約束
第三章 約束
side志保
大学を卒業した後、私と広美は青波台で働く事になった。岸辺君は博物館に呼ばれて、発掘の手伝いや展覧の準備をしているようだ。
青波台のアパート暮らしも慣れた所だった。茂のお母さんに呼ばれて私は志手山に向かった。
家に着くとそこには茂と茂のお母さんが座っていた。
「実はね、大事な話があるの。」
「なんですか?」
「私に末期の胃がんが見つかって、入院しなきゃいけなくなった。あなたに茂の事をお願いしたいの。」
「茂を、ですか?」
「ええ、志保ちゃん、大分重荷にはなると思うけど、よろしくね。」
「あっ…、」
私は茂の方を見た。そっちは何を考えているのか、ずっと俯いてて、こっちを見ようとはしない。
翌日、早速家財道具が売られ、私と茂は青波台のアパートに同居する事になった。
side茂
環境がかなり変わったが、別に気にする事は無い。私は和室に籠もってずっと本を書いていた。志保はどう言う訳か、私の所にお茶を持っていったり、ご飯も毎回作ってくれた。そんな私は重荷になっていないだろうか、それではなかったら、この生活はかなり良かった。
side志保
茂は私に一切何も喋ってくれないが、それにも慣れた。ただ、私がずっと頭の中で想像してた仲が良い同居生活とかなりズレてるだけだ。茂は恋人でも、旦那でもなく、ただの同居人。それでも、私がずっと思い続けてる人である事には変わりない。
ずっと茂と過ごしていると、なんとなくお母さんが私に任せたのが分かった気がする。
まずは家電製品やパソコンといった類いのものが使えない。普段の仕事がオールアナログで、しかも小さい頃からお祖母ちゃんの家で過ごした茂は、そういうものに触れる機会がなかったのだ。もう一つは、茂は家事があまり出来ないという事。お母さんが働いていたから、一応しているはずだが、かなり不器用だ。それに、しょっちゅうものを壊す。だから留守番の時何されるか分からないのだ。
もう一つは、茂がずっと書いてある本についてだ。何としてでも『完成』させるという信念のもと、茂はやっている。
その時小三までの茂と、異変があってからの茂とはまた別の、私が知らない顔が現れる事がある。その時の茂は遠い目をしていて、「この前は三丁目の林さんが死んだ」とか、「南の交差点でまた事故があった」とか呟いていた。そして、私の事を忘れたというよりも、知らないような目でこっちを向いていて、それに合わすと狂気に陥る。
茂の側にずっと居るのに、分かってあげられない。
それを茂のお母さんに伝えると、病床で笑って私の頭を撫でた。
「大丈夫よ、茂はそんな子だから」
「ですが……」
私が反論しようとすると、突然寂しい顔になった。
「私は、茂に何も与えられなかったから…。私の夫で茂の父親である優介は茂が産まれる前に亡くなった。だから、私はずっと働いていて中々茂の側に居てやれなかった。
お義母さんが亡くなって、茂が一番寂しがっている時に側にいてやれなかった。私は本来母親が与えるべきだったものを与えられてないの…。
志保ちゃん、あなただったら茂を任せられる、私が与えられなかったものを与えられる。だから、茂の事、お願いね。」
私は茂のお母さんの手を握った。
「私が茂を事を見ます、だから安心して下さい。」
「そう……、ありがとね、志保ちゃん。」
そして、私は病院を後にした。
side茂
ずっと圭ノ助と事件をまとめ、本を書いていたが、ある日、一言こう書かれていた。
『お初に会いたい。』
お初?もしやと思って前のページをめくってみると、死出山での事件が描かれる前に、圭ノ助とお初の思い出が描かれていた。ひょっとして、私が志保と暮らしているのを見て、それを思い出してしまったのだろう。
だが、私と志保は圭ノ助とお初のように仲良くはない、ましては恋人同士でもない。だが、たまに志保の事を思う時…、私は本の事を忘れてしまうときがある。志保の事がどんな事があっても忘れられないのだ。
志保は私の何なんだ?私は志保の何なんだ?
