壊れた世界(2)
世界の改変――初めてその現象の被害者となった人物達は航空機の利用者達だったと言われている。
突如仄かな紫煙を混ぜ込んだ霧が空を覆った。雲は姿を移ろわせ液体化し、天に昇るように消え去った。陽光は途絶え、唯一の光源は時たまに起こる不可思議な放電。
物理法則を遮るように生まれた霧は科学を尽く否定した。霧の持つ不可思議な磁場が航空機の計器を狂わせたのだ。通信は遮られ、高度計は沈む。速度計は限界を振り切り、旋回すらままならない。
異常は無機物だけに留まらず生物へと流動する。
視界の混濁、意識の混迷。
年配の機長が沈み、霧の影響は波紋を刻んで広がりを見せる。
理の改変が滞りなく行き着いた時、空に浮かぶ物は何一つ存在しなかった。
これが現在世界に到来した終焉の始まりだと、夕は伝え聞いている。
「何十年も前ならそりゃまあ、俺は生きてねーわな」
夕にとって暗い空は日常。太陽の変わりに魔術で生み出された偽物――人工太陽が都市の上に何の違和感もなく浮かんでいるのもまた日常だった。
今、昔を楽園のように語る年配の方々の話を聞いても、ああ、そうなんですか、としか思えないのが現実だ。
曰く、空にはたった一つの太陽が見え隠れし、世界に温暖な恵みを与えていた。凍える大地はほぼすべてが人の住める場所だったというし、飛行機なるものが荒れ狂っているはずの空を飛んで人を運んだという。割れた大地は僅か六つ。大陸と呼べるほど広大な土地が存在するなど荒唐無稽の夢物語ではないのかと笑いたくなる。
ほぼ全ての生物を管理化に置くことにも成功していて、害獣も存在しない。あの危険極まりない化物がいないだけで、どれだけ平穏な世界なのか想像もつかない。
常識の差異や変革したであろう一昔前の価値観なんかもまるで理解できない。
何より人の数が違う。
たった数十年間で人類の数は激減した。凡そでしか分からないが世界の人口は百分の一以下になったと言われている。日本の人口は分かっている限りで一億二千万から一千万を下回った。
現在人が住み、生活を行うことが出来る場所はたった六つ、いや正確には七つ、か。
最果ての地、旧都道府県名で北海道、死都東京、宗教都市京都、首都大阪、霊山四国、離れ小島鹿児島。それと、はぐれ都市調。
人々は幸運なことに辛うじて生存できる場所に集うことができた。にも拘らず――
このときの人口減少が僅か数百万人であったことを考えれば、おのずと人間の愚かさを感じざるを得ない。
「さ~て~、やんちゃなお姫様は何処にいるのかね~」
孤独を紛らわすように夕は一人呟く。当然返答は吹き抜ける冷たい風だけだ。
氷に覆われた大地を夕は駆けていた。辺りは暗く、夜目の利かない人間ではまともに視界も確保できないだろう。都市から離れれば離れるほど人工太陽の恩恵は幻影のように薄れていく。温度は低下し、光量は目に見えて激減していく。生活は勿論のこと、探索も普通の人間には不可能だった。
夕が駆ければ、割れた氷片が宙を舞う。何処までいっても周囲は常闇の如く暗いままだが、夕の見る世界は真昼のように明るい。まるで梟の夜目の如く正確に辺りを見渡せている。異常な身体能力も、人間には本来ない特性も、魔術による強化の恩恵だった。
世界に溢れた霧によって太陽光は遮られ、地表の温度は急激に低下し、今では一面氷の世界――一部の熱量は届いているといわれているが、人工の光を生み出す術を持たなければ、今頃人類仲良く皆凍死していただろう。
何の前触れもなく世界を覆った霧を人は様々な呼称で呼んだ。あるいは恐れた。
魔素、魔力、霧、毒。随分と好き勝手に呼ぶこともある。
現実、霧の発生に伴って様々な変化が起こった。一番の異常は生物の変化、次いで環境の変化だろう。眠っていた火山が突如として噴火したりだとか、魔術なんかが使える人間が出てきたり、物語に出てきそうな変質した生物が活動したり、大陸がそのまま空に浮かんだり、大洋に沈んだりと、てんやわんやだ。
一度都市を離れれば、生き残れる人間は少ない。
極寒の大地と蔓延るモンスターたち。
だから都市の外に出て活動できるのは生物や環境同様、霧によって変質した人間――魔術師だけなのだ。
「あれは……」
いらぬ思考を遮ったのは情景の微かな変化だった。
獣の足跡――かなり新しいものだろう。それに、どこか規則正しい――獲物を見つけた、と言うよりは、獲物を待ち伏せていたのか。
少し速度を落とし、索敵を始める。そして、
「見つけた……けど……ありゃあ……かなりやばめだな……」
立ち昇る粉塵に包まれる輸送車両が強化された視界に混ざりこむ。恐らくあれが巡礼中の巫女を乗せたものだったのだろう。夕がそれを視認した――突如、大気が圧倒的魔力の揺らぎに脅えたように震えた。
(警戒された? この距離で……?)
