第二章 ラビリンスミラーワールド
第二章 ザ・ラビリンスミラーワールド
「ちょっとブンなぐったクラいでアイソツカシたとか抜かしやがッて! だから、言ってやったんだよ。子供を置いていかないと、籍は抜かせないって」
巨大なピエロは坦々と、独り言のようにつぶやいている。聞き取りづらかったピエロの声は、徐々にはっきり聞こえるようになった。
「そしたらアイツ、面白い顔してやがったなぁ! それからまた数年、奴隷のようにこき使ってやったよ」
真っ黒のピエロの顔に張り付いた、真っ赤な血の色の『キョウイゾン』と言う文字が、まるで笑っているかのように、小刻みに震えている。
「ソシてあいつは、とうとう捨てた。秘凜乃をな」
そう言って、顔のない顔でピエロは鳥かごの中でうずくまっている秘凜乃を見る。秘凜乃は耳を抑え、しきりに頭を振っていた。
「聞きたくない聞きたくない……そんなの嘘だよ……お母さんが私を捨てるなんて……」
「本当ナンだよ! いい加減認めろ! お前は捨てられたんだ、そして俺がお前を拾ってやったんだ。血のつながった便利な奴隷としてなぁ」
「いやぁぁぁぁぁぁっ!」
秘凜乃は絶叫した。怒りで手を握りすぎて、また手から血が出る。白銀の小手から、生暖かい真っ赤な血が流れ落ちる。
「それくらいにしとけよ、クソピエロ。俺がお前をぶん殴るとき加減できなくなる」
ピエロはこちらを見た。いや、目も鼻も口もなく、ただ血のように赤い『キョウイゾン』と書かれた文字が、まるで芋虫のように蠢き合っているこいつに見るという表現は正しくない。
こちらの方に向いたピエロは鳥かごを左手で抑えながら、こちらに身を乗り出す。懐に落ちた、優しそうな人の顔の仮面を再びつけ、気味が悪いほど丁寧な言葉使いでこちらに話しかけた。
「暴力で物事を解決するのはいけない事だよ? 家族に暴力を振るのは、致し方ないとしても他人に暴力を振るのは絶対だめだよ? 傷害罪で前科を付けられたくないだろ?」
ニコニコの笑顔でそう言った。あまりにも気持ちが悪く、反吐が出そうだ。ここが秘凜乃の心で、こいつが秘凜乃の父親を表しているんだとするなら、こいつがどれだけキモイ野郎か想像がつく。
いい人と言う仮面をつけ人を偽り、影で秘凜乃を……実の娘を虐げていたわけだ。
それだけじゃない、秘凜乃のお母さんもこいつのせいで……。それをこいつは、この糞野郎は娘を捨てたんだと秘凜乃に教え込んだ!
全てが、秘凜乃を孤独にするために計らていた。秘凜乃が俺と下校するとき、頻りに周囲を気にしていたのも、やはりこいつが……。このくそ野郎が見張っていたからだ。
そして、突然秘凜乃が学校へ来なくなったのも、俺たちを見た時怯えた表情をしたのも、全てこいつのせい。この父親腐れのDV野郎のせいなんだ。
やるせない気持ちで、腸が煮えくり返った。秘凜乃が周囲に冷たくして人を遠ざけていたのは、全てこいつのせいだった。自分の気持ちを押し殺して、必死に耐えていた。
今の俺にできることは、心の中で秘凜乃を縛っているこの腐れピエロをぶっ潰すこと。そして、秘凜乃を奮い立たせることだ。秘凜乃が決断し、実行しようとする意志を守ることだ。
やってやる。ここまで秘凜乃の心に踏み込んだんだ。最後まで秘凜乃を助ける。
俺は拳を構える。発熱し、真っ赤に変色した俺の右手が周囲を照らす。
「やるって言うのか? この俺と? 勝てるっていうのか? 俺に? 実の親だぞ? 血のつながりだぞ? 心のつながりだぞ?」
「違う。お前のような外道に、秘凜乃をこれ以上いいようにさせはしない。歯食い縛れよ、ピエロ野郎!」
右足を思いっきり蹴る、最初よりもずっと速い。思わず見失いそうになった、けど目を見張り思いっきりピエロの仮面をたたき割る。
ピエロの顔面は凹み、衝撃が貫通してずっと後ろの壁に穴をあける。仮面がバラバラに吹っ飛び、優しい顔だった仮面は醜い破片になり、粉々に砕けた。
衝撃は、俺の腕にも来た。俺の右手は、白銀の小手ごと平らに潰れた。血が爆発したように辺りに飛び散り、顔や体に返り血としてべったり張り付く。
歯を食いしばり、痛みを我慢してさらに追撃する。後ろに仰向けに倒れかけるピエロの、突き出した醜い腹に左足の蹴りを食らわせる。
お腹の方は柔らかいかと思ったけど、全然そんなことは無かった。まるで、厚さ数センチの鉄板をけったような感触、俺の足の指はへし折れた。激痛で意識が飛びかける。
ピエロの醜い腹は大きく凹み、顔のない顔から黒い液体が噴水の様に噴き出した。
「ブェァァァァァァッ!?」
ピエロは吹っ飛び地面を転がる。何千トンもありそうな巨体が、地響きを立てながら壁に激突した。
俺はそのまま真っ黒な底に、潰れた左足を庇いながら着地した。
「はは……長期戦はちょっと無理だぜ……」
痛みで涙が出る。俺の足と手は徐々に元通りになったけど、痛みの恐怖がまだ残っていた。カチカチと、恐怖で歯が鳴る。
「オウサマしっかりするの!」
ネムの声が聞こえた。というか、いったいどっから声を出してるんだ? 体のあちこちを見てみたが、無線機らしきものは見当たらない。
「オウサマうえをみてみるの。オウサマのおうかんとおして、オウサマと、りんりんのこころかんじとれるのね」
「なるほど、もともとこいつはお前のヘンテコなベレー帽だったもんな」
「へんてこじゃないよ! わたしのせかいの、このふゆさいだいのとれんどだ!」
「お前の世界は万年冬じゃなかったのか?」
ネムと軽く会話していると、逆上したピエロが丸太のようにデカい腕で襲い掛かってきた。ずんっ、と衝撃が辺りに木霊する。あと一歩遅れていたら頭ごとぺしゃんこだった。
「オウサマつぎはひだり!」
とっさに左を見る、攻撃に使った、左手を軸に体を左回転させてきた。思いっきりジャンプし回避する。こいつは強い、それほど強烈に秘凜乃の心を縛っているという事だ。
一筋縄じゃ倒せない。普通、こういう場合の敵って覚醒した主人公に瞬殺されるパターンじゃないのか? 現実は厳しいようだ。
「おのれが、俺と秘凜乃を邪魔できるとオモウナヨォォォォォォ!」
重々しい、音声加工されたような声で叫び、底を叩く。辺りは依然真っ暗だったが、何かが変わったような気配を感じた。
「オウサマうしろ!」
ネムの声にとっさに反応ししゃがむ。太い矢が頭上を通過し突き刺さる。周りを見るまでもなく、どんどん追撃してくる。
「オウサマみぎ!、つぎは、ひだり! あと、ななめひだり……じゃなくてまえ! そしてみぎ! つぎはうしろまえっ!」
ネムの声に合わせて避ける。まるでアクションスターにでもなった気分だ。後ろと前からきた矢を、マトリックスもびっくりなイナバウアーで回避した。
身に着けた鎧は、俺の動きに合わせて形を変えているらしい。道理でさっきから動きやすいわけだ。
さすが心の世界、自分の思ったように体が動く。夢の中にいるようだ。
本当に夢だったらよかった。
秘凜乃がこんな重い闇を抱えているなんて、思いもしなかった。全て嘘ならどれだけよかったか。まだ、俺が嫌われたせいで転校することになった方が、マシだった。
そんな事を考えている合間にも、矢はやってくる。そして、追撃がやんだかと思うと、今度はピエロ猛攻だ。
「オウサマ、うえからくる!」
ピエロは振りかざした手で、思いっきり引っ掻いた。爪が、チェンソーのような音を立てて、真っ黒な底を切り裂く。だが、ピエロの爪が挟まり、抜けなくなった。
今がチャンスだ。そう思い、ピエロの凹んでいる顔のない顔に、左ストレートを食らわせた。どんっと言う重い音ともに、さらに黒い液体が飛び散る。
手ごたえは十分あった。そのまま、左ストレートは顔を貫通する。大きな穴が開き、断末魔の叫びを上げた。
「ギィィィィィィァァァァァァ!」
「っ!? オウサマッ……」
次の瞬間、左側から何かが直撃した。バス? トラック? それともダンプカーか? それほどデカく、強い衝撃が俺に襲いかかる。
勢いよく吹っ飛ばされ、そのまま壁に叩き付けられる。真っ黒闇に覆われたの古びた物置の様な壁は、俺が直撃した衝撃で、クレーターが出来た。今までに味わったことのない衝撃だ。
メキメキメキと、鳴っちゃダメな音が自分の体から聞こえる。何が起きたのかわからない、第三の何かが襲いかかってきたのか? そうしか考えられない。
そのまま、ボロ雑巾のように真っ暗な底に落ちた。左半分の感覚が無い。
喉から何かが猛烈に込み上げてきた。次の瞬間、それは勢いよく口から出てきた。
「おえぇぇっ!」
よく見るとそれは、真っ赤な血だ。血を吐いたのは生まれて初めてだ。こんなに気持ち悪いんだな。
口の中が、まずい鉄の味で埋め尽くされる。本当に辛い。
「冗談きつい……」
顔に穴の開いたピエロはの肩から、さらに二本の腕が生えていた。ダメージが凄まじいのか、中々体が元に戻らない。異常だ、異常すぎる執着心。
無理かもしれない。そう、弱気になる自分をが許せなかった。わざと、戻りかけの左腕の傷を抉る。
「うああああああっ!」
自分を奮い立たせる。ここであきらめてどうする。俺があきらめてどうする。もっと、もっと心に願うんだ。もっともっともっと、助けたいって。願って願って願って願え!
思いが力になるんなら、俺の気持ちは絶対奴を超える。越えてみせる。
左手には力が入らない。もう左足も、余り踏ん張れないだろう。けど、絶対に諦めない。
「うあぁぁぁぁぁぁ!」
俺はピエロに向かって走り出した。左足を庇いながら、必死に走った。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!」
「何が……可笑しい!?」
「オウサマ、きをつけて! なにかおおきいものくる!」
気味の悪い、不気味な笑い声が真っ暗な空間に木霊する。次の瞬間、頭上から何か落ちてきた。咄嗟に横に転がり、回避する。落ちた衝撃が、体に響いて思わず顔をしかめた。
痛みに歯をくいしばって立ち上がり、体に回転を加え思いっきり鉄球をピエロ目掛けて蹴り返す。
見事にピエロに命中、ピエロはそのまま数メートル引きづられた。
鉄球は重くのしかかり、ピエロの動きを封じる。
「ヒヒヒヒヒヒッ」
ピエロはうわごとの様にブツブツと何かを呟いている。けど、気にしている暇はない。治りかけの左足を引きずりながら、必死に走った。
秘凜乃の元に駆け寄り、鳥かごを引きちぎろうとするも固すぎてビクともしない。
「秘凜乃っ! 大丈夫か秘凜乃!」
秘凜乃はうつむきながら、静かに泣いていた。小さく震えながら、怯えている。
「ここから出るんだよ、行くぞ、秘凜乃! おい、聞こえてるのか?」
「無理なの……出れないの。いつもあの人は私を追いかけてくるの。絶対に逃げられないの」
「そんなことは無い。秘凜乃が出ようと思えばいつだって出れる。手を伸ばせよ、助けを求めろ!」
「無理無理無理無理」
「秘凜乃!」
「だって! 家族なんだもん! 離れられるわけないよ、血のつながった家族だもん」
「秘凜乃……」
秘凜乃は固くない首を振らない、あんなひどい目に合わされても、奴隷のようにこき使われても。秘凜乃は、あいつを家族だと思い続けている。
所詮、他人に入る余地は無かったのか? ここで頑張ったとしてどうなる? 俺はお節介で、無責任の只のお人よしの人になってしまうんじゃないか?
