滅ばぬ思い
第四章 滅ばぬ思い
side志保
それからずっと忙しい日々だった。会社も、家に帰ってからは茂の事も、どちらもこなさなければならなかったからだ。
そんなある日、お腹に痛みを感じて病院に行くと、別の病院を勧められ、そこでこんな事を言われた。
「おめでたですよ。」
「えっ?」
思わず私は聞き返してしまった。
「あなたのお腹の中に赤ちゃんが入ってますよ。」
私はお腹をさすった。確かにいつもと違うような気がする。間違いない、これは私と茂の子供だ。
「仕事もあるし大変だとは思いますが、もう一つの命を大切にして下さいね、もちろん、お母さんもお体を大切に。」
そこからの生活が大変だった。仕事はしばらく休めないが、そこは広美や会社の上司にお願いする事もあった。
色々な人が私の事を見守り、助けてくれたが、茂だけは別だった。
ある日お母さんが、このままだったら婚外子って言う扱いになって、色々不便になると言ってくれた。私は一応届け出だけ出したが、その時も茂は何も言わなかった。
無関心というものの恐ろしさを知った。茂には本来見るべきものが全部見えていない。
産休に入っても、茂は無関心だった。普段通りご飯も作れず、洗濯も掃除も出来なかった。思い通りに体が動かないなんて、初めてだった。茂はたまに何も言わずにやってくれる事もあったが、上手くはいっていない。
そんな日々の中でも赤ちゃんはお腹の中でどんどん大きくなっていった。
出産直前、お母さんが手伝いに来てくれた。
「志保、あまり無理しないでね。」
「うん、ありがとう…」
お母さんが居て、かなり助かった。出産なんて初めての経験だ、何が起こるか分からない。きっとお母さんも、同じ事を思ってたんだろう。そして、茂のお母さんも……。茂にはお父さんが居ないと言う事を以前聞いた。どうやら茂が産まれる事を知らずに死んでしまったそうだ。
私は母親になる決意は十分だったが、茂に関しては決意どころか、自覚があるのかすら分からなかった。
暮れも押しせまる日の事、私は急激な痛み、陣痛を感じた。慌ててお母さんは車を飛ばし、病院に向かう。
そこからは…、何度も押し寄せてくる陣痛の波に耐えながら息をしていた。私も辛いけどこの子も頑張ってるんだ、何としてでも耐えないと…。お母さんは何も言わずに見守ってくれた。あらゆる景色が、音が遠くなってくるなか、私はただ、一人戦ってた。
そして、痛みが引いたとき…、私のお腹はすっかりしぼんで、その隣には小さく濡れた子供が泣いていた。
「よく頑張りましたね、立派な男の子ですよ!」
私は嬉しくて、涙が止まらなかった。
「志保、やったね!」
「お母さん…!」
男の子は髪の毛は茂と同じ焦げ茶色をしてたが、目は黒かった。
やっぱり、私と茂の子なんだなって思った。
「この子の名前、どうするの?」
私の中ではもう決まっていた。
「名前は…、優太。茂のお父さんの優介さんからとったんだ。」
「いい名前ね、きっと優介も絵理も喜んでるわ。」
「優太…、」
私は優太を抱き上げた。嬉しくてしょうが無かった。これからは、優太を育てて守り抜いていこうと決意した。
最初の方はお母さんも居てくれたが、それからが大変だった。保育園に預けながら働く日々、もちろん一人だった訳じゃない。広美も会社の上司や仲間、両親も離れながらも協力してくれた。
でも、肝心の茂は…、全くこっちを向いてくれない。優太を見せても「ああ、そう」と一言返しただけで後は何も無かった。ずっとあの本の事で頭が一杯なのだ。
優太が一歳になったばかりの頃だった。最近茂は家から出る頻度が上がった。しかも何も言わずに出るため、手に負えない。
行き先は分かっていた。恐らく茂は昔の家に行ってるのだろう。でも、家財道具は全部売ったはずなので何をする為に行ってるのかは分からない。
その日はちょうど雪が降っていた。茂はその中一人出ていってる。私は窓から見える景色を見て、嫌な予感がした。