.......自分の意識が闇に引きずり込まれていく。おそらく、私の中の圭ノ助の意思が現れ始めているのだろう。そうすれば志保の事を忘れてしまう。
後一時間、いや、せめて一分は待ってほしい。私が志保をどうしたいのかという答えが出るまでは.......。
side志保
茂はなんで、あんな風になってしまったのだろう。目を閉じれば、今ではすっかりセピア色になった私と茂が仲良しだった頃の思い出が残っている。茂.......、戻らなくていいから、せめて私に向かって笑ってよ。
その日は青波台では珍しく雪が降った。私はお母さんと一緒に、茂のお母さんのお見舞いに行った。二人は顔を見合わせると、老いも病気も忘れて、若いころのように話し出した。
そういえばこの二人も私と茂と同じように幼馴染だったな、そんな事をふと思い出した。
そして、お母さんはまた志手山に帰ってしまった。
「また何かあったら教えてね。」
茂のお母さん程ではないが、お母さんも私にお節介をかける程元気は無くなっているようだった。
運行表示の『志手山』という文字が消えると途端に心細くなった。また私は茂と二人で過ごす日々がやって来る。
茂は、お母さんの事を言っても無関心だった。ただ、ずっと本の事だけを考えていた。
それからしばらく経った、勤務中に突然病院から電話が掛かって来たのだ。どうやら茂のお母さんの様態が急激に悪化したらしい。慌てて私は病院に駆け込んだ。
「お義母さん……。」
茂のお母さんは、そんな状況でも笑っていた、そして掠れた声で私に話し掛ける。
「あなたにだったら茂の全てを任せられる…だから、後はよろしくね。」
「お義母さん!」
私はその手を掴んだが、すぐにすり抜けてしまった。
…どんなに手を伸ばしても、掴めないものがあると知った。茂のお母さんは、今まであったその命は、手の平からこぼれ落ちる砂粒のように落ちてしまう。
目の前で大切な人が死んだ、こんなのは初めてだった。今までずっと、死は見聞きしたはずなのに、やっぱり死には慣れない、いや慣れてはいけない。
慌ててお医者さんが容態を確認した。私には「ご臨終です」という言葉も聞き取れなかった。
夜中、一人で泣いていた。私はこれからどうやって茂と生きれば良いのだろう。こんな茂の側でどうすればいいのだろう。
お葬式の日も、喪主であるはずの茂はやって来なかった。
私は怒りを覚えた。どうしてずっと育ててくれた親の死を、知らずにこんな事をしているのだろう。あんな不孝者なんか…、ほっときゃ良いのに…。
行き場のない怒りは次第に膨らみ、やがて茂の方へと向かっていった。だが、いつの間にか怒りは別の感情に変わっていった。
…やっぱり、放っておけない。茂がそんなだからといって、茂の事を見放せない。
その時、昔言われた千尋の言葉を思い出した。
「志保って渡辺さんの事、どう思ってるの?」
今ならその答えが言える。私、茂の事が好きだったんだ。
好きだからずっとこうして気にしてたんだ。どんなに茂が引き離そうとも、ずっと戻って来たんだ。
私は冥徳寺を出て、山の方へと走って行った。
山の奥のトンネルの前に、茂の姿があった。
その姿を見ると、さっきまで収まっていた怒りが、また吹き出して来た。
思わず私は茂に近づき、頬を叩いた。
「茂の馬鹿っ!」
茂は何が起こったのか全く分かっていなかった。
私は茂に抱き着いて、涙を流した。
「何やってんの!あなたのお母さんは死んだのよ?!どうしてそこまで本を気にしてるの?!お母さんは死ぬ前に私を………」
そこからは涙に混じって、声が分からなくなった。
茂は私の事を気にせず立ち上がり、トンネルの方へと向かっていく。
「茂、何か言う事はないの?!」
茂は振り向かずに歩いてしまった。
side茂
一体何故志保はあんな事をしたのだろう。私は圭ノ助に会うために一人山奥のトンネルを歩いていく。志保の声は外から出ていたが、トンネルの中からも響いているような気がした。
トンネルを抜けると、以前と同じように荒れ地が広がっていた。そこで再び私は体を赤い糸で縛り付けられる。
圭ノ助さんはそんな私を見下ろしていた。
「本は順調に『完成』へと向かっているか?」
「はい、私が何としてでもあなたの思い、受け継ぎます。」
すると圭ノ助さんはこんな事を聞いてきた。
「最近君の隣に居る女性、あの人は何者なんだ?」
「ただの、幼馴染です…。」
圭ノ助さんはしばらく考えてからこう言った。
「君にとっての何かは知らないが、いつかは失ってしまう事を考える事だな。」
そして圭ノ助さんが姿を消すと同時に赤い糸は一気に切れ、私は地面に叩きつけられる。
その時、何処かで声が聞こえた。
(…既に遅い、お前はこの呪いの中に取り込まれている。)
まるで私が本を『完成』させる事を止めようとしているようだった。だが、もう私は戻れない所まで来ている。
私は立ち上がって、荒れ地を後にした。