心が弱気になるたびに、治りかけていた傷が広がっていく。
「秘……凜乃……」
「他人にはわからないよ、私の気持ちなんか。孤独の気持ちなんか」
突然後ろから何かに掴まれた。きっとあのピエロだ。逃げ出そうともがくも、余りの力の強さに身動きが取れない。メキメキメキと、万力のように締め上げられる。
クソクソクソクソクソクソッ、クソォォォォォォ! なんだよなんだっていうんだよ。秘凜乃を助けたいって思ったことは間違いだったのかよ。駄目だっていうのかよ。
やっぱり血のつながりには勝てないのかよ……俺がしたことは間違っていたのかよ……。
物凄い力に、叫び声すら叫び声をあげることすら出来ない。息すらままならなくなってきた。
「イッタだろ? お前に勝てるわけがナイ。チノつながりは絶対ダ」
「秘……凜乃……」
「シンでそのツミをツグなえよ!」
「秘凜……乃……お前は、それでいいのかよ」
最後に聞いておきたい、秘凜乃本当の気持ちを。純粋な気持ちを。
「誰かの……為じゃない……お前の……本当の気持ちを……聞かせろよ」
周りの景色が色あせていく、徐々に体に力が入らなくなる。寒い、とても寒い。
「こんな……こと間違ってるって……もっと自由な人生を送ってもいいんだって……秘凜乃にとって……本当に幸せなのか?……違うだろ……」
「だってだって……」
「でも、やだってはもういい……無理しなくたっていいんだ……辛いときは素直に誰かを頼っていいんだよ……迷惑かけていいんだよ……血のつながりがすべてじゃ……ない」
「私、私は……自由になりたい。お母さんに会いたい……誰かに助けてほしい。助けて、お願い助けて……条ヶ崎……君。助けて!」
秘凜乃の声が、微かに残った俺の意識を呼び覚ます。これで俺の助けたいという思いは、俺の一方的な思いから、二人の共通の思いになった。
徐々に体に力が湧いてくる。逆転フラグは立った。後は、爽快にぶっ飛ばすだけだ。
白銀の鎧が、真っ赤に発熱した。それだけじゃない、俺の体全身真っ赤に発熱した。頭の髪から爪の先まで燃え滾るように熱い。
「アツッ!」
ピエロは思わず手を放した、俺はその場に着地する。慌ててピエロは、俺を潰そうと四本の手で押さえつけようとした。
しかし、一歩遅かった。いや、俺の方が速すぎた。ピエロが腕を上げた瞬間、もうすでに俺はピエロの腹目掛けて右ストレートを食らわせていた。
衝撃で風が起きる。凄まじい轟音と共にピエロの腹が凹み、焼け爛れてふちが真っ赤に染まった大きな穴が出来た。衝撃波はピエロを貫通し、遥か後方の壁に直撃しクレーターを作る。
「手加減しないとボコボコに出来ないな……」
ピエロの穴の開いた顔から、大量に黒い液体が飛び散る。俺はステップでそれを避け、後方にいったん下がった。
そして、治ったばかりの左足で蹴って宙に浮かぶ。すぐにピエロの目の前に来た。
「まずは、ジャブを一発」
ピエロの鳩尾に左パンチ。ピエロは、風船のように後ろに吹っ飛んだ。俺は下に落ちる前に、宙を蹴る。すぐにピエロに追いつき、右パンチ。ピエロは加速する、それに合わせて宙を蹴る。左パンチ、吹っ飛ぶ、宙を蹴る、右パンチ。
十秒もかからず、壁に激突した。それでも俺はやめない。交互にパンチを繰り返す、ピエロはどんどん壁にめり込んでいく。三本目の手と、四本目の手が俺を捕えようと襲い掛かった。
俺は宙で半回転し、ミキサーのように回転。完全に物理法則を超越した技でピエロの手を吹っ飛ばす。
二本の手は、芋虫のようにのた打ち回りながら吹き飛ぶ。断末魔の悲鳴を上げ、黒い液体を大量にまき散らした。どんどん吐きだし、ついには萎んだ風船のようになってしまった。
真っ黒な空間の底にたまった真っ黒な液体は、生き物のように一つに集まりデカい口を形成した。
口の奥にはデカイ目が見える。ワニの様な口の化け物だ。上の歯の内側に、『強欲』と書かれている。
「オオオオオオオオオオオオレガスベテヲテニイレルルルルルル、ジャマダァ!」
俺は真っ暗な底に着地すると、静かに構えた。
「これだお終いだ化け物。血のつながりをを利用し、散々秘凜乃をこき使った仕返しだ」
本物じゃないのが辛いところだ。けど、これで……きっと。秘凜乃は変わる。自分で決めたんだ、もうこいつの影に囚われない。自分の意志で歩いてゆける。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
口だけの化け物は襲い掛かってきた。周りのものを、闇ごと食らいながら突き進んでくる。静かに俺は右手に力を込める。
化け物が俺を巻き込み、口を閉じる。完全に閉ざされた真っ暗な闇の中で、俺の拳だけが真っ赤に光っていた。
「てめぇにはこいつがお似合いだ、単純明快のスカイアッパァァァァァァ!」
足を踏ん張り思いっきりジャンプするのと同時に、右腕を上に突き出す。炎を纏った拳は化け物の上顎に命中し、易々と持ち上げる。
メキメキと化け物を焼き切り、突き破る。約数百メーターほど持ち上がり、化け物は飛散した。燃え上がる破片が辺りに散らばり、引火していく。
そのまま辺りは燃え盛って行った。俺は荒々しく嫡子すると、秘凜乃の元に急いで駆け付けた。
そして、思い切り鋼鉄の鳥かごを引き裂く。秘凜乃は戸惑ったような、不安な表情でこっちを見る。
「いいのかな、本当に出て。いいのかな、本当にこれで」
俺は笑顔で答えた。
「ああ。これからは、他の誰でもない自分の人生を生きるんだ」
「でも、一人じゃ何もできないよ……」
「困った時にはいつでも助けるよ。だって俺は、秘凜乃の友達だからな」
秘凜乃の目から、涙が溢れてくる。それを見て、俺の胸が熱くなった。
「困った時にはいつでも頼れよ? 秘凜乃。お前は一人じゃない」
「うん……」
秘凜乃は俺の手を取った。辺りは燃え盛る業火に包まれていた。ぐらっと、周りの景色が横に倒れる。
遥か頭上に合った星のように小さな出口が、今度は遥か目の前に見える。
俺は秘凜乃を無理やりお姫様抱っこし、業火の中を必死に走り抜けた。
「条ヶ崎君っ!」
「大丈夫だ、俺がお前を守る」
秘凜乃は安心したように、顔を俺の胸に寄せた。炎に当たり全体が照らされる。デカイ古ぼけた物置。まるで、自分が小さくなってしまったように感じるほど周りの物がデカくなっていた。
真っ暗で見えなかったけど、こんな所だったんだな。
出口はまだ遠い。永遠にも感じるほどに長い時間、俺は秘凜乃を抱えながら、ひたすら出口を目指した。
翌日。いつものように目覚ましが鳴る。
目覚めは最悪だ。嫌な夢を見た。最近の夢。遠い遠い出口に向かって走っていた夢。
俺は手の平を見て呟いた。
「やっと……現実に戻ってきたんだな」
学校に登校すると、まるで長い間来ていなかったような気分になった。そして、校門の前には秘凜乃がいた。
「あの、この前の事ですけど……いえこの前と言うか、昨日の事なんですけど」
秘凜乃は顔を赤らめながら俯いている。秘凜乃は長い前髪をピンで留めていた。綺麗な、大きな黒い瞳が見える。思わず息をのんでしまった。
「あれって夢ですよね? 貴方が、私を追いかけてきてそれで私が逃げて……それから」
秘凜乃はもじもじしている。何か言いたそうだ。俺は無言で秘凜乃の頭を撫でた。
「な、なにするんですか!」
秘凜乃は顔を真っ赤にしている。俺はそれを見て笑ってしまった。
「元気になってよかった」
秘凜乃は顔を赤らめつつも、真剣な表情で真っ直ぐ俺を見た。その眼には光が戻っていた。
「私決めたんです、逃げないって。もうお父さんからも、人からも。私、お母さんのところに行こうと思います。実は、あれから父の暴言や暴力の証拠を集めたんです。裁判……するつもりです」
秘凜乃の顔は辛そうだったが、瞳には確固とした決意が見えた。その瞳は言葉では説明できないほどに、美しかった。
というか、秘凜乃かなり美人だ。
「あの、あの時の言葉……信じていいのかな……?」
秘凜乃は上目づかいでこちらを見る。俺は、緊張して少し戸惑ったけど頷いた。
「ありがとう、条ヶ崎君」
そう言って秘凜乃は俺の手を握った。彼女は太陽よりも眩しい笑顔で笑っていた。
そうか、本当の自分を取り戻せたんだな。
「それじゃ、いこ?」
「え?」
俺の返事を待たずに、秘凜乃は強引に校舎へ引っ張ってゆく。
「早くいかないと、遅刻しちゃうよ?」
「いやいや、ちょっとまっ」
「早くー!」
チャイムが校舎を響き渡った。とても透き通った眩しい青空に、飛行機雲が一筋見えていた。
それから数ヶ月後、秘凜乃はこの学校に戻ってきた。転入生として俺と同じクラスに来たのはびっくりしたけど、驚いたのはそれだけじゃない。
髪をセミロングくらいに短くしていた。若干、カールもかけているようだ。
見違えたその姿に、クラスメイトはざわざわとしていた。ひそひそ声があちこちから聞こえる。
「どうも、またこの学校でお世話になります。倉前 秘凜乃です」
「おい! 条ヶ崎! どういうことだ? 俺が合った時と全然違うぞ!」
「何の事だ康人? 元からあんなだったろ?」
「は? ちょっと待てお前その顔、何か知っている顔だな?」
妙に勘の鋭い奴だな。
「別に?」
「だってあの子、お前を見て微笑んだぞ?」
「いいから前を向けよ馬鹿。口説き過ぎて、頭がおかしくなったんじゃないんか?」
「その言い方は酷い……ま、いいさ。今度こそ口説き甲斐があるってもんだ」
「まだそんなこと言ってんのか……まあ、もう慣れたけどさ」
五月の日差しが温かい。これから夏に向けてどんどん暑くなっていくだろう。そういえば、そろそろ部活に入らないといけない。俺はどの部活にしようか?
秘凜乃は俺の左隣の席になった。康人は、ニヤニヤしながら秘凜乃を見ている。思わず殴りかけた。
「またよろしく、条ヶ崎君」
「おう」
簡単な会話だけど、すごく嬉しい会話だった。康人が横から茶々を入れる。
「なになに? 二人とも知り合いなの? だったら俺のこと紹介してくれよ~。倉前さん、覚えてるかな? この前話した上崎だよ」
「えっと……どなたですか?」
真顔でそう言われた康人は、ニッコリスマイルのまま白目をむいて固まった。たわいのない会話が、とても楽しい。
放課後、俺は秘凜乃と一緒に下校した。途中の帰り道までいろいろ話をする。
「まだ解決とは言えないけど、裁判も順調だよ。お母さんとの暮らしは楽しいし、全然合ってなかったのに、まるでずっと一緒にいたような気持ちになるんだ」
「そうなんだ、よかった。新しい生活には慣れた?」
「うん。すごく楽しいよ。倉前君が、助けてくれなかったら私……」
夕日のせいか、秘凜乃の顔が少し赤く見える。なぜか、俺はドキドキしていた。
「いや、俺何もしてないから。あれも、なんていうか俺の力と言うより、不思議な鏡の力? ていうか……。それに、秘凜乃のこと何も知らないくせに、でしゃばった事したりしたし」
「ううん……。あの高校生たちに絡まれた時、部活の勧誘をされたとき時、心の真っ暗な闇から出られなくなった時、全部条ヶ崎君が助けてくれたから」
秘凜乃は急に走り、俺の目の前に来た。セミロングの黒髪が、風に揺られてなびく。
「条ヶ崎君、ありがとう」
いきなりの事で、なんて返したらいいかわからない。とりあえず、いま思いついた言葉を返す。
「い、いえこちらこそ」
なんだか、とても気恥ずかしい。これが青春って奴なのか? 俺はドキドキしながら秘凜乃を見ていた。なんだか今日は異様に眩しい。
「どーーーーーーん!」
思いっきり誰かに突き飛ばされた。そのままアスファルトに叩き付けられる。ガリガリと顔の表面の何割かが削られた。
「な、なんだ!?」
「オウサマひどし! じゆうにがっこういっていいってったのに、またふとんにしばりつけた!」
そこには、厳重に布団に括り付けたはずのネムが立っていた。
なぜ俺がこいつを学校に行かせないように、布団に括り付けたのかと言うと、こいつが学校を走り回っているうちに、催眠ゴーグルを無くしてしまったんだ。
また鏡から取り出そうとしたが、俺が秘凜乃を助けだしてからまったく鏡に入れなくなったんだ。
いずれ、消えてしまうかもしれなかったし別にいいかなと思っていたんだが、ネムはすっかり学校を気に入ってしまい、催眠ゴーグルが無いまま学校に来ようとした。
催眠ゴーグルが無いと、こいつはただの不審者だ。間違って、警察のやっかいにならないようにネムを無理やり布団に括り付けて放置したんだが……。
こいつ、布団から足だけ出した状態でここまできやがったみたいだ。
「お前なぁ……ちゃんと説明しただろうが……」
「いまからでも、がっこういく!」
ネムはトコトコと走り出していった。ネムの奇妙な格好に、周囲の注目が集まる。
「いい加減にしろぉぉぉぉぉぉ!」
「ぷっ……」
秘凜乃が俺たちのやりとりを見て、必死に笑いを堪えている。なんだか、その様子に俺は安心した。
俺は、ネムを追いかけ布団ごと捕まえた。そして、背中に無理やり背負って、家まで走った。
「それじゃ、秘凜乃。俺こいつ家に連れて帰らなきゃ」
「そっか。それじゃ、またね。ネムちゃんもまたね」
「うぬ、りんりんまたねー!」
人が集まる前に、俺は急いで家に帰った。とにかく、ネムが来てから俺の始まったばかりの高校生活は、毎日慌ただしくなる。それが俺にとっての当たり前になっていた。
『世界に悪が~蔓延るならば~躊躇はいらない! 彼ら~の名前は~復讐戦隊! セイバイスルンジャー! その手に自分の正義をかざせ~慈悲などいらない~彼らの願いはただ一つ~悪を滅ぼすことだ! だ! だ! だ! だぁぁぁぁぁぁ!』
「うっ……うるせぇ……」
日曜の朝から、悪趣味な音楽で起こされる。時計を見ると、七時三十分だ。まさか、朝からブラックすぎる音楽を聞かされることになるなんて、思いもしなかった。
てか、仮にも戦隊ものでこんなにブラックで許されるのか? PTAに喧嘩を売っているとしか思えない。
俺は抗議の電話が、テレビ局に殺到している様を想像して身震いした。
それにしても、なんてうるさいんだ。テレビの音量間違えてるんじゃないのか?
