第一章 それは鏡からくる
第一章 それは鏡から来る
「うっ」
目覚めは最悪だ。嫌な夢を見た。昔の夢。遠い遠い昔の夢だ。
目覚ましが、再び俺を眠りに誘うまいと、けたたましく鳴り響く、俺はそれにはいはいっと返事しながら、乱暴に目覚ましを叩く。
高校一年生。春の高校デビューにいきなり遅刻はしたくないからな。今日はお前の言う事を聞いてやるよ、目覚ましちゃん。
乱暴に布団から出ると、寝ぼけ眼で洗面台に向かう。
「ふぁぁぁぁぁぁ」
気の抜けたあくびだ。でもすごく心地がいい。鏡に映ってる自分はすごく間抜けそうな顔をしている。髪の毛を切り忘れて、若干ロングっぽくなってる髪の毛には、あちこちに寝癖。目には隈。
特に夜更かしをしたわけでもないのに。
さっさと歯を磨き、顔を洗い、急いで着替える。一階には、朝食をせっせと作る母さんと、のんきに新聞を読んでる父さん。
「おはよー」
「おそいわよー早く席に着きなさい」
「これでも早起きした方だつーの」
いいつものやりとりをしながらテーブルに着く。すると、朝食のハムエッグとパンが出てきた。すごくいい匂いだ。
「まったく、いくらなんでもエロ本の読み過ぎは体に悪いぞ」
「何の話だよ」
あっけにとられた表情をする父さん。いや、何その反応。
「てか、読んでねぇし!」
「あれ? おかしいな? こっそり鞄に仕込んでおいたのに」
なるほど。あれはてめぇの仕業か。昨日、荷物の整理をしていたら入れたはずのない薄い本が入っていた。危うく衝撃の高校デビューになる所だったよ。
「あとで話があるぜ……父さんよ」
「ふっ……望むところだ」
「はいはい馬鹿二人共。さっさと、ご飯食べちゃってよね!」
時間を見ると、そろそろやばい。俺は急いでおかずを腹に入れると、パンを咥えて走り出した。
「ふぁ! いってふぃふぁーす」
「いってらっしゃーい!」
「高校デビュー頑張れよー!」
我ながら、いい両親を持ったと思う。自慢じゃないが、内の家族は毎日笑いが絶えない。そして俺は、いつも気持ちよく朝にありつける。普通だが、その普通の幸せが俺にとって大切だ。
そして今日は、高校生のの中で最も大事な高校デビューの日。さて、さらっと彼女でも作って青春を謳歌しようじゃないか。
パンを加えながら、十字路の角に差し掛かろうとした。すると、
どん! と言う強い衝撃を感じ、思いっきり隣の壁に激突する。突然の事に、叫び声すらあげられなかった。というか、パン咥えたままだし。
まさか、パンを咥えながら登校すると起こるという、奇跡のボーイミーツガール!?
しかし、タイミングが少し違う……。思いっきりぶつけた右肩をさすりながら隣を見る。そこには、女の子がいた。いや、人らしきものだ。
少し大きめの青いベレー帽に、ヒラヒラのおとぎの国の妖精の様な水色のドレス。極めつけは、手に着けた猫の手と足のコスプレ。
ゆっくりと顔を上げたそれは、くりっとした大きな黄色い瞳でこっちをじっと見る。ベレー帽から、黄色いカールのかかったセミロングの髪が見える。
俺と同い年? いや、幼い顔から中学一、二年生にも見える。だが、発育の方は俺の同年代の数段先だ。思わず生唾を飲む。
お互いじっと目を合わせたまま数十分固まっていたのち、ついに我慢できず俺は話してしまった。
「あの、大丈夫?」
明らかにぶつけられたのは俺なんだけどな。それより、こっちを見ながら、ボーっとしているこいつの事が、少し心配になってきた。
「おい? 聞いてるか? お前どっから飛び出てきたんだ」
そいつの後ろを見ると、粗大ゴミ置き場がある。そして、一際大きい大人の身長並みにデカい鏡がそこにはあった。
その鏡から真っ直ぐ、目の前のこいつまで一直線に物が散乱している。まるで、あのでっかい鏡から飛び出してきたんじゃないか、と思うほどに不自然だ。
俺は制服をパンパンとはたき、得体のしれないそいつに手を差し伸べた。
「ほら」
黙ってそいつは俺の手を取る。猫肉球を思わせるその手袋は、異様に柔らかく暖かかった。
「……?」
そいつは何か俺に喋りかけたが、よく聞き取れなかった。しかも、イントネーションが日本語じゃない。もしかしてこいつ、外国人の方か?
見た目もハーフを思わせるように、とても可愛い。上の上と言っても過言じゃない。だが、俺は英語なんてアイアムイーティング! 意外分からないぞ。
「……!」
そいつは急に、目を輝かせてぴょんぴょん飛び跳ねだした。いきなりの事に俺はびっくりして後ずさった。
なんだこいつ? いろいろ謎すぎる。こいつの存在自体が謎だ。
「あ、ハロー? ユーアーネーム?」
ためしにちょっと英語使ってみた。しかし、本当にこれで合っているのかわからない。誤解しちゃったらどうしようと、内心ビクビクだ。
「やっと……みっつけた!」
そいつは俺の手を両手で握ると、日本語でそう言った。はっきりとそう言った。
ていうか、日本語喋れるんかい! もっと早くしゃべれよ、いらぬ恥をかいちゃったよ! 俺は耳まで顔を真っ赤にさせながら手を振りほどく。
「一体なんなんだよお前! どこ中だ?」
とっさの事に、ヤンキーみたいな口調になってしまったが、そいつはビビることなく話し続けた。
「この、せかいことば。すこし、ベンキョした! いまオウサマみつけた」
何を言ってるのかさっぱりわからん。この世界? 勉強? オウサマ? なんだ、一体。
「オウサマ、つれにきた! ごーばっくとぅーほーむ!」
「おい、英語混ざってるぞ!」
そいつは俺の右手を掴み、ぐいぐいとあの、でかい鏡のところまで引っ張っていく。女の子の力とは思えないほど強引な力だ。
「ちょ、ちょっと待て! 事情を説明……」
言い終わる前に思いっきり鏡に突っ込まされた。案の定、激しい音とともに俺の体は鏡にたたきつけられる。すごく痛い。
「痛い! なにすんだよ……え?」
異変にすぐ気付いた。俺の右腕が肘まで無くなっていたんだ。俺は一瞬パニックになったが、すぐに右腕の感覚を感じ、俺の右腕ごとこの鏡に突き刺さったんだとわかった。
「なんだよこれ……」
俺の右腕は、鏡を貫通することなく鏡に入ってる。中はまるで、水に溶かしたドロドロの泥のような感覚だ。すごく気持ちが悪い。
「おい! お前、これ、なんなんだよ!」
俺は大声でそいつに叫ぶ。だが、そいつは顔色一つ変えずに首をかしげていた。
「あへ? オウサマちょっとしか、むり?」
「いやちょっとしかって……意味わかんないんですけど!」
俺は体中から冷や汗を流しながら、ジタバタしていた。なにこれ俺どうなっちゃうの? 一生鏡に右腕突き刺さったまんま?
そんなことが頭の中を駆け巡っていた。若干涙目になっている。
「むぅ~」
そいつはむくれた表情でそういうと、俺の右腕を引っ張った。案外すんなりと鏡から、俺の腕は抜けた。まるで狐に化かされた気分だ。
「お、お前いったい何したんだ? リアル魔法使い?」
期待半分、不安半分。恐る恐る聞いてみる。しかしそいつは、俺の言葉の意味が分からなかったらしい。しきりに首をかしげている。
「と、とにかくお前いったい何者なんだよ。名前は?」
俺は冷静に呼吸を整えて聞いた。俺の言葉の意味を理解したのか、笑顔で俺に向かって元気よく言った。
「サシミネムネム!」
「なんだそりゃ」
もっと、ファンタジーな名前を期待していたんだがな。ファンタジーと言えば、ファンタジーかもしれんが、俺の期待とは別のベクトルのファンタジーだ。
とにかく、自信を持ってそう言ったんだから間違いないんだろ。こいつの名前は、サシミネムネムだ。
……。めんどいからネムにしよう。
「あーところでネムは、どっからきたの? どういう目的で?」
「うぬうぬ!」
そう言いながら、ネムは鏡を指さす。まさかこいつ……鏡の国から来たって言うのか? とことん可笑しな野郎だ。しかし、さっきの手品のタネが知りたかった俺は、さらに質問する。
「君、芸能人? 今ロケ中なの? 日本語あまりわからないってことは日本人じゃないの?」
「ネムネム、オウサマつれにきた。オウサマのこころ、さむい! おうさまのこころせかいになる。ネムネムのせかいずっとさむい」
ネムはそう言って、少し寂しそうな表情をした。少し電波は言ってるが、何か悩んでるのは間違いなさそうだ。俺は人の目を見ると、感情が少しだけわかるスキルがある。まあ、これと言って得したことは無いが。
「とにかく、王様? を探してるんだな? 一緒に探してやるよ。でも今ちょっと登校中だから、放課後でいいか?」
「オウサマみつけた! だからオウサマつれてかえる!」
ネムはそう言うと、再びおれの腕を掴む。いやいやちょっと待ってくれ。何してるんだこの子。
俺は、自分に向かって指を指した。ネムはキラキラした目で、こっちを見ている。
「王様ってもしかして……俺?」
「うぬ!」
ビンゴだ。どうやらこの電波っ子は、俺をどうしてもあの鏡に突っ込みたいらしい。だが、さっきの手品は右腕までしか通らなかった。そして痛かった。
「拒否する!」
勢いよく走りだす。脇目もふらずひたすら。人間、何年も生きてりゃ変な奴の一人や二人、絡まれることはよくある。
だが、今回はちょっとやばめだ。なんか雰囲気が、ファンタジー感が、お花畑感が半端じゃない。
やばいやばい。なんで、よりにもよって高校デビューの日に!
俺が高校についた時には、もうすでに自己紹介が始まっていた。
「すいませっ!」
教室のドアを勢いよく開け、必死の形相で自分の席を探す。周りの人たちは固まっていた。
あれ? 俺の席がない……。俺は目の前に座っている子に聞いた。
「ここって一年C組?」
「いえ、一年B組ですけど……」
間違えたぁぁぁぁぁぁ!
