第三章 ゆえに王は鏡に願った
第三章 ゆえに王は鏡に願った。
重い衝撃がのしかかる。けど、痛みは無かった。冷たい光を放ちながら、ところどころ血が付き錆びている鉈は、俺の体を切り裂くことは出来なかった。
なぜなら、俺の体は鎧に包まれていたからだ。
「間に合った……」
間一髪、無数の鉈から身を守ることが出来た。俺の体は今、鮮やかな金の刺繡が入った西洋の甲冑の様な白銀の鎧に覆われている。ちっぽけで粗末だった王冠は、ずっしりと重く。光り輝く宝石と装飾で、王の風格を感じる。
俺のバトルスタイルだ。全身に力がみなぎってくる。
こんな形で冥利と戦うことになったのは、俺にとって最悪だ。けど、ここから出るには多少手荒な真似をしなくちゃならなそうだ。
俺は目の前にいた人形を、思いっきりぶん殴った。右ストレートは衝撃となって、目の前にいた人形を貫通し、ドミノの様に薙ぎ倒していった。
「とりあえず、ここから出させてもらうぞ」
俺の両サイドから、人形が襲い掛かってくる。襲い掛かってくる斬撃を、仰け反る様にして回避した。気分は、マトリックスだ。ギロチンの様に、鉈が俺の首を霞めた。
「う……危ない」
「オウサマ、しっかりするのね! おおぜいでおそいかかってくるよ」
数百対と言う人形の大群が、俺の命を奪い取ろうとどんどん襲い掛かってくる。休んでる暇なんてない。
冥利の姿の人形共を、次々と殴り倒していった。拳が人形を貫通していく、思ったより固くない。
俺の拳が人形の顔や腹、腰に命中するたびに、人形はバラバラに砕けて行った。
人形たちは、鉈が俺の鎧を貫けないと学習したのか、俺の鎧に覆われていない隙間に向かって鉈を振り下ろそうとしてきた。
首や脇目掛けて、鉈が襲い掛かる。間一髪しゃがんで回避できたけど、あまりに数が多い。
体のあちこちに、細かい切り傷が出来てくる。このままじゃ、いずれ殺されてしまう。
このままじゃ、分が悪い。俺は後ろの壁を思いっきり蹴り、目の前に立ちふさがる人形を押しのけた。
群がる人形たちの後方に出て、辺りを確認する。ここはコンサートホール、秘凜乃の時より場所は広くない。
よく考えないと、また囲まれる。それだけは何とか避けないと。
「オウサマ! とてもいやなちからをかんじる!」
ネムが突然叫んだ。とっさに冥利の方を見る。突然、舞台の方に地響きが起き、エレベーターの様に上昇した。そしてそのまま、冥利を乗せたまま屋根を突き破った。
「なんだ、何が起きてるんだ?」
屋根の破片や、照明器具がバラバラと辺りに落ちていく。思わず頭を抱えた。
俺に襲いかかろうとした人形たちも、その衝撃で吹き飛ばされていった。コンサートホールの屋根は完全に無くなり、不気味な赤い空が広がっている。雲一つない、空だ。
コンサートホールのドアを壊し、外に出る。そこにはおとぎの国の世界の様な町が延々と広がっていた。
コンサートホールを突き破って、飛び出た塔の頂きから眩いばかりの光が降り注いでいる。
その光景に呆然としていると、さらに地響きが起こった。今度はコンサートホール全体からだ。
ガラガラと、コンサートホールは崩れていく。その代わりに、塔を囲むように大きな円状の壁が出来た。壁には規則正しく、映画やアニメなんかで見たような、とてつもなくデカい大砲が並んでいる。
「冗談じゃない、まるで要塞じゃないか!」
まだ生き残っていた数十対の人形が、俺に向かって襲ってくる。大勢でまた囲まれると、危険だ。一旦距離を取り、一体一体引き付けて戦うことにした。
塔の頂きから降り注ぐ七色の明かりが、辺りをアニメの世界の様にポップに照らしている。逆にそれが不気味に見えて仕方がなかった。
おとぎの国の様な街中を走り抜け、細い路地に入り隠れた。人形たちは俺の姿を見失い、辺りをキョロキョロと伺っている。
一つの人形が俺に背を向けた。チャンス、とばかりに俺は飛び出した。足に力をかけ、イメージした。ロケットの様に遠くまで飛んで行く自分を。
「うぉぉぉぉぉぉっ!」
俺の声に気づき、人形が振り返った。だがもう遅い、俺の拳はすでに人形の顔を貫通した。
「そのまま吹き飛べ! 遠くまで!」
俺の右手の拳が真っ赤に発熱する。貫いた人形の顔が、ドロリと溶けた。そのまま人形を引きづりながら、さらに前にいた二体目、三体目を貫通する。
「ガガガガガガガガガ」
声にならない声を上げ、人形たちは痙攣した。勢いが途絶え、俺はそのまま地面に着地した。後ろに大きな砂埃が、モクモクと巻き上がっている。
俺の右腕は、人形三体を串刺しにしていた。それだけじゃない、俺の右腕全体が真っ赤に発熱した瞬間、三体の人形は大きな爆発音とともに、辺りに砕け散った。
「まずは……三体!」
「オウサマかっこいい!」
ネムの声援を心に留めながら残りの人形を探す。しかしどこにも見当たらない、どういうことだ?
「オウサマ、うえ!」
ネムの声に反応し、上を見る。屋根の上に一体の人形が上っていた。そして、そのまま俺の方に向かって飛び降りようと構えている。
とっさに後ろに下がった。あの距離ならここまでは届かない。
「オウサマ! もっといる!」
ネムが何を言っているのか最初、まったく分からなかった。が、すぐに思い知らされることになった。後ろの方にも屋根の上に上っていた人形がいるのに、俺は気づいていなかった。
自分の過ちに気づきとっさに後ろに振り返る、しかし一歩遅かった。重い衝撃が背中に襲いかかり、そのまま俺は地面にうつ伏せになった。
人形は、俺の体を拘束するように抱き着いた。物凄い力で、俺の体をギチギチに締め上げる。
まずい、このままじゃ本当に殺される。顔をあげて上を見ると、鉈を持ち飛び降りようとしているもう一体の人形が見えた。
このままじゃ、ギロチンの様に首が斬り落とされる。そんな死に方、絶対に嫌だ。
何とかだ脱出しようと、体を動かそうとする。けど、動けば動くほど締め付ける力は強くなっていく。
人形が屋根の上から飛び降りた。まずい、このままじゃ本当に殺される! 何か考えろ。考えろ、考えろ、考えろ!
俺が今できること、そうだ! 俺には俺にしか出来ないことがあるじゃないか!
頭の中で、大きな壁を想像した。俺の頭上を円の様に覆う、大きなコンクリートの壁。詳細なイメージを、頭の中で繰り返し想像した。
バンッと、大きな衝撃が聞こえる。目を開けると辺りが真っ暗になっていた。成功した、そう心の中で確信した。
次の瞬間、コンクリートに何かが直撃するような激しい音が響いた。それは、大きな音を立ててバラバラになった。
次に俺は、コンクリートの壁が崩れる想像をする。間もなくコンクリートの壁は壊れ、真っ赤な空が俺の頭上に現れた。
上から落ちてきた人形は、バラバラになって辺りに散らばっている。きっと、落ちてくるときに固いコンクリートに直撃したせいだ。
もがきながら、俺の体に絡みついている人形に肘鉄を食らわせ、怯んだ隙に脱出した。
目の前でうずくまる人形。頭の中で大きなハンマーを思い浮かべ、目の前の人形に落ちてくるように想像した。
数百キロありそうな、二メートルくらいの鉄で出来たハンマーが目の前で悶えていた人形に落ち、バラバラに押し潰した。衝撃が地面から足を伝わってくる。目の前に大きなクレーターが出来ていた。
「はぁ……はぁ……」
息が切れる。心の世界だっていうのに、現実の様に体が重い。疲れが溜まる。
気が付くと、俺はまた数十対の人形に囲まれていた。半ばやけくそに、俺はハンマーを手にする。
「こいよ化け物共……」
俺の声に反応するように、人形たちは俺に襲いかかってきた。金切声の様な、鳴き声のような、不気味な声を上げながら、勢いよく突っ込んでくる。
俺はハンマーを振り上げた。思ったより、ハンマーは重くない。そのまま巨大なハンマーを、バットの様に振り回した。
「うぁぁぁぁぁぁっ!」
俺は迫りくる人形たちに向かって叫び声を上げ、バッティングセンターの様に次々と人形を吹き飛ばした。吹き飛んだ人形は、民家や壁に直撃しバラバラになる。
「オウサマ! うしろ!」
後ろから襲いかかってきた人形が、俺の首目掛けて鉈を振り下ろしてきた。ネムの声に合わせるように、俺は体を仰け反らし回避した。
バランスを崩した人形に、思いっきりハンマーを振り下ろす。地響きが、辺りに響いた。バラバラになった人形の破片が、辺り一面に飛び散る。
気が付くと、あれだけいた人形は居なくなっていた。全身汗だらけ、傷だらけの満身創痍だ。
秘凜乃の時はまるで夢の中にいるように、自分の体を自由に体を動かせたのに、ここは現実の様に体が重い。
筋肉が急激な運動で痙攣するほどだ。息が続かない。
「一体……どうなっているんだよ」
「オウサマのこころが、おやびんのえいきょうをうけているせいだよ」
「どういう意味だ?」
「ここはこころのせかい。おやびんのこころがげんじつになったように、オウサマのこころもげんじつになってるの。オウサマはいま、すごくどうようしてる。げんじつをつきつけられて、こころがよわくなってる……」
心の影響がダイレクトに来るのか……。やりにくい世界だよ、本当に。
冥利の心は今、塔の中にいる。全てを遠ざけるように壁で囲んでしまっている。その壁には大量の大砲。完全に他人を、シャットアウトしたいってことらしい。
だがそんなことは絶対にさせない。このままで終われないからだ。ここから出るためにも、何が何でも冥利と戦う。
すり傷切り傷だらけの体で俺は、中央にそびえる塔に向かった。しかし、塔に近づこうとすると、大砲がこちらに向かって砲撃してくる。
しかしこんな大砲、攻略するのは簡単だ。あの壁の上に、直接橋をかければいい。あの大砲、上からなら打てないはず。
でも、この世界に橋なんてない。そういう時は作ればいいんだ。俺なら出来る、あの鏡を使う時の様に俺は出来る。今、この状況で俺は命ですら創造出来るはずだ。
橋なんて巨大なもの創造したことないけど、やってみる価値はある。
俺は頭の中で、巨大な橋を思い浮かべた。壁の向こうの塔まで架かる橋だ。
突如、轟音が辺りに鳴り響いた。
この冥利の世界の家や壁が、バラバラになり一つの大きな塊になっていく。まるで積み木を崩して一から作り直すように、規則正しく積み重なり橋の形を作っていく。
ものの数分で、俺のいる場所から遥か何百メーター先の壁の向こうの塔まで、一つの巨大な橋が架かった。
「いくぞ、ネム」
「あいあいさー!」
ネムの掛け声に勇気づけられながら、俺は不気味な塔の頂まで一直線に走り抜けていく。
橋の上は静かで、さっき戦ったような人形たちは追いかけてこなかった。そのまま無言で数十分走り抜ける。
橋の上から見える景色は、まるで昔見たおとぎの国の様なファンタジックなもので溢れていた。奇妙な形をした家々が立ち並び、遠くに見える山や海までもデフォルメされている。
ここが冥利の心の世界。この世界で、中央にそびえ立つ壁に囲まれたこの塔だけが異彩を放っていた。
壁の向こう側を乗り越え、塔へ。そのまま塔に突き刺さるような形で橋は途切れていた。
そこに、手すりなんて便利なものは無かった。人間一人分の階段が、塔の周りをぐるりと螺旋状にくっついているだけだ。
ここからは自力で上るしかない。階段を一段一段、ゆっくりと慎重に昇って行く。一歩間違えれば、そこは死につながる。
心の世界で死ぬと人はどうなるのか、俺にはわからない。けれど、確かめようなんて思う人は多分いな無いと思う。
なぜならここが例え心の世界だとしても、痛みや恐怖はちゃんと存在しているのだから。
風が遥か下へと突き落とそうと、意地悪く吹き荒れる。恐怖でどうにかなりそうだ。
一歩一歩踏み出すたびに、足が震えた。下を見る事は絶対に出来ない、見ればきっと俺は一歩も足を動かすことが出来なくなる。それほどの恐怖だ。
一歩ずつ、頂上を目指し慎重に昇って行く。数時間近くかかり、やっとの思いで頂に辿り着いた。
そこには、広場の中央にどっしりと存在感を放っている大きな檻に、閉じ込められる形でいる冥利が座っていた。およそ社会の教科書でしか見たことのない、大きくて無駄に煌びやかな椅子に冥利は気怠そうに座っている。
「冥利!」
俺はありったけの声で叫んだ。しかし、反応は無い。見下したような表情でこっちを見ているばかりだ。
だんだん腹が立ってきた俺は、檻の前まで走って行き。固い鉄の棒に向かって思いっきり頭突きをした。ガンと言う冷たい音が、波となって他の鉄棒に響いていく。
「お前が他人をどう思おうと勝手だ! けどな……」
額から、血が流れた。それは俺の頬を伝い、下に落ちる。
やるせない思いが、フツフツと込み上げてくる。結局、なんて言っていいのか自分自身よく分かってないんだ。兄弟、友達、親友ってほど交流があるわけでも無いこいつに、俺は何も言ってやれない。
こいつの気持ちなんて、これっぽっちもわからない。ただ困ってそうだから、善意で助けようと思っただけだ。
その善意も、冥利にとってはただうざいだけの、ありがた迷惑だったわけだ。俺は今、こいつを助けたいのか? 違う。じゃあどうしたいんだ?
