に入れてしまった相田の事よりも、まだ自分のモノになっていない別の誰かを欲しがったんだ、例え相田の方がどんなに上等な女だったとしてもだ、つまり、これは全く誰の所為でも無くて、これは生物的なごく普通の反応だって事だ、」
「だからもう諦めた方が良い、って言ったら、……お前はどうする?」
相田美咲はポカンとした顔で俺のトンデモ説教に耳を傾けていたが、
「そう、ですね、」
そうして一つホッと溜息っを吐いて一言、
「京本さんの言われる通りかも知れません、」
その美少女はじっと俯いたまま虚無を見つめて、ぎゅっと口を真一文字に結んでいた、
「相田美咲は強いな、」
「美咲はそんなに強い子じゃありません、でも、仕方ないですよね、」
それから相田は席を立って、
「色々と相談に乗って頂いて本当に有難う御座いました、今日はこれで失礼します、」
もう一度丁寧に俺に会釈する、そして、
「ちょっと、待て、」
俺は部屋を出て行こうとする相田を呼び止める、
「ところで、もう一人の方はなんて言ってるんだ?」
相田は振り返って怪訝そうに俺を睨み付ける、
「何の事を仰っているのでしょうか?」
「お前のポケットの中の汚い縫いぐるみの事だよ、」
相田美咲は暫し呆然と立ち尽くし、それから囁く様な微かな声で、無理矢理に作り笑いして、
「京本さんは酷い人です、みいちゃはそんなに汚くありませんよ、」
「そりゃあ悪かったな、」
俺はポケットに隠し持っていたプラスチック製の間抜け顔の猫の指人形を人差し指に付けて、相田美咲の目の前でピコピコ躍らせる、
「ま、口の悪いみいちゃの事だから「所詮結ばれる事の無い相手の事なんか何時迄も引き摺ってないでさっさと忘れちゃいな、」とか言いそうだな、」
相田は何時の間にかボロボロと溢れて零れ落ちる悔し涙を拭おうともせずにそのままにして、
ーーー
俺はアカリ先生の言葉を思い出していた、
「宗次朗、人の心は常に移ろい続けるものなの、まるで音楽みたいに旋律と律動を変化させて揺れ動くものなの、……嬉しい気持ち、苛立つ気持ち、時には泣きたくなる事だってあるわ、そんな風に感情が動くからこそ人は感動する事が出来るの、……ずっと、何があっても穏やかで居られる方がどうかしている、それは心を閉じ込めてしまっているのと同じ事、」
相田美咲の心は、小さな縫いぐるみの中に封じ込められたまま、ずっと誰の目にも触れない様に隠し続けられてきた、
「もしも誰にも知られない様にずっと隠し通して来た気持ちが宗次朗の前にだけ現れるのだとしたら、それは宗次朗に救い出して貰いたがっているんじゃないのかな、」
だったら俺がすべき事は、
本当は悲しくてたまらないのなら、
ーーー
「そんな訳ない、……忘れられる訳がない! 何なんですかその変な人形! 人の事を馬鹿にして! 何が生物的反応ですか!意味がわかりません! そんな言葉で納得できる訳ない! こんなに好きだったのに、こんなに好きなのに、諦めろだなんて、……なんで貴方にそんな事を言われなきゃならないんですか!」
どす黒く淀んで詰まった相田美咲の腹の中を、吐き出させてやる事、
「漸く本音が出たな、」
「だったら何なの? 笑いたければ笑いなさいよ!」
「俺は笑わないよ、」
「こんな風に私を辱めて、どうするつもりなんですか!」
「それよりお前はどうするつもりなんだ? 本当にもう諦めるのか?」
「諦めません!京本さんはおっしゃいました、男の人は女性との情事を期待するものなのでしょう、それならこの身体を使ってでも、彼を取り戻すだけです、」
「色仕掛けとは穏やかじゃ無いな、」
「悪いですか? だって私達は元々結ばれる運命なんです、彼の目を冷ます為なら私の貞操くらい安い物です、」
「お前、何でそこまでそいつの事を好きになったんだ?」