「すいませっ! すいませっ!」
勢いよく飛び出し、ドアを閉める。そして今度はゆっくり、隣の教室のドアを開けた。
「すいません……」
高校デビュー初日は遅刻から始まった。先生にこっぴどく叱られ、クラスメイトからはヒソヒソ噂されてる。俺は大きなため息をついて机に突っ伏した。
「最悪だ」
俺が遅刻したのは……あいつが原因だ。謎の女、サシミネムネム。電波だ。カッコいい高校デビューにするつもりが、こんなダサイ結果に終わった。
しばらくは、彼女なんて出来そうにない。
放課後。落ち込んで大きなため息を吐いていると、誰かに背中を叩かれた。
「よっ。また会ったな」
俺はゆっくり顔を上げた。そこには、よく知っている奴がいた。長身、細見ですらっとした美形の男。サラサラの髪は綺麗に七三分けになっている。俺は思わず苦笑いでそいつの顔を見た。
「おいおい、親友にそんな顔するなよ。条ヶ崎 来栖君」
上崎 康人。超絶美形、スポーツ万能、勉強もそこそこいける。神はこいつに、いくら与えれば気が済むんだと叫びたくなる。
「何の様だよ。お前のような奴を、親友に盛った覚えはないけど?」
「なっ! 結構傷ついた!」
そしてこいつは、超絶ナルシストだ。中学時代から、いやこいつが幼馴染に生まれてきてしまったころから。呪いだ、いつもいつも、こいつの自画自賛を聞かされてる。
しかも浮気性で、いつもいつも生傷が絶えない。
「まぁ、モテる俺に嫉妬する気持ちはわからんでもないけどな」
髪をなびかせながら、康人はキメ顔でこちらを見る。なんだこいつ、今度は俺を落とそうってか? あいにく、そういう趣味があったとしても、てめぇだけには関わりたくねぇ。
「ていうか、お前なんでこっちいるんだよ」
俺はふと疑問に思ったことを口にした。そもそも、俺がなんでこのクラスにいるってわかったんだ。
「え……俺、お前の前の席じゃん! とことん俺に足しして無関心なんだなお前……」
「まるで気づかなかった」
「おい! まぁいいさ。実はね、もうすでに女子からラブレターを五通ほどもらっているんだ」
そう言って、康人は俺の机の上にラブレターを置く。俺はそれを無表情で払った。
「俺の机に置くな」
「ちょ、ちょっと! なんかお前、今日機嫌悪くないか?」
俺はまた、大きなため息を吐く。こいつに説明してもわかってくれないだろう。それどころか、俺の話を聞き流して、無理やり自分の話に持っていきそうだ。
「そういえば、校内の女子と話してる時変な人を見かけたな」
「変な人?」
「うん。どっかの漫画のコスプレかな? とにかくド派手な恰好をした女の子が校内をうろついていたんだよ」
俺はふーん、と相槌を打ちながらも少し不安になった。あいつなんじゃないか、と。
「俺が、声を掛けようと近づくと何やら片言の日本語で王様? を探していると言っていたな」
やっぱりあいつかよ。デビューを失敗して落ち込んでいた気分が、さらに落ち込んだ。
めんどくさいことになった。一番は、見つからない方がいいけどもし、見つかってしまった場合。どう対処すればいい? 適当に理由言って帰るか? いや、それくらいで帰してくれなさそうだ。
まさか、追っかけてここまで来るなんて。一体なんなんだ? あいつは。
「ま、王様と言えば俺に間違いないからそれは俺だよ、って言ってあげたよ」
「どっからその発想が出た」
こいつの話を聞いて、サシミネムネム……ネムがどこに行ったか大体予想がついた。どうやら、四階の視聴覚室に向かったらしい。
ここは2階。鉢合わせる可能性は無いとは言えないけど、低いだろう。少し、気をつけて帰れば問題は無い。
「ふふふ……まさか俺の言葉になびかない女子が、この世にいたなんて。だが、運は俺に向いているらしい。運命が俺と彼女を引き合わせた」
「まだ言ってんのか。俺はもう帰るぞ」
そう言って振り返って帰ろうとしたとき、ふと窓を見るとネムがいた。ネムが……いた?
「まさかこんなところで会えるなんて、やはり君と僕は、運命の赤い糸でつながって……」
窓の外に向かって、ひたすら口説き文句を吐く馬鹿。だが、俺はそいつにかまってやる余裕も、突っ込んでやるユーモアも、今現在持ち合わせていなかった。
「ああああああああぁぁぁいぃぃぃぃっ!」
気が付くと、真顔で窓ガラスにべったりと張り付いていたネムに向かって、右ストレートをぶちかましていた。
割れるガラス、騒然とするクラス。血が吹き出る俺。ネムは、うぎゃぁぁぁぁぁぁっと断末魔の悲鳴を上げて、落ちて行った。
半狂乱状態の俺の正気が戻った時、すでにすべては手遅れだった。
「はっ……はは。弁償します」
俺は速攻、生徒指導部に連れて行かれた。なんて高校デビューの日だ。
「どうして学校の窓ガラスを割ったんだ?」
「そ、それは……実に言いにくいことなんですけど」
俺は筋肉隆々の、いかにも生徒指導をしそうな先生に睨まれていた。
「窓ガラスにですね、不審者がいたんです。 少し大きめの青いベレー帽に、ヒラヒラのおとぎの国の妖精の様な水色のドレス。極めつけは、手に着けた猫の手と足のコスプレ。絶対朝見た奴に違いありません。とっさに仲間を守らないと、と思い気が付いたら窓ガラスごとぶん殴ってました」
先生はあきれた表情でこっちを見る。たしかに、言っても信じてはくれないと思ったよ。でも今回、こっちには商人がいる。あのナルシスト馬鹿だ。
「先生、証人を読んでも構いませんか?」
「いいから反省文! お前にはあとでカウンセラーのところに行って来てもらう」
「え、カウンセラー?」
「何があったかは知らんが、とりあえずあまり頑張りすぎるな」
何とか怒られずにはすんだが、もっと嫌なことになった。俺別に病んでませんよ先生! 盗んだバイクで走り出したりしませんから!
俺の心訴えは、先生に届くことは無かった。急いで反省文を仕上げ、言われた通りの場所に向かう。包帯を巻かれた拳が、若干痛む。
確かにあれはやりすぎだったな。いや、だってホラーみたいだったから。振り向いたら、窓にべったりくっついていたから。
パニックになって、ガラスごとぶん殴ったけど、あそこ二階なんだよな。あいつ大丈夫だろうか……。
一階の保健室の隣、そこにカウンセリング室があった。俺はおそるおそるドアを開けた。
「すいませ~ん」
そこには白衣の先生がいた。しかし後ろ姿しか見えない。
「すいません?」
よく見ようと近づいた。しかし、こちらに気づく気配がない。様子がおかしいと思い、さらに近づこうとすると。唐突に回りだした。
「きゃぁぁぁぁぁぁ! 何この子可愛い! 可愛過ぎる! なんでこんなに可愛過ぎるのぉ!」
「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
そこには、ネムを羽交い絞めにする白衣の美人保健師と、さっきとまるで一緒の悲鳴を上げるネムがいた。数時間前の事がフラッシュバックする。
「なんでお前が!? 先生も何してんの!?」
あまりの事におろおろしていると、ようやく俺の存在に気付いた先生がこっちを見た。
「あら。貴方が高校デビューの日に、学校の窓ガラスを粉砕いしたいけない子~?」
じと目で、ニヤニヤしながらこちらを見ている。ネムは相変わらず羽交い絞め状態だ。
「あ、あのここに来るように言われまして……」
「私が保健師と、生徒のカウンセリングを受け持ってる姫川 見霧よ。よろしくね。でもその前に……この子を可愛がってからでいいかしら?」
そう言ってネムの頬に、顔を擦りつけてる。ネムは涙目で俺を見ている。
「お好きにどうぞ……」
「ふが! オウサマひどし!」
「いや~ん。どこから食べちゃおうかしら~」
「うぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
いい気味だ。そう思いながら、半笑いでネムと姫川先生を見ていた。数十分後、満足して肌がツヤツヤになっている姫川先生が正気に戻るまで、俺は携帯にメモしてある今日の夕飯の買い物を見ていた。
そろそろいかないと、セールに間に合わないんだけどな。
「し……しろいあくま」
そう言いながらネムは項垂れている。俺はその様子を苦笑いで見ていた。
「ごめんなさいね。あまりにもこの子が可愛過ぎて、つい夢中になったわ」
「はぁ……」
「それで、どうして君はここに呼ばれてきたの?」
その質問に、俺はまっすぐネムを指さした。なるほどね、と言う顔をした姫川先生はぐったりしているネムを抱きかかえながら、笑顔でこちらを見る。
「こんなに可愛いと襲いたくなるわよね~」
「そういう意味じゃねぇよ!」
俺は真っ赤になって反論した。確かに物凄く可愛いが、そんな気持ちは微塵もない。ましてや、関わりたいなんて思えるはずがない。
「こいつにですね、付きまとわれて大変なんですよ」
「そう、この子が他の男の子と話していたから嫉妬して窓ガラスを割っちゃったと」
「違いますよ!?」
ニヤニヤしながら、こっちを見てる。明らかにおちょくられているんだけど、思わず顔が赤くなる。こんな自分が情けない。
「あら~残念。私修羅場が大好きなの」
「カウンセラーとしてそれはどうなんだよ……」
相変わらず、ネムは顔を引っ張られたり抓られたり。抱きしめられたりと、おもちゃにされている。
「やっぱり初心な男子は面白いわね。この子も君目当てみたいだし、好きな時に遊びに来ていいわよ~」
そう言って、ネムを話すと俺の帆にゆっくり近づいてきた。なんだか雰囲気が少し変だ。
姫川先生は胸元を少しはだけさせ、サラサラの黒髪を耳にかけた。そして、中腰になり俺に顔を近づける。俺は体が硬直して動けない。
「大人の遊び……知りたくない?」
「えっ、ちょ、せんせ! いや、それはどうなの!」
声が裏返って目が泳ぐ。教師がそんなことしていいのかよ。でも、これはチャンスかもいや、何考えてるんだ俺。終わることのない葛藤が、頭の中に繰り広げられてる。
「ぷっ……ククク……あははは!」
急に笑い出す姫川先生、俺は呆然していた。腹を抱えて爆笑してる。徐々に正気に戻ってきた。なんて俺は馬鹿なんだ……。
「やっぱり初心ね、えっと、条ヶ崎君だっけ? いろいろ話聞かせてくれると嬉しいな」
「いっ、いえそろそろスーパーのタイムセールが……」
「そう、残念ね」
そう言って俺に名刺を差し出す。そこには、メアドと電話番号が書いていた。
「何かあったらすぐ連絡してね? 後、ここに来るときはこの子も連れてくること。いい?」
そう言って、ぐったりしてるネムを指さす。
「はぁ、わかりました……」
俺はトボトボと、カウンリング室を後にする。姫川先生。いい匂いだった。後、生谷間。このことは一生忘れないと、心に刻んだ。