もうこいつと、関わりたくない。絶望にも似た感情に、俺は押し潰されていった。こんな人間が、現実にいるなんて思いたくない。
悪魔のように微笑みながら、他人をおもちゃにして笑うこいつに……。俺は何の感情も抱けない。
俺に向かって吐き捨てるように言った冥利の言葉が、冥利の本心かどうかなんて俺には分からない。
けど、ここは冥利の心の中。それこそ本人が思っていることが、本人が思っているよりも筒抜けだ。
自分についた嘘を本気で信じる人間が、この世の中にどれほどいるっていうんだ? 仮面の中に、さらに仮面をかぶる理由なんて無い。
だから、俺はこいつを助けようとは思わない。ただ……。
俺には冥利の言っている言葉が全て、真実だけとは思えなかった。
小さい違和感をほんの少し感じたんだ。それはごく些細なことだけど、俺の心に強く残り続けている。冥利がありがとうと言った時に見せた、涙。それは嘘じゃない。
根拠は無いけどそんな気がする。だから、俺はまだこいつを見捨てきれない。
冥利は、いつの間にか悲しそうにこちらを見ていた。俺は冷たく冷え切った鉄棒をにもたれ掛り、冥利にまた話しかけた。
「他人が嫌いなら、そんなに寂しそうな顔をするなよ」
冥利は顔を背け、耳を塞いだ。そしてブツブツと何かを呟きだした。
「寂しくない……寂しくない……寂しくない! 私は、私がいればそれでいいのよ!」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「だったらこっち見ろよ」
「いや……いやいやいやいや……あっちいってよ! 私の前から消えて……きゃ!?」
突然地響きが起きた。塔が徐々に傾いているように見える。このままじゃ、崩れる。一刻も早くここから脱出しないと。
逃げようと足を進めて、ふと立ち止まる。このまま塔が崩れればあいつはどうなる? 自分が作り出した塔の瓦礫に押しつぶされて、死ぬのか?
振り返り、冥利を見た。そこには、恐怖で震えている冥利の姿があった。自分で自分の心を、制御できていないのか?
地響きはどんどん大きくなる。それは徐々に立っていられなくなるほどに、酷くなっていった。このままじゃ、駄目だ。
「私……この世にいちゃ駄目なの。自分が、怖い……誰かを本当に殺しそうになる自分が怖い……そういう世界の人間と、私は関係ないって思ってた」
冥利は虚ろな表情で呟いている。俺は地面に膝をつき、必死に振動に耐えた。
塔にどんどんヒビが入っていく。このままじゃ、本当に塔が崩れて下敷きになる。意を決して、冥利の方に、少しずつ這っていった。
やっとのことで檻に捕まると、塔の揺れは一層強くなっていた。しかし頑丈な檻は、塔の揺れにビクともしていない。まるでこの檻自身に意志がある様に、頑なに動かない。
「冥利! このままじゃ死んじまうぞ! いいのか?」
「いい。自分しか愛せない自分なんて、いっそ死んでしまえばいい。変わりたかった、傷つけたくなかった、普通でいようとした、やっと、子分が出来た、友達が出来た」
うわごとの様に冥利は呟いている。その目には、涙があふれていた。
「財布なんて、最初からどこにあるのかわかってた。本当はどこに隠したのか、知ってたんだ。でも……悔しかった。私、変われると思ったのに、変わったと思ったのに。私の周りは、何一つ変わってなかった」
秘凜乃は涙をこぼしながら、震える声で呟いていく。俺はただ黙って、その言葉を聞いた。
塔はさらに傾いていく、もう既に俺の体は平行を保てない。けど、もう逃げようとは思わない。
「そうだよね。結局、無理やり変わった気になってただけなの。私は、私しか愛せない。誰も、必要じゃないし、必要としてくれない。最初からずっと……」
「違う!」
気が付いたら俺は叫んでいた。捕まっているのがやっとの状態で、今にも崩れそうな塔の頂から俺は叫んだ。
「最初からお前は、変わってたよ! 変わりたいって思った時から変わってた! だから、俺に話しかけたんだろ? 他人と交わろうとしたんだろ? 自分に負けるな! 自分しか愛せないと言って、逃げるな! お前は、もう前を向いて歩いて行けるんだ!」
「わかんない……意味わかんないよ……。だって、私超最低の人間なんだよ? 自分の親の権力使って、嫌がらせばっかりしてきた。そんな自分が嫌で、大っ嫌いで、でも自分しか愛せなかった。だって、誰も私の事必要とくれない、愛してくれない。私の事ずっと好きでいてくれたのは、私だけだったんだよ……だから、そんな私なんて死んじゃえばいいんだよ……」
「ふざけんな……」
いつの間にか、全身が発熱したように熱くなっていた。冥利が、冥利の心が諦めようとしている。止めたい、どうしても止めたい。
「死ぬなんて、簡単に言うな! お前が生きてるのは、誰かに生かされてるからだろ? 誰かに愛されているからだろ? 自分で自分を殺していい人間は、最初から誰にも頼らなかった人間だけだ!」
白銀の鎧が、真っ赤に発熱する。熱が、冷たい鉄の檻を徐々に溶かしていった。全身に力を入れ、俺は檻をこじ開けた。
思ったより固い、固くて少ししか開かない。その隙間から、俺は手を差し伸べた。
「お前は、自分一人で生きてなんかいないんだ。あの時、俺に頼ったろ? まだ終わってねぇよ、道案内。だから、最後まで俺を頼れ!」
冥利は自分の椅子から動こうとしない。そろそろ塔も限界だ、焦りがで手が滑る。このままじゃ、俺は冥利を助けられない。
「くそっ! なんだよ! たった数日会った奴に、そこまで頼りたくないってか? だったらこれは、前払いだ! いいから頼れよ、俺を頼れ! 冥利!」
ようやく冥利は顔を上げた。その顔は、不安で怯えていた。けど、それでも冥利は俺の手を掴んだ。
「頼っていいの? こんな私でも。生意気でも……いいの?」
「もちろんだ!」
俺は冥利を引っ張り上げた。もう既に塔は崩壊しかかっている。あまり時間は無い。
思い浮かべろ、地面を。さっきまで人形どもと戦っていた場所を。思い浮かべろ! 俺は心の中で何度も呟いた。
どんどん塔は傾き、そしてついに崩れた。一気に重力が押し寄せる。
駄目だ! しっかりしろ俺!
地面を思い浮かべろ。そこに立っている二人を、思い浮かべろ! 想像して、想像して、創造しろ!
急激に体が軽くなった。無重力、そんな感覚だ。気が付くと、二人そろって落ちていた。
俺ならやれる。たかが瞬間移動くらい出来るはずだ! 橋だって作れたんだ、きっと出来る。俺は出来る。出来なきゃ困るんだよ!
耳をつんざく地響きが、俺の心臓を締め付ける。頼む、頼む、頼む! 地面に、地面に移動してくれ!
心の中でそう呟いた。何度も何度も何度でも。そして、辺りが暗闇に包まれる。
しんと静まり返った闇。その闇の中で、冥利の手の暖かさだけが俺にそれが現実だと教えていた。
俺は確信した。移動した、と。
次の瞬間、体が硬い地面に当たる。しかし痛みは無い、落ちた衝撃もない。目を開ければ、そこにはおとぎの国の様な町と、崩壊する塔。
大きな音ともに、塔は崩壊していく。地響きが何十メートルも離れているここまで、地面を介して伝わってくる。やがて塔は完全に崩壊し、砂埃が辺りに立ち込めた。
助かった、俺は生きてる。そして、冥利も生きてる。生きてて本当によかった。心の底からそう思えた。
ゆっくりと冥利の手を引き、一緒に立ち上がった。冥利の手は柔らかくて、それでいてしっかりと俺の手を握っていた。
「これでよかったのかな? 私、また人を傷つけちゃうかも……」
冥利は不安そうな顔でそう言った。俺は冥利に向かって笑顔で返した。
「その時はまた、俺が相手になる」
崩れた塔の中心に、人の身長ほどの大きさの鏡がポツンと立っていた。出口だ。
「帰ろう」
「うん」
あれから数日後、俺の日常はすっかり元に戻っていた。冥利の事については、まだ誰にも話していない。けど秘凜乃には、やっぱり話したほうがいいかもしれない。秘凜乃もきっと無関係じゃないから。
そう思い、お悩み相談部が終わった後秘凜乃を呼び出した。
「どうしたの?」
秘凜乃は無垢な笑顔でそう答える。何と言うか、説明しずらいな。それでも何とか、わかりやすく心を込めて説明してみた。
秘凜乃は笑顔からどんどん曇った顔になり、無表情になった。
「今の説明でわかってくれた?」
「うん。十分わかったよ」
そう呟くと、鞄から弁当を取り出した。今日もまた秘凜乃の手作り弁当にお世話になったんだけど、それと今の話には何の関係も無い。
突然秘凜乃は弁当の蓋を開け、そこから箸を取り出した。笑顔で俺に問いかけるが、その目は完全に笑っていない。
「冥利さんとイチャイチャしてて楽しかった?」
「いや、いやいやいや! なんでそうなるの? わかったもう一回説明するから!」
「え? そう言う事でしょ? 何が違うの?」
「全然違うよ! だから、冥利に秘凜乃に見えたような黒い影が見えて……」
「何言ってるの? 影は最初っから黒いでしょ」
「ちょ、待って! 何で箸をこっちに向けるの? ちょっと、秘凜乃さん?」
「少しは痛い目に合わないとね……」
ブツブツと何かを呟き、秘凜乃は目が笑っていない表情のまま追いかけてきた。あまりの迫力に、全速力で走って逃げた。
「待ちなさい!」
「待たない!」
校庭の外に飛出し、そのまま家まで逃げ帰ろうとすると、校門前に誰かいるのが見えた。その姿はどこかで見たことのある姿だった。
ツーサイドアップの赤い髪。凛とした顔に小柄な体、青い瞳。その女性は、他校の制服を着けていたが、今でもしっかりと俺はその顔は目に焼き付いている。
明野 冥利。俺が助けた二人目の女性。ただし、本当の意味で助けたかどうかはわからない。これからは、自分の力で変わらないといけないからだ。俺はその助けに、少しでも役に立っていただろうか?
