第11話 プログラムの牢獄
「バレット。もっと遠くを見ろ」
それはかつて俺がよく上級悪魔のゾーランに言われたことだった。
ゾーラン隊に所属していた頃、作戦行動時に行軍する本隊に先駆け、進路に障害や罠がないかを偵察する斥候役を俺が担っていた時の話だ。
「もっと遠くを、もっと先を見据えるんだ。目的地に至るまでの道がどうなっているのか、それをいち早く掴むことが隊全体の安全に繋がる」
そうした小言にブツクサ文句を言う俺に、上官であるゾーランは言った。
「今、目に見えている範囲の道が平坦でも、その先は崖になっているかもしれん。それを見通す努力を怠り、奈落の底に落ちてからこう言うのか? 見えなかったんだから仕方ない、と。俺の隊にそんなマヌケはいない。おまえも含めてな。バレット」
ゾーランは何かにつけて俺にそうした説教を繰り返していた。
当時の俺はそれを鬱陶しいとしか感じていなかったが、その後、隊を離れた後も時折、奴の言葉が不思議と頭の中に浮かぶことがあった。
遠くを……先を見通す。
今の俺に果たしてそれが出来ているんだろうか。
ぼんやりとそんな思考の海の中に沈んでいた俺を何者かが呼んだ。
誰だ?
いや、そもそも俺は一体何をしていたんだったか……。
「……バレット……バレット……目を覚ませバレット」
誰だ……?
「バレット!」
その鋭い声にハッとして目を開けた。
だが、視界が真っ白で眩しく、まともに目を開けられない。
「……何なんだ一体。クソッ」
「お目覚めか。屍の悪魔殿」
その声に俺はうっすらと目を開けて目の前を見る。
そして目がようやく光に慣れてくると、自分がどのような場所にいるのか判別することが出来た。
そこは広大な広場だった。
だが、どれほど広いのかは分からない。
何しろ見渡す限り白い床が続き、果てが見えない。
遥か頭上は白く霞んでいて、その先を見通すことは叶わない。
そして辺りは静寂に包まれていて一切の物音がしない。
奇妙な場所だったが、風が少しも吹いていないってことは建物の中なのかもしれない。
俺が眩しく感じていたのは、辺りにキラキラと光る薄い靄が漂っていたからだろう。
見えるもの全てが白く染められていて、半日もいたら頭がどうにかなりそうな場所だった。
「さて。まずはテストだ。貴様がまともな思考を維持できているか試させてもらおう」
この場所には俺1人しかいない。
その声はどこからか響いてきた。
それがどこなのかは分からなかったが、その声の主が誰であるかはすぐに分かった。
「マーカスとか、いったな」
そう。
それは俺を槍で刺し殺した忌々しい上級天使・マーカスの声だった。
「ご名答。思いのほか普通の精神状態を保っているな。立派なものだ」
「てめえ。出てきやがれ。今ここでぶん殴ってやる」
「残念ながら私がそこに出ていくことも出来なければ、貴様が私をぶん殴ることも出来ない。何しろそこは物質の存在しない部屋である上に、今の貴様には肉体というものがないのだからな」
こいつ……何を世迷い言ほざいていやがる。
俺にはこうして腕も足も……。
そう思って視線を巡らせたが、そこにあるはずの俺の体はどこにも見えなかった。
馬鹿な……。
俺は信じられない思いで辺りを見回した。
周囲には変わらぬ真っ白な風景が広がっているばかりだ。
そんな俺をあざ笑うようにマーカスは告げた。
「驚いたか? バレット。貴様はもう死んだんだ。今の貴様はプログラムそのもの。オカルト風に言えば霊魂といったところか。貴様の肉体は断絶凶刃の呪いで消えることなく、我々が預かっている。貴重な被検体としてな」
今の俺は……プログラムの状態だと?