って、勢いで何約束してんだ俺。
スーパーのタイムセールが終わり、ほくほく顔で家に帰る道中。不審な気配に後ろを振り向くと、やっぱりネムがいた。
「お前何しに来たんだよ」
「とまるとこ、ない。オウサマといっしょにねる!」
真顔でそう詰め寄ってきた。背中には、あの粗大ごみ置き場に合った、大きな大人の背丈ほどの鑑を抱えている。
「あのな……お前家は? 家族が心配してるんじゃないの?」
「かぞく! オウサマ! まいふぁみり~」
ニコニコしながらそう言ってきた。なんだか、断るのも悪い気がしてきた。って、なに俺は同情的になってるんだ! 変態電波女なんだぞ? 確かに美人ではあるけど……。
「いっしょにいく!」
そう言って俺にしがみついてきた。無理やり話そうとしても、物凄い力で、ビクともしない。
「はぁ。わかった、わかった。家にくるだけだぞ。ちゃんと自分の家に帰れよ?」
「うはー!」
ニコニコ笑顔を振りまき、ぴょんぴょん飛び跳ねながら喜んでいる。何となくその仕草が可愛くて、ちょっと和んでしまった。
さて、こいつの事を何て説明しようか。見た目、何かの漫画の登場人物のコスプレみたいな奴を連れてきて、不審がられるに決まってる。
悩んでいる間に家についてしまった。覚悟を決め、玄関を開けて家に入る。
「ただいま~……」
俺の家は一般的な、二階建ての家だ。一階にはリビング、キッチン、客間などがある。二階は、俺の部屋と物置。いつも、母さんはいつも、今頃キッチンにいるはずだ。
「おぉー!」
「うがっ……!」
ネムは俺を押しのけ、目を輝かせながら俺の家に一目散に入る。俺は、猛スピードで突っ込んでくるこいつに後ろからぶつけられ、背中に背負ってるデカい鏡の角に頭をぶつけ、前のめりに倒れた。
「おかえりって……誰この子? クルル君のお友達? それとも~……へぇ。クルル君はこういう子が趣味なんだ……」
ニヤニヤしながら俺を眺める母さん。さっきまで、キッチンにいたのかエプロンをつけてる。俺は、慌てて立ち上がり顔をぶんぶんと横に振る。
「勝手に邪推すんな! こいつはその……あれだ、なんかついてきた」
俺の曖昧な説明に、余計ニヤニヤし始める母さん。俺は顔を真っ赤にしながら部屋に、多少強引にネムを引っ張って行った。
「くっそぉ……これはしばらく弄られる。お前のせいだからな! はぁ……とにかくこれで満足か?」
ネムは周りを見ながら、興味津々そうにあたりを見回している。見るもの全てが、珍しそうな顔をしている。可笑しな奴だ。
「ネムネムもここにすむ!」
ドヤ顔で俺に向かってそう言った。しばらく、思考が停止する。
「だから、何度も言っているように家に帰れ」
「ネムネムいえない、こっちにきたばっかり。オウサマといっしょにすむ! だめ?」
目をうるうるさせながら、上目づかいでこっちを見つめる。一瞬心が揺らいだけど、気を建て直し駄目だと言った。
「俺の家はダメだ。自分の家が無いっていうんだったら、警察の方に保護してもらうことになるけど」
俺は冷たくそう言い放った。ネムは目に涙をためながら、ブンブンと顔を横に振っている。
「けい……さつ。こわいところ、ネムネムはオウサマとがいい」
「だから、そう言われても困るんだよ……」
しばらく説得を続けたが、頑として首を縦には振らなかった。結局、夕飯を一緒に食べることになった。もう、親に説得してもらうしかない。
「わぁお! スペシャルおいしい!」
「だから、英語混ざってるぞ!」
今日は久しぶりにシチューだった。ネムは、目をさらに輝かせながらスプーンで掻き込むように、口に運ぶ。
「あらあら~。そんなにおいしかったかしら? 慌てておかわり沢山あるわよ~」
母さんは、いつもより上機嫌になっている。父さんも、いつもより機嫌がいい。
「まるで、娘が出来た気分だな」
「セクハラで訴えられるぞ、父さん」
「え、それ本当?」
いつもより、明るい食卓になった。さて、そろそろ本題に入るか……。
「父さん、母さん。実はこいつ、迷子みたいでさ。警察に届けた方がいいか困ってるんだよね」
さっきまで笑顔だった両親は、真剣な顔をして悩んでいる。
「ネムネム、オウサマといっしょいい! おねがいします」
そう言って、ネムはテーブルに頭を思いっきりぶつけた。両手は膝の上に載せている。こいつはもしかして、土下座をしているつもりなのか?
「う~ん、そうだな。一応警察に連絡しておこう。それまで我が家で保護しておこうじゃないか?」
「そうね、貴方が言うなら。ネムネムちゃんだっけ? お家わかる? お父さんお母さんはどこにいるのかな?」
ネムは少し、悲しそうな顔をしている。しばらくして、ゆっくり話し始めた。
「ねむねむ、おとさんおかさん、とおいところ。もうにどとあえない」
「まさかお前……」
そこまで言いかけて母さんが、俺の言葉を遮った。
「そうなんだ。ごめんね、辛いこと聞いて」
母さんは、いつか俺に見せたようなとてもやさしい、穏やかな表情でネムの頭を撫でている。
「じゃあ、ネムちゃんが家に帰れるまで、お母さんだと思っていいからね?」
ネムは嬉しそうな顔で、頷いた。その光景を見ていた、俺と父さんは、二人顔を合わせて笑った。どんな事情かはわからないけど、しばらくこいつは俺の家で暮らすことになるらしい。
そして、俺の隣の物置部屋の荷物がかたずけられ、綺麗な部屋に生まれ変わった。
「人使い荒いな母さんは……」
「意見が合ったね、父さん……」
「ほら! ぼさっとしない!」
俺と父さんは、母さん指導の下せっせと働かされた。終わったころには、風呂に入ってさっぱりしている二人がやってきた。
「ネムちゃん胸柔らかいね~」
「むにむにくすぐったひっ!」
思わず凝視してしまった。隣を見ると父さんも。やはり、血は争えない。
「いいか、ここがお前の部屋だ。綺麗に使ってくれよ?」
「うぬ!」
元気よく頷いたネムを確認し、自分の部屋に戻る。ベッドに横になり、隣を向くとそこにはデッカイ大人の身長並みの鏡が合った。
って、これ粗大ごみ置き場に会った奴じゃん! そういえば、あいつが持ってきたまんまだった……。
どかそうとして、今日の朝の出来事を思い出した。右腕が、肘まで鏡に突き刺さっていた時のことを。
思わず唾を飲む。そっと、俺は右手を鏡に近づけていった。そして、
「う、嘘だろ……」
俺の中指、人差し指、薬指、と順番に入っていった。まるで、水の中に手を入れるようにすんなり入っていく。そのまま右手首まで入れた。
鏡の中は、やっぱり水に溶かしたドロドロの泥の中のように、冷たく気持ち悪かった。何かないのか、マジックの種はないのかと探っているうちに、何かに手が当たった。
それは、紛れもない人間の手だ。なぜならそれは、次の瞬間両手で思いっきり引っ張ってきたからだ。
「うわぁっ!?」
ものすごい勢いで引っ張られ、右手の肘まで鏡の中に入る。しかし、それより先へは突っ掛って入ることが出来ない。鏡が小さいのではなく、何かに引っかかっているような感覚だ。
「なんっ……だよこれっ!」
思いっきり右腕を引っ張るも、向こうの方がはるかに力が強い。ダメだこのままだと右腕が引きちぎられる。焦りと恐怖で汗が大量に噴き出してきた。
ずるっと滑ったような感覚がした後、勢いよく右腕が鏡から出た。そのまま勢い余ってベッドに倒れこむ。シャツが汗で、肌にべっとりくっつく。
右腕には、くっきりと両手の痣がついていた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、鏡を見る。そこには、恐怖で固まっている俺しか映っていない。
後ろから誰かが引っ張った? いや、そんなこと出来るはずがない。鏡の後ろには何も無いのだから。
言い知れぬ恐怖に襲われ、しばらく立ち上がれなかった。
「汗で滑って助かったのか?……」
汗を拭いながらそう呟いた。もし、あと一歩遅れていたら……そう思うとぞっとした。
「オウサマ……」
ドアから、申し訳なさそうにこちらを見るネム。何かわけを知っているのか? ホラーの類はやめてほしいけど。昔からホラーは苦手なんだ。
「オウサマ、うでいたい? ごめんなさい」
そう言いながら、俺の腕をさすってきた。あの、ヘンテコな手袋はしていない。白い指は、華奢で柔らかくて、年相応の女の子であると実感させた。何歳か実のところ分からないんだけれど。
「オウサマ、わたしのともだちつれていこうとした。けど、むりだったみたい」
悲しそうな顔でそう言った。俺はネムの頭を優しくなでた。
「なんでお前が謝るんだ? ていうか、あの鏡どうなってるんだよ~マジックの種教えろよ」
俺は茶化しながらそう言った。けど、ネムは真剣な顔で俺の顔を見る。どうやら本気らしい。
「オウサマは、わたしのせかいのオウサマ。そして、このせかいでいう……」
一呼吸間をおいて、俺の顔に自分の顔を近づけながら言った。
「かみさまなの」
それからしばらく、僕はネムの話を聞くことになった。終始、疑心暗鬼でまるで信じられない話だったが、ネムの表情はとても真剣なものだった。
「わたしたちのせかい、こころのせかい。オウサマとてもやさしい。けど、ある日オウサマいなくなったの」
そういって寂しそうな表情をするネム。俺は、只ネムの頭を撫で続ける。
「オウサマ、いなくなってしばらくして。とっても、さむくなった。ふゆ……きた。みんながんばってオウサマさがしたの。でも、オウサマさいごまでみつからない。みんな、あきらめたけど……」
一呼吸おいて、ネムは俺の顔を見上げた。その表情はさっきまでの、悲しそうな表情から少し明るい表情に戻ったようだ。
「ゆき、とけた! とってもさむいふゆおわった! みんなとってもよろこんだ。ふゆで、たいせつなかぞく、いっぱいいなくなった。けど、もうだいじょうぶ、そうおもった……」
そしてまた表情は暗くなる。目に涙をためながら、悔しそうな表情を浮かべる。俺はその様子をただ、黙って見ているしかない。
「また、ふゆがきた。このままじゃみんなしんじゃう! だから、みんなたすけるために、オウサマたすけるためにきた!」
そう言って、ネムは俺の左胸に手を置いた。若干、自分の鼓動が速くなる。
「もうさびしくないように。オウサマのこころ、あっためにきた。オウサマのこころ、わたしたちのせかいになる。オウサマのおもい、かたちになる」
王様とか、ネムの世界がどうとか。正直言っている意味は分からなかった。けど、何か伝えたいという事だけはわかる。
「つまり、王様って奴の心を癒せばいいんだな? で、王様って誰なんだ?」
ビシッっとネムは俺に指を指す。やっぱりか……。と言っても俺の心は全然晴れやかなわけだし。俺と誰かを勘違いしてるんじゃないのか?