「あ……」
冥利は俺を見つけると、すぐに顔を背ける。心なしか、夕日に照らされて顔が赤く見える。あれからしばらく冥利とは会っていなかった。
久しぶりに会う彼女は、どことなく前より少し大人に近づいたような気がする。
「お! 冥利久しぶり」
俺が元気よく挨拶をすると、冥利は小さく頷いた。どんな理由であれ、ここに冥利がいるのは俺にとって都合がいい。
般若のような形相をした秘凜乃に、ずっと追いかけられていて困っていたところだ。
冥利が自分の口から語ってくれたら、この場は丸く収まってくれる気がする。
とっさに背後で殺気を感じた。秘凜乃が笑って無い目で、俺に詰め寄ってくる。慌てて、冥利を引っ張ってきて盾にした。
冥利は慌てた様子でキョロキョロしている。秘凜乃の機嫌は一層、悪くなった様に感じた。
「あら、冥利さん。お久しぶりです」
「え、えーっとこちらこそ……」
秘凜乃の迫力に気圧されて、冥利もたじろいでいる。辺りの空気が一気に氷点下まで下がったように感じた。
「冥利、ちゃんと説明してくれ。秘凜乃が誤解したままなんだよ」
「誤解なんかしてないよ。ね?」
冥利は苦笑いをしている。状況を理解できていない様子だ。だんだんこのいたたまれない空気に、冥利も耐えられなくなりいきなり叫んだ
「きょ、今日は! その子分のあんたに用があってきたのよ!」
そう言って冥利は俺の方に向き直った。手を前につきだし、ビシッとポーズをかっこよく決める。その綺麗な白い人差し指は、俺の方に向かって伸びていた。
「俺に用?」
冥利は顔を真っ赤にしながらコクリと頷く。とても真剣な表情だ。青い大きな手提げ袋から、真っ赤な赤い箱を取り出す。
そして俺にそれを差し出した。
「こ、これ……チョコ……」
絞り出したような声で冥利はそう呟いた。その赤い箱を受け取った。綺麗に包まれた、赤い包装紙からヒシヒシと高級感を感じる。
しかし、なんで今チョコを渡すんだ? バレンタインならもう数か月前に終わったはずだよな?
「これ……なんで?」
「前払いよ!」
冥利は真っ赤な顔でそう言った。前払って、一体なんのだよと言うツッコミを必死に飲み込み、泣きそうな顔の冥利に笑顔でお礼を言った。
「ありがとうな、冥利」
「べ、別に子分の事を気に掛けるのは、親分である私の務めだし……それじゃ、私用事があるから!」
そう言って、そそくさと冥利は帰って行った。変な奴だ、そう思い振り返るとそこには依然目が笑ってない秘凜乃が、仁王立ちで立っていた。
「ちょっとまて冥利! 行くな! 話はまだ終わってなーい!」
「それはこっちのセリフだよ、条ヶ崎君」
冷たい笑顔でそう言うと、俺はそのまま引きづられて行った。家に帰れるのは、どうやらもう少し先になりそうだ。
「お悩み相談部の活動として、何をしたらいいのかみんなで意見を出し合いましょう?」
姫川先生の掛け声により、突如として始まったブリーフィング。そろそろ、部活らしい活動をしなきゃならないと思ったらしい。
だってこの数週間、姫川先生がネムをひたすら弄るだけで、部活動が終わっていた。さすがに、姫川先生は危機感を持ってくれたらしい。
という事で、お悩み相談部としての部活動を決めることになった。と言うか、初めから決めておけよとツッコムべき所だよな? これは。
「まずは、先生から! じゃーん、ドキドキ街頭アンケート! イケメンを追え!」
「それ殆ど、アンケートの建前を取ったナンパだろ!」
思わずツッコんでしまった。本当にこの人は、頭のネジが、何本かゆるんでいるんじゃないだろうか? そう思わずにはいられない自分がいる。
「じゃあ、そう言う条ヶ崎君は、何かいい案でもあるの?」
「えっ……それは……」
「はーいはーい!」
俺が困っていると、ネムが元気よく手を上げた。助かった、この状況でお前が手を上げてくれたのは、本当に嬉しい。まさか、ネムにこんなところで助けられるとは思いもしなかった。
「ネムはおにごっこしたい!」
「帰れ」
思わずそう言ってしまった。あまりにも予想の斜め上を行く答えに、冷静にツッコめた自分を褒めたい。というか、こいつ話ちゃんと聞いて無かっただろ……。
「あ、あの……」
そこですかさず秘凜乃が手を上げる。さすがだ、秘凜乃ならきっと何かいい案を出してくれる。そんな安心感を秘凜乃から感じる。
「私は缶蹴りがいいと思うな」
「そう言う事じゃねぇよ! 秘凜乃もネムに合わせなくていいから!」
「かんけりしたい!」
「お前はもう黙ってろ」
「それじゃ、オウサマはなにかいいのおもいついたの? ネムよりおもしろくなきゃしっかくだね!」
「いつからここは笑点になった」
さて、ここで俺にいい案を出さなきゃいけないというプレッシャーが、ずっしりと襲い掛かってきた。みんなの視線が俺に集まる。額から汗が噴き出してきた。
と言っても、いい案なんてこれっぽっちも浮かんでいない。そもそも、この部活に入ること自体特に意味なんてなかった。
ああもう、どうすりゃいい? 何かいい案を思いつかないか、必死に考える。そして、考えて考えて切羽詰まって結局俺は、無難な答えを選んでしまった。
「お悩み相談部らしく、みんなの悩みを聞いて解決しましょう」
これしか思いつかった。みんなの落胆した顔が辛い……。もっとセンスのある案が出せればよかったんだけど、まあよくも無ければ悪くもない、妥当の案だろう。
「ていうか、あんたらのは案ですらないからね!」
こうして、お悩み相談部の活動内容が決まった。そして、さっそくお悩み相談部は活動を開始することになった。
「猫が見つからないんです……数日前から、家に戻ってなくて」
「なるほどね」
「心にぽっかりと穴が開いたような気分なんです……もし事故にあっていたらと思うと……」
一人の女子生徒が、涙ながらにそう語った。姫川先生はその話を最後まで聞き、頷いた。
「わかりました、何とかしましょう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
そう言って、女子生徒は去って行った。さて、本当にこれでよかったのか……。俺はハラハラしながらその様子を見つめていた。
「本当によかったんですか? あんなこと言って」
「大丈夫大丈夫! 私たちで見つければ問題ないわ!」
「何か手がかりでも?」
「無いけど」
「やっぱり……」
姫川先生に手渡された写真には、アメリカンショートヘアーの子猫が映っていた。
本当に見つかるのか? 俺はがっくりと肩を落とした。地道に探すにしても、数週間前の猫だぞ? 手がかりはこの写真だけ。先が思いやられる。
頭を抱えていると、ネムが俺の肩に手を置いた。その顔は能天気そのもので、なんだかそんなネムが妬ましく思える。
「オウサマ、かがみつかえばいいじゃん」
そう言ってネムは、にっこりと笑った。その手が合ったか! と言いたいところだが、迷子の猫を見つける道具なんて我が家にありはしない。
というのも、冥利を鏡から脱出させた後でまた、鏡が使えなくなったんだ。そして、ネムの世界がまた一段と温かくなったらしい。もう少しで春になるそうだ。
一応そんなときの為に、道具のストックを何個か押し入れに入れているんだが、それがいったい何になるっていうんだ。
ほとんどこいつが学校に通うための制服、催眠ゴーグルセカンドエディションで埋まっている。他にあるのは、心の闇を写すことのできるカメラ。通称コメラと、ドラゴンフライレーダーだけだ。
うん? ドラゴンフライレーダーって何のための道具だっけ? たしか、冥利を家まで帰すときに使ったんだよな。をの時俺は閃いた、何とかなるかもしれない……。
次の日、姫川先生と秘凜乃は猫の写真から、チラシを作成配りに行った。。俺とネムは心当たりのある場所を捜索することになった。
「オウサマ、あっちにいいにおいがする」
そう言ってネムはラーメン屋に向かって、吸い込まれるように歩いていく。そんなネムの首根っこを摑まえて、前へ誘導した。
「ラーメン食べてる場合じゃないだろ。少しは猫を探せ」
「そんなこといってたって、あれからずっとネムネムあるきっぱなしだよ……おなかのひとつやふたつはすいちゃうんだよ!」
「それはお前の腹がおかしいだけだ」
駄々をこねるネムをたしなめながら、猫がいなくなった場所の路地を捜索していた。あの後、猫の買主から迷子の猫の毛を貰い、ドラゴンフライレーダーに食べさせた。
このドラゴンフライレーダーには、食べた毛の所有者を家に誘導出来るだけじゃなく、GPSの様に食べた毛の所有者を特定する機能もついている。いわゆる逆探知みたいなものだ。
今ドラゴンフライレーダーの案内で、猫がいなくなった場所から数メートル先の場所に来ている。
猫の気配はまだ感じない。一応、このドラゴンフライレーダーは正確性においては完璧だ。俺がそう言う風に作ったんだから、間違いない。
問題なのは、傍から見れば高校生の男の子がトンボの形のラジコンで、遊んでいるようにしか見えないという事だ。本当に、もうちょっとカッコいいスパイが使いそうなものにすればよかった。
例えば腕時計型とか、靴に隠しておけるとか。今となっては後の祭りだ。とにかく、羞恥心は置いといて猫を探すことに専念しよう。
狭い路地を抜けちょっと広めの空き地に出ると、そこでドラゴンフライレーダーは急にに加速した。
遅れないように、慌てて追いかける。すると、ドラゴンフライレーダーは、一本の太い木の手前でピタリと止まった。
小さな猫の鳴き声が聞こえる。ミィミィと、上の方から何度も聞こえてくる。上を見上げると、そこには子猫いて、どうやら木から降りれなくなっていたみたいだった。
その猫はアメリカンショートヘアーの猫で、写真で見た猫と同じように見える。いや、十中八九写真の猫だ。普段からあまり猫と言うものを見ていない俺に、実は猫の違いなんてほとんどわからない。
けど、可能性は間違いなく高いだろう。あらゆる状況が、この猫が俺たちの探している子猫だと語っている。
問題はこの木にどうやって登るか、だ。体を密着させないと、木の頂上付近にいる、あの猫に届かない。
そうなると、今着ている制服がかなりボロボロになることを覚悟しなきゃいけない。誰か人を呼ぶか……。
いや、そんな悠長なことを言っている場合じゃない。鳴き声はだんだんと弱まってきている。一刻も早く助けないと。
俺はドラゴンフライレーダーをネムに預け、木にしがみ付く。
「オウサマがんばれ!」
「うおぉぉぉぉぉぉ!」
木登りなんて小学生以来だ、体がなまって上るのに苦労した。ゆっくりゆっくり、落ちないように慎重に昇って行く。
制服が、木の表面に擦れて傷ついていった。これはこっぴどく親に叱られそうだ。
数十分経ち、猫のところまでもう少しの所までやってきた。後一段ほど登れば、子猫に手に届く。
慎重に、足を踏み外さないように木の枝に足をかける。ギシッと枝がきしむ。恐怖に体を震わせながら、弱弱しく鳴く猫に手を伸ばし掴んだ。
よかった。しかしまだ安心できない、むしろここからが正念場だ。無事、猫を飼い主のところへ届けなくてはならない。制服を気にしている余裕は、完全に無くなっていた。
太い幹に体をしがみ付かせながら、ゆっくりと降りた。そして下にいたネムに子猫を渡す、一件落着だ。
「オウサマおつかれさま!」
「応援ありがとう……早くみんなのところに行こう」
そう言って木から降りようとしたとき、つるっと足が滑った。まずいと思った時にはもう遅い。
数メートルの高さから俺は落ちた。
思いっきり尻もちをつき、左足を挫く。鋭い痛み襲い掛かってきた。これはもしかすると、足をやっちゃったかもしれない。
立ち上がろうとするけど、足が痛くて踏ん張れない。俺がもたもたしているのに気付いたネムが、心配そうにやってきた。
「オウサマだいじょうぶ?」
「ちょっと足を挫いたかもしれない、先にみんなのところに行っててくれ」
「だめだよ! オウサマは、ネムネムがたすける!」
そう言って、おもむろにネムはあの青いベレー帽を被った。すると、まばゆい光がネムの体を瞬く間に包み込んだ。
そして、あっという間にあの姿になった。
少し大きめの青いベレー帽に、ヒラヒラのおとぎの国の妖精の様な水色のドレス。極めつけは、手に着けた猫の手と足のコスプレ。
ネムの戦闘服ともいうべき、あのヘンテコな格好だ。いきなり変身して何をするつもりなんだ? というか、こいつ現実の世界でも変身出来るのかよ。
何か言おうと口を開いた瞬間、ネムは片手で俺を持ち上げた。まるで、俺の体を発砲スチロールのように軽々と片手でで持ち上げている。
突然の事に、何を言おうとしたのか忘れてしまった。どうなっているんだ? ここは現実なんだぞ。
ネムは、俺小脇に抱えながら屋根の上を猛ダッシュで走って行く。
屋根から屋根へ、ジャンプするたびに俺は悲鳴を上げた。この世界で、ネムだけがあるべき常識に囚われていない。
学校まで歩いて数時間かかる所を、僅か数十分で到着した。そのまま部室であるカウンセリング室の窓から、隣の保健室へ。俺はネムの手によって、ベッドに寝かされた。
「オウサマ、これでもうだいじょうぶ」
ネムは笑顔でそう言った。もしかしたらこいつは、ただ鏡から飛び出ただけのヘンテコな存在なだけではないらしい。
何か、特別な力があるのかもしれない。それによって、俺も心の世界で生き残ることが出来た。
いったいこいつは、ネムとはいったいなんなんだ? そう言えば以前、俺の部屋で一人鏡に手を当てていた。
栄養補給がなんとかと言っていたけど、かなり怪しい。とにかく、ネムのおかげで助かった事には感謝している。しかし気になることがいくつもある。
しかし、俺は本当に知りたいのか? ネムの事。
「ありがとな、ネム。お前のおかげでマジ助かったよ」
「ノン・プログレム! オウサマをまもるのがわたしのやくめなのだ」
そう言ってにこやかにネムは微笑んだ。ネムに初めて会ってからもう数ヶ月たったけど、こいつのこと俺は何も知らないんだよな。やっぱり、俺は知りたい。
「それじゃ、みんなをよんでくる!」
「ちょっと待ってくれ」
俺は保健室を出ようとするネムを引き留めた。こんな時に位にしか、チャンスは無い。俺は聞いてみようと思う。ネムのこと、あの心の世界の事。今度は半信半疑じゃなく、ちゃんと。
「お前の事、詳しく教えてくれ」
俺は真剣な顔でそう言った。ネムは俺の顔を見て悟ったのか、いつものみたいな能天気な表情ではなくなった。
「そうだね、ネムネムここのせかいのことば、まえよりしったから。こんどはちゃんと、はなせるとおもう」
そう言って、ネムは俺のベッドの横に座った。俺に背を向けてちょこんと座るその姿は、いつも見ている背中より小さく見えた。
ネムはしばらくそのまま何も言わず、しばらく外の野球部の掛け声だけが聞こえていた。窓から入ってくる夕日が、俺の時間をゆっくりにする。
「ねむのせかい、ずっとふゆっていったでしょ? それはオウサマのこころがふゆだったから」
「それって悩みを抱えている人間の心が、ネムの心の世界に影響してるって事だろ?」
「ううん。ちがう」
ネムは黙った首を振った。そして俺の方に向き直し、じっと俺の目を見る。
「オウサマはオウサマ。このせかいにも、ネムネムのせかいにもひとりしかいない」
「それってどういう意味だ……?」
俺は訳が分からず、ネムに尋ね返した。それじゃなんで秘凜乃を助けた時と、冥利を助けた時にネムの世界に変化が起こったんだ?