夕は全身に魔力を循環させて、現場へと急行する。
輸送車両は無残なことになっていた。外壁の役目を持つ強化装甲はことごとく抉り取られ、獣がつき立てた爪の後が惨たらしく残っている。辺りには七つの死体。どれも損傷が激しく、人の形を保っている者は少なかった。漂う鉄の香りに微かに混ざるは吐き気を催す腐敗臭。
一目瞭然、襲われたのだろう、害獣に。
主犯である害獣は遠目でもよく分かった。
その巨体の大きさもそうだが、何より血まみれのまま息絶えていて、ピクリとも動いていないのだ。
狼が霧によって変質し、巨大化、凶暴化した害獣、ウェアウルフ。機関が定める危険度はC、一流のウィザードが二十人程度で囲めば倒せる危険度だ。
もし、都市に侵入すれば容易に何千の人を殺し、喰らう化物が今は無残な死骸となっていた。
(一体何が――――っ!)
思わず夕は息を呑んだ。
血まみれの巨体の上には身を隠しているかのようにぽつりと座る少女が一人。
それは異様な光景だ。異常とも言える。
身長百四十センチにも満たないであろう少女が全長十メートルはありそうな巨獣に、まるでソファーにでも座るように気楽気に腰掛けている。
美しい金糸の髪は返り血で染色され、その両手は血溜まりを掬い取ったかのように深い紅。ぱっちりとした双眸は無邪気そうに透き通っていたが、どこか怪しげに光る色が万華鏡の如く移ろう。滴る血の装飾は何故だか彼女の魅力を引き立てる程よいアクセントにすら見えた。
吐き気を催す不気味な対比。
強者と弱者が入れ替わるこの空間において、死骸に腰掛ける少女はさながら玉座に座る女王様、いや王女様といったところだろうか。
少女は口元から歪な肉片を勢いよく吐き出すと、どこか悲しげに小さく呟いた。
「…………お腹が……空きました…………」
「…………、はっ?」
思わず聞き返してしまう。確か、輸送車両が襲われたのが二日前、今日で三日目か。ずっとこの場に留まったとしたら、車両に備え付けられた水と食料では相当に味気のない生活となるだろう。育ち盛りな少女が発する言葉としては正しいのかもしれない。
「…………お腹が……空きました…………」
駄々を捏ねる子供のように、実際見た目は子供のようなのだけれども――どこか歪な少女は悲しい声色でもう一度そうこぼした。そして、我慢の限界だったのだろうか、少女の欲求が爆発した。
「お腹すいた! お腹すいた! お腹すいた! お腹すいた! この肉臭いし、焼いてもまずいし、獣しかいないし、なんか勝手にみんな死ぬし、ここ何処か分かんないし、何処に行けばいいのか分かんないし、一人だし……お腹空くし、お腹空くし、お腹空くし!」
ごくりと夕は唾を飲み込む。
内情は子供のようでも、発している威圧感は巨獣を軽く凌駕していた。殺気が可視化したように少女を包み込んでいる。戯れのように叩き付けられた小さな少女の拳は分厚い筋肉に覆われた獣を容易く壊し続ける。まるで飽きたおもちゃを壊す子供だ。
「えっと……君が霊山の巫女、ありさだよね?」
視線が交わる。
たった一歩、夕が歩を進めようとした瞬間、
「近寄らないで……!」
強い制止がかかる。
有無を言わせぬ威圧に夕はその歩を止めた。
「……おちゃん誰?」
「お、おちゃん? せめてお兄ちゃんじゃないか……?」
