第10話 新月の夜
堕天使どもの襲撃から半日が過ぎ、時刻は夕方を迎えていた。
西の彼方に沈みこもうとしている太陽が、砦を赤い光で染めていた。
俺とティナは砦の中にあらかた罠を張り終え、残すは建物の奥にある物置として使われている小部屋のみだった。
まあ、敵がどこまで踏み込むかは分からないが、念には念を入れておくべきだろう。
「あの武器をあんな風に使うなんて、私には想像もつきませんでした。バレットさんは意外に手先が器用ですね」
物置部屋に向かいながら俺の少し先を歩くティナの奴がそう言った。
堕天使の集団を倒した際に戦利品として手に入れた各種の武器を、俺たちは罠として再利用することにしたんだ。
「チッ。意外とは随分だな。ゾーランの部隊にいた頃、罠を仕掛ける斥候役を務めてたことがあったから手慣れてんだよ」
「そうですか。何でも経験しておくべきですね。私も勉強になりまし……きゃっ」
俺に先んじて物置部屋の中に入ったティナが小さな悲鳴を上げた。
また瘴気死霊でも出たのかと思ったが何のことはなかった。
入口付近に張られていたクモの巣が、張り切って部屋の中に足を踏み入れたティナの顔に貼り付いたんだ。
「そのくらいでイチイチ悲鳴を上げてんじゃねえよ。本当にガキだなおまえは」
「し、仕方ないじゃないですか。いきなりだからビックリしたんです」
ティナは顔に貼り付いたクモの巣をいそいそと手で払い去ると、唇を尖らせてああだこうだと文句を言っていやがる。
俺はそんなティナを無視してズンズンと部屋に足を踏み入れた。
「まったく。今から罠を張ろうって奴がクモごときの罠にかかってんじゃ世話ねえな。上級種の奴らもこのくらい簡単に罠にかかってくれりゃ大助かりなんだが」
そう呟いた俺はふと頭の中に浮かんだイメージに足を止めた。
そんな俺の後ろからブツブツ文句を言いながらついてきたティナが、俺の背中に顔をぶつけてのけ反りながら文句を言う。
「ぷあっ！ バ、バレットさん？ 急に立ち止まらないで下さいよ」
だが俺はそれを無視して、今浮かんでいるイメージを頭の中で吟味する。
「クモの巣……クモの巣か」
クモが餌を獲るための罠として己の住処を利用する習性が、ヒントとなって俺の頭の中に描き出される。
「ティナ。ここの作業は後回しだ。今すぐ戻るぞ」
「え？ バレットさん？ 戻るってどこに？ ちょ、ちょっと待って下さいよ」
踵を返して足早に戻る俺の後ろから、ティナの奴が目を白黒させながら追いかけてくる。
上級種どもをハメるための切り札になるかもしれないその一手を用意するために、一刻の猶予もない。
「さっさと来い！ ティナ。奴らはいつ襲ってくるか分からねえんだ。モタモタしてる暇はねえぞ」
この罠を完成させるにはティナの力が必要不可欠で、なかなか手間のかかる作業だった。
それから数時間をかけてとっておきの罠を完成させた頃には、どっぷりと日が暮れていた。
だが、これはそのくらいの手間暇をかける価値があると俺は思う。
この罠がさっきのティナのように、上級種どもの意表を突くことを祈るぜ。
それから数時間後。
すっかり夜も更け、海辺は夜の闇に包まれていた。
月のない夜だ。
篝火を全て落とした砦は、闇夜の中に佇んでいる。
あらかたの罠を仕掛け終えた俺とティナはそれぞれ順番で仮眠を取り、今はドレイクのかつての居室で頭と体を休めながら敵の襲撃に備えていた。
砦の中で唯一、明かりが灯っているのはこの場所だが、閉ざされた内部空間のため、外に明かりが漏れることはないだろう。
床に敷かれた古びた絨毯の上で砦の見取り図を挟んで向かい側に座るティナと敵を迎え撃つ手順を話し合っている時に、その異変を俺は感じ取った。
静寂の中、通気孔から吹き込んでくるわずかな風の流れが変わったんだ。
足音や羽音は聞こえないが、明らかに侵入者の存在を俺に感じさせた。
「客が訪ねてきたぞ。ティナ。じっとしてろ。声を上げるなよ」
低く囁くような俺の声にティナは状況を理解したらしく、強張った顔で頷く。
俺は即座に立ち上がると、壁の篝火を消した。
途端に室内が暗闇に包まれる。
「闇に目を慣らしておけ」
暗闇の中でティナがコクリと頷くのが見える。
俺たち悪魔に比べて天使は夜目がきかない。