「お前がこの世界に来たのって……」
「オウサマをさがすため」
「だったら!」
「だから、さいしょからネムネムはいってる。オウサマはオウサマ、わたしたちのせかいのカミサマ。ネネムネムのせかいからいなくなったから、このせかいにさがしにきたの」
俺はネムの言っている事の意味が、分からなかった。いや、理解しようとしなかった。ネムが何を言いたいのか本当は、頭のどこかで薄々わかっていたのかもしれない。ただそれを、現実じゃないって否定して、今の自分を保とうとしている。
「このせかいにきてすぐにみつけたよ、オウサマ。ネムネムたちのせかいのオウサマで、カミサマ。ずっとずっと……ながいあいだ、さがしてきてやっとみつけたの。ずっと、ずっとあいたかったよ、オウサマ!」
ネムは目に涙をためながら、俺に抱き着いてきた。
オウサマ……王様。俺が? 王様? 信じられない。俺は今まで普通の人間として生活してきたし、これからもそのつもりだった。
それなのに、俺が神様? 何かの冗談だろ。だって俺は、人間の両親から生まれた只の人間なのだから。
ネムが泣きじゃくりながら、何か言っている。しかし、俺にはその言葉が耳に届かなかった。
それよりも、なぜネムがそんなことを言うのかわからない。意味が分からない。俺が、心の世界で戦えたのは、ネムの帽子のおかげだ。
そして、想像したものを創造する力だって、それは心の中の世界だからだろ。俺は特別じゃない、普通だ。それなのにどうしてネムは、俺の事を王様だと勘違いしているんだ……。
「おい、ネム。お前勘違いしているぞ? 俺はただの人間だ。お前の世界の王様でも神様でもない」
「そんなことない! オウサマおぼえてないの? わたしのこと」
「お前とあったのは、あの鏡からお前が飛び出した時が最初だろ?」
「ちがう! ちがうよ、もっとずっとまえからあってる! わたし、やくそくしたんだもん、オウサマにまたあいにくるって」
ネムの目は真剣そのものだ。コイツは嘘をつけるような奴じゃないってことぐらい、一緒に数か月暮らしてきて十分すぎるほどわかってる。
けど、今回ばかりは信じられない。絶対に違う。ネムは勘違いしているだけだ。
俺じゃない、別の誰かを。きっと、その誰かが本物の王様で、俺は無関係だ。
「ネム、よく聞いてくれ。残念だけど、俺はネム達の世界の王様じゃない。けど、俺も一緒に探すから、ネムたちの王様」
「ちがう、ちがうよ。だってオウサマだからあのちから、つかえたんだよ? かがみのなかにてを……」
「いい加減にしろ!」
気が付くと俺は怒鳴っていた。ハッと気が付き、ネムの方を見る。ネムは涙を流しながら、俺の事を悲しげな表情で見ていた。
どうして怒鳴ってしまったのか、俺にはわからない。単純に、ネムがしつこく食い下がってきたからかもしれない。けどその時、怒りの感情は俺にこれっぽっちも無かった。
ネムは、そのままゆっくりと保健室を出て行った。子猫が俺が寝ているベッドの横で、気持ちよさそうに寝ている。優しくその猫を撫でた。
しばらく経って、チラシを配り終えた姫川先生と秘凜乃がやって来ると、隣の保健室にいる俺に不思議そうに理由を尋ねてきた。
事情を知った姫川先生は、俺の足の手当てをしてくれた。湿布の匂いが鼻にツーンとくる。
姫川先生や秘凜乃が事情を知らないってことは、ネムはみんなに会う前に帰ったのか。子猫は先生が連れて行ってくことになり、俺と秘凜乃は帰ることになった。
「あれ? ネムちゃんいないけどどうしたの?」
「え? ああ、多分先に帰ったんじゃないかな」
「条ヶ崎君知らないの?」
「うん……」
「ふーん」
秘凜乃は疑ってはいない様子だけど、さすがに俺の様子がおかしいという事には気づいたらしい。心配だから家までついてくと言う秘凜乃を説き伏せ、俺は一人で家に帰った。
家に着くと、両親はまだ帰ってきてはいなかった。自分の家に一人でポツンと、俺は取り残されていた。こういう時共働きの両親の子供は辛い。
家の中は真っ暗で、電気がついていない。ネムは帰ってきていないのか? 俺は二階の、自分の部屋に向かって歩いた。
階段を歩くたびに、ギシギシと音が響く。普段なら気にならないのに、なぜか今日は気になって仕方がない。胸がざわつく。
俺の部屋にネムはいなかった。そこには依然、ぽつんとあの大きな鏡が置かれているだけだ。
隣のネムの部屋に向かってみると、ドアは開いていた。真っ暗な部屋の電気をつけ、確認する。ネムはいない。可愛らしい兎や鳩のぬいぐるみが何個か、ベッドの上に乗っかっている。
この部屋にはまだネムの匂いが残っていた。クローゼットの中にはデパートで買ってきたネムの服が、綺麗に並べて入っている。
きっとネムは来ない、そんな気がしていた。だって俺は……あいつを怒鳴ったから。
でも寂しくなんかない。いつもの日常に戻っただけだ、いつもの変わらない日常に。
部屋に戻り、着替えもせずベッドに倒れるようにうつ伏せになる。
なんなんだよあいつ……いきなり変なこと言ってきて。なんであんなこと言ったんだよ。
鏡が気になり、横目で見てみる。何も変化は無い、きっとこれからも。
俺は鏡に向かって歩き、立ち止まった。俺が映っている、悲しそうな顔をした俺が。
別に、悲しくなんてないだろ、一人居なくなったぐらいで……。そう鏡に映ってる自分に言い聞かせる。突然ガチャ、とドアが開く音がした。
ネムが帰ってきたのか? 鏡に映ってる自分の表情が少し和らいだ。
何喜んでいるんだ、俺は。そんな事よりもネムに今日の事問い詰めないとな、なんであんなことを言ったのか。
俺は部屋のドアを開けようと、ドアノブに手を伸ばした。
「……てないのか」
「外は大雨よ……傘ちゃんと持って行ったからかしら?」
両親の声だった。なぜか、落胆したような気分になる。別にネムじゃなかったからって、落ち込むことじゃないのに。
なんだか気にいらないので、そのままふて寝を決め込むことにした。制服のまま、またベッドにうつ伏せになる。
リビングから両親の声が聞こえる。きっと今日の献立とか、会社がどうのこうのとか、そんな話だろ。
「来栖のことなんだが」
唐突に、俺の名前が出た。急に俺の鼓動が速くなる。いったい俺がなんだっていうんだ? 別に、人様に迷惑をかけた覚えはないけど……。
「いい加減アイツに話すべきだと思うんだ」
「でも……」
「アイツも高校生だ。それに、今はネムちゃんもいる。きちんと分かってもらえるさ」
いったい何の話をしているんだ? 俺の心臓の音が、ドクドクンと脈をさらに速く進める。進路についてなら、まだ早すぎる。
じゃあ、何の話だ? いい加減俺に話すべき事ってなんだ?
「来栖が俺たちの子供じゃないってことを、ちゃんと話さないと。このままずっと隠し通せる訳じゃないんだぞ?」
え? 意味が分からない、どういう事なんだ? 俺がここの子供じゃない? 嘘だ、そんなの嘘だ。そんなはずない、幻聴だ。
ネムが変なことを言うから、たまたまそう聞こえただけだ。今のはきっと空耳のはずだ。
「でも、そんなこと言ったらきっと来栖傷つくわ……」
「来栖と俺たちは、血は繋がっちゃいないが家族だ。今まで何十年と一緒にいた家族なんだ。その絆を信じよう」
嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ……嘘だ! そんなことあってたまるか! なんで、なんでそうなるんだよ! 俺が本当の子供じゃない? だったら俺は……俺は誰なんだ? いったい誰なんだ?
王様だっていうのか? あのヘンテコな世界の、アホみたいにいい加減で、人の心に左右される世界の、王様だって? 神様だって?