夕は若干気落ちしたように答える。
中肉中背、黒髪黒目、特徴がないことが特徴な夕の年齢は十と八つ。少なくともおちゃん呼ばわりは十年はごめんだと言うのが本音だ。
「……お兄ちゃん……? で、誰?」
夕の不満げな視線を受けて、投げやりに少女は訂正した。どうしてそんなに不満そうなんだ、少なくとも年齢以上に老けているつもりはないというのに。
「俺は夕暮夕、十八歳、経験なし、彼女募集中、よろしく、お襄ちゃん」
見栄を張らずに、それでいて年齢に似つかわしい自己紹介を心がけてみた。
だが、少女は夕にまるで興味がないとばかりに冷めた視線を送ると、血に塗れた小さな口を開いた。
「……そっ……私がありさだよ、お兄ちゃん」
感情の薄い冷めた声色。未だに警戒心は解ける気配はない。言葉に込められた確かな拒絶に夕は少しだけ感情が高まる。だが、それ以上にまるで他人に接するように夕は『お兄ちゃん』と言われたことに感情が盛り上がる。そう、彼女の声色はまるで夕を小馬鹿にしたような嘲笑でもあったのだ。
違う、そうじゃない。
――ねぇ、お兄ちゃん。夜空、お腹空いちゃった、早くご飯食べたいな~――
うん、やっぱりそうじゃない。
だから夕は声を腹の底から張り上げた。
「駄目だよありさちゃん! 『お兄ちゃん』って言葉は妹を持たない全世界の少年の夢なんだ! そんな、冷めた拒絶に使っていい言葉では断じてない!」
夕は意味が分からないとばかりに小首を傾げるアリサを真っ直ぐと見据え、大仰な手振りで語り始める。
「いいか、良く聞け無知なる少女よ! 『お兄ちゃん』っていう時は、必ず上目遣いだ。軽く手を顎に添えて、困ったように見上げる瞳、頬の緊張を解いて、最も親しくできる一番近しいものに向ける笑みと共に、自然体で甘えるように――そう、甘えるように明るく言うんだ、さ、もう一度!」
有無を言わさぬ鋭い視線がありさを刺す。そこには先ほどまで気圧されていた小さな少年の姿は何処にもない。むしろ、これ以上のない真剣な眼差しにはありささえも圧倒する強力な威圧が込められていた。
「…………お、お兄ちゃん?」
余りの剣幕で威圧感を発する夕にありさは根を上げて呟いた。だが、そんな言わされた感満載の『お兄ちゃん』で夕が納得するはずがない。
「ちがーうっ! もっと、自然に……! もっと、柔らかく! さあ、もう一度!」
「お兄ちゃん……?」
「よし、いいぞ! 大分良くなった! その調子でもう三回!」
「……お兄ちゃん、おにーちーゃん……おにい~ちゃん!」
柔らかい少女の声に乗せられた甘い『お兄ちゃん』の響き。夕はすっかり本来の目的を忘却し、天使のような少女の音色に身を任せていた。
「ハーイ、何ですか~」
「お兄ちゃん、ありさ、お腹空いちゃった!」
「よ~し、何でもあげちゃうぞ~! そうだ、はい、これプレゼント!」
夕はポケットに手を入れると、そこから携帯食料として持ってきた飴玉を放り投げる。
「なにこれ……?」
「知らない? 飴玉だよ。お菓子は貴重なんだけど口に何か入れとくの好きだから持ち歩いてるんだよ。食べてみて」
ありさは飴玉を二本の指でつまむと、いぶかしむ様に観察する。そしてぱちくりと何度も瞬きを繰り返していた。
(そんなに珍しいのかな……?)