俺はとりあえず洗面所に行き、顔を洗う。相変わらず、しつこい寝癖と目に隈がついている。隈は諦めるとして、寝癖だけは何とかならないのか?
ストレートパーマを当てる時が来るかもしれない……。そう思いながら、歯を磨いた。
リビングに行くと、相変わらず悪趣味な音楽は流れ続けていた。てか、ネムと父さんがノリノリで歌っている。
『仮面の中には大きな秘密~貴方の素顔は見たくない~変身するだけ無駄と知れ~』
「何やってんだよ……」
「おお、来栖も一緒に歌おうじゃないか」
「オウサマもうたおう」
「何勝手に悪趣味な替え歌歌ってんだよ……」
ネムが家に来てから早一ヶ月。警察に捜索願は出ておらず、気が付いたらずるずる俺の家で暮らしていた。もうすでに俺たちの家族の一員になっている。
けど、親にネムは鏡の中から来ました! なんて言えないしな……。それに嫌な気はしない。
「ヘシン! ヘシン! オウサマこれかっこいいね。ヘシン! ヘシン!」
「違う変身だ」
ネムは一生懸命カッコいいポーズをとっているつもりだが、全然かっこよくない。むしろ可愛い。
ぷるんぷるんと、揺れる胸に目がいってしまう。むしろずっと見ていたい。
詳しく解説すると、腕を上げる時に服が引っ張られ胸が強調されるんだ。そして、腕を回すたびに、その動きに合わせて胸が揺れるというわけだ。
横を見ると、父さんも同じように凝視をしていた。
「うん。ネムちゃん後一回やってみようか?」
「まったく、父さんと言う奴は。いいぞもっとやれ」
実に平和な日曜日だ。あれから、ネムはあの鏡に手を当て『ネムネムのせかい、あったかくなってる。すごくかんじる。オウサマのこころが、あったかくなってきたみたい』
と言っていた。やっぱりオウサマと言うのは秘凜乃の事だったのか? けど、ネムは『でもまだたりないみたい』と言っていた。
秘凜乃の抱えている問題が解決しただけじゃ無理なのか? それとも、王様とは人間全体の事を表しているのか? たしかこいつ自分たちの世界は心の世界がどうのこうの言っていたよな……。
全世界の、六十億人以上の人の心を救わないといけないのか? 途方もなさ過ぎて眩暈がした。
と、とにかく。今日は秘凜乃と一緒に出掛ける約束をしていたんだった。ネムにばれない様にないと。
駅の時計台前に十時集合だ。俺は胸のワクワクを抑えつつ、その時を待った。
ネムがテレビに夢中になっている間に、ささっと玄関を出る。何度か後ろに振り返ったけど、誰もいなかった。よし!
そのまま駅の時計台前に到着する。時刻を見ると、九時。一時間も早く付いてしまった。
ネムには悪いが、女の子と二人っきりで出かけるなんて今まで生きてきて一度もない。残念ながら、俺は女子にモテたことが無いんだ。
だが、今俺にチャンスがやってきている。ネムには悪いが、これは俺の人生がかかっているんだ。
頭の中で、どう話しかけたらいいんだと悶々と考えていると、後ろから誰かに声を掛けられた。
「条ヶ崎君!」
そこには、初めて見る普段着の秘凜乃がいた。薄紫のニット帽に、ベージュのロングジャケット。中には白いブラウスと、白い柄で水色のミニスカート。
かっ……。可愛い。いや、制服も十分いいけど……。やっぱり、女性の私服には魅力がある! 語りつくせない魅力がある!
思わず凝視してしまった。
「へ、変かな?」
「へ? あっごめん違うんだ、可愛いなって思って……」
「あ、ありがとう……条ヶ崎君」
二人とも真っ赤にしてしばらくもじもじしていた。なるほど、すごく甘酸っぱい。甘酸っぱいよぉぉぉぉぉぉ!
いかんいかん、興奮しすぎるな。心を落ち着けるんだ。平常心平常心。深呼吸して、スーハー。よし。
「ととと、とにかく。いこいこうかかか!」
あかーん! 全然あかーん! 駄目だこれ、何だこれ手汗べっちょべちょだよ。やべぇよ。
「うん!」
秘凜乃はにっこり笑って俺の手を取る。思わず体が痙攣してしまった。
「ちょちょちょっとまって! 俺の手、あせてべちょべちょ」
「? どうしたの? 条ヶ崎君」
「なんでもありませーん!」
俺は笑ってごまかした。心臓の音が、時計の針のように規則正しく聞こえる。そうか、これがリア充達が、まるで毎朝朝食を食べるようにこなしているという……。
手つなぎ! まるでデートしてる気分だ。秘凜乃に誘われて、デパートに洋服を買いに行くことになったんだが、これはもうデートでいいよな? どっからどう見てもデートだよな? 俺リア充だよな?
俺は鼻息を荒くしながら、ガチガチに固まった足を何とか前に進めていた。
横目で秘凜乃を見ると、ニコニコ笑っていた。秘凜乃は、またこの学校に戻ってきてからよく笑うようになったと思う。
最初はネムのオウサマを探すために、悩みを持ってそうな秘凜乃に話しかけたのが、きっかけだったんだよな。まるで昔の事のように感じる。
五月の日差しは、まだ風が冷たいものの十分温かった。五月病が流行るのも時間の問題か。
ひ、膝枕とか……してもらえないだろうか? いや、いやいやいや待て待て待て。いくらなんでもそんな贅沢無理だろ。
こうして女子と手を繋ぎながら話しているのだって、今までの自分を考えると奇跡だ。
小学生の頃は人見知りで、全然女子と話せなかったし。中学生の頃は逆に話しかけすぎて引かれた。
だが、高校生になった今は数段レベルアップした。も、もう女の子なんて怖くない!
決意と裏腹に、終始緊張しっぱなしで動きがスムーズにいかない。どうすればいいんだ。
こんな時、恋愛に強い奴がいれば。どこかにいないか恋愛に強い奴……恋愛に強い奴。
「条ヶ崎君。このワンピース試着してくるからそこで待っててね」
「お、おう! 任せとけ」
何を任せるっていうんだ、俺の馬鹿! 落ち着け落ち着け。まだ慌てるような時間じゃない。こんな時こそ、深呼吸ディープブレス、ディープブレス。
「すぅぅぅぅぅぅ……うぁげほ!」
過呼吸になりかけた。ちくしょう、マジで恋愛の経験者いないのかよ。頼む、どこかにいないのか!
「呼んだ?」
聞き覚えのある声に後ろを振り向く。そこには、今この状況で居合わせたくない奴がいた。
「康人……。なんのようだ?」
「条ヶ崎の背中から、助けてほしい! と言うオーラを感じたからさ」
「お前はとっととオーラの泉に帰れ」
思わず深いため息をついた。今まで吸ってきた空気を、全部吐き出した様な気分だ。
まさか、ここで超ナルシストで、話が長い女たらしの馬鹿幼馴染がやってくるとは。人生最大のショックだ。
「だってお前、今デート中だろ?」
「何の事かな?」
「いや、お前男一人で女性ものの服売ってる場所には行かないだろ」
「いや、妹が……」
「お前妹いないよな?」
これだから幼馴染は嫌なんだ。俺の家族事情を知ってる。俺は一人っ子だから、こういう女の子と一緒にいて、妹がとか姉がとか、言い訳が通じない。
こいつは、小さいころからそれを知っている。だからもう最悪だ。頼むから帰ってくれ。
俺は、江口とか色前に話を聞きたかったんだよ。あいつらは、別の高校に行っちまったけど。
あいつらの駅からこのデパート近いし、来るかもしれ無いという、僅かな期待は儚く消えてしまった。
「で、何の用?」
「相談に乗るぜ! なんせモテモテの俺にデートなんてものは、ランチと同じくらい当り前なのさ」
「なんか、お前が言うとぶん殴りたくなる……」
「そこはお前が言うと、説得力があるって言うところだろ!」
俺は小刻みにため息をつきつつ、秘凜乃が出てくるまでこいつの話に付き合うことにした。と言うか、出て行ってもらわなくては困る。
早くこいつの話を聞いて満足して帰ってもらおう。
「いいか? まずお洒落なイタリアンに誘うんだ。イタリアンが無ければ、俺がここの近くにあるお洒落なお店、いろいろ知ってるから教えてやるよ」
「高校生がイタリアンなんか行けるか! まぁ、でもレストランか。いいかもしれないな」
「後、動物園。無難だが、動物と触れある所がいい。動物とスキンシップを取りつつ、彼女ともスキンシップを取れ」
「動物園か。なるほど……それなら話も弾みそうだ」
あれ? あながちこいつの言ってること間違ってないかも。さすが、泣かせた女は星の数なだけはある。泣いたのは女だけじゃないけどな……。
こいつに俺が、密かに思いを寄せていた女の子と付き合ってるって聞いた時、ガチ泣きした事を思い出した。
あの日の夕日に誓ったんだよ。もうこいつと、こいつに関わる女には近づかないって。
「最後は遊園地だな。丁度夕暮れ時には、あの遊園地結構空いててさ。夜の八時までやってるんだけど、ギリギリの時間で観覧車に乗ると、夜景がすごいわけよ。我ながらいい作戦だった」
「お前のそう言うところうざいよな」
「そこは褒めるところでしょ!? 貶すところじゃないでしょ!?」
「結構助かったよ、ありがとな。いつか飯おごってやるから今は帰れ。とっとと帰れ馬鹿」
「ちょっちょっと押すなって!」
「あれ? 条ヶ崎君どうしたの?」
最悪のタイミング。秘凜乃が奴と鉢合わせた。
康人と秘凜乃が合うのは初めてじゃない。それどころか、こいつが秘凜乃のことを教えてくれたんだ。
だからってわけじゃないけど、俺は警戒している。
さっきも説明したが、俺はこいつに俺が気持ちを隠していたとはいえ、好きだった女の子を奪われている。まさかとは思うが、可能性はゼロじゃない。
もともとハーフっぽくて、薄い金髪だ。顔だちも整っていて、まさに美形。スポーツ万能で筋肉も結構ある。着やせするタイプとか言ってやがったな。
だからだ。俺は心配しているんだ。こいつに秘凜乃が惚れてしまうのではないかと。
あの日のトラウマが蘇る。バレンタインデーの時、大き目のチョコを持ってくれたあの子が、俺の横を素通りして康人に持って行ったこと。
あの時は、相当顔が引きつっていた。家に帰ってからもしばらく引きつりまくっていた。ドラマのワンシーンのような光景だ。
だから、康人と秘凜乃を合わせるわけにはいかない。俺は何度も肘で、行けと康人の背中を押すがそれを無視して奴は、秘凜乃の所に駆け寄って行った。
「あれ? 秘凜乃ちゃん? 見違えたね! すっごい可愛くなったじゃん」
「あ、ありがとうございます」
秘凜乃は照れた様子で、頭をぺこぺこと下げる。どうやら満更ではない様子。なおも康人は秘凜乃に話しかける。
「今日は、条ヶ崎とデート?」
「い、いえそういうわけでは……服選びを手伝ってもらってて」
「それじゃさ。今度暇なら俺とデートしない?」
言いやがった。俺が言えなくて、どうしても言えなくて、夜も眠れず悶えたあの言葉を。言いやがった。まるで息をするように自然に言いやがった。
こいつ殺す。後で殺す。絶対に殺す。アイツの嫌いな、飛ぶ昆虫と言う昆虫を、部屋にぶちまけてやるぜ。
「ごめんなさい……私条ヶ崎君と用事があるので」
秘凜乃は丁寧に断った。ガクッと膝が落ちる。ヤバイどうしよう、腰が抜けた。
横に合った、服がかかっている棒を支えによろよろと立ち上がる。康人は残念そうな顔をしていたが、またその顔も爽やかで憎たらしかった。
「そっか。それじゃ仕方ないね。暇だったらいつでも呼んでよ? それじゃ、俺待たせてる子がいるから」
「はぁ……」
秘凜乃は呆気にとられてる。こいつ何股してやがるんだ? もう考えたくない。一度、玉抜き取られりゃいいのに。
康人は、さらっと髪を靡かせて去って行った。一瞬焦ったが、いろいろ為になることもわかったし。よしとしようか。
康人の背中を見送った後、俺は秘凜乃のところに駆け寄った。
「あ、あの秘凜乃。そのワンピース可愛いよ。その、ヒラヒラよく似合ってる」
「本当に? そ、そうかな?」
秘凜乃は照れてもじもじしている。正直、女性の服にそれほど知識があるわけでも、関心があるわけでもない。けど、なんかいいよねこう言うの。
しばらく秘凜乃の買い物に付き合い、近くのカフェで休憩することになった。
「いろいろ買っちゃった。ごめんね? 付き合せちゃって」
「全然、平気平気。荷物持ちでも何でも気軽に言ってよ」
「ありがとう。条ヶ崎君には、いろいろと助けてもらってばっかりだね」
「そんなことない。それに、最後は秘凜乃自身の力で戦ったんじゃないか」
秘凜乃は照れたような顔で首を振った。その仕草が可愛くて胸が高鳴る。何か喋ろうと声をだそうとしたが、なかなか出ない。口の中がカラカラだ。
「な、何か飲もうか。秘凜乃は何にする?」
「私、カフェオレでお願いします」
「それじゃ、俺も同じもので」
飲み物が来ると、急いで喉を潤わせた。カフェオレの甘苦い味が、やけに舌に残る。
「そういえば、条ヶ崎君はどんな部活に入るのか決めた?」
部活か……そう言えば入らなきゃいけないんだったっけ。ネムの面倒を見るのが精いっぱいで、考えてすらいなかった。
「私ね。漫画研究部に入ろうと思うの」
「漫画研究部? ああ、あれか」
漫画研究部ってたしか、秘凜乃が誘われてたあの部活だよな。大丈夫なんだろうか?