ひょっとしたら、茂は死出山の何処かで凍えてるかもしれない。私は荷物を詰めて、優太を抱いて雪の中を駆けて行った。
そして志手山行きと書かれた電車に乗り、私は茂の家に来た。案の定、鍵は開いていて、玄関には下駄があった。
この家は和風建築だが、中は思った程広くは無い。私は家の隅々まで探した。そして、居間の隅の方に茂は居た。体は冷たくなっているが、息はしている。
「こうしちゃいられない、」
私は残されたかまどに火を着け、お湯を沸かした。そして持ってきたせんべいと急須を出して、お茶を入れた。茂の体には毛布をかけたが、目は覚めそうにない。
「やっぱり、私じゃ駄目だったのかな…。」
出来る事はしたが、茂は私達の方を向いてくれない。でも、これ以上茂に何か出来る訳でもない、ずっと側に居ることしか出来ない。茂は死ぬまでずっとこのままなのだろうか…。
ずっと寝ていた優太が泣きそうになったので、私は家から飛び出し、雪の中を走って行った。
side茂
いつから倒れていたのか、目覚めた時には見当もつかなかった。私の体にはいつの間にか毛布が掛けられ、目の前にはお茶とせんべいが置かれている。私はそれに手を伸ばした。お茶はすっかり冷めていたが、いつもと同じだった。
せんべいもずっと、お祖母ちゃんが生きていた土岐から食べていたものを毎回買ってくれている。
一体誰がそれをしたのだろう…、そう考える前に体が勝手に動いていた。
「志保!」
私は玄関を開けてそう叫んだが、声は虚しく冬の大気の中に混じって消えてしまった。
それから何度も志手山と青波台を行き来する日々が増えた。一体何故そんな事をしているのだろう。私の中ではずっとあの本の事があった。
最近分からなくなってきている。私は何故、この本を『完成』させようとしているのか…、自分の為か?圭ノ助さんの為か?それとも『死出山』に眠る魂達の為なのか…。
考える度に分からなくなってきている。だが、それを何としてでもやり遂げようとする思いは変わらない。
志保はずっと私の事を心配している。だが、もうそんな日々は終わりにして、本だけに集中したい。だから私は家を出たのだ。
死出山で過ごす日々、私は一番最初に出会った少年が妙に気になった。名前は風見瞬、彼はどうやら霊が見えるらしい。その子の友達と喋っている時も別の所を見ていたし、
私と話してる時も何かを凝視してたから、間違いない。
私はその子を使えば、あの本を『完成』出来ると思った。
瞬君にはフィルムカメラを渡して、心霊写真を撮ってもらうようにした。瞬君のように強い霊感がある人ならば、事故現場で撮った写真なんかに霊が映るらしい。
私は何としてでも、この本を『完成』させないといけないのだ。
side志保
茂はずっと志手山に居て、帰って来ない。何度か来て言ってはみたものの、毎回追い出される。それ程に何故あの本を『完成』させようとするのか、その為に何故私達を見放すのか…、それは茂の執念なんだろう。あれこそが茂の全てなんだろう。私にはどうする事も出来なかった。
それと私は最近妙な夢を見るようになった。夢なのに現実味があって、しかも遠い昔に体験した事があるような気がするのだ。
内容は、『私』には恋人が居て、遠い町から会いに来てくれて嬉しかった事、恋人とどうしても別れなければならなくなった事、最終的には『私』の腹の中に居たおぞましい何かが飛び出して、私を食い殺す所で終わる。しかも、夢の中の『私』も、恋人も、周囲の村人もみんな着物を着ているのだ。時代劇のような…、でもそれよりも現実味がある。何度も繰り返されたが、一向に変わらない。何かを伝えてるようにも感じられたが、それが何なのかも分からなかった。
ある日、私が優太と一緒に志手山に来た時、ベビーカーにぶつかった男の子が居た。よく見ると彼の首にはなんと茂のお祖父ちゃんのフィルムカメラがあったのだ。