しかしティナは例によってアイテム・ストックから取り出した奇妙なメガネをかけてやがる。
どうやら闇の中でも暗視が出来る特殊なメガネらしい。
相変わらず何でも持っていやがるな。
俺がそう思った時、頭の上から悲鳴が聞こえて来た。
男のものと思しきその声に俺とティナは顔を見合わせる。
「さっそく罠に引っかかったマヌケがいるようだな」
砦の通路の中には数々の罠が仕掛けてあるが、基本的には特定の床石を踏んだり、空中に張られた透明の糸に引っかかった場合に、天井や壁から各種の刃物が飛び出してくるという古典的なものだ。
堕天使どもが落としていった各種の武器を利用した罠だった。
だが、もちろんその罠に大きな戦果を期待しているわけじゃねえ。
これは襲撃者の腕前を品定めするための罠だ。
敵が精鋭部隊ならばあの程度の罠に引っかかることはないだろう。
その時は別の手を打つつもりだったが、どうやら踏み込んできた敵は罠に引っかかる程度にはマヌケらしい。
その後も罠に引っかかる悪魔の悲鳴が立て続けに響き渡る。
わずかに焦げた臭気が隙間風に乗って漂ってきた。
次の罠が発動したんだ。
俺が仕掛けておいた油に引火して、侵入者どもを焼いているんだろう。
この手の罠の作り方は俺がゾーラン隊にいた頃に学んだことだった。
チッ。
ムカつくゾーランの顔が脳裏にチラつきやがる。
破門にはなったが、あの頃に身に付けた技術や知識が今の俺の血肉となって役に立っている。
腹立たしいがそれは認めざるを得ない。
「バレットさん。敵が近付いてきています」
仕掛けておいた数々の罠に面食らったのか、敵はもう足音を忍ばせる余裕もなく、ドタバタとこちらに向かってくる。
その音から察するに砦の中に侵入しているのは多くても１０人程度のようだ。
だが奴らは通路の途中の壁にある隠し扉には気付かなかったようで、この隠し部屋の前を通り過ぎて奥へと向かっていった。
その先には下り階段と大広間がある。
かつてドレイクの部下たちが雑魚寝部屋として使っていたフロアだ。
俺は当然、そこにも罠を仕掛けていた。
それにしても……あの程度の罠にハマるってことは、侵入してきたのは下級種の連中だろう。
アヴァンやディエゴは来てねえのか？
そんなはずはねえ。
これがただの下級種の集団による襲撃のはずがねえ。
だが、奴らなら不正プログラムを使って壁に穴を開けながら侵入してくるはずだ。
もちろん俺とティナはそのことを想定して対策を練っていた。
だが俺たちはアヴァンやディエゴの能力を全て知っている訳じゃねえ。
想定外のことが起きる恐れもある。
今回の作戦がうまくいくかどうかは五分五分といったところだろうが、それでもやるしかねえ。
「ティナ。打ち合わせ通り、おまえは神聖魔法を使うな。あくまでも修復術に集中しろ」
俺の言葉にティナは緊張の面持ちで頷いた。
今朝の暴走騒ぎが解決していない以上、ティナにむやみに神聖魔法を使わせるわけにはいかねえ。
あくまでも上級種どもの不正プログラムに対抗しうる修復術の使用にのみ集中させる。
「バレットさんの手助けが出来ないことは心苦しいですが……」
「生意気言うな。半人前が。それにどうせまともに戦ったって勝てる相手じゃねえ。なら一点にのみ勝機を見出だそうとする戦法は決して悪手じゃねえよ。集中力だけ切らさねえように気を張っておけ」
俺がそう言ったその時、ドォンと地響きのような音が鳴り、実際に砦が大きな衝撃に揺れた。
「きゃっ……むぐぐ」
小さく悲鳴を上げるティナの口を手で押さえて俺はしゃがみ込む。
ついに来やがったか。
このアホみたいにデカイ衝撃は牛頭のアヴァンだ。
衝撃は立て続けに二度三度と続き、天井から砂埃が舞い落ちてくる。
アヴァンの野郎が砦を破壊しようと暴れていやがるんだ。
恐らく先に下級種どもを砦の中に突っ込ませて、外から様子を見ていやがったんだろう。
用意した罠も下級種どもを相手にそろそろ弾切れのはずだ。
前座が終わって真打ちの登場ってわけか。
「ティナ。来るぞ。根性据えて作戦通りにやれ」
「は、はいっ！」
俺はティナを引き連れてドレイクの居室を後にした。
外に出てすぐに通路を駆け出し、奥へと向かう。
入口方向ではなく、さっき下級種どもが向かっていった大広間のほうだ。