「ひとのこころ。わたしたちのせかい。こころのせかい」
ネムは、自分の胸に手を当て静かに目を瞑る。とても穏やかな表情をしている。
「こころ。とってもじゆう。でも、みんなじぶんでじぶんを、ぐるぐるしばってる。とってもきゅうくつ。つめたくなってくる。つめたいきもち、どんどんおおきくなって、ふゆになる」
つまりだ。今、悩みを抱えている奴がその王様ってやつなんだな。って……どんだけいると思ってるんだ……。
「お前の世界が人の心に影響されるってのは分かった。で、俺にどうしろと?」
「あっためる!」
そう言って、ネムは俺にいきなり抱きついてきた。柔らかいものが俺のおなかの上に乗っかる。
「うわっちょっと! 何すんだ!」
さっき、風呂に入ったばっかりでとてもいい香りがする。俺は顔を真っ赤にして振りほどいた。
「うぬ……」
寂しい表情をしているネム。俺は無視して話を戻す。とにかく、こいつが何者でいったいなんなのか、全然わからないが、協力しないと大人しくしてくれなさそうだし、手伝うことにした。
「と、とりあえず! その王様って奴に元気を出してもらえばいいんだろ!? ええっと……とりあえず、応援でもするか?」
「オウサマ。これにてをいれる!」
そう言って、ネムはあのでかい鏡を指さす。何やら、自信満々な表情でこっちを見ている。
さっきのこともあり、また突っ込むのは嫌だったが、ネムが早く早くと催促するので仕方なく、また手を突っ込んだ。
ドロドロで、冷たい。とても気持ち悪い。思わず顔をしかめてしまった。
「オウサマこころ思い浮かべる! すきなことかんがえる!」
キラキラした目で俺を見るネム。何を期待しているのかはわからないが、とりあえず言われた通りに想像してみた。
なにか、手に感触がある。一見サラサラ。しかし、ザラザラなところもありなんか柔らかい。布?
恐る恐る、手をひっこめてみると俺の手には、女性用の下着が握られていた。
「う……そだろ」
訳が分からず、思考が停止する。たしかに、俺の想像したものがそこにはあった。しなやかな流れるようなライン、男なら誰しも一度は手にしたい夢のような布。
パンティー! まぎれもないパンティー! 思春期の男子には、存在そのものがもはや神! むしろ、存在すら危ぶまれている逸品だ。
これを手にすることが出来るものは、女の子か果ては、一部のイケメンのみ! 大半の高校生は泣き寝入りするしかない。なぜ、そこにパンティーがあるのか、わからない。
いや、俺が思ったからだ。間違いない、俺が思ったからだ! それから導き出される答えは一つ。
「まっ……さかこれって。欲しいものが何でも手に入るっていう、魔法の鏡……だったり?」
「オウサマおもったこと、わたしのせかいげんじつになる! オウサマがのぞんだことせかいになる」
俺は、なんていうものを見つけてしまったんだ。とにかく、俺は固く握りしめられた拳を開き、鏡の中へ、それを押し返した。
興奮で、アドレナリンが大量に溢れてくる。ドキドキが止まらない。さて、どうしてくれようか。
結局その日は、一睡もできなかった。
「眠い……」
翌日、いつもより眠気がきつい登校だ。結局チキンな俺は、何も出来ずにいた。しかし、本当に俺の臨んだものが手に入る鏡なんて……。もしかして、まだ夢の中なんじゃ?
頬を抓って見る。痛い。紛れもない現実。しかし、どうしてあいつはそんなものを、俺なんかに?
王様を探す見返りってことか? だとすれば、俺はいま重要な局面にいる。何でも手に入る魔法の鏡を手に入れるために、どうにか王様を探さなきゃならない。
どうすればいい? 何か手がかりは……。たしか、心がどうのとか、冬がどうとか言っていたな。つまり、今悩みを抱えている奴を探せばいいのか?
例えそうだとしても、対象が多すぎる。何か決定的な泣きかが欲しい。
「よう、悩み事か?」
「またお前か」
上崎 康人。超絶美形、スポーツ万能で頭は少し足りない。常にモテまくりのこいつは、そろそろ世の恵まれない男たちに、ボコボコにされればいいと思う。
「またって、なんだよ……。女性関係のトラブルなら俺に任せてくれよ?」
「むしろ絶対に任せられない」
「おい、目に隈が出来てるぞ? 寝不足か?」
「そこそこな」
頼むからそっとしておいてくれ。そう思いながら顔を伏せる。そう言えば、こいつから昨日ネムが学校に来ていること知ったんだよな。おかげで酷い目にあったけど。
もしかしたら、こいつ。結構いろいろ知っているのか? 女子高生って結構、噂好きらしいし、モテるこいつは何かを知っているかもしれない。
「お前、ここ最近元気ない奴とか知らない?」
何てアバウトすぎる質問なんだ。けど、実際与えられてる情報から察することが出来る質問は、これ以外に思いつかない。
案の定、康人は難しい表情をしながら、首をひねっている。
「元気がない奴って言われても……あっ、そういえば」
何か思い出したように、康人は手を叩いた。何か心当たりがあるのだろうか?
「俺たちと同じ、新一年生でBクラスの女子なんだけど。めちゃくちゃ暗くて、誰も近づけない奴がいいたな。真っ黒なオーラが見えるくらい暗いぜ。俺も口説こうとしたんだがな、さすがの俺もあそこまで冷たくされると辛い……」
そう言って涙目でぶるぶると震えている。どうやら、どれだけ女子にビンタされようが動じないこいつが怯えるとは、相当酷いことをされたようだな。俺も少し、身震いした。
「確か名前は、倉前 秘凜乃って言ってたな。まさか、お前あの子狙いなのか? 悪いことは言わない……やめたほうがいい……」
そう言って再度身震いする康人。なるほど、彼女が王様と言う可能性は、十分あるな。
倉前 秘凜乃か。会ってみる価値は十分ある。だがその前に……今日はスーパーの卵が特売セールの日だ。急いで帰らないと。
俺は、康人に別れを告げ教室から出ようとした。刹那、視線を感じる。とっさに右側のロッカーを見る。ロッカーの隙間から視線を感じる……。
恐る恐る、ロッカーを開けてみた……。ぎぎぎと不気味な音を立て、ゆっくりとロッカーの扉が開く。
そこには、ネムがいた。
「何やってんだお前……」
「ネムネムはオウサマを背後からおまもりする。アイアムニンジャ」
俺はネムの頭を強引に掴みながら、ロッカーから引きずり出し、強引に外まで引っ張って行った。
「何やってんだ……条ヶ崎の奴」
「ネムネムも、オウサマいたがっこういう、しせつ! いきたい!」
「駄目だ。ただでさえ目立つ奴を学校に連れて行けるか。それに、お前ちゃんと日本語書けるのか? 読みすらできないんじゃ、怪しまれるぞ?」
「だいじょぶ! なんとかなる」
そう言って、ニコニコと眩しい笑顔を俺の方に向けた。だが、俺の気持ちは少しも揺らぐことは無い。なぜなら、こいつのせいで酷い目に合っているからだ。
「はいはーい。次、日本に来たとき入れるといいな。早く特売セールいかないとー」
「むう……」
ネムは膨れながら、ちょこちょこと俺の後ろを歩いている。俺はそんなネムを無視しながら、少し早歩きでスーパーに向かった。
ちょうど、小道に差し掛かったところで、ガラの悪い高校生に二人組に絡まれている女子高生を見つけた。その子は、黒いロングの前髪を目の前まで垂らしている。暗い雰囲気の女性だ。
なにやらよくない雰囲気だ。俺は少しずつ、そこに向かって近づいて行った。
案の定、ガラの悪い高校生がイライラしながら突っ掛っていた。大声で何かを言ってるが、よく聞き取れない。後ろを振り向くと、ネムは能天気に口笛を吹いていた。
さすがに、止めた方がよさそうだ。俺はネムに向かって言った。
「ちょっと、手伝ってくれないか?」
しばらくして、俺とネムはあの鏡を家から抱えて持ってきた。というか、ネムが一人で持っていた。ひょいと軽く片手で持ち上げると、そのまま走って言った。むちゃくちゃな奴だ。
俺でも重くて、持つのに結構苦労するのに。華奢なのに、意外と筋肉があるんだな。
さっきの場所に戻るとまだ、女子高生はガラの悪い二人組に絡まれている。俺は鏡の中に右手を突っ込み、ネムに向かって不敵に笑った。
「野球ってしてるか?」
「触らないでください。警察呼びますよ?」
「そんなに警戒しなくてもいいじゃん! ちょっと遊ぶだけだって。なあ?」
「そうそう。今日暇してんだよね~君が来てくれたら盛り上がっちゃうな~」
「すいません。本当に急いでるんです」
「ちょっとだけだから。マジちょっと。な? いいじゃん、遊ぶくらい」
「俺ら、いい店しってるからさ。そこでちょっと話さない?」
「貴方たちと話している時間はありません。それでは」
「おいちょっと待てよ。ちょっと話すだけつってんだろ?」
「ちょっと……離して……」
女子高生は無理やり腕を掴まれ、引っ張られている。もう一人が、ニヤニヤ笑いながら近づいていく。
「何必死になってんの? 笑えるんだけど」
「警察呼びますよ……」
「うるせぇんだよ。黙ってこいよ!」
強引に二人で抑え込まれる。必死にもがくも、近くに人影は見えない。自然と、女子高生の目から涙が溢れてくる。
「誰か……」
「へーい、野球しようぜ。磯野!」
「おっけ! なかがわ!」
「中島だ!」
俺とネムは、野球のユニホームを着け、ガラの悪い高校生に絡まれている女子高生の元にやってきた。
ガラの悪い高校生が、こっちを見る。思いっきり睨みつけてきた。それに動じることなく俺は、バットを片手に素振りをした。
ネムは野球ボールとグローブを着け、腕をぶんぶんと振り回している。
「何だお前ら? 今いい所なんだよ。邪魔するとぶっ殺すぞ!」
脅しながら近づいてくる。それを無視して、俺はバットを構えた。そして、ネムの方をしっかりと見る。ネムは腕を高速回転させて、思いっきり俺の方にボールを投げた。
「すーぱーうるとらでらっくすたてかいてんぼーーーーーーる!」
土煙を上げながら、恐ろしいうなり声を上げて突っ込んでくるボール。俺はそれに向かってバットを思いっきり振った。
ボールは、バットに命中。そして、隣にいるガラの悪い高校生の一人に向かって真っすぐ飛んでいく。そのまま、ボールは吸い込まれるように股間に命中した。
「うげぼっ……!?」
声にならない声を上げ、悶絶する高校生。ころりと落ちたボールは、白い煙を上げている。
「てめぇ! 何しやがったぁ!」
激情したもう一人が、走ってくる。ネムはすぐさま、次の球を構え俺の方に投げる。