彼の名前は風見瞬、どうやら茂に目をつけられて写真を撮っていたらしい。瞬君は私が茂の妻だと知ると驚いていた。
そして、私は瞬君と一緒に茂の家に行ったが、また追い払われてしまった。
私は瞬君をはじめとした人達…、親友の晴人君や由香ちゃん、真海ちゃんにも話をした。そして、瞬君は茂の事を追い始めた。そして、あらゆる事が分かっていった。
茂の中にはずっと圭ノ助の魂が居た事、本は危険な為、ずっと前から封印されてたがいつの間にか消えていた事、そして…、茂はお祖母ちゃんがずっと生きていると思っていた事。
ずっと側に居たはずなのに、全席気づいてあげられなかった。茂の闇は私が思ってた以上に深刻だった。
冥徳寺の和尚さんが茂を元に戻す方法を教えてくれた。それにはなんと、瞬君の能力である霊媒体質が必要らしい。
それで、圭ノ助さんの意思と、死出山に遺されたお初の霊を出会わせるのだ。
瞬君は自分にそんな力があるのかと、果たしてそれを成功させる事が出来るのかと不安になっていた。そして、夜の山でそれを実行した。
晴人君や真海ちゃんの目には見えなかったようだが、私にははっきり見えた。お初の霊媒は最初禍々しい気を発していたが、和尚さんの力によって浄化された。そして、そのまま茂…、いや、圭ノ助さんに近寄るお初…。その姿が夢の中の『私』…、いや私に似ていた。
輪廻転生…、私と茂は前世でも恋人だった。だが、そこで犯した出来事のせいで知らず知らずのうちに現在の私達を引き離し、また同じ過ちを繰り返そうとしていたのだ。
お初と圭ノ助は再会し、抱き合いながら涙を流していた。そして、二人の魂は光の粒となり、天へと昇っていく。
茂はその場で静かに倒れこんだ。私と真海ちゃんは慌てて駆けつける。それに気づいて意識を取り戻した茂は、私に抱き着いてきたのだ。
「お帰り、茂。十七年間ずっと待っていたんだよ…。」
私と茂は、あらゆる感情が湧き出ていて、どっちの涙か分からなくなるくらい、泣いていた。
side茂
「優太!ごめんな、ごめんよ.......」
私は初めて自分の息子の名を呼んだ。私は、産まれてからずっと優太の事を無いもののように扱っていた。
その一年間はかけがえのないものだったに違いない、それにも関わらず私は大切なものを見失っていたのだ。
それは志保に対しても同じだった。志保は私にとってかけがえのない人だってようやく分かった。
「こんな私だけど、これからは…いや、これからもずっと、志保の側に居ていいかい?いや、ずっと側に居たい。こんな私だからこそ志保が必要なんだ。」
志保は涙を流しながら頷いていた。
「茂…、ありがとう。ずっとそれを待っていたんだよ。いいよ、死ぬまでずっと側に居るよ。」
志保は私を思いっきり抱きしめた。
十七年間の溝を埋め、これからは、志保の夫として、優太の父親として生きていこう。そして、『死出山』の歴史を伝えていこう。それが、今の気持ちだった。
side志保
それから、私は茂の為に万年筆を買ってあげた。今まで使っていたお祖母ちゃんのものはところどころ調子が悪くなっていたのだ。
『W.S』という共通のイニシャルが金色で彫られている。結婚したのに、指輪もなんの記念品も無かったので、せめてその代わりにと思ったのだ。
茂は夜、私にこんな事を話しかけてきた。
「なあ、急に思い出したんだが、小二の時の事覚えてるかい?」
「確か、山で迷子になったよね?覚えてるよ。」
すると、突然茂は詰め寄ってきた。
「.......あの時の事、誰にも言ってないよな?」
「えっ?」
「なあ、志保、今怪我はしてないかい?」
私は体を見たが、何処にもなかった。
「あの時みたいに怪我はしてないけど、どうしたの?」
「そうか…、」
茂は私の首筋を見て、口を開けた。あまり見せないが、茂の犬歯は私やほかの人よりも鋭い。それと自由奔放で、弟みたいな態度もあって、小学校の時はよく猫に例えられていた。後、もう一つ例えられたものが・・・。