「ここは……どこなんだ?」
「どこでもない。ここはシステムの中だ」
その話を聞いて俺は得心した。
なるほど。
ここで今から俺のプログラムを病理解剖しようってことか。
その後、俺にどのような運命が待ち受けているのかは、火を見るより明らかだった。
プログラムをいじくり回された挙句に俺は消去処分されるんだろう。
あるいは人格をまったく別人に入れ替えられて再ロールアウトされるかのどちらかだ。
どちらにせよ俺という自我はここで死を迎えることになる。
体があれば拘束されていても最後の最後まで暴れてやるところだが、今の俺には拳もなけりゃ足もない。
完全にデッドエンドだった。
「炎獄鬼バレット。先ほどの様子から見るに、自分が不正プログラムに感染しているとは露とも思わなかったようだな。体の異変には気付いていたのだろう?」
マーカスのその言葉に俺は自身の身に起きていた異変を思い返した。
確かに今朝から体調がイマイチ優れず、首の後ろにヒリヒリとした痛みが走っていた。
だが、それだけで自分が不正プログラムに感染しているとは思わねえだろ普通。
今にして思えば、それが感染のシグナルだったってことか。
くそったれめ。
フーシェ島の地下施設でティナでさえも一目で気付かなかった不正プログラムを感じ取れたのは、俺自身が同じ穴のムジナになっていたからってことだったのかよ。
本当に……本当にまったく胸糞悪いぜ。
「さてバレット。共同戦線を張ってきたはずのティナに正常化された気分はいかがかね?」
それはまるで昼に食べたパイの味はどうだったかね、とでも聞くような気楽な調子だった。
まったく天使って奴はマジで人をムカつかせる才能があるぜ。
「くだらねえお喋りをしてねえで、とっとと俺を処分すればいい。そうすりゃてめえの仕事は手早く終わる。残業もなしでハッピーだろ」
そう言う俺をマーカスは鼻で笑った。
「フッ。これはこれは。お気遣い痛み入るが、私は仕事が趣味なんだ。仕事のためならいくら時間を費やしてもいいとさえ思っている。そしてバレット。私は貴様からあれこれと聞き出す権限を持っているが、貴様はここで私に意見する権限はない。あらためて聞くが、ティナに正常化された気分はどうかね?」
「チッ……自分の馬鹿さ加減に辟易してるところだ。まんまと天使にハメられたんだから」
「ほう。ティナを責める言葉が出ないとはな。悪魔の割になかなか殊勝じゃないか」
ティナを責める気持ちだと?
アホか。
信頼してたのに裏切りやがって……とでも言うと思ってんのか?
俺はそんなミジメなマヌケ野郎じゃねえ。
「てめえらは天使で俺は悪魔だ。いかに一時的な共同戦線を張ろうと、敵同士であることに変わりはねえ。アホな質問をするな」
「しょせん天使など信ずるに値しないということか。だが、貴様はティナとの共闘をうまくこなしていたと聞いた。私には貴様らの間には種属を越えた一定の信頼関係があったのではないかと見ているんだが、反論あるかね?」
ハッ。
アホらしい。
「こりゃ一体何の取り調べなんだ? 果たして天使と悪魔はお友達になれるのか、とかいう研究論文でも発表するつもりか? このくだらねえお喋りは苦痛でしかないんだが、よければそのクソ忌々しい口を永遠に閉じていてくれよ」
「なかなか口の減らない男だな。面白い奴だ。そんな貴様には今から褒美をやろう」
マーカスがそう言った途端、俺は雷に打たれたような激痛に声を上げた。
「ぐああああああっ!」
か、体が無いはずなのに……な、何だこの痛みは。
体中に刃を突き立てられているような錯覚に俺は悶え苦しんだ。
そんな俺の反応に満足したようなマーカスの声が響く。
「いい悲鳴だ。傷口に塩を塗られる気分というのは、そういうものなのかもしれんな」
「な、何だって?」
「貴様の痛覚神経に直接痛みの信号を流した。痛みという感覚がダイレクトに貴様を痛めつけるんだ。堪えようと歯を食いしばることすら出来ないのはさぞかし辛かろう」
くっ……。
この野郎……ふざけやがって。
「フンッ。こ、これが天使どもの尋問ってやつか。ヌルイ拷問だぜ。こんなもんで俺に何を喋らせようってんだ?」
「何か勘違いをしているようだな。運営本部による貴様の病理解剖はすでに別の場所で貴様の体を使って進行中だ。今ここに貴様の思考プログラムだけを呼び出しているのは、私の個人的な都合なんだ。悪いな。付き合ってもらって」
「……何だと?」
マーカスの個人的な都合?
これは運営本部による取り調べとは違うってのか?
「今こうして私と向かい合っていること。これは私と貴様の2人だけの秘密だ」
「気色悪いんだよ。天使と内緒話する趣味はねえ」
「ハッハッハ。ティナと組んでいた貴様がそれを言うと滑稽だな。それはさておき……バレット。たとえ話をしよう。自分のこととして置き換えて考えてくれ。所属する組織の利益と自分個人との利益が異なる場合、私はどうすべきだろうか。己の欲求を抑えて組織のために愚直に働くべきか、それとも組織への背信行為となろうとも自分の利益を追求するべきか。さて、貴様ならどうする?」
こいつ……何の話をしていやがる。
さっさと処分せず、俺にそんな話を聞かせる目的は何だ?