「すーぱーうるとらでらっくすよこかいてんぼーーーーーーる!」
ボールは横回転しながら、俺の方向かって猛スピードで突っ込んでくる。俺は目を瞑り、全てをバットに委ねた。
バットは、吸い込まれるようにボールに当たり快音を響かせる。そして、走ってきた高校生の股を通り抜け、壁に反射しケツの穴に命中する。
「がはっ……ん!?」
そのまま地面に勢いよく倒れ、数メートル滑った。ボールは回転しながら、ケツに突き刺さっていた。
「てめぇ。舐めたことしやがって。もう許さねぇ」
股間に命中した方が、立ち上がり股間を抑えぴょんぴょん飛び跳ねている。ケツに直撃した方は、ケツを抑えながら涙目でこちらを睨んでいた。
「よくも俺のケツを……ぶっ殺す」
その言葉を遮るように、ネムが俺に向かってビシッと指を指しながら言う。
「だめだめね! そんなんじゃてんかとれないよ! センボンノック!」
ネムは目に闘志の炎を宿らせながら、大量の籠に入ったボールを一つ手に取る。俺はニヤリと不敵に笑い、バットを構えた。
「よろしくお願いします、先生!」
次の瞬間、目にもとまらぬ速さで取っては投げ、取っ手は投げ、と繰り返す。それに合わせて俺も飛んでくるボールをひたすら打ち返す。
打ちかえったボールは、物凄い急なカーブを描きながらガラの悪い高校生二人に向かって飛んでいく。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
「痛ぇ! ちょ……やめろぉぉぉぉぉぉ!」
二人の悲鳴をよそに、ボールは次々と二人に向かって襲ってくる。壁に当たり、軌道を変えて再度また襲ってくる。前後左右、上から下までびっしりボールが直撃する。
打っては投げ、投げては打ち。ボールはとどまるところを知らない。まるで、ボールの雨。いや、暴風と言ったほうが正しい。ボールの嵐の中心に、高校生二人組はうずくまっている。
ボールが無くなり嵐が止むと、二人はゆっくり顔を上げた。涙目で震えている。
俺はその二人の高校生に顔を近づけた。怯えた表情で俺の事を見る二人。さっきまでの威勢のいい姿は何処へやら。俺はニッコリ笑顔を浮かべ、問いかけた。
「もう千ノックいく?」
『うわぁぁぁぁぁぁ!』
ガラの悪い二人組は叫び声を上げながら飛び出していった。その後ろ姿を見て、ネムに向かってサムズアップをした。ネムもそれを返す。
俺は呆然とへたり込んでいる女子高生に、手を差し伸べた。
「大丈夫?」
「さ……さっきのなんなんですか……」
驚愕の表情で俺を見る。目は、前髪に隠れてよく見えないが、結構美人さんだ。歳は俺とそんなに変わらないくらいか。高校一年か、二年と言う感じだ。
俺の手を借りず、パンパンとスカートを叩きながら立ち上がる。けど、やっぱり動揺しているのか、若干震えている。
「えっとさ。女の子なのに一人で出歩くのは、危険じゃない?」
「あ……貴方には関係ありません。それに、一人でも大丈夫ですから……」
そう言って、小走りで去って行く。ロングの黒髪が、風に揺れていた。途中、何回かこけていた。
「全然大丈夫じゃないじゃん……」
辺りに散らばった、野球ボールが寂しく散らかっている。しかし、しばらく立つと、野球ボールは砂のように崩れ、消えてしまった。バットグローブと、野球のユニホームもだ。
俺は元の制服の姿に戻った。ネムは相変わらず、ヘンテコなコスプレの様な恰好に戻った。
「鏡から取り出したものは、長い間存在できないみたいだな。しかし、すごいな。必ず狙った所に投げられるボールと、必ずボールに命中し、狙った所に打ち返せるバット。この世に絶対存在しえないものも、取り出すことが出来るのか……」
「オウサマ、かきーん! すごかった! やきゅう? ってたのしい!」
「それじゃ、また今度やろうな」
そう言って俺はネムの頭を撫でた。気持ちよさそうな顔をしている。まるで猫だな。
特売セールに行こうと、足を踏み出すと何かを踏みつけた。すぐに足を上げると、そこには学生証が落ちていた。俺のじゃない、じゃあ……あの子のか?
その学生証には、倉前 秘凜乃と書かれていた。その名前には、聞き覚えがある。しかもつい最近。
次の日。俺の後をついて来ようとするネムを、布団でぐるぐるに巻いて動けないようにしてから家を出た。
「このひきょうものー!」
ネムの悲痛な叫びが聞こえた。しかし何が卑怯なのか、わからない。無視してそのまま登校した。
放課後俺は、ある人物を待っていた。もちろん、倉前 秘凜乃だ。Bクラスから出てきた秘凜乃を見つけると、俺は秘凜乃に向かって近づいた。
「よ。これってお前のだろ?」
そう言って、学生証を渡すと秘凜乃は顔を俯かせながら受け取った。
「あ、ありがとう……ございます」
そう言って去ろうとした秘凜乃の手首を捕まえた。びっくりして、顔を赤くしている秘凜乃をよそに、俺はある場所まで連れて行った。
それはもちろんカウンセリング室だ。というか、俺はカウンセリング室の事を知ることが出来て、ラッキーだと思う。だって、心の問題を解決するのには、うってつけだと思うからだ。
秘凜乃がネムの言う、王様って奴なのかどうかわからないが、可能性は十分ある。それに、もし違ったとしても、相手にデメリットは無いはずだ。
そう思い、俺は秘凜乃をカウンセリング室に連れてきた。ドアを開けると、そこには机で何か仕事をしている、姫川先生がいた。
俺たちの存在に気づき、振り返る。そしてニッコリと笑った。
「あら、いらっしゃい。その子は……もしかして君の彼女?」
「違いますっ! ちょっとこの子をカウンセリングして欲しくて」
「っ!? 何かってなことを言っているんですか、貴方は! 私は至って正常です!」
顔を真っ赤にして否定する秘凜乃。掴みっぱなしだった左手を、勢いよく振りほどいた。
「まあまあいいじゃない。ゆっくりしていってよ。私は姫川 見霧て言うの。よろしくね。貴方の名前を聞かせてくれない?」
秘凜乃はしぶしぶ頷き、顔を伏せながら答える。
「倉前 秘凜乃です……。どうも」
「そういえば……、あの子がいないみたいだけど?」
そう言って俺の横をきょろきょろ見る、姫川先生。俺は苦笑いになった。
「あいつは、家で大人しくしてますよ……今度こそ本当に」
「家? あの子ちゃんと家に帰れたの?」
「いえ……ま、その。諸事情で家に預かることになりまして……」
「な~んだ。二人でラブラブ同棲中なんだ~」
姫川先生はからかう様な、悪戯な笑みを浮かべる。俺は顔を真っ赤にして首を横に振り、違うと大声で言った。
「両親もいます!」
「わかったわかった、冗談よ~」
俺は顔を真っ赤にしながら、席に着いた。秘凜乃も戸惑いながら、隣の席に座る。
「な~んか……初心なカップルに見えちゃうわね~」
『違います!』
二人声をそろえて否定した。はっと気づき、隣を見ると秘凜乃もこっちを見た。また顔が赤くなる。思わず顔を逸らした。
「変なこと言わないでくださいよ……早くカウンセリングをしてください」
姫川先生は首をかしげる。そして、何か考えるようなそぶりをする。
「う~ん……君が無理やり連れてきたんでしょ? 君が聞いたら?」
「えっ!?」
突然の事に、びっくりして声が詰まる。そんなこと言われても、俺カウンセラーじゃないし。どうすればいいんだ……。
とりあえず、何か悩んでないか聞いてみよう。しかし、緊張で体が動かない。手が震える。
「あ、あああのさ、秘凜乃。何か悩んでることとかない?」
「別にありませんけど?」
しれっと、真顔で返された。あまりにもあっけなくて俺は呆然としてしまった。だ、駄目だ。もう何も浮かばない。そうこうしているうちに、急にカウンセリング室のドアが勢いよく開いた。
そこにいたのは、布団にくくりつけてきたはずのネムだった。
いつの間に布団から脱出したんだ。寝ネムは俺の制服を着けていた。胸の部分がとても窮屈そうだ。というか、こいつは何しに来たんだ?
「オウサマ見つけた!」
そう言って顔を輝かせている。俺は呆然とネムを見た。
「何しに来たんだ? てか、どうやって抜け出した……」
「ネムネムのどこぢから、なめたらあかんね」
そう言って、ネムはドヤ顔した。隣の秘凜乃は呆然とこっちを見ている。
「……どなたですか? 不審者?」
俺は苦笑いになりつつ、どう説明しようか迷った。確かに不審者と言えば不審者だ。
「ちょっと来い」
「うぬ?」
そう言って、とりあえずネムを連れカウンセリング室を出る。脇に、あのでかい鏡が置いてある。
「お前……持ってきたのかよ」
「ネムネムに抜かりはないね」
そう言って胸を張るが、俺の制服がメキメキと悲鳴を上げている。てか、胸デカすぎなんだよ! 目のやり場にいちいち困る。恐らく、Dカップ以上だ。
だが、あの鏡があるというのはこちらにとって、とても都合がいい。俺は、鏡に右手を突っ込み女子高生の制服を思い浮かべる。そして、鏡から手を引き抜きネムに渡す。
「これに着替えるんだ。そろそろ着替えてもらわないと、俺の制服が死ぬ」
数十分後、俺は大人の身長並みの大きなの鑑を抱えながらネムと一緒にカウンセリング室に戻った。
「あら、おかえりって……着替えちゃったの? 個人的にはそっちもありだったんだけどな」
そう言いながら、残念そうな顔をする姫川先生。この人は本当に変態なんじゃないだろうか?
着替えたばかりのネムを、再び席に座らせる。俺はその隣に座る。秘凜乃は警戒した目でこちらを見た。
「この方は、貴方と一緒に私を助けてくれた人ですよね? なぜさっき、男物の制服を着ていたんですか?」
秘凜乃の的確な質問に、思わず焦る。確かにそうだよな、変だ。だけど、こいつが個々の生徒じゃないなんて言ったら、彼女はさらに警戒するかもしれない。
「あははは……こいつちょっとおっちょこちょいなんだ。な?」
そう言って横を見ると、ネムは制服のリボンを珍しそうに眺めていた。ますます、疑わしい目で見てくる秘凜乃。
「と、とにかく本当に何か悩みとかないの? ほら、せっかくだし」
「せっかくって、貴方が勝手につれてきただけですよね? 昨日たしかに、お礼を言わずに帰ってしまったのは申し訳ないと思っていますけど、少々お節介過ぎると思います」
そう言って顔を俯かせてしまった。やばいどうしよう、めちゃくちゃ警戒されてるじゃん。
いや、ここであきらめてちゃいけない。何か、何かいい話題は無いのか?