ふざけるなよ! なんで俺がそんなものにならなくちゃなんないんだよ! 俺は人間だ、人間なんだよ……。他の何でもない、人間だ。
神様とか、王様とかそう言う大層なものになりたくない。普通の人間でいられればいいんだ。
秘凜乃と、姫川先生と、父さんと、母さんと、冥利と、康人と……ネムと。みんなと一緒に、馬鹿みたいな話して、馬鹿なこと言い合ったりして、ただ笑ってれば幸せだったんだ。
人助けと思って俺のやっていた今までのことが気に障ったのなら、もう二度としませんから。神様、嘘だと言ってよ……頼むから。
今まで信じていたものが、音を立てて崩れて落ちていった。もう何も信用できない、信じられない。
一人になりたい、今だけは。けどそう言う訳にもいかない。唇を思いっきり噛み締めた。口からじわりと溢れてくる血を袖で拭き、ドアノブに手を掛ける
ガチャリという無機質な音が、静かだった家に響き渡った。その音に気付いた両親が、慌てた顔で俺を見る。
「く、来栖もう帰ってたのか! あはは、全然気づかなかったぞ。忍者の才能があるんじゃないのか?」
「あなた何言ってるのよ……来栖、ご飯にする? まだ時間には早いと思うけど」
「気にしなくていいよ。さっきの話、全部聞いてたから」
俺は精一杯笑顔を作り、言った。言わなくちゃならなかった、だって今までの生活を、世界を失いたくなかったから。
「俺が他人の子供だったとしても、俺の両親はお父さんとお母さんだけだよ」
「来栖……お前……」
母さんは、ハンカチを取り出し涙を拭いている。父さんは、俯き何とも言えないといった顔をした。そんな暗い雰囲気の中、俺は精一杯の笑顔をし続けた。
それが、今の俺にできる唯一の事だから。きっと、これが俺にとって一番いい選択なのだから。
その日、結局ネムは帰ってこなかった。
次の日の放課後、俺は部活を休んだ。今日は秘凜乃から弁当の誘いもあったんだけど、断った。今はただ、一人になりたい。
家に帰ると、誰もいない。確か今日は残業だったと思いだし、真っ暗な部屋の明かりをつける。急に明るくなった我が家に、目が慣れない。
そのまま俺は部屋に戻った。真っ暗な自分の部屋のベッドに、制服のままうつ伏せで倒れる。もう何も考えたくない。
横目でまた、鏡を見た。何の変化もない。映っているのは俺だけだ。他の誰も、映っていない。
俺は悲しそうな顔をしていた。悲しくなんて、全然ないのに。
心配だ。ネムの事が心配だ。両親にはネムは自分の家に帰ったと言っておいたけど、半信半疑だった。
そりゃ、数ヶ月一緒に暮らしたのに挨拶も無しに居なくなるなんて、ありえない。けど、俺にはそう言うしかなかった。
ネムが、鏡の世界に帰ったなんて信じてもらえるわけがない。昨日から一晩中、ネムと両親の話を頭の中で思い返していた。
そのせいで、頭が痛い。若干熱もあるような気がする。別の事を考えよう、本棚の中にある漫画を手に取り、読んでみた。
けど、数十分もしないうちに飽きてしまった。どうしてなんだ、どうして。好きな漫画すら、集中して読めない。
頭がさらに痛くなる。考えたくないことを、つい考えてしまう。このままじゃ駄目だと思い、とっさに立ち上がる。
特に理由もなく、辺りを見渡すとやっぱり鏡が気になった。冥利を助けて以来、俺は鏡の中に右手を入れられなくなっていた。
ネムもいない今、この鏡はただの邪魔な粗大ゴミだ。けど、俺はゆっくりと鏡に近づいた。
そして、右手をそっと鏡に近づけた。冷たい、鏡の感触がする。やっぱり無理だった。
そう思い右手を引っ込めようとした時、何かに引っ張られた。指の先を少し、何かガムテープの様な物で引っ付けられたような、そんな感覚だ。
また俺は鏡に右手を近づけ、そして鏡の中に手を入れた。ずるり、とまるで巨大な片栗粉の中に手を突っ込んだような、異様な感触。重い、とても重い。
ゆっくりと俺の右手は中まで入りこんだ。鏡の中は、まるで氷水の様に冷たい。
いったいどうなっているんだ? この前はもっと入りやすくて、温かかったのに。
俺の心が影響している……? そんな馬鹿な。俺は、絶対に王様なんかじゃない。絶対に違う。
頭の中で何を思い浮かべようか想像する。けど、何度やっても考えがまとまらない。ネムの姿がちらつく。一体なんだっていうんだ。
手を引き抜こうと、思いっきり力を入れる。しかし、びくともしない。まるで何かに挟まったような、そんな感じだ。
俺はさらに力を入れて、右腕を引き抜こうとした。その瞬間、俺はバランスを崩した。靴下が滑り、俺はそのまま鏡に激突した。
気が付くと、俺は鏡の前でばったりと倒れていた。右腕鏡から引っこ抜けていた。鏡に当たった額をさすりながら、俺はベッドに横になった。
ため息をつきながら天井を眺める。いつもと変わらない、天井。いつもと変わらない日常。ただそこに、ネムがいないだけ。
それなのに、俺は心にぽっかりと穴の開いたような感覚に襲われていた。ガチャリ、と家のドアが開く。一瞬ネムかも、と思ったがすぐに両親の声が聞こえた。
「いい加減来栖にも……」
「そうだな……新しいところに……」
そう聞こえた。また俺に何か話でもあるのだろうか? 俺はドアを開け、リビングに向かった。
父さんと母さんが、難しい顔で何かを話している。
「どうしたの?」
そう尋ねると、二人は気まずい表情で俺の事を見た。何かまた、嫌な予感がする。
「いや、実はな……そろそろお前も一人暮らししないか?」
「いい所があったのよ! ほらここみて」
そう言って、パンフレットを取り出した。場所はこの高校から結構遠いところだ。駅を使えばまだ何とかなりそうだが、そもそもなぜ急にこんな話を……
「いや、別に高校卒業するまでは家で通いたいんだけど……ここからの方が近いし」
「高校生からは、もう大人って言うぞ? そろそろ自立しないと」
「そろそろバイトも経験しないとね」
二人とも、気まずい様な焦ったような、そんな表情で急かすように言ってきた。なんとなく、二人が言いたいことが分かった俺は、そのパンフレットを手に取りながら言った。
「わかったよ。厄介払いしたいんだろ? 本当の子供じゃない俺が、いつまでもここに居座るのは迷惑だよな」
「い、いやそんなことまでは……」
「そう聞こえるんだよ! バイトやってお金貯まったら出ていくから」
そう言って俺は乱暴にその場から逃げだした。部屋に鍵をかけ、パンフレットを壁に投げつける。
「ちくしょぉぉぉぉぉぉ!」
ありったけ叫んだ。やるせない気持ちを、吐き出す場所が無い怒りをどう対処していいかわからない。 あふれ出る涙が流れないように必死に袖で拭き、声を殺しながらベッドに潜る。
俺の居場所が、無くなった。今まで信じていたものが、どんどん消えていく。俺が、ネムを否定したあの日から、俺の日常は徐々に変わり始めていた。
昼休み、秘凜乃を探していると康人と秘凜乃を見つけた。二人とも、楽しそうに何か喋っている。
「二人とも何の話をしてるんだ? 俺も混ぜろよ」
俺の言葉に気まずそうに振り向く秘凜乃。康人は、少しイラっとしたような顔をして俺を見た。
「条ヶ崎君、今ちょっと忙しくて……ごめんね?」
そう言って秘凜乃は謝る。すごく気まずい、俺は苦笑いでその場を後にした。振り返ると、また二人笑顔で何かを話している。
何だろ、この疎外感。この世界でただ一人になったような。俺の信じていた世界が、日常がどんどん崩れていく。
おかしい。いくらなんでもおかしい。俺が、悪いのか? 俺が悪かったのか? なんだよそれ、俺が一体何をしたって言うんだ。
俺はこの世界じゃ生きちゃいけないって言うのか? なんでだよ……。愚痴る相手もいない。
今日も俺は部活を休んだ。
バイトの面接はすんなりと終わり、ファミレスのアルバイトをすることになった。いろいろ初めてだらけで皿を割ったり、たびたび怒られつつもその日は順調に終わった。
家に帰ると、しんと静まり返った我が家。まるで、数日のうちに世界が変わったようなそんな気分だ。
自分の部屋にこもり、鏡を見る。そこにはやっぱり悲しそうな顔をした俺がいた。
どうして、なんで? と叫んでいる。だが、どうすることも出来ない。全てが変わったんだ、ネムが去ってから。
いや、俺がここの家の本当の子供じゃなかった時からもうすでに、こうなる事は決まっていたのかもしれない。
鏡に右手をふれても、何の変化も起こらない。冷たい鏡がそこにあるだけだ。
翌日の昼休み、俺はまた秘凜乃を探していた。すると、屋上で康人と秘凜乃が仲良く座っていた。その手には弁当が握られていた。
俺のその二人を遠くから見ているしかなかった。そのまま俺は一人、購買で買ってきた焼きそばパンを口に運ぶ。
いつの間にか家にも学校にも、俺の居場所は完全に無くなっていた。
帰り道、黒い猫を見かけた。横断歩道を人間と一緒に渡っている。誰かの飼い猫だろうか? しかし首輪は見えない。
一人ぼっちで人間の横を歩いているあの黒い猫が、なぜか自分と重なって見えた。あの猫に、変える芭蕉はあるのだろうか?
バイトでくたくたになるまで働き、会話のない我が家に戻る。その繰り返しが数ヶ月続いた。
もう夏に差し掛かろうとしている。そろそろ夏休みだ、一人ぼっちの夏休み。
あれから友達を新たに作る気力もなく、一人でぼーっとしている毎日だった。放課後になれば、部活にはいかずバイトへ。
部活にも、俺の居場所は無い。なぜなら、昨日部室の前に通りかかった時、俺の座っていた場所には代わりに康人座っていたからだ。もう俺の居場所はどこにもない。
バイトに向かっていると、またあの黒い猫を見かけた。デジャブだ、同じようなタイミングで人間と一緒に横断歩道を渡っている。特に気にせず、そのままバイトに向かった。
ふと、今日は給料日だったと思いだした。バイトの金を順調に溜め、あと少し溜まれば引っ越せる。引っ越した後の事は考えていない。
そう言えば、冥利とは会っていない。
あれからずっと。会いに行ってみようかな? ふと、そう思った。
バイトの帰り道、冥利の家の方に向かって歩く。冥利の家にはすぐについた。日本の情緒あふれる屋敷は、何度見ても畏敬の念を抱かせられる。
冥利の家の前でおろおろしていると、後ろから声を掛けられた。
「あれ? 子分?」
そこには、あの時から変わっていないツーサイドアップの赤い髪の女性がいた。
「冥利……」
弱弱しい声でそうつぶやいた。冥利は帰ったばっかりなのか、制服を着けたままだ。
「どうしたの? 何かあった?」
冥利は心配そうに俺の顔を見る。その行動に、俺は泣きそうになっていた。
この世界で、唯一一人だと思っていた。けど、まだ俺のことを心配してくれている人がいる。それは俺にとって唯一の希望だった。
家に案内され、畏まりながらリビングに通される。そこで、冥利と二人っきりになった。
「お前あれからどうだったんだ?」
「どうだったって?」
「なんていうか……変わったのか?」
「う~ん……変わったというか、変わらない人間はいないんじゃないかな? あんなことが起こったら誰だって変ろうとすると思うよ?」
大人びた表情でそう言った。
もう既にあのころの冥利は居なかった。周りは変わっている、確実に。だが、俺はどうだ? この数ヶ月で俺は変わったのか?
いや、全然変わっていない。自分から変わろうとしなかった人間が、変わろうと決意した人間に追いつけるわけがない。
俺は周りにどんどん取り残されている。それは誰のせいでもなく、自分のせいだ。
けど、怖くて前に踏み出せない。変わろりたくない、今まで気づきあげてきたものを失いたくない。
俺は真実と向き合うのが怖い。
「なあ、そのあれから変わったな」
その言葉に、冥利は何も言わなかった。ただ黙って、窓を見ている。そんな静かな時間がゆっくりと流れていた。
「貴方は、全然変わらないね」
そろそろ帰ろうと、席から立ち上がろうとしたときに唐突にそう言われた。冥利からの言葉に、俺は動けなくなった。図星を突かれたから、だろう。
そのまま動けずにいると、冥利はさらに俺に詰め寄った。
「どうして変わろうとしないの? 周りはみんな、変わってるんだよ?」
「お、俺だって変ってる。バイトもしてるし、一人暮らしだってしようと……」
「違う、そんなんじゃない。貴方は全然わかってない、自分から逃げてるだけ」
「なんだよ……わかったようなことばっかり、俺の何を知ってるっていうんだよ!」
「全部」
そう言って、冥利は無表情で俺の方に顔を近づけた。その目には何も映っていない、何も見ていない。
急に怖くなった。図星を他人から言われた傷ついたとか、そんなんじゃない。目の前の冥利は俺を見ているんじゃない、俺の心の奥を見ている。それがとてつもなく怖い。
「全部ってなんだよ……」
「私だけじゃない、みんな知ってるよ。貴方が本当は、誰かを助けられるほど立派な人間じゃないって」
「ど、どういう意味だよ……」
「貴方は小さい人間。たまたま手にした力で、人を助けたような気分に酔いしれてただけ」
「そんな……」
「偉そうなことを言う割に、自分じゃ何も考えない、何もできない。本当は自分が王様だなんて立派な人間じゃないこと、知ってるくせに」
「どうして……」
まるで俺の心の内を代弁するかのように、冥利は坦々と語った。
この場から逃げ出したい、一刻も早く。そう思い、俺はリビングを飛び出した。靴を履くのも忘れて、一心不乱に走った。
空は完全に日が沈んでおらず、まだ赤色に染まったままだ。薄暗い道路を、どこに向かうことなく只々ひたすらに走り抜けた。
どうなってる、どうなってるんだ? どうして冥利が俺が王様だって知っている?