茂はそのまま目を閉じて、私の首筋に犬歯を突き刺した。身体から何かが吸い上げられるような感じがする。
突然の事で驚く事も出来なかった。痛みの余り叫ぼうとしたが、茂は私をしっかり掴むので、それすらも出来なかった。
ようやく口を離した茂は泣きながら笑ってこう言った。
「やっぱりそうだ。志保の血は旨いな?」
茂の口は血で赤く染まっている。
「茂、もしかして.......、」
「急に思い出したんだ。あの時の志保の血が旨かったって。色々あったけど、やっぱり変わらないよな?」
そういえば、茂は白くて細い割には力は私より強かった。ひ弱そうな割には結構強気で出る事があって、私に対してはいたずらをして、構って欲しそうにしている時もあった。
それこそ今の茂の笑顔だった。あの狂気の笑みではなく、私が一番よく知っているあの茂だった。
「狂気から覚めたと思ったら、今度は何なの?ひょっとして、異常性癖に目覚めたの?」
茂はまた笑っていた。
「何、今に始まった事じゃないさ。ただ、吸血鬼じゃないからそんなに言うほどは吸えないな。それに、吸い尽くしたら志保が居なくなってしまうだろう?」
吸血鬼、そうだそんな風にも例えられてたっけ。町のハロウィンのイベントでは毎回その格好だったし…。
「茂・・・・」
私は返す言葉を見失ったようだった。
「ただ、今日だけでは絶対に終わらせない。何度も襲ってやるからな?後、私よりも先に死ぬんだったら、その時は私の手で志保を吸い尽くしてやるよ。」
私は茂を抱きしめた。
「そっか…、また私に甘えてるんだね。」
「志保?なんだ、怖がらないのか?」
「もちろん怖いけど、茂だから何か許せてしまうんだよね、なんでだろ。」
「志保…、こんな私でもか?」
「茂だからなんだよ。」
「そんな事思ってくれて、ありがとな、.......。」
その日の夜は、ずっと茂は私から離れなかった。
終章 涙の意味
side優太
夕日は青波台の砂浜を真っ赤に染め上げていく。
「今日、考古学部のみんなで博物館に行ったんですよ。」
横で歩いていた卓君が僕にそんな事を言った。
「僕も中学校の時考古学部だったんだよ。」
「へえ、奇遇ですね!」
「しかもあの館長さんと父さんは同級生らしいし。」
「あの館長さん、死出山について詳しいですよね!」
卓君は今、死出山の歴史を調べているそうだ。僕も中学校の時に似たようなものをやっていたような気がする。それを考えて、嬉しくなった。
「ところで、卓君は何歳ぐらいからの記憶がある?」
「俺は確か、五歳の時、ここで溺れた記憶があります。優太さんは?」
「僕はね、一歳の記憶があるんだ。」
今でも昨日のように思い出せる。初めて父さんに抱かれたあの温もりが今も僕の中にある。
その時、父さんは僕の名前を呼んで泣いていた。うれし涙は何度も見たことあるのに、明らかに悲しみを見せたのはこの時だけだった。
何故、あの時父さんは泣いていたのだろう。父さんは自分の父親を知らないから僕の気持ちが分からなかった。僕も未だ、父さんの気持ちも涙の意味も分からない。
もし、僕に大切な人が出来たら、自分が父親と呼ばれる存在になったら分かるのだろうか、いや、分からないままなのだろうか。
「僕も君も、いつかは父親になる時が来るかも知れない。その時は子供に寄り添う存在になりたいな。」
卓君は首を傾げた。今すぐに分かることじゃないから、仕方ないのかもしれない。
僕が後ろを振り向くと、岸辺萌という僕の彼女が居て思わず駆け寄った。
「急にどうしたんだ?」
「いや、ちょっと寄っただけだよ。」
萌は僕に手を差し出した。僕はそれに手を重ねる。
「ごめんね、卓君。」
「いえ、大丈夫です。お幸せにしてくださいね。」
僕は卓君の方を見た後、萌の方を見た。付き合ってまだ日は浅いが、お互いの事を良く信頼している。
この日々も、ひょっとしたら一つの幸せの形なのかもしれない・・・・。