「秘凜乃ちゃんは、彼氏とかいないの?」
「いっ、いるわけないじゃないですかっ!」
姫川先生の唐突の質問に、驚き顔を真っ赤にして反論する秘凜乃。先生の助け舟が無ければ完全に終わっていた。ありがとう、姫川先生。
俺は、注意が姫川先生に向いている秘凜乃を背中に隠していた、カメラで写した。
カメラには、顔を真っ赤にしている秘凜乃の後ろに、黒い影が映っている。それを見た俺は、もっとよく見ようと顔を近づけた。
「ちょっと……何をしてるんですか?」
秘凜乃の視線に気づく。完全に、痴漢を見る目だ。俺は苦笑いで答える。
「き、記念写真でもいかが?」
「帰らせていただきます」
そう言って、秘凜乃はカウンセリング室を出て行った。どうやら怒らせてしまったようだ。
「条ヶ崎君って……そんな趣味があったんだ」
姫川先生は若干引いたような目で見ている。俺は大きく首を振り、慌てて否定した。
「ち、違います! こ、これは人の心を移すことのできるカメラで……いや! その違います! とにかく、そう言う如何わしいものではないですから!」
隣のネムを無理と、のんきにテーブルの上に置いてあるお菓子を食べていた。実に幸せそうな顔をしている。
駄目だ、こいつじゃ当てにならない。俺は何か言い訳しようと、姫川先生の方に振り返る。
すると姫川先生は、何やら難しい顔をしていた。初めて見るその表情に、少し驚いてしまった。やっぱりこの人も先生なんだな。
「私じゃ彼女の根本的な悩みを解決してあげられないから、同じ学年の条ヶ崎君に頼むしかないわね……」
なにやらブツブツ呟くと、姫川先生は俺の肩をポンっと叩いた。そして、からかう様な表情で俺の顔を見る。
「頑張ってね? 多分あの子を本当に救ってあげられるのは、同じ学生と言う立場の貴方よ?」
「ど、どういう意味ですか?」
「ちらっと話を聞いただけだけよ。彼女、男の人が苦手って言ってたわ。本当は、もっとちゃんとお礼が言いたかったって。ちゃんとあの子にセクハラしたこと、謝りなさいよ?」
「してませんて!」
「冗談よ~。でも、ちゃんともう一度彼女と話してあげてね」
姫川先生は優しそうな笑顔でそう言った。俺は、姫川先生にお礼を言い、カウンセリング室を後にした。ネムはお菓子を食べて満足そうだ。
「ネムネム、さっきのもういっかいたべたい。えっと、くっ……くっく?」
「クッキーだ。後で買ってやるよ。ていうか……お前、その鏡重くないのか? 昨日も軽く持ち上げていたけど……」
ネムは鏡をヒモで括り付け、ランドセルの用に背負っている。女子高生が、人の身長並みにある鏡を背負っている姿は、結構シュールだ。
「ネムネム力持ちだからへいきね! それより、きっくーまたたべたし!」
「わかったわかったって……ん? あれは……」
前を見ると、帰ったはずの秘凜乃がいた。また高校生の男子に絡まれている。だが、今度の高校生は比較的普通そうな人だ。
そう思っていると、制服のポケットが急に熱くなってきた。何事かと探ってみると、そこにはさっき秘凜乃を写したカメラだ。小型のデジタルカメラ型のそれは、小刻みに震えている。
このカメラは心の悩みを映し出すように、あの鏡から取り出したものだ。だから、それで秘凜乃を写し、悩みを探ろうと思ったのだが、見つかってしまってよく見れなかった。
とっさに制服のポケットに入れて隠したんだけど。もうとっくに消えていると思っていた。
昨日の、不良二人を追い払うときに使った時は、ものの数分で消えていた。鏡から取り出したものは、長くは存在できないはず……。
もしかして、取り出した量が多いと存在出来る時間が減るのか?
同時に、ネムを女子高生の制服に着替えさせたけど、それも鏡から取り出したものだってことを思い出した。消えなくてよかった……本当に。
カメラを覗いてみると、さっき秘凜乃を写した写真に変化が起きていた。
ぼんやりしか見えなかった、秘凜乃の背後に映る黒い影がはっきりと形を成しているのだ。それは、人間の様な形をしている。そしてその影は、秘凜乃の首を思いっきり絞めていた。
異様な写真に、背筋が寒くなった。嫌な汗が噴き出る。手が震えて、思わずカメラを落としそうになった。カメラは発熱し、震えが止まらない。
まるで、カメラが秘凜乃の心自身になってしまったかのようだ。きっと秘凜乃は今、すごく怯えている。理由はわからないが、秘凜乃の首を絞めているこの黒い影が原因か?
いや、違う。今、目の前で男子高校生に絡まれているこの状況こそが原因だ。
俺はカメラをポケットに入れ、秘凜乃の方に向かった。何やら話し声が聞こえる。
「秘凜乃さん、どうかこの漫画研究部に入ってくれないか? 君の絵の才能はとてもすばらしい。その才能を、うちの部でぜひ生かしてもらいたいんだ」
おかっぱで、眼鏡をかけている細身の男は、熱心に秘凜乃を説得していた。その会話から、恐らく部活動の勧誘だろう。秘凜乃は、困ったような表情をしている。
「頼む、君だけじゃない。その技術は、我々部員ををもっと上のステージへ持って行ける。頼む君の力が必要だ!」
「私、部活に入る気はないですから……」
俺は、秘凜乃の手を掴み引き寄せた。ギョッとした表情でこっちを見る。
「すいません。これからデートにいくのでこれで……」
「は!?」
「ちょっと、まだ話は終わっていない……っておーい!」
俺は強引に、秘凜乃を校門まで引っ張って行った。少し強引過ぎただろうか? までも構わない。あのままでいるよりは。
校門まで来ると、秘凜乃は強引に俺の手を振りほどいた。秘凜乃は涙目になっている。やりすぎたか……。
「さっきのはいったい何の真似ですか……」
「いやその……」
俺は返答に困り、のんきな表情をしていたネムを秘凜乃に差し出した。
「こいつの相手してやってくれない?」
「はい?」
秘凜乃は困惑した表情をしている。俺は畳み掛けるように、秘凜乃に訴えた。
「こいつ、俺の家にホームステイしてきてる子なんだけどさ、ほら、同年代の女子の方が話しやすいでしょ? だから、協力してくれないか?」
秘凜乃は警戒した目でこちらを見ている。俺は、覚悟を決めて土下座した。地面に頭に擦り付ける勢いで、土下座した。
「ちょっと、やめてください! わかりました、わかりましたから……」
秘凜乃はしぶしぶ頷いてくれた。そのままネムの方に向けて、優しい笑顔で話しかけた。
「よろしくね、えっと……」
「ネムネムのおなまえ、サシミネムネム! よろしくしくしく!」
ネムは片手をピースして前に突きだし、足を上げカンフーの様なポーズをとっている。俺とネムと秘凜乃は、近くの公園に寄ることになった。
秘凜乃とネムはすぐに打ち解け、いろいろ話しているみたいだ。俺はそれを遠くから眺めている。さっきのカメラは、もう振動も熱も出てはいない。
カメラの画像を見てみると、さっきの黒い影はまたぼんやり戸しか見えなくなっていた。この黒い影はいったいなんなんだろうか?
「ネムちゃんはどこから日本に来たの?」
「とってもとおいところ! かがみのなかをとおってきたの」
「へ? 鏡の中?」
「うん! とってもキラキラしてたのしいところだよ」
「そうなんだ、すごいね」
秘凜乃は、穏やかな表情でネムの話を聞いている。ネムがいてくれて本当に助かった。
とっさにあんなことしてしまったけど、ネムがいなければ絶対ビンタだ。よくて痴漢呼ばわり。
けど、どうにも見過ごすことが出来なかった。なぜなら、彼女は冷静に対応しているように見えたけど、カメラの中に映っていた彼女は泣いていたからだ。
そして、謎の熱と振動。もしかして、心の中では怯えていたのか? そして、謎の黒い影。あの影、男性のように見えた。何か秘凜乃と関係しているんだろうか?
「あの……ちょっといいですか?」
「え、あっうんいいよ……」
俺と秘凜乃は公園のベンチに座って話をした。ポケットに入れているカメラが、また小刻みに震え熱を発しだした。やっぱり、このカメラが震えることと秘凜乃の心には関係がある。
「あの……昨日のお礼言い忘れていました。というか……言おうとしたんですけど……」
秘凜乃は顔を俯かせて、恥ずかしそうにしている。いや、怯えているのか? 秘凜乃は、男性が苦手と言うより怖いと思っている様に感じる。
「いや、気にしなくていいよ。それよりさっき変なこと言ってごめん」
「いえ、実は……結構助かりました。いきなり彼女とか言い出したのはさすがに……あれでしたけど」
「あはは……ごめん。なんか他にいいセリフ見つからなくてさ」
お互い気まずい時間が流れていく。俺は、何を言ったらいいのかわからずしどろもどろしていると、秘凜乃の方からしゃべりかけてきた。
「なんで、私をカウンセリング室に連れてきたんですか?」
秘凜乃は真剣な表情で俺を見る。やばい、なんて言ったらいいのかわからない。さすがに、康人から君がものすごく暗い人だって聞いたから、とは言えない。
「えっと、なんていうかその……秘凜乃が何か悩んでいるように見えたから」
「それにしても、強引すぎます。はっきり言ってセクハラです」
ズバッと言われてしまった。俺は、反論の余地もなくうなだれる。ネムの方を見ると、能天気に蝶々を追いかけている。ネムに助け舟は……期待できそうもない。
「でも、ちょっと嬉しかったです。今まで誰かに心配してもらったことが無いので」
そう言って少し、秘凜乃は顔を赤らめた。その仕草に不覚にも可愛いと思ってしまった。気が付いたら俺は、秘凜乃の事をずっと見ていた。
「な、何見てるんですか!」
とっさに我に返り、目を逸らす。意外と女の子っぽい仕草もするんだな。そりゃ女子高生なんだから当たり前か。
「あ、あの良ければいつでも頼っていいから。俺じゃ迷惑かもしれないけど」
「私、一人でも大丈夫ですから……」
そう言って顔を逸らした。一瞬見えた秘凜乃の目は、すごく悲しそうに見えた。彼女はわざと冷たく振舞っているけど、もしかして寂しいんじゃないだろうか? 本当は一人が怖いとか。
「それじゃ、私はこれで。用事があるから」
そう言って秘凜乃は立ち上がった。秘凜乃は、若干寂しそうな表情して俺の方を見る。
「じゃあまた、機会があれば」
そう言って、秘凜乃は去って行った。ポケットに入れていたカメラは、いつの間にか震えが収まっていた。
俺は、まだ蝶々を追いかけていたネムを引きずって家に帰った。帰ってからも、ネムは蝶々蝶々とうるさかった。
どっちにしろ俺は彼女を、秘凜乃を助けるだろう。彼女の持っている悩みに少しふれた今、彼女がネムの言う王様かどうかわからないにせよ、彼女を助けたいと思った。
それは、高校生の一時の正義感からかもしれない。そうだとしても助けたい。迷惑がられるかもしれないけど、彼女の悩みを知っている同じ学生は俺くらいだろう。だからこそ助けたい。
例え、迷惑がられても有難迷惑だとしても。俺には力がある、あの鏡が。そいつを最大限利用して、俺は秘凜乃を助けてみせる。そう決意して、明日に備えぐっすりと寝た。
次の日から、俺は秘凜乃と少しずつ話していった。話すたびに少しずつ、彼女に近づいて行っているような気がしていた。
しかし、秘凜乃は下校しながら俺と喋っているとき、頻りに周囲を気にしている。その様子に俺は何の疑問も持っていなかった。
数日たった後、俺は秘凜乃をカウンセリング室に呼ぼうと思った。そろそろ、悩みを話してくれるんじゃないかと期待していたんだ。
しかしその日の放課後、秘凜乃は学校に現れなかった。原因はわからない。その次の日も、その次の日も。一週間、秘凜乃は学校に現れなかった。
俺のせいだろうか? やっぱり押し付けがましかったのか? そんなことが頭の中を駆け巡る。
ネムはあれから、俺が鏡から制服を取り出し時々学校に来ている。完全に不法侵入だが、こいつが来たい来たいと、うるさすぎるから仕方なく連れてきている。