「秘凜乃はそれでいいのか?」
「うん……ずっと漫画描いてみたいって思ってたんだ。絵を描くのは好きで、毎日書いていたんだけど、言える友達もいなかったし。けど……」
「けど?」
「条ヶ崎君に出会って、変わろうって思ったんだ。だから、もう自分を隠さないことにしたの」
秘凜乃は、笑顔で俺の方を向く。思わず唾をゴクリと飲んでしまった。
「そうなんだ。俺、秘凜乃の事応援するよ!」
「本当? 嬉しい」
そう言って秘凜乃は微笑む。部活か……。いい加減どこに入るか決めないとな。俺は秘凜乃と同じ部活には入れないだろう。俺は絵が壊滅的に下手だ。
従弟の子供に、猫の絵を描いてあげたら泣かれてしまった。きっとトラウマになってしまっただろう。あれはやっちゃいけない事をしたな……。
正直、暴走するネムを抑えるのに忙しくて部活なんて出来そうにない……。けど、この高校は必ず部活に入らないといけないしな。
「う~ん。どんな部活がいいかまだわからないや」
「そうなんだ。そろそろ決めなくちゃいけないよね? 条ヶ崎君に合った部活を見つけられたらいいけど」
俺に合った部活か。あるのかな、そんな部活。
「そういえば、秘凜乃は誰かと買い物したことあるの?」
「ううん。実は、誰かとこんな風にお買い物したのは初めて」
「そうか。ずっと、お父さんに……。あ、ごめんいきなりこんな……」
俺は気まずくなって黙ってしまった。しばらく沈黙が流れる。
「いいの。確かにあんなことが合って、私には今まで普通の女の子と同じようなことは出来なかった。でも、みんなが私の事助けてくれたから。条ヶ崎君や、お母さんや、おじいさん、おばあさん。優しい人達に支えられたから」
「そっか……」
いろいろあったんだろうな。きっとこれからも、いろいろあるだろう。でも今度は、秘凜乃自身の力で乗り越えて行ける。そんな気がした。
「だから、本当にありがとう。条ヶ崎くん」
そう言って秘凜乃は頬をほんのり赤く染めながら、カフェオレをストローで吸う。唇が、とても可愛らしい。桜色の、少しラメの入った唇が可愛らし過ぎる。
凝視している自分に気づき、慌てて目線を逸らす。こういう時、なんて話したらいいんだ? わからない。あの時の事を話すわけにもいかないし……。
目のやり場に困りながら、辺りをキョロキョロしていると一人の女性に目が留まった。
ツーサイドアップの赤い髪。凛とした顔に小柄な体、青い瞳。その女性はぼーっとガラスを眺めていた。その女性に俺はデジャブを感じた。
きっと他人の空似だ。そう思って目を逸らそうとした瞬間、ガラスに鏡のように映っていた赤いツーサイドアップの髪の女性が、真っ黒に変わった。
心臓が一瞬、止まったような。全身に悪寒が襲いかかってきたような感覚に襲われた。
黒い影だ。瞬きしても依然、その影は残り続けている。嘘だろ、まさか秘凜乃と同じような黒い影がなぜ……。
「条ヶ崎君?」
秘凜乃に呼ばれ、はっと我に返る。気が付いたら手を強く握りしめていた。
ゆっくり開く。指が痛い。手には汗をかいていた。
「何かあったの?」
「い、いや何でもない……」
「そう?」
何とか秘凜乃を誤魔化し、先ほどの女性の方を横目で見る。まだ見える。やっぱり黒い影だ。
黒い影はまるで鏡のように、女性の正面のガラスに同じような姿で映っている。
光の加減で黒く見えているかもしれない。そう思ったけど、やっぱり違う。かなりくっきり、黒いペンキで塗りつぶしたように、はっきりと見えるからだ。
どうすればいい? 秘凜乃の時のように、現実に出て行こうとすれば今度は俺たちだけじゃない。このカフェにいる人たちにも危害が加わるかもしれない。
しかし、秘凜乃をほっといてあの女性に声をかけるなんて、俺には無理だ。一体どうすればいいんだ。
「条ヶ崎君。この近くに私の家があるんだけど、もしよかったら……聞いてる?」
「へ?」
「聞いてない……」
秘凜乃は涙目になって俯いた。俺は慌てて、弁解する。
「ち、違うんだ! あの言いにくいんだけど……またあの黒い影が見えたんだ」
「え……」
「秘凜乃や俺じゃない。秘凜乃の後ろの席に座っている子、あの子の反対側のガラスに、あの子の代わりに黒い影が映ってる」
秘凜乃は、恐る恐る後ろを向く。そして首を傾げ、俺の方に向きなおした。
「何も見えないよ?」
どうやら秘凜乃には見えないらしい。どういう事なんだ? なぜ俺にしか見えない。
「お、俺の勘違いだったのかも……」
そう言って誤魔化した。けど本当に、俺の勘違いなのか? しばらく観察することにした。秘凜乃と他愛無い話をしながら、ちらっとその女性を見る。黒い影に変化は起きていない。
赤いツーサイドアップの女性に、男のウェイターがメニューを持ってやってきた。なにやらもごもご言っているが、多分注文を聞いているんだろう。
だが、赤いツーサイドアップの女性は不満そうだ。何が不満なのかはわからない。すると次の瞬間、その女性は大声で怒鳴った。
「どうして私よりあの二人を先に優先したのかしら!? 意味が分からないわ!」
「お、お客様落ち着いてください……他のお客様の迷惑になりますので……」
「信じられないわ。私を優先するのが当然でしょ! なんであんな奴らより後なのよ!」
そう言って指を指したのは、俺の方だった。びっくりして飛び上がりそうになる。
慌てて顔を伏せた。何ごとかと、後ろに振り向こうとした秘凜乃に話しかけこっちに向かせる。
「ひ、秘凜乃!」
「条ヶ崎君、向こうが騒がしいみたいなんだけど……」
「た、大したことじゃないよ。それより、そろそろ昼時だよね? 何か腹ごしらえする? 俺が奢るよ」
「そう? それじゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
そんなやりとりをしている中、あの赤い髪の女がこっちに向かってきた。そして俺たちの前に来て立ち止まる。
「な、何か用ですか?」
恐る恐る聞いてみた。その女は俺たちと同い年くらいの容姿をしている。そして高そうなブランド物のワンピースを着ていた。どっかのお嬢様か?
「ふーん」
そう言うと俺と、秘凜乃の事をじろじろ見だした。一体なんなんだ?
「随分と貧層じゃない。こんな庶民が集まる所じゃ、ゆっくりできないわ」
お前が勝手にこの店に来たんだろと、ツッコミそうになる自分を必死に抑えた。不遜な態度で腕を組み、見下すように俺たちを見ている。
いやーな奴に目を付けられた。けど、これは好都合だ。まさか向こうから接触してくるなんて思わなかったけど、黒い影をこの場所から引き離せるチャンスだ。
「貧層かどうかわからないですけど、それ以上話すなら他の人にも迷惑ですから、外で話しましょう」
「いい度胸ね……」
客の視線が俺たちに集まる。早く、こいつを外に誘導しないと。
「条ヶ崎君……」
秘凜乃が心配そうに俺の方を見る。俺は大丈夫だからと秘凜乃を落ち着かせ、赤い髪の女と一緒に外に出た。
「ふん。庶民のくせに私に喧嘩を売ろうなんて百年早いわよ」
「あー……。なんていうかその言いにくいことなんだが……」
「何よ? 早く言いなさいよ」
俺が口ごもって、モゴモゴとしているとだんだんイライラしてきたのか、爪をカチカチと噛み始めた。
また何か言われる前に、さっさと本題に移らないと。
「あのさ。何か悩み抱えてない?」
「は?」
ですよねー。何言ってるんだこいつみたいな目でこっちを見てきた。しかし、俺にははっきりと見えた。そして、今も見えている。お前の黒い影が。
説明してもわかってもらえないだろうけど、あの影が現実から出る前に何とかしないと。
「なんていうかその。ほら、誰だって大きな悩みの一つや二つ抱えてるでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
「そう言うものは、溜めないですっきり吐き出しちゃったほうがいいのさ。今溜まってない? 悩み。出しちゃおうよ、すっきり。そんでハッピーになろうよ!」
ドン引きされた。自分でも言ってるうちに、なんだかセールスの勧誘をやってる気分になってきた。
「つ、つまりその……なんて言うか。君の悩みが溜まりに溜まって、真っ黒な影になって襲ってくるというか……俺はそれを止めたいというか……」
「いや……普通影は黒いでしょ」
まさか冷静にツッコまれるとは。けど、それしか説明のしようがないんだよな。だんだん、赤い髪の女性から、不審者を見るような目で見られてきた。な、なんとかしないと。
俺が必死に考えていると、突然背中に嫌な気配を感じた。
「どーーーーーーん!」
どっかで聞いたような声、そして衝撃。俺は二回目のデジャブを感じながら、正面に吹っ飛ばされた。
目の前いたのは、赤い髪の女性。だ、駄目だ避けきれない!