秘凜乃も、康人も、部活も、両親も、みんな俺が心配したとおりに変化していく。
頭の中で思い描く嫌な可能性が全て現実になっていくような、そんな恐ろしい感覚に襲われた。
どこにも居場所なんてない、この世界に俺の居場所は無い。帰りたい本当の居場所へ、鏡の身こう側へ。
頭の中でそう思った。逃げ出したいと、何度も何度ももそう願った。気が付くと、辺りは真っ暗な闇に覆われていて、俺はただ一人ポツンと何もない空間に立っていた。
遠い昔、ここに来たような気がする。よくわからないけど、懐かしい感じがする。
恐怖は無かった。むしろ、落ち着く。これで俺は本当のいるべき場所に帰れると、なぜか確信した。
本能でそう感じ取ったのか、あるいは頭の中にある遠い昔の記憶がそう思わせたのか。わからない。
けど俺は、真っ暗な向こう側へと淡々と足を進めて行った。
「これでよかったんだ」
そう呟いた。もういい、全て忘れて、このまま闇に溶けて消えてしまいたい。そう思った。
肌に張り付くような気持ち悪い汗の感触も、靴下のままずっと走り続けたせいで擦り剝けた足の裏の感触も、徐々に消えて行った。
頭の中から、思い出が消えていく。両親の事も、康人も、秘凜乃のことも、ネムの事も。
これでいいと本気で思った。これで自由になれると、本当に思った。けどやっぱり寂しい。
もう一度、ネムの能天気だけどいつも元気をくれたあの笑顔を見たい。
暗い道を一人で歩きながら、そう思った。体の感覚がどんどん消えていく中、頬を流れる温かい感覚だけが強く頭の中に残り続けていた。
ふと後ろから、誰かに呼ばれたような気がした。それは勘違いだったのかもしれない。けど、本当に微かでよっぽど気を付けないと、聞き逃してしまう様な小さな声。
何も聞こえないこの世界では、唯一の音。その声は徐々に大きくなっていく。
「……マ……サ……オ……ウ……サ」
言葉が聞こえる。その声は徐々に大きくなっていって、気が付くと俺は立ち止まり後ろを振り向いていた。遠くから光がやってくる。青白い光が。
その光を見て、なぜか俺はすごく暖かい気持ちになった。
やっぱり帰りたい、そう思った。完全に、消せるはずがなかった、みんなとの思い出を。
ゆっくりと俺は、その光に向かって足を進めようとした。すると、肩を何かに掴まれた。
黒い腕の何かに。そいつは俺の耳元で呟いた。
「ソウワサセナイ」
気が付くと、俺は鏡の前でばったりと倒れていた。右腕は鏡から完全に引っこ抜けている。俺は鏡に当たった額をさすりながら、ベッドに横になった。
ため息をつきながら天井を眺める。いつもと変わらない、天井。いつもと変わらない日常。ただそこに、ネムがいないだけ。
それなのに、俺は心にぽっかりと穴の開いたような感覚に襲われていた。ガチャリ、と家のドアが開く。一瞬ネムかも、と思ったがすぐに両親の声が聞こえた。
「いい加減来栖にも……」
「そうだな……新しいところに……」
そう聞こえた。また俺に何か話でもあるのだろうか? 俺はドアを開け、リビングに向かった。
父さんと母さんが、難しい顔で何かを話している。
「どうしたの?」
そう尋ねると、二人は気まずい表情で俺の事を見た。何かまた、嫌な予感がする。
「いや、実はな……そろそろお前も一人暮らししないか?」
「いい所があったのよ! ほらここみて」
あれ? どこかで、見たような気がする。そんなはずはないのに。デジャブか?
「わかったよ。厄介払いしたいんだろ? 本当の子供じゃない俺が、いつまでもここに居座るのは迷惑だよな」
そう言って俺は、部屋に戻った。明日からバイトを探さないと。
バイトの面接は意外とすんなり受かった。いろいろ初めてだらけで皿を割ったり、たびたび怒られつつもその日は順調に終わった。
帰り道、黒い猫を見かけた。横断歩道を人間と一緒に渡っている。誰かの飼い猫だろうか? しかし首輪は見えない。
一人ぼっちで人間の横を歩いているあの黒い猫が、なぜか自分と重なって見えた。あの猫に、帰る場所はあるのだろうか?
あれ? 俺こんなこと前にも考えた気がする。
バイトでくたくたになるまで働き、会話のない我が家に戻る。その繰り返しが数ヶ月続いた。
もう夏に差し掛かろうとしている。そろそろ夏休みだ、一人ぼっちの夏休み。
バイトの帰り道、横断歩道を渡っている黒い猫を見かけた……前にも見かけた気がする。いや、絶対に見た! 間違いない。
おかしい、こんなことあるはずがないのに。俺はこの横断歩道を渡る黒い猫を、何度も見たことがある。記憶が混乱して、何回見たかわからない。
けど、俺は確かに見た。只のデジャヴじゃないと直感的にそう思い、俺は黒い猫を追いかけた。
横断歩道を渡り、そして消えた。唐突に、何の予告も無く消えた。
ありえない、消えるなんてそんなこと……。頭の中で思考がぐちゃぐちゃになる。
俺はこの猫を何回見た? 俺は学校に何回通った? 頭の中で記憶がぐちゃぐちゃに離れては繋がる。まるで脳みそをミキサーでかき回されている気分だ。
気が付くと、辺りは真っ暗になっていた。真っ暗で何も聞こえない、深淵。
どうして俺はここにいる? いや、前にもここに来た気がする。いつだったっけ? 遠い昔? いや、最近だった気もする。
頭が痛い。俺は、おかしくなってしまったのか? 頭を抱えていると、遠くから声が聞こえた。
「マ……サ……オ……ウ」
光だ。青白い光が少しずつこっちに向かって来る。その光に向かって、俺はゆっくりと足を進めようとした。
しかし次の瞬間、俺は黒い影に肩を掴まれた。
そいつは俺の顔をのまじまじと眺める。そして、にっこりと笑った。不気味な表情で笑ったそいつの顔は、俺の顔にそっくりだった。
気が付くと、俺は鏡の前でばったりと倒れていた。右腕は鏡から完全に引っこ抜けている。俺は鏡に当たった額をさすりながら、ベッドに横になった。
あれ? 何かおかしい。おかしいぞ? 俺はこのベッドに何回横になった? なぜだろう、そろそろ親が帰ってくる気がする。
その予想通りに、ガチャリとドアが開く音がする。
「いい加減来栖にも……」
「そうだな……新しいところに……」
なんだよ……俺を厄介払いしたいのかよ。そんなに引っ越してほしいなら、引っ越してやるよ!
あれ? なんで俺、親が厄介払いしたいなんて思ったんだ?
急にひどい頭痛に襲われる。あまりの痛みに俺は頭を抱えた、頭が割れそうだ。頭を万力で締め上げていくような、そんなひどい痛み。
俺はドアを開けず、倒れるようにベッドに潜る。
「ソウジャナイダロ」
どこからともなく声が聞こえた。頭の中に直接響いてくるような、そんな感覚だ。酷い痛みに頭を抱えながらも、どこから聞こえたのか探そうと、俺は辺りを見渡した。
「ソウジャナイソウジャナイ……オマエハドアヲアケルベキダッタ。ソレガウンメイ、シナリオ」
その声が聞こえるたびにたびに、頭の頭痛がズキズキと痛む。突然、鏡が動いた。誰も触れていないのに、ガタッと音を立てながら少し前に動く。
気が付くと俺は、鏡の方に向かって歩いていた。
ゆっくりと、酷い頭痛に耐えながら鏡に近づく。一歩ずつ確実に、床の感触を足で確かめながら。
突然眩暈が襲い、立っていられない。跪きながら、這うように鏡に少しずつ近づく。
鏡を除くと、そこにはありえない光景が広がっていた。およそ、現実じゃ起こりえない現象。
鏡は真っ黒で何も見えない。黒い油性マジックで、ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたように、光が入る隙間はどこにもない。
何一つ映らない。あるのは、黒い色だけだ。瞬間、恐怖に包まれた。
俺は、いつからここにいる?
ここには何度も来た。家だから来るのは当然と言うツッコミは無しにしてほしい。
そうじゃない、俺はこの場所に何回も移動させられた。同じ時間、同じタイミング、同じ言葉を呟きながら。
ただのデジャブだ、そう思いたい。けど、俺にはこの現象が只のデジャブじゃないと、はっきりわかった。
確証は目の前の、真っ黒に塗りつぶされた鏡だ。鏡は普通、光を反射する。
しかし、この鏡は反射するどころか光を根こそぎ奪い、真っ黒に染まった。簡単に言うと、これは鏡じゃない。それじゃなんだ? この鏡は。ここは、いったいどこだ?
思い当たる場所はただ一つ。心の世界だ。
ここは心の世界で、俺がこの鏡にぶつかった瞬間体ごと入ってしまったんだろう。俺は自分自身の心の世界に吸い込まれた。
つまり、頭の中でぐちゃぐちゃになっている記憶は全て鏡の世界で起こった出来事。現実じゃない。
全てが、俺の考える最悪の可能性へと転がっていく。まさに、ここは俺の悩みの巣窟であり本音。
秘凜乃や、冥利と同じ悩みを抱えて変異した心の世界だっていう事だ。
脱出する方法は、わからない。俺は無我夢中で戦っていただけだ。この世界でもそれで脱出できるのだとすれば、話は簡単だ。
しかし、事はそう簡単にいく問題じゃない。俺の心の世界ということは、俺自身が変わらなければ永遠に出られない。
ここは、俺にとって永久の監獄になった。いったい俺はどうやって出ればいい? 誰が助けてくれる?
もし、俺の心の闇と戦闘になった時、ネムがいない俺はどうなる?
この世界での死が何を意味するのか、はっきり言って分からない。けど、確かめる勇気は無い。
この世界から脱出する方法が、目の前の真っ黒い鏡の中に入ることだとすれば、簡単なのに。
まるで、この黒く塗りつぶされた鏡は俺を誘い込もうとしているように見える。体が、見えない力に引っ張られているような、そんな感覚だ。
本当に、入れば解決するのか? ここから外に出られるのか?
「ウン」
そうか。ソレジャア、入ろう。
ゆっくりと俺はその鏡に向かって右手を伸ばした。なんだか、頭がボーっとする。酷い頭痛で何も考えられない。
俺の腕は真っ暗な鏡の中に吸い込まれるように、静かに入っていった。
「……マ。ウサ……オウサマ!」
その言葉に、はっとした。声が、確かに声が聞こえたんだ。ネムの声が。
俺は、帰らなくちゃみんなのところに。帰らなくちゃ!
焦った俺は吸い込まれつつある右手を引っ張った。しかし、重い。まるで何かに掴まれているような、物凄い力で鏡の奥へ引っ張られる。
「なんだよこれ……」
力の限り引っ張ってもビクともしない。気持ち悪い感触が、右腕を伝い俺の頭に電撃のように走った。
これは、普通じゃない。嫌な予感が全身を駆け巡る。
だが、俺の体は確実に鏡の奥に引き寄せられていく。戻るのは至難の業だ。
誰か、助けてほしい。誰でもいい俺を助けてくれ。ここから出してくれ、頼む誰か、誰か俺を助けてくれ!