俺は注意深くマーカスの反応を窺うように答えた。
「悪魔の俺への問いかけにしちゃ愚問だな。自分の利益以外のことを考えたことはねえよ」
「素直でよろしい。貴様の潔さは悪魔らしからぬところがあるが、私は共感するよ。だが、その回答では残念ながら50点だ。私なら所属する組織に十分な利益を与えつつ、その裏で自分の利益を掠め取る。それは組織への忠誠心でもなければ組織を恐れてのことでもない。後々のことを考えれば、それが一番簡単な方法だからさ」
ケッ。
天使の中にもティナのような馬鹿正直がいる一方、こいつのような狡猾な野郎もいるってことか。
世の中そんなもんだ。
「利益というのは長期に渡って上げ続けなければ意味がない。一時の利益を得るために身を滅ぼすような結果になれば、それは損でしかないからな。さて。前置きが長くなったが、私が貴様の思考プログラムのみをここに呼び込んだのは、それが私の利益につながるからだ。私個人の利益にな」
「ケッ。大した天使様だぜ。ティナの奴が知れば、アホみたいに憤慨して糾弾するだろうよ」
そんな俺の嫌味を無視してマーカスは話を続けた。
「バレット。ティナの体の中に天使長イザベラ様の影を見ただろう」
予想していなかったその言葉に俺は思わず息を飲む。
そんな俺の一瞬の反応を是と捉えたのか、マーカスは俺の答えを待つことなく話を続けた。
「やはりそうか」
どうしてこいつがそこに思い至るのか、俺は内心で首を捻った。
俺はティナの身に起きたあの現象のことをティナ本人には伝えていない。
だからティナからの聞き取り調査を行ったとしても、あの現象のことを知ることは出来ないはずだ。
ただ、俺のプログラムを解剖中ってことは、俺の行動ログも解析できるだろうから、あの現象が起きたこと自体は知ることが出来るだろう。
しかし、あれが天使長イザベラだったということをなぜこのマーカスが疑っていたのか。
そこが腑に落ちない。
「天使長イザベラ様は見習いのティナをたった1人で地獄の谷へと送り出すようにと遺言を残された。天使長様の御意志は絶対だから、上級職の幹部会でもそれに表立って異を唱える者はいなかったのだが、誰もが内心で首を捻っていた」
「そりゃそうだろうよ。天使長が遺言として残したのが、ただの側付きだったティナに修復術を持たせて敵地へ単身で潜入させるという内容だったんだからな」
俺の言葉にマーカスは少し意外そうな声で言った。
「ただの側付き? そうか。ティナは貴様には明かさなかったのか。職務に忠実な部下を褒めてやらねばならんな」
「なに?」
「貴様は知らんだろう。ティナは見習い天使ではあるが、天使長イザベラ様の後継者として生み出された特別な存在なのだ」
「ティナが……次期天使長ってことか?」
俺は驚きと納得とを半分ずつ得たような気持ちになった。
確かにティナと天使長イザベラとの間にはただの主従関係を越えた特別な絆があるように感じた。
まさか本当に後継者だったというのには驚きを禁じ得ないが。
「そんな特別な存在であるティナを単身敵地に送り出すからには、天使長様に何やらお考えがあるのだと誰もが思った。だが、私はもう一歩踏み込んで考えたのだ。天使長様はティナの中に、ある種の防衛プログラムを残したのではないか、と」
こいつはそこまで掴んでいるのか。
それは十中八九当たりだろう。
ティナの中に別の人格が存在する。
それこそがイザベラが残した防衛プログラムなんだ。
「……見えてきたぞ。鍵の存在がな」
「鍵だと?」
「そうだ。ティナの体内から修復術のプログラムを盗み出すための鍵だ」
盗み出す?
その言葉を訝しむ俺の目の前に、唐突に1人の人物が姿を現した。
「バレット。この姿では初めまして、だな」
「てめえは……何者だ?」
そこに現れたのはマーカスと同じ声を持つ……まったくの別人だった。
今回もお読みいただきまして、ありがとうございます。
次回 第三章 第12話 『裏切りの破戒天使』 は
9月21日(土)0時過ぎに掲載予定です。
数日空きますが、次回もよろしくお願いいたします。