「うわぁぁぁぁぁ!」
「ちょ、こっちこないで! きゃぁぁぁぁぁぁ!」
勢いよくぶつかった。そのまま俺は、ツーサイドアップの赤い紙の女性に覆いかぶさる形で地面に倒れた。ほんのりいい香りがする。
俺は何事かと起き上がり振り返ると、そこにはネムがいた。やっぱりお前の仕業かよ。
「お前……」
俺はネムに文句を言おうと地面に手を付き、立ち上がろうとした。しかし、地面だと思っていたものは思った以上に柔らかく、ふわふわでそれでいてもっちりしていて、この世のものとは思えないほど気持ちよかった。
瞬間、脳裏に浮かぶ四文字。避けようがない惨劇を予想し硬直する。いや、待て。
どうせぶん殴られるんだったら今のうち揉めるだけ揉んで置けばいい……。そんな考えが刹那よぎる。
駄目だ! そこまで落ちぶれるな俺! 俺が目指す人間は、例えるなら紳士! 英国の紳士のような人間だ。そんな甘い誘惑に乗せられてはいけない。
「いつまで触ってんのよこの変態!」
二度目の衝撃、今度は顔面に来た。グーのパンチが俺の頬を的確に打つ。
「ぐは……いいストレートだ」
「くぅ……こんな庶民にこんな……」
赤い髪の女は顔を真っ赤にして怒り狂っている。どうしよう、こういう場合、痴漢になってしまうのか……お先真っ暗な人生を想像し、平謝りした。
「ごめんなさい、ごめんなさい! こいつのせいなんです!」
俺はネムを指さした。ネムは、膨れっ面で俺の事を睨んでいた。
「オウサマどういうことなの? ネムをさしおいてうわきってどういうこと?」
「ちょっと待て。いつから俺はお前と付き合っていることになった?」
「嘘……」
その声の方向を向くと、そこにはなぜか秘凜乃がいた。秘凜乃は泣きそうな顔で手で口を押えている。
「あ、いや。これは……」
「条ヶ崎君ってネムちゃんとも付き合ってたんですね……」
「いや、付き合ってないよ? あれ? ちょっとまって。ネムちゃんともって何? どういう事?」
「ごめんなさいっ!」
そう言って秘凜乃は走り去っていった。呆気にとられ、俺は呆然とその場に立ち尽くした。
駄目だ。一度にいろんなことが起き過ぎると、人間何も考えられなくなる。
こういう場合、秘凜乃を追いかけるのが先決だろうか。俺はとっさに秘凜乃を追いかけようと走り出した。
しかし、後方から魔の手が忍び寄る。それはもちろんネムとあの女。俺と秘凜乃の恋路を邪魔しようというのか? いや分かっている。そう言う場合じゃないってことくらい。
「どこに行く気なの? ドスケベ庶民」
「ドスケベとはまた古風な言葉を」
「どういう意味よ……」
ツーサイドアップの赤い髪の女性は、眉間にぴくぴくしわを寄せ、今にも爆発しそうに髪の毛を逆立てている。
いわゆる、怒髪天という奴だ。俺はドラゴン○ールでしかこの髪型を見たことが無い。他には、ちょっと羽目を外したヤンキーが、どうやって固めたか知らないほどにカッチカチに、リーゼントを固めているときくらいだろう。
今ではそんな奴らもごく少数になってしまったけど。
「オウサマ! にがさないよ! りこんちょうてい!」
こいつは離婚調停の意味が分かっているのか? と疑問に思ったが、それよりも何よりも気になることがある。
ネムはまた、あの奇怪な服を着ていた。
少し大きめの青いベレー帽に、ヒラヒラのおとぎの国の妖精の様な水色のドレス。極めつけは、手に着けた猫の手と足のコスプレ。
プラス、背中にはひもで括り付けた人間の大人ほどの大きさの鏡を、ランドセルの用に背負っている。またあの鏡を持ち出したのか。
しかし、不思議なのは俺でも持ち運ぶのに苦労する鏡を、なぜネムはランドセル感覚で持ち運べるんだ? という事だ。前にも言ったけど、こいつの体は華奢で、筋肉ムキムキではない。
高校生の女の子と全く同じくらいの体格だ。胸の方は、数年先を言っているが。
俺のあの不思議な力、あの真っ黒に染まった鏡に引き込まれたときに、ネムの帽子を被り変身した時の様なヘンテコな服によく似ている。
なにか関係があるのだろうか? しかし俺にそれを考えてる暇はなかった。
「う……うぅ」
突然ツーサイドアップの赤い髪の女は泣きだしたのだ。これはやばい! めちゃくちゃやばい! 女の子を泣かせるなんて、はっきり言って最低だ。
男の風上にも置けない奴だ。俺は、そう言う奴が大っ嫌いだ。だから俺はそっと、ハンカチを差し出す。
「大丈夫?」
その言葉に、嘘偽りはない。さっき絡まれてきて、確かにとても迷惑した。しかし、今俺が彼女にセクハラまがいの事をしたあげく、その場から逃走しようとした事実は変わらない。
と言うか、セクハラじゃない。不慮の事故だ。自分で言って自分で訂正することになるなんて、何とも言えない屈辱感を感じずにはいられないけど、あえてもう一度言う。あれは事故だ!
けど、俺が彼女を傷つけてしまったのもまた事実。この場はとりあえず、泣きやんでもらってそこから示談について話し合おうと思う。だから、断じてセクハラじゃないんだってば!
「ま……」
俺のハンカチを受け取った、ツーサイドアップの赤い髪の女性は何やらぶつぶつとつぶやきだした。
小さくて聞き取れず、思わず耳を近づける。
「迷子になったの……」
聞き間違いではない。確かに彼女はそう言った……ように聞こえる。迷子? 迷子だと?
彼女はパッと見、俺たちと同じ高校生くらいの姿だ。胸の発達はアレだが、高校生くらいの女性の外見と、雰囲気を感じる。
だが、今目の前で泣きそうになっている女の子は確かにこう言った。迷子になったと。
「そ、そうか……」
「オウサマ、まいごってなに?」
「お前は無駄な知識は知ってるくせに、そんなこともわからないのか? いいか、迷子とは、自分の所在が分からなくなり、目的地に到達することが困難な状況に陥った子供、もしくはその状態を指す。 百貨店や行楽地、その他雑踏においては、本人の目的に関わりなく、引率者から子供の所在を確認できなくなった時点で迷子とみなさ (wikiより抜粋)」
「そこまで細かく説明しなくていいから!」
ツーサイドアップの赤い髪の女性は、顔を真っ赤にしながら叫んだ。このままじゃどうすることも出来ない。交番に連れて行こうにも、一番近い交番まで三十分以上かかる。
そんな悠長なことはしていられない。なんとしてもすぐに、こいつを親の元へ帰すんだ。
俺は早く秘凜乃を追いかけたいんだ!
だがどうすればいい? 何かヒントは無いのか。と言うか、ぱっと迷子の子を探してくれる便利な道具があればいいんだけど。
「あ」
俺は、ネムの背負っている鏡に目を付けた。これしかない。しかし、あれ以来鏡に手を入れることは出来なくなっていた。大丈夫なのか?
恐る恐る鏡に手を近づけ、そっと右手で鏡を触った。
「何してるの?」
赤い髪の女性は、不思議そうにその光景を眺めている。自分でも馬鹿なことをしているという自覚はあるけれど、方法はこれしかない。
指先が鏡に触れる、冷たい感触だ。次の瞬間、生ぬるい感覚とともに指が鏡の中にめり込んだ。
「うっ!」
思わず声が出てしまう。しかし、最初の頃より気持ち悪くない。ドロドロの粘土のような感触から、水に溶けたゼリーのような感触になっていた。
どんどん俺の右手は、鏡の中へ入って行く。それほど抵抗は無い。むしろ、今までより手が入りやすくなった感覚だ。
よし、これならいける。目を瞑り、思い描く。迷子を親の元へ帰す道具。
頭の中で思い描き、形にするそして思いっきり引っ張り出す。勢いよく、鏡から俺の右手とそれに握られた、機械の様な物が出てきた。
「なにそれ……一体何したの? 手品?」
「そんな感じだ。これで迷子のお前を武士親の元へ帰そう。名づけてド○ゴンレーダー! じゃなくて、ドラゴンフライレーダーだ」
それは、俺の掌にちょこんと乗った機械でできているトンボの模型だった。
「その髪ちょっと使わせてもらう」
俺は、赤い紙の一部を取るとそのトンボに食べさせた。
「痛っ! 何すんのよ」
「見てろ」
そう言って俺は手を放した。すると、トンボは宙を飛び赤く点滅しながらゆっくり移動を開始した。
「何なのよあれ……」
「オウサマのちからだよ? オウサマはなんでもできるの」
「は?」
「じょ、冗談はさておき早くいこうか」
そのトンボの案内のまま、しばらく歩いていると高級住宅街に入っていた。
まさか、本当にこいつはお嬢様なのか? だがなぜ、お嬢様だとすれば迷子なんかになっていたんだろう?
歩いている間ずっと考えていた。ネムとツーサイドアップの赤い髪の女は何かを話している。
「貴方の洋服はいったいなんなの? これがいわゆるコスプレという奴かしら……」
「こすぷれじゃなくて、せいふくだよ! ネムネムのせかいのせいふく!」
「制服? 貴方の世界は随分変わっているのね」
「ネムネムにとっては、ここのひとみんなかわってるよ?」
「貴方ねぇ……一般常識に欠けてるんじゃないの?」
ネムの不思議な言動に、赤い髪の女は困っている。当然だろう、こいつの常識とこっちの常識は違うのだから。俺だって、あんなことが無ければこいつの言っている事なんて信じなかった。
「えっと、君の名前は?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「どうしてって……迷子に付き合ってるんだから、それくらい答えてもらってもいいじゃないか。それに、このままじゃあんたの事を何て読んだらいいかわからない」
ツーサイドアップの赤い髪の女は、不遜な態度を取りつつも素直に教えてくれた。こいつ、意外と根はまじめなのか?
「明野 冥利よ。迷子になんてならなかったら、あんたたち庶民なんて一生拝めない存在なんだから」
「はいはい、それはどうも。それよりそろそろつくぞ」
あれから三十分立っていた。途中もたついたところもあったけど、無事ついてよかった。さすが、俺のドラゴンフライレーダー。
そこは、かなり大きなお屋敷だった。日本の情緒あふれると言った所か。
「お前、堅気の人間だよな?」
「は?」
「いや……なんでもない」
俺はそれ以上追及しなかった。なんか怖かったからだ。ヤで始まって、ザで終わるあっち系の人なのかな? なんて思ったからだ。
「そ、それじゃあ俺たちはこれで……。いくぞ、ネム!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……」
「え?」
冥利は顔を真っ赤にしながら、伏し目がちにこっちを見ている。まさか、まさかそんな。嘘でしょ? 御呼ばれしていいんですか? いや、嫌じゃないですよ? 嫌じゃ……。
けど、ほら……こんな庶民が、上がっていい家ではないと思うんですよね。うん。本当は、お邪魔したいんですけどねー……。
心の中ではそんなことを思っていたが、怖すぎて口に出せない。パクパクと、酸素を求める金魚の様に、口だけが動いている。
「お、お茶していきなさいよ……そして、あんたたちの名前も教えないさい。借りは残しておきたくないの」
「べべべべ、別に借りなんてあるわけないよ。いえ、ありません。お役にたてて光栄です」
「あんたさっきと態度違くない?」
「!? そんなわけないだろ? やだなぁ……ははは」
別に、家がそっち系ぽいからビビっているわけじゃない。俺が冥利に話しかけようとした瞬間、見えたのだ。小山田組と。
「早く来なさいよ」
冥利がインターホンを押と、ぞろぞろと黒い服を付けたあっち系の人たちが集まってきた。
もう、死にたい。
「お帰りなせぇ! お嬢様!」
屋敷の応接間に通され、黒い服を付けた人たちに囲まれる。気分はべ美に睨まれた蛙だ。
ネムをのんきに、辺りをキョロキョロ見ている。
「冥利。そいつらは誰だ?」
顔に大きな傷跡を付けた、いかにもな人がやってきた。もう親分にしか見えない。生きた心地がしない。
「私の友達よ」
冥利は坦々と答える。俺も、ガチガチに固まった笑顔で頷く。震えで歯がカチカチとなっていた。
「た、たまたま偶然そこで会いましてね? いやぁ、奇遇だなって。ははは……」
「そうか。ゆっくりしていってくれ。くれぐれも……冥利に手を出すんじゃねぇぞ?」
そう言って、親分さんは去って行った。
凄まれた。思いっきり、凄まれた。あまりの怖さに、ちびりそうになってしまった。いや、何パーセントかはもう既にちびっているのかもしれない。
それよりも何よりも、この状況をどう打開すればいいのかわからない。そのまま、コンクリートで足を固められて、海に沈められそうな勢いだ。
「その、あんたたちの名前を教えてよ……一応、友達ってことになってるんだから、名前くらい知っておかないと変でしょ?」
冥利は若干、顔を赤らめながらそう言った。きっと、これは恋愛フラグにつながる大事なイベントだろう。多分。
しかし、俺にとって今そんな事よりも自分の命が大切だ! ネムの命が大切だ! それに、俺には秘凜乃がいる……。
いや、待て向こうはそう思ってないかも……。って、そんなことを議論している場合じゃない。何とかここを抜けださないと。
「あー……こ、こいつの名前はネムって言うんだ。そして俺は条ヶ崎 来栖っていいます」
「来栖とネムね、覚えたわ。これからは私の子分という事でいいわね?」
「全く、今の言葉の意味が分からないのですが?」
「そのままの意味よ。あんたたちは今から、私の子分よ。全身全霊で私に尽くしなさい」
なんでそうなるんだー! と思いつつも大きく反論できない。もう子分でもなんでもいい、早くこの場所から出たい。
「わかった……子分になるよ」
「フフフ……じゃぁさっそく私の肩をも揉みなさい!」
言われるがまま、俺は冥利の肩を揉む。ネムは、あちこちに飾ってある、高そうな絵を珍しそうに眺めていた。
「えっと……ネム? だっけ。貴方はは何か、一発芸をしなさい」
「いっぱつげい? ネムさかだちできるよ!」
「やめろ! その格好で逆立ちしたら、丸見えだろうが!」
なんとか、ネムを思いとどめる。冥利は残念そうな顔で、不満そうに顔を膨らませる。
「何よ、つまんない」
「なぁ、お前もしかして友達いない?」
「ギクッ」
今、ギクッって聞こえたぞ? 一瞬だけどちゃんと聞こえたぞ? まさか、図星だったのか? お前は、お前には友達がいないのか!?