何度も確認するように近づけては離し、近づけては離し、匂いをかいでやっとの思いでそれを口に放り込んだ。
「ん~っ! んっ! にゃにこれ! 甘い……美味しい!」
夕は初めてありさの感情を見た。勢いに流されたわけではなく彼女が自分から心に巡った彩色を言葉として、表情として発していた。そのことに思わず笑みを浮かべてしまう。
「あっ、でも噛んじゃ――」
ふと、小さな子供がやってしまいがちな失敗を思い出した夕が注意を促そうとした瞬間には、
――ガリッ
既に少女は小さな飴玉を噛み砕いていた。
「ああ、だから噛んじゃ駄目だって」
「あっ……なくなちゃった……」
ぺロリと舌なめずりをするありさ。舌先に残る甘味の残滓を懐かしむように少女は儚げな表情へと移ろう。たかが飴一つで劇的な表情の変化を見せるありさは初めて年齢相応に思えて安心すら覚えた。
「もうないの?」
「残念、手持ちはそれで最後……一緒に来てくれたら領内にはまだまだあるよ」
若干誘拐の手口のようだが、いいきっかけではあった。
「……そう」
気落ちするありさに向かって夕はようやく本題を切り出す決心をした。
「機関から依頼を受けて君を迎えに来た。一緒に来てくれるかい、ありさちゃん」
「……そう」
たった一言。
声が大気の壁を割る。
同じ響き、しかし込められた思いは全くの別物だ。
瞳は出会った時と同じ、いやそれ以上に深い拒絶の色。
「……そう、次は貴方が私の鎖なのね」
「――っ! 何をするっ!」
一瞬前、確かに座っていた少女の姿がぶれた。微かな幻影が視界の中を疾走した瞬間、少女の小さな拳は既に顔に触れるかどうかという距離まで迫っていた。
「へ~、受け止めるんだ。お兄ちゃん、強いんだね」
受け止めた左腕が悲鳴を上げるように軋んだ。
殺しきれなかった衝撃を受け流すように背後に飛ぶと、拳から受けた衝撃もあいまって、数十メートルの距離を投げ出された。なんという破壊力、気圧されないように夕は文句を言う。
「我侭なお嬢さんだ……か弱いお兄ちゃんは死んじゃうぞ、全く」
「そっ、じゃあ、ま、早めに死んじゃっていいよ、っと!」
(一体どうして急に襲ってくるようになったのか――さすがは霊山の巫女だけあって、機関は敵って認識か? めんどうな……)
思考する時間は中々与えてくれないらしい。
眼前に迫る剃刀のような拳、鋭さに隠れるように一撃目はフェイントだった。
とっさに受けようとした左手、ついで放たれる二撃目を捌ききる右手は残念ながらもうどこにもなかった。
「まずっ――ぶべしっ!?」
小さな拳は吸い込まれるように顔面に突き刺さる。隻腕はこう言う時には不便だと嘆いたのもつかの間、余りの衝撃に強化されているはずである夕の身体ですら軋む。鼻からは無様な血液が垂れていた。氷雪の大地を砕くように夕は地に叩き付けられた。
「う……げっほっ! ようじょつよい……」
いや、彼女は少女か。
――いや、そうじゃなくて。
「あははは、おに~ちゃん頑丈~! じゃあ次はこんなのはどう?」
ありさが右手を掲げる。膨大な演算領域に刻まれた術式が少女の思いを受けて起動する。
法則が彼女を中心に広がり、走る魔力に色が灯った。
無から有へ、静から動へ、旧則から新則へ、科学から魔法へ、理は変化する。
「温か~い炎さん、いらっしゃい!」
「ほっカイロかっ! いや、そうじゃなくて」
あったかーいなんてものじゃない。逆巻く焔、喉を焼くような熱さが目に見えて少女の右手に集う。大地を覆っていたはずの氷はいつの間にかその姿を消した。少女の右手に象られた炎は彼女が言う言葉とは到底似つかない、圧倒的な死の香りを漂わせていた。
「いや、ちょ、待て待て、そりゃー駄目だろ、お兄ちゃん死んじゃうよ、マジで……」
「うんうん、死んじゃってくださいっ!」
そして夕は紅蓮の業火に包まれた。