しかし、俺の願いは届くことは無かった。
無情にも俺の体は鏡に吸い込まれ、気が付くと真っ暗な空間に一人ぼっちになっていた。
誰もいない、何も感じない。ただ永遠の闇が広がっているだけだ。
怖い、一人は嫌だ。ここから逃げ出したい、一刻も早くここから。俺は走ろうと足に力を入れようとして愕然とした。
感じないのだ、足の感覚が。何一つ、感じない。両腕も、それどころか呼吸すらしている感じがしない。
心臓の鼓動を、感じない。死んだのか? 俺は。
まさか、鏡に頭をぶつけて? 嘘だよな? そんなことってないよな。笑い話にもならないくらい、しょぼい俺の人生だ。
もし、まだチャンスがあるのならやり直したい。ネムに謝りたい、秘凜乃や姫川先生や、父さん母さんに会いたい。
会って、また話がしたい。
俺は声を上げた。しかし何の音も聞こえない、しゃべった間隔もしない。それでも俺は泣きながら叫んだ、もはや涙の感覚ものどの痛みも感じないのに。
「ムリダヨ」
頭の中に声が聞こえる。この声、どこかで聞いたような気がする。どこで聞いたんだっけ? 俺はこの声を。
「アエナイヨ。アエルワケナイジャン、オレハサイショッカラヒトリダッタノニサ。コマルナァ、カッテニオレノイバショコワサレチャ」
「誰だ?」
声にならない声で俺は叫んだ。何処にいるのかわからない相手に、頭の中で響く声に向かって、俺は無我夢中で叫んだ。しかし、声は俺の耳にさえ届かない。
「オレダヨ、オレオレ。オヒサシブリ、ジャナイナ。マイニチアッテルシ」
「俺はお前と話した記憶は無い」
「ツレナイナァ、ヒテイシタクナルキモチ、ヨクワカルケド」
「お前なんかに俺の気持ちがわかるか!」
「ワカルヨ。オハヨウ、コンニチハ、コンバンハ、ソシテ、サヨウナラオレ」
次の瞬間、俺はまた何かに肩を掴まれた。この何も見えない世界で感じだ久しぶりの感触、その感触にぞっとした。
おそらく人間の手であろう、その手に体温は全く感じなかったからだ。それは、俺の肩から体温を奪うように、のっぺりと俺の肩を掴んでいる。
瞬間、その方向に向かって顔を向ける。その目に映ったのは、闇の中に微かに見える俺の顔だった。
その顔は、満面の笑みで俺を見ていた。まるで、今日が人生最大の幸福日だと言わんばかりに、笑っていた。
気持ちが悪すぎる。只でさえ気持ち悪い感触なのに、俺の顔がニタニタと笑っているんだ。気持ち悪いことこの上ない。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
ありったけの声で叫び、手を払いのける。慌てた拍子に足を縺れ、その場に転んだ。
痛い。体の感覚がある、自分の声も聞こえる。徐々に、視界が明るくなった。そして辺りが完全に分かると、俺はその光景にさらに愕然とした。
何もない、砂漠。その中心に、俺と俺がいる。ここが、俺の心の世界。
灼熱の世界、すぐに汗がどっと噴き出した。現実の砂漠を経験したことは無いのでわからないが、多分現実のそれと変わらないと思う。それほどに、息が詰まるほどに熱い。
俺と同じ制服を着けているもう一人の俺が、その制服のボタンを乱暴外した。そこに見えた俺の胴体は、無かった。
制服の中にあるはずの、俺の体が無い。皮膚も、心臓も、肺も、血管も何もない。代わりに黒い空間だけが、俺の胴体の代わりに存在している。
そして、その黒い胴体の心臓部分にあの文字が見えた。血の様に赤い文字が、生き物のようにグニャグニャと動いている。
そこには、『虚無』と書かれていた。
「ヤァ、オレ。ドウシチャッタノヨ、サイキンオレノハナシキイテクレナイヨネ?」
「何言ってるんだよお前……」
「カワイソウナオレ。オレノチュウコクヲキカナイバッカリニ、ナカマトカ、ヒトダスケトカ、リョウシントカ、クダラナイゲンソウダッテ、オモイシラサレタンダヨナァ」
「お前の言っている意味が分からない……」
「オレハサイショカラ、チュウコクシタノニ。タニンナンテショセン、タニンダッテ」
「そんなことない!」
「ソノケッカガソレダヨ。ジブンイガイ、モウドウデモイイジャナイカ。タニンノコトマデカンガエルヨユウガ、イマノオレニアルノ?」
悲しそうな顔で俺はそう言っている。こいつは絶対に俺じゃない、だって俺はそんなこと一度も考えたことなんてないからだ。
デタラメを言っている、俺の顔をした何かだ。俺を惑わし、ここに閉じ込めようとしている。
こいつは心の世界に巣食う化け物だ。俺の顔に成りすまし、俺を騙す化け物だ!
俺は拳に力を込める。しかし、何の変化も起こらない。とっさに、俺はネムの帽子を付けていないことを思い出す。
何やってるんだよ俺! 唇を噛み締めた。ネムがいなくたって、俺は勝てる。ましてや自分自身と戦うくらい、俺一人で十分だ。
頭の中で想像する、拳銃を。リボルバー式の拳銃を。すぐにそれは形となって、俺の手に現れた。
その銃を両手に構え、目の前の俺に向ける。
「コワイナァ、ソンナブッソウナモノ、ステチャエヨ」
「うるさい!」
「オレハ、イツモオマエノミカタデ、オマエノコトバッカリカンガエテキタンダヨ? ソノオレニ、オマエハヒキガネヲヒケルノカ?」
「出来るよ、絶対にできる。お前が何を言っても関係ない、俺は俺だ。俺の姿をした化け物くらい、この手で殺せる!」
言葉とは裏腹に、俺の指は震えていた。照準がぶれる、全身に汗が噴き出す。
あいつが本当に俺だとしたら、もしこの拳銃で目の前の俺を撃ったら、どうなる?
俺は死ぬのか?
そんなまさか、ありえない。あいつは、俺を惑わして丸め込もうとしているだけだ。惑わされるな俺、ちゃんとあいつに向かって撃つんだ、撃ってここから出るんだよ。
「コワイノ? コワイヨネ。モシ、オレガホンモノノオレダッタラッテ、オモッテルヨネ。シンパイスルコトハナイヨ、ソノヒキガネヲヒケバスグニワカル」
「うるさい! 知ったようなことを言うなぁぁぁぁぁぁ!」
勢いで引き金を引いた。瞬間、しまったと焦る。しかし、取り返しは付かない。激しい炸裂音が響く。乾いた硝煙の匂いが、辺りに立ち込めた。
音が止み、静寂が訪れる。しかし、変化は無い。俺も、目の前の俺も。
「ドウ? ワカッタ?」
「分かったって何が……」
次の瞬間、頬に痛みを感じる。生暖かい感触が、俺の頬を伝って落ちていく。俺は頬を触り、指を確認した。
人差し指と中指についていたのは、まぎれもない血だった。
目の前の俺にも頬から血が流れ落ちている。つまり、あいつは紛れもない俺自身で、この世界の支配者。
俺は、俺と戦って勝たないとここから出られない。この広大な砂漠の中から、永遠に。
「ふ、ふざけるな……。お前が俺だっていうのならここから出せよ! 俺はここから出たいんだよ!」
「ベツニイイジャン。ココデノンビリナニモカンガエズ、イッショニボーットシテイヨウヨ」
「黙れ! こんなところにいて、ぼーっとしてて何になるっていうんだ!」
「何にもならないよ」
急に声がはっきりと俺の耳から聞こえた。今まで頭の中に直接響いていた声は、音を介して俺に届く。
俺の声だ。頭の中に響いていた時は、籠っていてよくわからなかったけど、今直接耳から聞いて分かった。
こいつは紛れもない、俺自身。俺がそう思っているって言うのか? ふざけるな、そんなこと信じないぞ、だって俺は……。
「さっき見せたろ? あれが現実なんだよ。いい加減受け入れようぜ? 俺」
「何なんだよお前! お前なんか俺じゃない、絶対に違う!」
「あれ~? 否定するのかよ? 俺は今まで、お前だけを思いお前だけの為に存在してきたんだぜ? 酷いなぁ……」
「お前に助けられた覚えなんてない……」
俺は声を震わせながら、目の前の俺に向かって反論した。しかし、気持ちとは裏腹になぜか声が震える。あいつの言っていることは、真実だとでもいうのかよ。
「いつも助けただろ? いつも励ましただろ? いつも傍にいただろ? 女の子に振られたとき、ゆりちゃんだったけ? 小学生の時だったなぁ……本当は好きだったくせに。何も言えなくて」
「やめろ……」
「好きな奴が康人だと知った時のお前の顔! 最高だったぜ……」
「やめろっていってるだろ……」
「あの時散々俺が言ってやったのにさぁ、他人なんて所詮他人だって。なぁに気にすることはない、お前にはいつも俺がいるじゃないかって。それなのに、秘凜乃の事また好きになっちゃってさぁ」
「うるさい! うるさいんだよお前!」
急に雰囲気が変わる。辺りの空気が一気に冷えたような、いきなり冷気に包まれたような感覚だ。
気が付くと、辺りはどんどん暗くなっていた。日が沈み、大きな月が現れる。
空の三分の二を占める月は、およそ現実ではありえないほど大きく美しかった。さっきまで灼熱だった世界は、一転して凍てつくような寒さに覆われた。
俺の心がそうさせているのか? ここが俺の心の世界で、あいつが俺自身だとするならあいつがこの世界を操ってる?
「だから見せたんだよ、お前に現実を。二度と忘れないように、ちゃんと虚無の世界に来るように」
不気味だ。笑っているのに、泣いている。自分の顔なので余計に気持ち悪い。
早くこの世界から出たい、一刻も早く。そうじゃないと、凍え死んでしまう。どうすればいい? ここからでるには、いったいどうすればいい?
考えても考えても、答えは一つしか出ない。目の前の俺と戦うという答えだ。
結局、心の世界から出るにはそうするしかない。俺はその方法しか知らないだから、戦う。
戦うしかない! だけど、あいつに与えたダメージはそのまま俺に跳ね返ってくる。もっと頭を働かせろ、俺!
「心は決まったか? もう何も考えなくていい、もう何も求めなくていい、もう苦しまなくていい。俺と一緒に来い、俺」
「断る。俺にはまだやり残したことがある!」
「やめとけ、きっとそれは叶わない。そもそもお前は人間じゃない。ファンタジーの世界の、ファンタジーの王。おとぎの国の馬鹿皇子だ、能天気なお前にぴったりだぜ」
「知ったようなことを……」
「俺はお前だからな」
相手は俺だ。もしさっきみたいに銃を使えば、俺の方が死んで今うかもしれない。だからって、バットで殴るのも効果があるかどうか……。
もっと、簡単にあいつを止める方法は無いのか……?
止める……そうだ、止めればいいい。別に戦う必要はない、奴を止めるだけでいい。俺に自身に何らかのショックを与えるだけでいい。
俺は心の中で想像し、創造した。しっかりとそれを手に握り、目の前の俺に向ける。
「なんだそれ?」
「見てわかんないのか? スタンガンだよ。ちょっと強力な奴だぜ」
「なに? それでどうすんの?」
「お前を止める」
俺はスタンガンを構えた。しかし、目の前の俺は涼しそうな顔で俺を見ている。我ながら、見ていて実に不愉快だ。
「無駄無駄。無駄なんだよ、お前に俺は倒せない」
突然、一陣の風が巻き起こる。それは瞬く間に風の渦となり、目の前の俺を周囲に吹き荒れる。
砂嵐だ。あまりにも強烈すぎる風と砂に、目が全く開けられない。そのまま俺は跪くようにして、その場にうずくまる。
「イイカゲンアキラメロヨ……オレ」
直接頭に響く声。たしかに、こんな状況じゃ狙いを定めてスタンガンを押し当てるどころか、まともに立つことすらできない。
けど、その必要はない。必要無いんだよ俺。
俺は思いっきり自分の腹にスタンガンを押し当てた。お前が俺で俺が前なら、こういう事も出来るよな?
俺はスタンガンのスイッチに手をかけた。緊張でボタンにかけた指が滑る。
「ヤメロ……ソンナコトヲシテモムダダゾ」
「無駄かどうかは、俺が決める!」
覚悟を決め、ボタンを押す。瞬間強烈な痛み、想像を絶する激痛が俺を襲った。たったの数秒だったけど、威力は十分あった。俺は叫び声を上げる暇もなく気絶した。
朦朧とする意識の中、必死に目の焦点を合わせようとする。俺は呻きながら床を這うと、そこが家で俺の部屋だとすぐにわかった。
目の前にはベッドがある。目の焦点はいまだ定まらず、触って確かめる。確かにここは俺の家で、俺のベッドだ。
それじゃここは、現実の世界? 辺りをもっとよく確かめようと、まだ合わない目の焦点を何とか無理やり合わせながら、ゆっくりと立ち上がった。
またひどい頭痛が起きている。頭が痛い、けどそれよりも確かめたいことがある。
ゆっくりと歩き、そして鏡を確認した。そこにあったのは、やはり真っ黒で何も見えない鏡。
ここは、現実の世界じゃない、一歩手前に戻ってきただけだ。くそ、だがこれ以上俺はどうすればいい? ネムの帽子がない以上、俺は何もできない。
「くそ……ネム、どこに行ったんだよ……」
「オ……サマ……オウ……マ」
声が聞こえる、またあの声だ。いったいどこから聞こえるんだ? 俺は辺りを見渡した。しかし特にこれと言って気になるものは無い。
ベッドの方を探そうと、足を一歩踏み出すと何か柔らかい感触を足に感じだ。足を上げて確認すると、それはネムの帽子だった。
いったいどうして、こんなものがここに。なんでここにネムの帽子があるのか、わからない。
戻ってきたのか? わざわざ俺の所まで。俺が鏡の中に取り込まれたと知って、帽子を届けてくれたのか?