冥利は顔を真っ赤にして、プルプルと震えている。ず、図星だぁぁぁぁぁぁ! やっちまった。
こういう、自尊心の高い奴の図星を付くと、高確率で逆切れしてしまうんだ。なんて迂闊な。
「あ、なーんて。冗談冗談……」
俺のフォローになってないフォローで挽回できず、冥利は押し黙ってしまう。
「べ、別に落ち込まなくたっていいじゃない。一匹狼カッコいいよ? それに、ほら俺たちが友達になるし」
「ネムもともだち? やった! ともだちすてき!」
二人で何とか冥利を励ます、ようやく機嫌を取り戻したのか、高笑いを始めた。いや、逆に壊れちゃったかもしれない。
「そうよ。友達が何よ、彼氏が何よ。私にはこの子分達がいるんだから!」
「そ、そうだそうだ!」
「こぶんこぶん!」
しばらく、冥利の演説を聞き、気が付けばもう日が暮れ始めていた。
「もうこんな時間ね。その……今日はありがとう」
冥利の目に少し、光るものが見えた。きっとそれは涙だったのかッもしれない。一瞬だけだったけど、それは俺の目に強く焼きついた。
「へ?」
「な、何でもないわよバカ! 早く子分達はさっさと家に帰って英気を養うが良いわ!」
冥利が、ドアを開けるとすかさず二人のヤバイ感じのお兄さんたちが入ってきた。
「彼らを家まで送って差し上げなさい」
『うっす』
「いやいやいやいや! 大丈夫! マジで! 気持ちはすんごい有難いんだけど、マジ超感謝なんだけど! 一人で大丈夫だからな!」
「かっけー!」
「お前はどこに反応してるんだ!」
何とか冥利を言いくるめて、その場をしのぐ。家についたころには、辺りは暗くなっていた。今日はなんて日なんだ……。
学校に着くと、ネムはさっそく姫川先生の所に行ってしまった。なぜネムがまた、学校に来ているのかと言うと、俺の右手がまた鏡の中に入れられるようになったからだ。
鏡から催眠ゴーグルを取り出すと、ネムはそれをすぐさま装着し、叫んだ。
「さいみんごーーーぐる! せかんどえでぃしょん!」
「セカンドエディションってなんだよ……」
ともかく、ニコニコしながらネムは、登校中ずっとスキップで学校に来たというわけだ。もちろん制服も、鏡の中から取り出した。
「そういえば、今日で部活決めなきゃならないんだった……」
どうしようか? 秘凜乃は漫画研究部に行くって言っていたけど、俺もそれにしようかな?
けど、今日はなぜか秘凜乃に避けられている気がする。いや、わかってるんだ……。
昨日あんなことがあったから。全部誤解なんだけどな……。
昼休み、秘凜乃を探していると、ネムを小脇に抱えた姫川先生と出会った。
「あら、奇遇ね!」
ネムは白目をむいて項垂れている。いったい何をしたんですか……。
「実はね、私新しい部活の顧問になったのよ」
「新しい部活?」
「そうよ~! その名もお悩み相談部!」
「へー。部員は何名ほど集まったんですか?」
「ネムちゃん一人」
ん? 聞き間違えかな? もう一度聞いてみよう。
「聞き間違えじゃないわよ、本当にネムちゃん一人なの~」
「どういう事ですか! ていうか、さらっと心読むな! それ部活として成り立ってませんよね?」
「いいのよ、私がネムちゃんを可愛がるための隠れ蓑なんだから」
「教師がそんなこと言っていいのか……」
まあそれはさておき、これは都合がいい。なぜなら、俺には一人気になる人物がいるからだ。明野 冥利。黒い影を抱えた二人目の女の子。
この部活を利用して、なんとか解決できるかもしれない。
俺は入部届を急いで持ってくると、それに自分の名前をと入りたい部活を書き込み、姫川先生の前に提出した。
「入部します」
姫川先生とネムと別れ、俺は仕方ないので一人寂しく屋上で食べることにした。すると、そこにどこかで見たような背中が見えた。
秘凜乃だ。何やら膝に風呂敷を抱えている。
「秘凜乃!」
「じ、条ヶ崎君!?」
秘凜乃は顔を真っ赤にして、伏せる。俺の頭の中には、とりあえず昨日のことを謝ることしか考えていなかった。
「あの……昨日はごめん。あれは誤解なんだ。ネムはなんていうか、ふざけてあんなこと言ってて……」
「ううん。私もごめんなさい、気が動転しちゃって。あ、あの条ヶ崎君」
そう言って、綺麗なピンクの風呂敷に包まれたお弁当を差し出してきた。これってまさか……。
「お、お弁当。よかったら食べて?」
「よろこんで!」
即答した。今まで生きてきた中で、こんなに幸せな日は合っただろうか? 女の子からの手作り弁当! なんていい響きなんだ!
感動のまま、俺はご飯を頬張る。うまい! 白いご飯が三割増しでうまく感じる!
「そんなに慌てちゃ、喉に詰まっちゃうよ?」
そう言って、秘凜乃は可愛らしいピンクの水筒に入ったお茶を差し出してくれた。おお、恵みの水。
そして、このコップにはもしかしたら、秘凜乃が口を付けたことがあるのかも……。
つまり、間接キスだ。
女の子との間接キス。それは重大にして重要なイベント。これは、緊張で手が震える。
「どうしたの? 条ヶ崎君?」
秘凜乃が上目づかいで、誘うように水筒を出す……様に見える。俺の緊張はピークに達した。
震える指で水筒を掴み、その乾いた喉に流し込む。慌てて飲んだせいで、鼻に水が入った。思わず吹き出す。
「ちょっと大丈夫!?」
秘凜乃は慌てて俺の顔をハンカチで拭いてくれた。今日の事を俺は、絶対に忘れない。
幸せだ。見てるか、過去の俺? お前の涙は俺が拭ってやったぜ。そして未来の俺、バレンタインは期待していいですよね?
幸せに包まれた昼休みは、すぐに終わりが来てしまった。無情に響くチャイム。二人の団欒の時間を裂くように何度も鳴り響く。
「あの、条ヶ崎君。よければその……これからも時々お弁当持ってきてもいいかな?」
「も、もっちろん! 秘凜乃の作ったハンバーグとか、ポテトサラダとか、ゴボウとか! めっちゃうまかったよ!」
「ほ、本当? そ、それじゃ、また作ってくるね」
秘凜乃は顔を赤らめながら、小走りに走って行った。そして噛み締める、勝者の余韻を。俺はついに、女の子から手作り弁当を……。
今まで生きてきて、いろいろと辛いこともあったけど、全て今日の為に合ったと言っても過言じゃない。秘凜乃の弁当の味を、心に刻み込みながら、教室へと戻った。
放課後、さっそくお悩み相談部に向かった。と言うか、いつも通りカウンセリング室に向かうだけなんだ。いつもと変わらないので、部活にする意味が分からない、思わずそう思った。
そこにいたのは姫川先生と、さっき会った時と変わらず小脇に抱えられているネムと、ちょこんと座っている秘凜乃がいた。
どうして秘凜乃がここにいるんだ? だって、ここは漫画研究部では無くカウンセリング室のはず。
秘凜乃は漫画研究部に向かったんじゃないのか?
「あっ、条ヶ崎君」
秘凜乃は俺を見つけると、笑顔で手を振ってきた。俺も合わせて手を振る。
「どうしてここに? また何かあったのか?」
「ううん、私も入ることにしたの。お悩み相談部に」
「本当に? 秘凜乃は、漫画研究部に入るんじゃなかったのか?」
「漫画研究部は、火曜日と水曜日と金曜日にしか活動しないの。だから、それ以外はお悩み相談部のお手伝いをすることしたんだ」
「掛け持ちすることにしたのか」
「うん。先生に話したら、ちゃんと両立できるならいいんだって。だから、これからよろしくお願いします!」
そう言って、ぺこりと頭を下げた。なんていうか、すごく嬉しい。
やっぱり、同じ部活の方がいろいろ話もしやすそうだし、これから中もより深まるだろう。俺は心の中で、静かにガッツポーズをした。
「秘凜乃ちゃん、条ヶ崎君がお悩み相談部に入ったって言ったら私も入りたいですって……」
「わぁぁぁぁぁぁ! なんでもないです、なんでもないですぅ!」
「青春ねぇ~」
姫川先生が、ニヤニヤしながらこっちを見てくる。俺はそれを苦笑いで返しながら、自分がいつも座っている椅子に座った。
ネムは相変わらず、白目をむいてぐったりとしている。普段はもっと活発な奴なのに、いったい何があったんだ。いや、知りたくない……。
俺は用事があると言って、みんなより先に帰った。冥利の事だ。黒い影が見えたアイツの事が気になる。何かあってからでは遅いんだ。
昨日冥利と出会った駅に行くと、時計台前に見覚えのある奴がいた。そいつは、俺たちと同い年くらいの外見で、ツーサイドアップの赤い髪の女性だった。
間違いない、明乃 冥利だ。
冥利は、うなだれた様子でベンチに座っている。まさかとは思うけど、確認の為に声をかけて見る事にする。
「おい……何やってんだ?」
「な、なんで子分がここにいるのよ!」
「誰が子分だ。まさかお前、また迷子になってるのか?」
「!?」
図星、と言った顔だ。はぁとため息をつき、同じベンチに座る。またあの家に行くのは気が引けるけど、このまま放っておくのも可愛そうだ。
よく見ると、冥利の靴はとても高そうなものなのに、ボロボロだった。まるで長い間歩いていたような。いったいこいつはいつまで迷子になっていたんだ?
時刻を見ると、もう五時になろうとしていた。俺は腹をくくり、冥利に手を差し出す。
「家まで送っていくよ」
「その必要はないわ」
なぜか冥利は泣きそうな顔でそう言った。迷子じゃなかったのかコイツ?
「お前一人で家に帰れるのかよ?」
「当たり前でしょ? 昨日、あんたたちに連れてきてもらったんだから……」
「じゃあなんで?」
冥利はうつむき、震えている。いったいなんだ? 何か問題でもあるのか?