ネムには、制服と同じく鏡から取り出した眼鏡を掛けさせている。制服は普通の制服だが、この眼鏡は違う。言わば勘違いを起こす眼鏡だ。ネムがこの学校の生徒だと思わせる眼鏡。
その名も、催眠ゴーグル。そのまんまかよとか、そもそも眼鏡じゃないとか、いろいろ突っ込みたくなったけど、ネムが自信満々につけたんで、もういいやと諦めた。
俺は放課後、カウンセリング室に訪れた。姫川先生なら、なんとかしてくれる。そう思ったからだ。
ネムを引き連れ、カウンセリング室にいくといつもと同じように姫川先生はそこにいた。
「あらいらっしゃい条ヶ崎君。ネムちゃんもいらっしゃい」
ネムが学校を訪れるたびに、姫川先生の所に連れて行った。俺では、こいつの相手をし続けることは出来ない。そういう意味でも姫川先生に感謝している。
頻繁に会っていたおかげで、ネムと姫川先生はとても仲良くなったみたいだ。二人でお菓子を食べながら、しりとりをしている。
「ラッパ!」
「ぱらそる!」
「ルールに縛られた人間共」
「もういい、きさまたちにいきているかちなどない」
「いい加減認めたらどうだ? この世界に本当の秩序などありはしないと」
「とくににんげん……きさまたちはなんとみにくくおろかなのだ……」
「もうしりとり関係ねーよ!」
突っ込まずにいられなかった。手を顔のところに持ってきて、まるでどこぞのお姫様の様なポーズをとっている。
「なんなの? お前らどこの、世界征服しようとしている魔王? 何勝手に人類説得しようとしているんだよ!」
「オウサマけちけちうるさいね、けちけちのけちんぼだよ」
「そんなんじゃ彼女に逃げられるわよ」
「どんなことで彼女に逃げられるか! てか、彼女なんていないし!」
しばらく団人で談笑し、ネムが勝手に保健室のベッドで寝始めたところで本題に入った。
「姫川先生、実は一週間前から秘凜乃が来ていないんです」
俺は神妙な面持ちで姫川先生にそう言った。姫川先生は、悲しそうな表情でこっちを見る。
「残念ながら、私も貴方もどうすることもできないわ。彼女、秘凜乃ちゃん転校するみたいなの」
「え……」
突然の話に、俺はの頭は真っ白になった。これからどうやって仲良くなろうとか、悩みを聞いて一緒に少しずつでも解決していければいいなとか。
そんな馬鹿みたいだけど、少しでも助けになれたらいいななんて考えていた。勝手に自分の頭の中で思い描いていたことが、ことごとくバラバラに散っていく。
「待ってください! いくらなんでも急すぎますよ」
俺は声を張り上げてしまった。どうにもならない現実を、やるせない気持ちを、一体どこにぶつけたらいいのか分らなかったんだ。
「条ヶ崎君、私に怒鳴ってもどうにもならないわよ。それに、引っ越しは秘凜乃さんたちの意志。私たちが、とやかく言う権利は無いわ」
そう冷静に突き返された。俺は拳を握りしめ、悔しさに歯を噛み締める。
「条ヶ崎君……あなたの気持ちも十分わかるわ。彼女を助けてあげたかったんでしょうけど、これは秘凜乃さん自身の問題。彼女自身が変わらないといけない」
姫川先生は、悲しそうな表情で話を続ける。
「心の問題には時間が必要なの。時間をかけて、他者と、自分自身と向き合っていかないといけない。時間が解決してくれるって言葉があると思うけど、あながち間違ってないと思う」
「け、けど、」
「貴方は彼女の悩みに気づいただけ。まだ何もしていないわ。その様子だと、秘凜乃さんが貴方に少し心を開いてくれたみたいね。けれど、問題はもっと深いところにあるのよ」
俺は深くうなだれた。軽い気持ちで誰かを救おうと思ったから、こんなことになったんだろうか。
いや、初めから俺は無力だったんだ。なのに、ちょっと不思議な力を手に入れたからって、何でも出来る気になっていた。俺は本当に馬鹿だ。
「彼女はどうして転校を……」
「親御さんの都合らしいわ。詳しいことは分からないけど」
結局何も出来なかった。王様探しのついでに、人の悩みを解決しようと意気揚々としていた割に、俺は何一つ出来なかったんだ。
調子に乗っていた。そう言われればそれまで。自分の無力さを恨んだ。そうだ! 鏡から時間を巻き戻す装置を取り出して……。
いや、きっと何も変わらないだろう。根本的なことが分かっていな俺に、誰かを救う事なんて出来なかったんだ。
俺は失意に飲まれながら、カウンセリング室を後にした。
「オウサマねむい……」
俺は寝ぼけ眼のネムを引っ張りながら、下校していた。ネムはフラフラと千鳥足になって歩いている。背中にはまた、あの大人の身長並みにデカい鏡をひもで括り付け、ランドセルのように背負っている。
「また持ってきたのか」
ネムは時々、この鏡を背負って登校してくる。俺でも結構重いと思うこの鏡を、平気な顔で背負っているこいつはいったいなんなんだ?
どう見ても筋肉質じゃない、一般的な女子高生の体つきをしている。毎回持ってくるたびに好機の目で見られるから、やめてほしいんだけどな。
「なあ? ネムはなんでその鏡を背負ってくるんだ?」
ぼかーんとした顔で、俺の顔を見た後、ネムはきりっとした顔になって言った。
「それにはとってもじゅうようなりゆうがあるのね。じつは……あっ!」
急にネムは俺の後ろの方を見て指を指す。それにつられて振り向くと、そこにはどっかで見たことがあるような女子高生の姿が見えた。
手には、スーパーのビニール袋を提げている。ビニール袋は食材やら雑用貧やらが多く入っているのか、結構大きく膨らんでいた。
「りんりんだ!」
そう言ってネムは一目散に、その女子高生に向かって走り出した。俺も慌てて走り出す。
りんりんとは、ネムが勝手につけた秘凜乃のニックネームだ。なぜ、ネムはあの女子高生を秘凜乃のニックネームで呼んだのか。なぜ、俺は今までにないほどに心臓が高鳴っているのか。
その答えは、あの女子高生の顔を見えればわかる。
数メートル先を走っていたネムに、ようやく追いついた。目の前には遠くにいたその女子高生がいる。ネムがキラキラした顔で、その女子高生に何か話しかけている最中だった。
俺は、何とも言えない気まずい気分になり咄嗟に顔をそむけた。そして、意を決してその女子高生を見た。その女子高生は、間違いなく倉前 秘凜乃だった。
だが、何か違う。決定的に違う。秘凜乃は怯えた表情で俺たちを見ていた。そして、
顔にひどい痣と、絆創膏が貼り付けられていた。
「どうしたんだ……秘凜乃。何があったんだ?」
俺の質問に答えようとはしなかった。代わりに怯えた目でぶるぶると震えだしている。
「いや……来ないで……こないで!」
そう叫ぶと、秘凜乃はもうダッシュで走り出した。ネムは、豹変した秘凜乃の様子に呆然としている。そして俺も呆然としていた。
とっさに我に返り、秘凜乃を慌てて追いかける。秘凜乃は必死の形相で、まるで殺人鬼にでも追いかけられているような悲鳴を上げながら逃げ続けた。
数分間、全速力で追いかけやっとのことで追いついた。行き止まりの路地で、秘凜乃は立ち往生している最中だった。
ネムも、すぐに俺に追いついた。というか、そんなに重い鏡をぶら下げてよくそんなに走れるな。
秘凜乃は地面に座り込み、壁にもたれ掛るようにしている。まるで、その表情は追い詰められたホラー映画の被害者のようだった。
何が彼女をそうさせたのは分からない。だが、これだけはわかる。
俺のせいだ。
俺のせいだ、俺が何かをしてしまったんだ。一体、自分が何をしたのかはわからない。何が彼女をそこまで追い詰めたのか、わからない。
だけど、そこまで追い詰めたのはなんであれ俺なんだ。その理由を、秘凜乃に聞くまでは……秘凜乃に謝るまでは。何としてでも傍にいないと。
「はぁ……はぁ……」
全速力で走ったためか、息が切れて中々喋り出せない。聞きたいことは山ほどあるのに、呼吸がそれを邪する。ネムは横で、心配そうな顔をしている。
ネムが背負っているあのデカい鏡には、怯えた表情で壁にもたれ掛かっている秘凜乃が映っていた。
すると、鏡の映っている秘凜乃の背後に、あの黒い影が見えた。その影は秘凜乃の首へと、一直線に腕を伸ばす。
危ない、そう思った瞬間。その黒い影の手は、秘凜乃の首をスルーした。
そして、鏡から飛び出した。突然の事に、驚くとか叫び声を上げるとか、そんなこと一切できなかった。いや、考えられなかったんだ。その非現実的な現象に、全て圧倒されていた。
鏡の中から物が取り出せるというのも、非現実的な現象であることには間違いない。俺の右腕がその鏡に突き刺さるのもそうだ。
けどそれは、どこか映画や漫画を見ている感覚だったのかもしれない。実はネムの仕掛けたマジックだと、心のどっかでまだ思っていたのかもしれない。
そしてその現象はいつの間にか、俺の当たり前になっていた。
でも今回は違う、鏡の中から現実に意志を持った何かが出てきている。悪意を持った何かが。
物じゃなく、意志を持った現象だ。実態があるのかどうかわからない。けどそれは確実に、目に見えていて、鏡から飛び出しネムに襲い掛かろうとしていた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
俺は思いっきり鏡に向かって蹴りを入れた。鏡が割れてくれたら、もしかしたら消えてくれるかもしれない。そんな甘い考えだ。
だが、現実は違った。
「な、何だよこれ……」
黒い影によって真っ黒に染まった鏡に、俺の足が突き刺さっている。ありえない。今まで鏡の中に入れたのは、右腕までだったはず。
いや違う。もうこれは鏡じゃない。得体のしれない黒い影自身に、俺の足が突き刺さったんだ。
「オウサマ! どうしたの!」
ネムは慌てた様子で俺の事を見ている。だが、頭がパニックになって言葉が出てこない。その間にも、どんどん足はめり込んでいく。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ! 抜けないっ! 抜けないっ! どんどん入っていく……いやだ、誰か」
慌てた様子で、ネムは背負っていた鏡をおろした。そして突き刺さった俺の足を、一緒に引っ張ろうとしが黒い影に突き飛ばされた。
「ネムっ!」
そのまま突き飛ばされ、ゴロゴロと転がって行った。秘凜乃の方を見ると、気を失って仰向けに倒れているところを、黒い影の腕に取り込まれていた。
もう駄目だ。どんどん体が黒い影に入っていくのを止められない。俺はそのまま黒い影ごと鏡の中に全身入っていった。
真っ黒な闇の中、どこまでもどこまでも落ちていく。底が無い。見えやしない。何も、見えない。
俺の叫び声は木霊し、何重にも渡って聞こえた。まるで、地獄の悪魔の叫びのようにも聞こえた。
「あ、ああああっ、うぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
そのまま、数分。いや数十分にも感じる長い時間の中、ようやく俺は底に落ちた。底に落ちたのに、何も感じない。何の音もしない。まるで、宙に浮いている感覚。
そして、壁の様な闇の威圧感。真っ暗で何も見えないのに、大きな壁に囲まれているように感じる。
ふと、ポケットの中が熱いことに気づく。
探ってみるとあのカメラだった。秘凜乃の心を写したカメラ。微かに発熱し、震えているが画面は真っ暗だ。あれから何週間も経ったのに、一向に消えずに残り続けた。
いったいなぜ。あれから壊れたように動かなくなったのに。
「うっ!」
急に火傷するほど発熱した。思わず手を放し、落としてしまう。そのままカメラは、真っ暗な底に転がり落ちた。
上を見てみると、星の様な物が中心に一つだけ見えた。そこから光が一筋に降りてきている。
まさかと思うが、あそこが鏡の出入り口か? 物理法則が捻じ曲がっている……いったいどこなんだここは?