あらかじめ自分たちで罠を仕掛けておいた場所を回避して移動するが、予想通り大方の罠はすでに発動した後で、下級種どもの血がついた刃物がそこかしこに散らばっていた。
俺の背後を走りながらティナが息を飲む音が聞こえてくる。
甘っちょろいティナのことだから、自分が仕掛けた罠が悪魔どもを切り刻んだ場面でも想像していやがるに違いない。
中には当たり所が悪くて絶命した奴もいただろうな。
壁にべっとりと血の痕が残されている。
そして途中にはブスブスと白煙を上げながら人型に焦げた痕が床にこびりついていた。
火あぶりの罠にはまった奴はそのまま灰になったんだろう。
「苦労して作業した甲斐があったじゃねえか」
「そ、そうですね。次はあまりやりたくありませんが」
「悪魔どもに同情している場合じゃねえ。次は俺たちが殺される番かもしれねえんだ」
そう言う俺たちの前方に比較的幅の広い下り階段が見えてきた。
あの先が大広間だ。
罠がきちんと発動してりゃ、大広間の扉は閉じられているはずだ。
敵が入った十数秒後に扉が閉まるよう細工を施しておいたからな。
まんまと中に閉じ込められた敵は今頃、手酷い目にあっているはずだ。
そう思いながら走り続けている間にも砦を揺るがす衝撃は続いている。
それは徐々に大きくなっているような気がしていたが、響いてくる方向が一定じゃない。
さっきは上の方から響いてきていたが、今は下のほうから衝撃が伝わってくるように感じる。
あのデカブツ。
一体どこで暴れていやがる。
そう訝しみながら階段を駆け降りていくと、前方に見える大広間の扉が閉じていた。
俺とティナは顔を見合わせて扉の前に立ち止まる。
「罠が発動したんですね」
「ああ。よし。奴らを片付けるぞ」
ティナは口を真一文字に引き結んで頷く。
この大広間にはティナの持っていたアイテムを罠として仕掛けた。
ここに飛び込んで閉じ込められた連中は、天井から降ってくる大量の粘着餅を浴びて、床にへばりついたまま身動きが取れなくなっているはずだ。
カラシヨモギの時と同様に、ティナの奴がアホみたいに大量在庫をストックしていやがったおかけで仕掛けることが出来た罠だった。
しかも粘着餅には油を混ぜてあるため、後は俺が乗り込んで灼熱鴉を放ってやれば、中にいる連中を一網打尽にしてやれるってわけだ。
邪魔なザコどもを排除したら次は上級種の奴らだ。
どんな手を使ってでも必ずブチのめしてやる。
俺をコケにしてくれた礼はたっぷりと弾んでやらねえとな。
そういきり立って俺が扉に手をかけたその瞬間……。
「ガッ！」
目の前の扉がいきなり鼻っ面にブチ当たってきて、俺は後方に大きく吹き飛ばされた。
「バレットさん！」
ティナの声が響き渡る中、後方の階段に叩きつけられた俺は顔をしかめて痛みを堪え、即座に立ち上がる。
内側から吹き飛ばされた大広間の扉は、床の上で無残にも真っ二つに割れていた。
そのすぐ傍らではティナが戦慄に青ざめた表情で震えている。
そしてポッカリと開いた大広間の入口から、そいつが巨体を屈めてこちらを覗き込んでいた。
「……おいマジかよ。バレットとかいう下級種、マジであの洞窟から脱出していやがる。しかも見習い天使も一緒にいるぜ」
そう言って顔をしかめたのは牛頭のアヴァンだった。
ど、どういうことだ……。
大広間の中は粘着餅だらけのはず。
俺は疑念を頭に、痛みを体に抱えて、咄嗟に声を上げた。
「ティ、ティナ！ 下がれ！」
その声にティナは弾かれたようにバックステップで俺の側まで下がってくる。
大広間の入口を狭そうにくぐって通路に出てきたアヴァンは、ティナを追うでもなく大仰に首を傾げて顔をしかめた。
「妙な奴らだ。悪魔と天使が組んでやがる」
物珍しそうに俺たちを見てそう言うアヴァンの巨体の背後に、チラッと見えた大広間の様子に俺は思わず舌打ちした。
ティナも同じ光景を見て悔しげに唇を噛み締めてから声を絞り出した。
「……消えてしまっています」
「見りゃ分かる」
大広間の中で罠に引っかかっているはずの敵は全て消えていた。
なぜなら大広間そのものが消えてしまっていたからだった。
今回もお読みいただきまして、ありがとうございます。
次回 第二章 第11話『押し寄せる理不尽な脅威』は
8月11日（日）0時過ぎに掲載予定です。
よろしくお願いいたします。