恐る恐る顔を覗き込もうとすると、冥利は慌てて顔を横にそむけた。
「足が……痛くて動けないのよ」
冥利は顔を真っ赤にしながら言った。俺は頭を抱えた。コイツをおぶって行ってもいいけど、無理だろうな。
妙にプライド高そうだしな……。
どうしたものかと頭を抱えていると、どこからともなく姫川先生がやってきた。
「あれ、条ヶ崎君? その子は?」
「えーっとこいつは……」
「わ、私はこいつじゃない! 明野 冥利よ! 子分のくせに生意気よ!」
「へー……三角関係?」
「先生、今の返答でどうしてそう言うことになるんですか? 意味が分かりません……」
そこに、何やら用紙をいっぱい抱えた秘凜乃がやってきた。
「先生、アンケート取り終わりま……」
最悪の鉢合わせだ。今の俺の状況は、うっかり浮気相手とデートしたら第三者に見つかって、その第三者の友達が俺の彼女でヤバイ。に、はたから見たら、見えるかもしれない。
だがそれは誤解だ。
辺りに嫌な空気が流れる。姫川先生は俺の方を見ながらニヤニヤしていた。
こういう場合、教師は率先して止めるべきなのに、何ワクワクしているんだよ。
くそ……。姫川先生は役に立たないと悟ったところで、何と言って挽回するか考える。
しかし、どんな答えを考えても言い訳にしか聞こえない。
そして、考えに考え抜いた最大答えが、
「こ、この女性がお、お悩み相談したいらしいです」
だった。はっきり言って、これ以上なにも思いつかねぇよ! こんちくしょー!
とりあえず冥利を連れて学校まで戻り、お悩み相談部の部室になった、カウンセリング室に案内した。
そして気まずい空気のまま、お悩み相談が開始された。
「別に悩みなんてないわよ? 強いて言うなら、庶民が我が物顔で私の前に座っている事が悩みかしら?」
「た、たしか冥利さんでしたっけ? しょ、初対面でその態度はあまりよろしくないでありんす!?」
秘凜乃は興奮しすぎて、言動がおかしくなってしまった。ここで何とかするのが、男である俺の役目なのだが、俺はその場で固まったままで動けない。まったくもって情けない有様である。
しかし、実は俺のポケットには秘凜乃の時に使ったものと、同じカメラが入っていた。念のためにあらかじめ、鏡の中から取り出していのがここで役に立つとは。
俺はそっと、冥利をそのカメラで写した。確認するとそこに映っていたのは、冥利じゃなかった。
まるで、そこには初めから冥利は居なくて、代わりにその黒い物体が最初から存在していたかのように、カメラの中に映る黒い物体は禍々しい存在感を醸し出していた。
その黒い物体は、冥利の形を映すかのようにそっくりな形をしている。いや、違う!
よく見ると、僅かだが真っ黒な影の隙間から、冥利の姿が見える。つまり、黒い影にこいつ自身が覆われているんだ。いったいどういうことなんだ?
秘凜乃の時と違うのはそれだけじゃない。その影は、どんどん大きくなっていっている。このままでは、何か良くないことが起きる。なぜかそんな気がした。
「いいこと? 庶民がこの冥利様に口を聞いていい時は、私がいいと言った時よ。それ以外はしゃべっちゃダメなのよ」
「な、何を言っているのかさっぱりわからない……」
完全に、秘凜乃が気圧されている。それを見かねた姫川先生が、秘凜乃に助け舟を出した。
「冥利ちゃん。ここの町に来るのは初めて?」
「別に初めてじゃないわ。そこの子分に案内してもらったのよ」
そう言って俺を指さす冥利。秘凜乃の冷たい視線が痛い、すごく痛い。
「どうだった? この町は楽しかったかしら?」
「そ、そうね。何もない街だけど……子分に会えたし。まあまあ、かしら?」
「そう。それはよかったわ」
姫川先生は微笑みながらそう言った。ピリピリとした空気が少し、柔らかくなった気がする。さすが先生だ。最後はきっちり、場をまとめてくれる。
「それで、条ヶ崎君とはどういう関係なのよ~」
見直した俺が馬鹿だった。何を言っているんだこの先生は……。
「た、ただの子分よ……」
冥利は、顔を真っ赤にしながら俺の方を見た。そして、また目を逸らす。その仕草に、またこの場が凍りついた。
「っ!?」
「じょ、条ヶ崎君!? どういう事なのかな? かな?」
秘凜乃の顔が、阿修羅も真っ青になるほどに怖い。怖すぎて見るに見れない。冥利の奴、どういうつもりだ……まるで俺たちが付き合ってるみたいな仕草しやがって……。
「まあ、積もる話もあるでしょうからここは三人で……」
「いくなっ! 今先生がいったら俺は死ぬ! 死んでしまう!」
「大丈夫よ。条ヶ崎君」
そう言って秘凜乃はそっと、箸をカバンから取り出した。ピンクの柄が可愛らしい箸だ。その箸を、次の瞬間テーブルに突き立てた。
ドンッと言う鈍い音がする。そして笑顔でこちらを見た。
「丁度三人でお話したいと思っていたの」
目が……目が笑ってないよぉぉぉぉぉぉ! 絶叫して今にも走り去りたい気分だ。
結局その後、拷問の様な尋問に命からがら家に帰ってこれたのは、数時間後の事だった。
家に帰ると、ネムはリビングにはいなかった。二階に上がると、俺の部屋に誰かいる気配がする。そっと隙間から見てみると、ネムが鏡に手を当てていた。
鏡は、明かりのない部屋で何度か点滅し、そしてまた暗闇に戻った。いったい何をしているんだ?
確かめようとドアに顔を近づけると、一瞬ネムが透けたように見えた。が、次の瞬間元に戻っている。
俺の見間違いだろうか? さっきのはいったい……。
「!? きさまっ! みているな!」
ネムは突然振り返りそう言った。俺はびっくりして尻もちをつく。
「い、いったい俺の部屋で何してるんだよ」
「なんだ、オウサマか。しんぱいいらないのね、ただのえいようほきゅうだよ」
そう言って、顔の横にピースサインを作りながら、にこやかにほほ笑みかける。
相変わらずの様子で安心した。ネムが自分の部屋に戻った後、部屋の電気をつけると、なんだか目がチカチカした。
翌日の放課後、部活を休んだ俺はあの駅に向かっていた。それは、あいつを見つけるためだ。
明野 冥利。出来ればあまり関わりたくはないが、黒い影が見えた以上、放っておくわけにもいかない。
けど、今日来た理由はそれだけじゃない。昨日、冥利を取ったあのカメラに映っていた黒い影。それが、今にも飛び出しそうなほどにに大きくなっていたのだ。
立体的に、カメラの液晶画面を押し上げているあの黒い物体。俺の予感が正しければ、かなり危険だ。
この現象は秘凜乃の時にも見えた。実は秘凜乃が学校に来なくなる前にも、同じ現象が起こっていた。
だから今回はあらかじめ、先手を打っておくことにしたのだ。今日はネムも来ているし、あの鏡も持ってきた。
あの鏡はさすがに、ネムにばっかり持たせるのは酷なので、今日は俺がネムの代わりに鏡を背負っている。
はっきり言ってかなり重い。しかも、いろんな奴にじろじろ見られる。そりゃ、高校生が大人の身長ほどもある鏡を、紐で括り付け背負っているんだ。結構目立つ。
自分から見てくださいって、言っているような気分だ。すごく恥ずかしい。
だが、そんなことは言っていられない。秘凜乃の時は本当に大変だった。今回も同様に、大変なことになるだろう。
しかし、前回よりはまだマシだ。先読みできたのだから。
駅の前の時計台の前で冥利を探すが、なかなか見つからない。くそ、今日は迷子じゃないのか?
だんだん焦ってくる。額に汗がにじんできた。
そう言えば、あいつに会ったのは数回だけだ。冥利の事なんて、実はあまりよく知らない。だからこそ、なぜあいつが昨日も一昨日も、迷子だったのかわからない。
当然、今日も迷子かどうかなんて、本当はわからない。迷子になると言ったって、毎回同じ場所とは限らないし。
詰まる所、今回この場所に来たのは、ただのカンだ。
「おい、ネム。お前冥利を探せないのか? 匂いとかで」
「ネムネムはいぬっころじゃないのね! オウサマはきょう、かがみもってきてるのなら、べんりなどうぐだしてみたら?」
そうだ。なんで気が付かなかったのだろう。俺は今、どんなものでも生み出せる、魔法の鏡を背中に背負っているんだった。
さっそく、その場に鏡を下ろして念じてみる。とりあえず、心の中に浮かんだものを握りしめ、鏡の中から取り出した。
「名付けて、ガッチリスコープ……」
俺は小さくつぶやいた。何となく思いついた名称だ。
手の中には、小さな望遠鏡の様な物が握られていた。そっとその望遠鏡を覗いてみる。
真っ暗で見えない。自分で生み出しといて言うのもなんだが、これどうやって使うんだ?
なんだかとっても、自分が惨めに感じてしまった。こんなにおいしい能力を、自由に使いこなせない
自分の低能加減が何とも憎らしい。
それでもあきらめず、注意深く見ていくと徐々に姿が分かってきた。
白黒だが、何か見える。これは冥利? また泣きそうな顔でどこかを徘徊している。俺の読み通り、冥利は迷子になっていた。しかし、いったいそこはどこなんだ?
この交差点には見覚えがある……たしか、ここから遠くないはずだ。
「行くぞネム!」
「あいあいさー!」
さっそくネムを引き連れ、先ほど見えた交差点に向かって急いだ。
走ると、足が地面に着くたびに振動でひもが肩に食い込んで痛い。周りの目線も気になる。ああ、俺は何て馬鹿なことをしているんだろう。そう思わずにはいられなかった。
息を切らしながら交差点に着くと、そこにはすでに冥利はいなかった。
「くそっ! どこいった?」
またガッチリスコープを取り出し、覗いてみる。何やらうずくまっている。まさか気分でも悪いのだろうか?
心配になり、気持ちが焦ってきた。冥利がいる場所は、暗くてよくわからない。いったいどこなんだ?
「オウサマこっち!」
ネムが、鼻をヒクヒクさせて俺を引っ張る。自分で犬じゃないとか言っておいて、犬みたいな仕草をしているこいつに、何か言ってやりたいが今はそれどころじゃない。
俺は、ネムの案内で近くの住宅街の路地でうずくまっている冥利を見つけた。
「オウサマここ!」
「おい、大丈夫か!?」
俺の声に反応し、こちらを見る。その顔は酷くやつれていた。いったいこいつに何があったのか、俺にはわからない。わからないからこそ、余計心配になる。
「何しに来たのよ……」
「お前を探しに来た」
「庶民のくせに……」
「ああ、庶民だ。けど、お前の子分でもある。子分は親分がいないと、心配なんだよ」
「ネムネムももっと、おやびんとあそびたい!」
うずくまったままの冥利をいったん近くの公園のベンチに座らせた。とにかく、何があったのか事情を聞かないと。
「一体何があったんだ?」
その言葉に、冥利は何も答えなかった。このままでは埒があかないので、鏡を使うことにする。こんな強引なことはあまりしたくなかったんだけど、また秘凜乃のようなことが起こってからでは遅い。
この前の経験から言って、早めに問題を解決した方がいい。秘凜乃の様に重いものは、さすがにそう何回も耐えられるものじゃない。
だから、まだ抱えているものが爆発しないうちに。早く手を打たなければ。
俺は、冥利の前に鏡を立たせた。冥利は自分の映った鏡を見て、困った表情で俺を見る。
「い、一体何のつもりよ」
「お前が話してくれないのなら、直接お前の心に聞いてみるまでだ」
「はぁ? ちょっと言っている意味が分からないんだけど」
「すぐに分かる」
鏡に映っている冥利に変化は無い。おかしい……黒い影が見えない。しばらくすると突然、ポケットの中に入れていた、あのカメラが発熱した。
どういうことだ!? 現実の世界で発熱するなんて、聞いてないぞ!
「ま、まずい!」
俺は、真っ赤に変色したカメラを急いで鏡の中に投げ入れた。それを見た冥利は驚愕の表情で俺のを見る。
「な、何今の!? どういう手品よ!」
「今話してる場合じゃ……」
次の瞬間、鏡に映っていた冥利が笑った。現実の冥利は笑っていない、現実の冥利は驚いた表情をしている。
だったら、鏡に映ってるこいつは誰だ?