「彼は特別なんです、高貴なんです、ウチの財産や私の外見を目当てに言い寄ってくる他の男の人達とは違う、優しくて尊敬できる人なんです、辛い時に私の話を聞いてくれて、慰めてくださって、それでも一度も私の身体に指一本触れようとはしなかった、私の事を本当に大切に思ってくれた、」
「つまりそいつは、お前に興味が無かっただけなんじゃないのか?」
「それは、……」
相田は言葉を詰まらせて、顔を真っ赤にして黙り込む、
俺は深い溜息を一つ、
「そろそろ出てきたらどうだ?」
そして、部室に通じる隣の美術準備室の扉が開いて、中から一人の男子高校生が現れた、
成る程ナヨっとナルシストな雰囲気が全身から滲み出て隠し切れない長身の美男子、
「……豊田さん、」
それっきり相田美咲は呼吸が止まったかの様に微動だにできなくなる、
「相田さん、ごめん、僕、……」
俺は昨日の夜、相田が俺の携帯を使って最初に豊田に連絡を取った時の履歴を辿って、このナヨっとしたナルシストに電話を掛けた、案の定豊田は相田の父親と約束させられてもう二度と相田美咲と会わない代わりにハイソな全寮制高校への進学や海外留学の費用まで面倒見てもらっていたらしい、但しそれは一方的に突きつけられた合意では無くて、豊田にとってもメリットのある取引だったのだ、
「僕、本当は年上の女の人が好きなんだ、今もママと同じ位の歳の人と付き合ってる、相田さんの事は、大切な友達だとは思ってるけれど、恋愛対象としては見れません、」
俺は、最悪相田美咲がどうしても豊田の事を諦めないつもりなら、どうせ何があっても諦めるつもりなんかない事であろう事はお見通しだったのだけれど、その場合はキッチリ本当の事を白状しない限り相田美咲の親父に有る事無い事報告する事になるぞと豊田に脅しを入れた、それでこの男は二つ返事で北海道から神奈川県迄すっ飛んできた訳だ、
「ごめんなさい、」
ーーー
豊田良平が去った後の部室で俺と相田は二人きり、
相田が真っ白に燃え尽きたみたいに呆然と項垂れている間、俺は名物の缶入りクッキーをバリバリと頬張って漸くひと段落、
それにしても会えないと言われてもめげずに北海道迄押しかけるとか最早ストーカーレベルだな、
「つまりお前は、ディスリスペクトのトラップに引っかかってたって訳だ、お前みたいに周り中からチヤホヤ有り難がられてる女が最も引っかかりやすい罠だ、口説きテクニックの基本中のきほんでもある、」
「口説きたい女の事は頃合いを見てディスれ、って奴だ、まあ奴の場合ディスったりはしなかったんだろうけど、お前に興味のない態度を示す事で、お前は自分の方が奴よりも価値が低いと勘違いしたんだ、それで自分よりも価値が高いと思うアイツの事がドンドン気になりだして、自分の事をもっと気にしてもらいたくなって、結果的にベタ惚れしちまった、って言う訳だ、」
とうとう相田はなりふり構わずに大声を上げて泣き出してしまった、
「まあ、待っててやるから、泣きたいだけ泣け、」
相田は机に突っ伏したまんま15分位は喚き、5分位泣きジャックリし、それから、漸くストレス物質を出し切ったのか、それとも泣き飽きたのか、
一度大きな溜息を吐いて深呼吸して、うつ伏した格好の侭で、……
「どうして、こんな事したんですか?」
「まあ、こう言うのが拗れるのはキツイって俺も知ってるからな、荒療治だ、」
「下心とか、無いでしょうね、」
今度は俺が溜息を吐く、
「ねえよ、そんだけ毒づけるんなら、もう平気だな、」
「平気な訳無いじゃないですか、もっと慰めて下さい、」
何?この甘えん坊将軍、
「いきなり性格変わり過ぎじゃねえか、そっちが本性なのか?」
「今更貴方の前で取り繕ったってしょうがないですから、」
「漸くメッキが剥がれたな、」
今泣いた相田が、一寸だけぐしゃぐしゃの顔を晒して照れくさそうに笑った、
「貴方が私の事泣かしたんですから、ちゃんと責任取って下さいよね、」
「まあ、愚痴くらいなら何時でも聞いてやるよ、」