俺は……、俺は。
胸にこみ上げる熱いものを、静かに感じながら俺はネムの青いベレー帽を被った。そこからネムの声は聞こえなかったけど、間もなく俺の体は光に包まれ、ヘンテコな王様の格好になった。けど、今の俺には超どういい。
今まで自分から逃げていた。今度こそ、ちゃんと自分と向き合う時だ。
「ニガサナイゾ……オレェ!」
頭の中で俺の声が木霊する。言われなくても言ってやる、こんどこそ一対一の真剣勝負だ。
俺はまた、あの真っ黒に塗りつぶされた鏡の奥に戻った。今度は自分の意志で。
真っ黒の世界の奥。月明かりだけが、その場所を照らしていた。深淵の世界の一部分だけ空が星で煌き月が空を覆っている。極寒の砂漠が地平線まで広がっている。
足を踏み入れると、サラサラの砂が俺の足を絡みとる。蛙の足の様な靴では、非常に歩きにくい。しかし、今の俺にはそんなこと小さな問題でしかなかった。
中心に人影が見える。もちろんあれは、俺だ。
人と関わることを恐れ、暗い闇に逃げ込んだ俺だ。だから俺が、何とかしないといけない。
「ヤァ。ヤットキタナ。タノシモウゼ、オマエトシンケンニハナセルノハコレガサイゴダ」
遠くにいる俺の周りに、凄まじい砂嵐が起きる。それは遥か頭上何十メートルの高さにも成長しする。次々と、砂が砂嵐に吸い込まれ巨大な物体を形成していった。
やがてそれは光を失い、真っ黒になる。
「モウナニモイラナイ、コワイ、コワイ……ダカラオレヲ、ホットイテクレェ!」
それは巨大な人だ。手が沢山ついた、真っ黒な砂でできた、大巨人。
ギリシャ神話のヘカトンケイルを彷彿とさせるそれは、禍々しく成長し空を覆った。はるか遠くにいたはずのそれは、今とても近くに感じる。
「来いよ、今度は楽しいお話じゃなく拳で語り合うぜ俺」
一際デカい右腕が、俺の目の前に向かって振り下ろされる。それがゴングの合図だった。
走ろうと、力を入れるが砂に足を取られてうまく走れない。だから俺は頭の中に飛んでいる自分を思い浮かべ、飛んだ。
いや、飛んだという表現は少し違う。俺は蛙のようにジャンプした、大空に向かって足に力を入れ思いっきり踏み切る。
思ったより飛距離は延びない。俺の後ろスレスレを、巨大腕が通過する。風圧で、俺は回転しながら吹き飛ばされた。
上手く受け身が取れず、全身に恐ろしい衝撃が襲い掛かる。右肩の関節が外れ、痛みで顔を歪ませた。
息を荒く吐くたびに、それは白い煙となって吐き出される。次の攻撃が来る前に、急いで動かないと。
自分に言い聞かせ、立ち上がる。目の前には大巨人。俺の心の中の一部が具現化した存在だ。
はっきり言って、自分ほど厄介な奴はいないと思う。俺が好きなもの嫌いなもの、癖や気持ち、全てあいつには筒抜けと言うわけだ。
だから、歯を食いしばって頭を働かせなきゃいけない。弱点を探さなきゃいけない!
俺はよろよろと立ち上がり、後ろに向かって走る。砂に足をとられ、上手く走れないが別に逃げるつもりで走ってるわけじゃない。
むしろ逆だ、俺を誘い出す。広大に続く砂漠じゃ、はっきりって不利だ。地の利は相手の方にある。
だが、俺が来た道の方には何もない。真っ暗な空間が続いているだけだ。
そこなら戦える。奴をおびきだし、こっちに有利な環境で戦うんだ! 絶対に勝つ、それしかない。俺は絶対に負けられない。
巨人は地響きを起こしながら、俺を追いかけてくる。体がデカすぎてのろいが、一歩一歩がデカい。気を緩めたらすぐに追いつかれる。
全速力で砂漠を走った。息を吐き出すたびに、白い息が出る。砂漠じゃない空間まであと百メートルくらい。けど、その距離がとてつもなく長く感じた。
お城からくるきゃだいな黒い影が、俺を捕えようと沢山の腕を伸ばす。真っ黒な砂でできた腕が、俺の行く手を塞ごうと襲い掛かってくる。
それをかわし、何とか振り切りながらようやくあと五十メートルと言うところまで来た。
恐怖と緊張、そして昂揚感が同時に襲いかかる。悪夢のような時間だ。
突然、地面が隆起した。目の前の砂が持ち上がり、俺の後方が沈み込む。まるでアリジゴクだ。
砂は、俺の走っている方向とは真逆に流れ出した。瞬く間に、後ろに吸い込まれていく。
俺の仕業か? もう一人の俺が、この世界を操っているのか?
周りは、巨人を中心に円状に隆起している。そして、巨人に向かって砂が流れていく。
間違いない、あいつがこの世界を操っている。かなり不利な状況だ。けど、負けるわけにはいかない。
もっと考えろ、俺が考えそうもないことを。もっと考えろ!
瞬く間に、俺は巨人のところに吸い寄せられた。巨人は遠吠えの様な声を張り上げ、俺を鷲掴みにする。息が苦しい、口の中に砂が入る。
「ツカマエタ」
そのまま俺を握りつぶそうと、巨人は手に少しずつ力を込めた。
「そうは……いくか」
俺は、あいつに向かって流れていく砂の中にあるものを仕込んだ。それはダイナマイトだ。
正直、どのくらい威力があって巨人にどのくらいダメージを与えることが出来るのかわからない。それどころか、使い方を誤ると俺に危害が加わる。
けど、今こいつの手によって持ち上げられている今なら、衝撃は最小限に抑えられる。
俺は頭の中で、爆発するイメージを思い浮かべた。数秒後、激しい炸裂音とともに巨人の体は吹き飛んだ。
放り投げられる形で、巨人の手から自由になった俺は、すり鉢状になった砂漠にそのまま落ちた。
このままでは、巨人にまた掴まれる。俺は這い上がろうと必死にもがいた。
けれど、もがけばもがくほど吸い込まれていく。足に力を入れて飛ぼうにも、こんな場所じゃうまく力が入らない。
外れた右肩に、激痛が走る。あまりのんびりしていられない。俺は長いロープとそれに付いた重りを想像した。すぐに右手に現れたそれを左手で思いっきり振り回し、遠くに投げる。
重りとロープは無事に遠くまで飛んだ。後は重りを巨大なアンカーに変え、ロープを引っ張りここから脱出する。
右腕だけの力では、この滑り落ちる砂の中を早く進むことが出来ない。気持ちだけが急いでしまう。
早く、早く! アイツに気づかれる間に、出来るだけ遠くに行かないと。焦る気持ちが手汗になり、ロープがうまく捕まえられなくなる。
後ろを振り向くと、吹き飛んだ巨人の体はすでに半分以上再生していた。余計に気持ちが焦る。
もっと、早く! あいつに掴まれる前に、急ぐんだよ俺!
「マテヨ! ニガサネーゾ!」
頭の中で声が響く。しかし、焦る気持ちの一方で冷静に考えている自分もいた。
まてよ? さっき砂に爆弾を紛れ込ませていた時、あいつは気づかなかった。あいつが俺なら、読んでいたいたはずだろ?
俺が砂に爆弾を紛れ込ませたのは、掴まれたとき脱出するためじゃない。あいつを警戒させ、捕まえさせないようにするためだ。
なのにあいつは掴んだ。自らリスクを冒して。
これはどいう事なんだ? なぜあいつは俺を摑まえることにこだわる? いったい俺の目的はなんだ? 無造作に大量に体中に生えた腕は、何かを求めるように俺の方に伸びてきた。ずきずきとくる右肩の痛みを堪えながら、俺はやっと頂上まで登りきることが出来た。
けど、まだ砂漠は続いている。さっきの位置より、数十メートル遠くなってしまった。急がないと、この場所にいたら、また俺に捕まってしまう。
俺は右肩を庇いながら、砂だらけの砂漠を走った。また何か起きるかもしれないと、辺りの様子を警戒していると、案の定また砂が隆起してきた。
しかも、さっきより範囲が広い。このままだとここから脱出出来なくなくなる。なにか、固いものがあれば、それを土台にしてジャンプできるのに……。
そして、とっさに思いつく、無いんだったら作ればいい。まだ比較的水平な地面なら、ここから飛んでこの砂漠と真っ黒な世界の境界線を飛び越せる。
俺は地面の砂に手を当て、目を瞑った。そして、固い平らな石を想像する。掌を中心に砂が動き集合し、固まる。すぐに平らなコンクリートの様な意思が出来た。
それに足をかけ、思いっきり踏む。足に力を入れ、遠くまで飛ぶように想像する。体は、発射台から打ち出された玉のように、勢いよく飛んだ。
ただでさえ近い月が、より近く見える。遠くで、俺を追いかけようとしている巨人が見えた。
俺はそいつに向かって体を向け、左手で中指を立てた。
「俺を殺したいのなら、もっと必死に追いかけて来いよ、俺」
数十秒滞空した後、真っ黒な空間に着地した。右肩がずきりと痛む。外れた関節を元に戻す方法があると聞いたことはあるけど、試したくはない。
だって、物凄く痛そうだからだ。だからと言って、このまま放っておくわけにもいかない。秘凜乃の時は、体に傷跡は無いものの全身がしばらく痛かった。
幻痛という奴かどうかはわからないけど、あの時は酷かった。だからこそ、短期決戦を目指す。
突然、下半身に鈍い痛みが走る。遅れてきた痛みは、並みとなってジョジョに襲い掛かってきた。
「がっ!? うげぁ……」
痛すぎて声も上げられない。腹部から血がじんわり噴き出してくる。朦朧としてくる意識の中、俺は巨人を爆弾で吹き飛ばしたことを思い出した。
あいつは俺だから、俺にもダメージが来る。すっかり忘れていた。
自分自身と殴り合ってるわけだから、当然と言えば当然か。
向こうの精神力が尽きるか、俺がの精神力が尽きるかの戦いと言うわけだ。思わず苦笑いになってしまう。
「痛いのは苦手なんだよな」
自分とまさか、我慢比べをする羽目になるとは夢にも思わなかった。けど、やらなくちゃ帰れない。みんなの元へ帰れない。大切な家族の元に帰れない。
勝たなきゃ帰れない。
巨人は唸り声を上げながらやってくる。巨人と一体化した砂漠は、同じ黒色に染まっていた。砂でできた大巨人は、俺を追いかけてくる。
巨人が来る前に、外れた右肩と大きく穴の開いた腹を修復する。痛みで朦朧とする意識をギリギリのところで留める。
あまりの辛さに、何度も吐いた。完全に治すのに数十分ほどかかった。いや、時間の感覚のないこの世界で、数十分なんて時間があるわけがない。
永遠のように長く、刹那の様に短い時間だった。その間に巨人は俺の場所にだいぶ近づいていた。
あともう少しだ。右手に力を込める。いつものような、熱を感じないが確かにその手に見えない力が宿っているとわかった。
これは、ネムの思いか? 優しい気持ちが流れ込んでくる。俺に対する謝罪の気持ち。
違う。謝らなきゃならないのは、俺の方なのに。
やがて巨人は、境目を超え俺と同じ真っ黒な空間に入ってきた。ずんっと地響きが真っ黒な地面を介して俺に伝わる。
重くて冷たい。巨人はかろうじて顔の形を保っている頭部で俺を見ろした。その顔はどこか、悲しそうに見える。
「モウ、ニゲラレナイゾ」
「いや、もう逃げる必要はない。もう俺は逃げない」
「ツヨガリバッカリ。ホントウニ、ワラッチャウヨネ。ソコマデシテツヨガリタイノ?」
「強がりたいわけじゃない。本当に守りたいものがあるから、伝えなきゃいけない言葉があるから、もう逃げたくないから」
「オレニハワカラナイヨ。タニンノタメニ、ガンバレルオレガ。カカワルカラツラインダ、ヒトリデイイジャナイカ? ヒトリデナニガワルイ? ヒトハダレダッテヒトリダ」
「そんなことは無い、人は人と支え合っているから人なんだ。今からお前にそれを教える」
「オレガオレニセッキョウカヨ! オモシロイナァ」
「ただし、俺の説教はちょっと痛いぜ」
「ソノセリフ、ダサインダヨ」
ゴングが鳴った、俺と俺の最終決戦。勝てるかどうかはわからない、けどやるしかない。
俺に勝つ。それしかないんだ。
足を踏ん張り、地に足をしっかりつけ。俺は巨大な俺に向き合う。拳に沢山の人の心背負いながら