鏡に映ったもう一人の冥利は、そっと手を伸ばした。それは現実の世界と鏡の境界線を越え、黒い影の手として襲い掛かる。
「オウサマ危ない!」
ネムが慌てて叫ぶ、しかし一歩遅かった。黒い影の腕に、足と腕を掴まれる。冥利も同じように、左腕を掴まれた。
「な、なんなのよっ! これ!」
「ネム! 冥利を助けろ!」
俺の叫びに頷き、ネムが冥利の右手を掴もうと、手を伸ばす。しかし、無情にもその手が届くことは無かった。冥利は、鏡に映るもう一人の自分に、そのまま引きずりこまれていった。
「ネム! お前の帽子……」
言い終わる前に、俺もそのまま鏡に引き込まれていく。けど引き込まれる瞬間、ネムが俺の左手を掴んだ。一瞬だけだが、感じた。左手に何かを。
気が付くと、そこは秘凜乃の時とは打って変わってとてつもなく明るかった。いや、明るいだけじゃない。光があちこち点滅している。
ここはいったいどこなんだ? てっきり、また落ちていくと思っていたけど、今回は違った。辺りに出口の鏡は見えない。
光に目が慣れると、俺がいる場所はコンサートホールの観客席だという事が分かった。
ただ現実と違うところは、天井いっぱいに無数のスポットライトが、光を降り注いでいるという事と、観客席に座っているのは人ではなく鏡だという事だ。無数の鏡。気色悪すぎる。
こんなに鏡あると、どれが出口かなんてわからない。
コンサートホールの舞台には、人が一人立っていた。それは紛れもない、明乃 冥利。とても綺麗な純白のドレスを身に纏っている。
「冥利!」
反応は無い。いや、聞こえていないだけかもしれない。俺がいる観客席の位置と、舞台と結構離れていたからだ。
俺はもう一度、名前を呼ぼうした。けど何かに遮られた。謎の大声が中央から響く。
違う、中央じゃない。このコンサートホール全体からだ! そう、それは観客からの歓声だった。
しかし、観客なんてどこにもいない。どういうことだ? これが冥利の心の中だっていうのか?
ゆっくり立ち上がると、スポットライトが全て、部台の上を照らす。そこには文字が書かれていた。
『自己愛』
その黄色い文字は、あの時見たそれと同じに気持ち悪く、グニグニと不気味に動いていた。
「レディース&ジェントルメーン! いよいよ私が来たわよ。この明野 冥利が、世界の中心が、世界の美貌が、全ての頂点が! 今貴方たちの目の前に!」
部台の上の冥利は、見たことが無いほどに歪んだ笑顔で声高らかにそう叫んだ。
観客席に置かれた鏡に、冥利が映っている。だが、その冥利は舞台に立っている冥利じゃない。全て、観客の様に座り、舞台に立つ冥利を称賛の目で見ている。なんて異様な空間なんだ。
「みんな、あたしを認めない。認めようとしない! 嫉妬でしょ? 私が美しいから。嫉妬でしょ? 全て。私には御見通しなんだから」
冥利は、まるで役者のように舞台で声を張り上げている。その声に合わせて歓声が止み、また歓声が上がる。
ここは、冥利による。冥利の為の世界。全てが、冥利一色だった。かなり、気持ちが悪い。
「ワタシを見てくれるのは、私だけ。パパもママも。私に普通になりなさいって言うけど……そんなこと無理。だって私は最初からスベシャルだから」
パパってあの強面の人の事か!? とツッコミそうになったが、自分を奮い立たせて、気持ちを切り替え、冥利の話に耳を傾ける。
「迷子じゃない。マイゴナンカジャナイ。みんな、私をイジメル。私が特別だカら。だってそうでしょ? じゃなきゃ、わたしはわたしはわたしは……私を認めて」
妙に芝居がかった声で、冥利叫ぶ。まるで、冥利の一人芝居を見ているかのような気分だ。
しかし、その芝居には真実が紛れ込んでいる、冥利が抱えている闇が。
どうすればいい、どうすればいいんだ。今回はただ戦うだけじゃ、駄目な気がする。冥利を説得するしかない。
俺は、握りしめた左手をそっと開いた。そこにはネムのベレー帽が握られていた。そっとかぶり、目を瞑る。
「ネム、頼んだぜ」
「おっけー!」
俺の体が、ネムの声と同時に光り輝く。そしてまばゆい光が晴れると、俺はあの格好になっていた。
頭には安物の王冠がへばりつき、手と足には蛙のコスプレの様な手袋とブーツ。服はまるで、おとぎ話に出る様な王様の様だ。
まるで、カエルの王子様。さて、殴って改心してくれるのなら簡単だが、人間の心はそう簡単にはいかない。ましてや、出口の鏡が見つからない。
ネムの声が、頭の王冠から無線のように聞こえる。
「オウサマ、おやびんはきっとほんとうのじぶん、わからなくなってるの。だからさがしてあげて、ほんとうのじぶん。ほんとうのでぐち」
「なるほど。それならお安い御用だぜ」
とは言ったものの。どうすればいいんだ? この鏡を一個一個壊していけばいいのか? とりあえず、目の前の鏡を割ろうと、右手に力を込め殴ってみた。
ゴンっと言う鈍い音が鳴る。しかし、鏡に変化は無い。代わりに手がものすごく痛くなった。あまりにも固すぎる。
「どうしたものかな……」
殴って解決とはいかない様だ。もっと冥利の話を聞かなければ。冥利は、観客席に向かって叫ぶように演説していた。それに合わせて、歓声の声も高まっていた。
「私を認めないバカが多すぎるのよ。毎回毎回、財布を隠され盗まれて、歩いて家に帰らなくちゃいけなくなっても、私は動じない。なぜなら私はスペシャルだから」
そう言った冥利の顔は、どこか寂しそうだった。こいつが迷子だったのは、毎日歩いて家に帰っていたから。毎回ずっと、家まで一人で歩いていたのか?
ただでさえ、お嬢様みたいなやつなのに。家までの道を手探りで探して、いつもいつも靴がボロボロになるまで歩いて。
なんだよそれ、いい加減道覚えろよ……。なんで親に相談しないんだよ。なんで、誰にも何にも言わなかったんだよ。
辛い気持ちを抱えながら毎日、相手を威圧して。無駄に高いプライドで、自分を守っていないと自分が保てなかったのか。
俺は、冥利になんと言ってやればいいんだ。たしかに、生意気でいきなり子分とか、意味不明なことを言ってきて少々高飛車ぽいところはあるけど、そんなに悪い奴じゃない。
なんとか、こいつを囲んでいる壁を壊さないと。俺に今できることは、冥利と向き合う事だ。
そして本当の冥利を、自分を取り戻させる。
冥利の方に向かって歩いて行った。一歩一歩、赤い絨毯に覆われた道を歩いていく。
目の前まで来ると、冥利は俺に気づいた。冥利の演説は止まり、辺りが静かになる。
「なあ、冥利。ここから出ようぜ」
冥利は無表情でこっちを見る。何かとても異様な気がした。
「他人を否定して、自分に酔ってるだけじゃ何も変わらない。お前に必要なのは、自分の殻に閉じこもる事じゃなく、相手と向き合う事だ」
冥利は依然無言を貫いている。辺りもしんと静まり返ったままだ。
「俺はお前に会ってまだ、数日しかたってないし……その、冥利のお父さん怖そうな人だし……てか、実際やばい人だろうけども、そんなにお前が悪い奴だと思えなかった」
無表情だった冥利は、俯いて項垂れている。俺の話がこいつに少しでも届いてるのなら、何とかできるかもしれない。
「ここから出ようぜ? ちゃんと向き合えば、案外楽しいもんだ」
そう言って、俺は冥利に手を差し出した。ぴくっと冥利の体が動く。そして、ゆっくり手を伸ばした。
そして、俺の手を掴んだ。
「冥利……」
ぎゅっと、冥利は俺の手を強く握る。そして、冥利は俺の顔を見て言った。
「馬鹿じゃねェの?」
次の瞬間、目の前が暗転する。俺は冥利に、背負い投げの様に投げられたのだ。片手一本で、女の子に。
そのまま部台の上に叩き付けられる。衝撃が内臓に響いた。何が起こったのかわからない。
「バカバカバカバカバカバーーーーーーーーーカ! 馬鹿じゃねェの? 私以外の人間なんて、一人として必要ないんだよバーーーーカ!」
まるで、悪魔のような微笑みで俺の見る。その眼は俺を確実に見下していた。
「ククククク、アハハハハハハハハハハハハハ! 本当に馬鹿だよね? 悲劇のヒロインを演じたをしんじちゃってさ。私は財布を取られて、イエマデアルイテカエルハメニナッテルケドサァァァ……それは私が望んだこと」
「それに、もうシカエシは十分済んだしね」
悪魔のような笑みでこっちを見る冥利。どういう意味なんだ……?
「潰した。虫けらみたいに潰して、潰して、潰して、潰して、潰して、また潰して……あーあ楽しかったなぁ……あいつら……私の事、悪魔みたいな目で見てた」
光悦な表情でそう語る冥利。俺は……とんでもない奴の心の中に入ったのかもしれない。
こいつは、黒い影におびえてなんかいない。秘凜乃のように、悩んでなんかいなかった。
冥利自身が黒い影だ。なんで……なんでそれに気づかなかったんだ? 俺は……本当に馬鹿だ。
「ネ、ネム! 早くここから……ここから出してくれ!」
「そ、そんなこといても、でぐちがなきゃでられないの、オウサマもしってるでしょ!」
とっさに観客席の方を見る。無数の鏡。一つ一つ、確かめるしかないのか……。
スポットライトが、俺の方に向く。強烈な光で辺りが見えない。
「私の家、どういう家かわかるでしょ? うふふ、私がちょっと声を掛ければどんな目に合わせられるか、想像できるでしょ?」
「い、意味が分からない……俺はお前の言っている言葉の意味がわからない……」
冥利は、この世のものとは思えないほど邪悪な笑みで、俺の見る。体中に悪寒が走り抜けた。こいつ、本当にあの馬鹿そうな冥利なのか?
「自殺するまで追い込んでやったの。そいつらの死に顔を見てきた帰り、だったてわけ」
「冗談だよな……?」
「あーあ……あんたらが来たからまた悲劇のヒロイン演じなきゃいけなくなっちゃった。めんどくさい。やっぱ、子分なんて必要なかったわー」
興味のなさそうな顔で、俺の頭を踏みつける。鋭い痛みが俺に襲いかかる。あまりの豹変に、俺の思考は停止していた。
「だからさ……死んでよ」
次の瞬間、鏡が割れた。観客席全てにおかれた鏡が全部割れ、そしてそこから冥利が……いや違う。
冥利の形をした、化け物だ。無数の、黒い人型の人形だ。一体一体、冥利の姿によく似ているが、その顔は狂気に歪んでいる。
「うっ……」
思わず、嗚咽を漏らした。辺りに狂気が、狂気が溢れてる。いや、全部この冥利の心の自体が、コンサートホールをかたどった狂気だ。
こいつは、まともじゃない。
俺は、冥利の足を払いのけ四つん這いで走る。恐怖、それだけしかなかった。無数の人形は、それぞれ鉈を持っていた。血で錆てボロボロの鉈だ。
「お、お前は正気じゃない……なんで……死んでなんて平気な顔で言えるんだよ!」
俺は叫んだ。ありったけの声で叫んだ。狂気に満ち溢れた空間に、俺の声がこだまする。
「だって……」
冥利は、さも当たり前のような表情で、当たり前のように言った。
「私以外、この世界に必要ないでしょ?」
こいつは、生まれついての悪人だ。それも、人を騙すことの出来るとびっきり最悪の、
悪人だ。
「ほら。あんた、いい人そうな顔してたから利用できると思ったんだけど。キモイお節介がさ、もう我慢出来ないし。余計なこと知られちゃったしさ、それじゃ死んでね?」
無数の人形が俺に襲いかかる。俺は頭がパニックになり、そのまま舞台から転げ落ちた。
「オウサマしっかり! あいてのこころにまけちゃだめ!」
ネムの声が俺を励ます。しかし、何かを頭の中で考える余裕はみじんも残ってはいなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
走った。狭いコンサートホールの中を、後ろからは狂気を持った不気味な殺人人形。でも、すぐに壁に突き当たる。
「く、くるな! うわぁぁぁぁぁぁ! くるなぁぁぁぁぁぁ!」
「オウサマしっかりして! ここはこころのなかなんだよ? オウサマはつよくなれるんだよ? まけちゃだめだよ! オウサマ!」
ネムの声が俺の頭の中で木霊する。そうだよな……冷静になれ俺。冷静になるんだよ、こんなところで死んでたまるか。家族に、みんなに、秘凜乃にまた会うために。
俺は、俺は死にたくない!
体が、真っ赤に発熱する。思い描いた強い姿を、あの姿を俺は必死に心の中に思った。無数の殺人人形が目の前までやってくる。
そして無数の殺人人形が、俺に無情に、血だらけで錆びついた鉈を振り下ろした。その人形の顔は、この世のものとは思えないほど歪に歪んでいて、ただひたすら不気味に笑っていた。