さっき落としたカメラを見てみた。カメラは白い煙を上げ、ぶくぶくと泡立って溶けていく。
俺はその様子を呆然と見ていた。ドロドロに溶けたカメラは、真っ黒な液体になり泡立てながら大きくなっていく。
肥大化したその泡は、一つ一つ大きな目のようになり、口のようになり、どんどん膨れ上がってゆく。
あまりにも不気味なそれに、思わず俺は嗚咽を漏らしてしまった。
ぱんっと言う音が鳴ると、その気持ち悪い泡は消えて中心に人が現れた。そこにいたのは、秘凜乃だった。しかし、今より若い。中学生くらいか?
まさか、ここは秘凜乃の心の中なのか?
真っ黒な制服を着ている秘凜乃は、何かぶつぶつとつぶやいていた。最初は何を言っているのか聞こえなかったけど、徐々にはっきり聞こえてきた。
「でもでも、仕方ない。だって仕方ない。でもでも、仕方ない。だって仕方ない」
「秘凜乃?」
俺は恐る恐る、秘凜乃を呼んでみた。しかし、秘凜乃は何も答えない。次第に口数は増えていった。
「でもでも、お母さんんが私を置いて逃げたから仕方ない。だっててててお父さんが一人寂しくなっちゃうから仕方ない」
秘凜乃の声は、少しずつ大きくなっていく。周りの闇の壁に反響して、より不気味に聞こえる。
そして、周りの闇が少しずつ近づいてくるような錯覚に陥る。俺は不気味なそれを呆然と見ているしかなかった。
「お母さんが私を置いて逃げたから。私を捨てたから、仕方がないのずっと私は一人。もう真っ黒なのは嫌だ。暗いお仕置き部屋、物置の誰も近づかない埃の被った物置部屋」
秘凜乃は坦々と話を続ける。俺はただ、秘凜乃の言葉に耳を傾ける。
「とても怖い場所。何も見えない何も聞こえない。だんだんだんだん、真っ黒が迫ってくるの。そしてわたしを押しつぶそうとするの」
何かが物音を立てた。秘凜乃の声意外にここに来て初めて聞いた、自分の声意外の音。それは、まるで何か重いものを引きずるような音だ。
「暗い暗い、怖い怖い。何も聞こえない、息が出来ない。真っ黒に潰される、誰か誰か助けて。怖いの、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」
秘凜乃は頻りにそう呟く。音はだんだん大きくなってくる。音は周囲全体から聞こえていた。
まるで、真っ黒の闇の壁が迫ってきているような感じがする。時間が立つつれにだんだん息苦しさを感じた。
「だから、その物置を開けてまた光のある場所に連れてくれたお父さんは、私の恩人。でも、それは間違い。本当は知ってたんだ、その物置に閉じ込めたのはお父さんだって。私を苦しめるために閉じ込めたんだって」
秘凜乃の顔は無表情だ、感情の欠片すら感じられない。いや、感情を必死に隠しているのか。
「お父さんは言った。『俺の言うとおりにしろ』『誰とも仲良くするな』『あの阿婆擦れの話をしたら殺す』阿婆擦れって言葉、意味は分からなかったけどお母さんのことだってすぐわかった」
周囲に響く音はさらに大きくなる。凄まじい圧迫感だ。ここが秘凜乃の心の中だとするなら、彼女はこの圧迫感を毎日抱えていたことになる。
それは地獄だ。誰にも悩みを打ち明けられず、親に束縛される毎日。辛いなんて言葉で表しきれるものじゃない。
「お父さんは私を毎日殴るけど、愛されているならいいの。私は毎日孤独だけど、家族がいればいいの。だって、この世で一番大切なのは家族だから。他人よりも、私を捨てた母よりも、自分よりも」
「孤独で愛されてるなんて、矛盾してるだろ! なんで逃げない? 相談しない? いつだって周りに頼れたはずなのに、俺にも!」
俺の声は、反響し響き渡る。しかし、秘凜乃に反応は無かった。あの真っ黒な学生服を着た秘凜乃は、表情を変えることは一切なかった。
「いいよね? 愛されてるなら。いいよね? 家族がいるなら。だからもういいの、疲れたの。楽になりたいの。他のみんなみたいに、お化粧したり、会話したり、遊んだり、しなくてもいいしなくてもいいしなくてもいいしなくてもいいしなくてもいいしなくてもいい」
まるで、壊れたカセットテープのように、同じ言葉を繰り返しつぶやく。その異様な様子を、俺はただ見ていることしかできない。握りしめていた拳から血が流れる。
「しなくてもいいしなくてもいいしなくてもいいしなくてもしなくてもいい……わけねぇだろ!」
急に豹変し、怒ったような泣いているような不気味な表情になり、大声でどなり散らす。俺は思わず腰を抜かしてへたり込んだ。
「もうやだやだやだやだやだやだやだ。かわりにかわりにかわりにかわりに、私の代わりにだれかだれかだれかだれかだれかだれかだれか」
言葉は底で途切れた。重い沈黙、声すら出せない圧迫感。どんどん狭くなってくるこの空間。本当に辛い。辛すぎて死にたい。もし、死ぬことが許されるなら……。
いや、俺は何を考えているんだ。俺は圧迫された秘凜乃の心に影響され、憔悴しきっていた。
「秘……凜乃」
ようやく絞り出せた言葉は、周りの迫りくる闇の壁の音に掻き消される。秘凜乃は頭を抱えうずくまっている。そして、
「私の代わりに誰か死ね」
とっさに、顔を上げ俺の方を向いた。感情のない顔に、不気味なほど見開いた光のない目が異様に映る。そこには、俺の知っている『人間』と言うものはいなかった。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死死死死死死44444444444see see see see see see see see see see」
負の感情が溢れだすように、秘凜乃の体は不気味な黒い影へと変貌し、それは黒いドロドロとした液体のように変化した。そしてそれは肥大化し、巨大な人のような形を作る。
しかしそれは、泥人形のように不完全で不気味で、顔の先端に無数の鮫の様な歯がびっしりと生えている。
本気で殺す気だ。咄嗟にそう思った。人の心の中で死ぬとどうなるか、まったくわからないしそもそも死と言う概念すらあるのか不思議だ。
けど、俺は確実に目の前の不気味な物体に恐怖した。そして願った。神に、仏に、そして自分自身に。
死にたくないと。
俺は慌てて立ち上がり、襲いくる何かから必死に逃げた。真っ暗な空間の中、距離なんてわからない場所をただひたすら逃げた。
そして、壁に当たった。それは死を意味していた。冷たく硬い、闇の壁は鈍い引きずるような音を立てながら、徐々に動いている。
「うわぁぁぁぁぁぁ! なんでだよ! なんでなんだよぉ!」
俺は必死に壁を叩くが、冷たい金属音のような音が鳴るだけでビクともしない。そして、ついに俺は背後の気配に気づく。
そこには、異形なものがいた。人間の不完全なドロドロの泥人形。およそ顔に当たる部分に、びっしりと生えそろった鮫の歯を広げ、無い足を引きずりながら鋭い爪を立てにじり寄ってくる。
声は出なかった。恐怖のあまり、何も考えられない。ただ俺は、死の運命と言うものを受け入れようとしていた。
ぱさっと、何かが目の前に落ちてきた。それはよく見慣れたものだった。ネムのベレー帽。空のように澄んだ青色のベレー帽。
しかし、今は遥か上にある出口から漏れる薄い明りで、暗い藍色に見える。ゆっくりそれに近づき、そっと手に取る。ほのかに暖かい。
じんわりと、熱いものが頬を伝うのを感じる。俺はそれを胸に抱いた。真っ黒な冷たい空間の中でそれだけが、俺に温もりをくれるものだった。
「もしもし、はろー? オウサマきこえーる?」
ん? 能天気なネムの声が聞こえた。走馬灯の音バージョンだろうか? 恐る恐る、ベレー帽を広げてみる。何もない。やっぱり幻聴だ。
「もーしももっし? はろー? えくすきゅーずみー?」
「欧米か!」
「おーおー! きこえてるみたい。よっしよしよし!」
ネムは嬉しそうな声を出してる。なんだか、さっきまでのホラーの雰囲気が全部吹き飛んだような感覚だ。思わず、突っ込んで島田自分が憎い。
「オウサマ、とにかくそのぼうし、かぶるのね!」
言われた通り、帽子を被った。ネムが何かしてくれるのだろうか? これで現実の世界に戻れるとか?
「はーい、いくよー!」
ネムの声がしたと思うと、急に俺の周りが光り輝いた。真っ暗だった空間が照らされる。周りは全て、古い物置の様な薄汚れた壁のだ。そして、目の前には醜い怪物。
目が無いのに、眩しそうに顔を抑えている。そして俺は宙に浮き、キラキラと輝いた。
眩しい光から出ると、俺は奇妙な格好をしていた。頭には安物の王冠がへばりつき、手と足には蛙のコスプレの様な手袋とブーツ。服はまるで、おとぎ話に出る様な王様の様だ。
そうまるでこれじゃ、かえるの王様じゃないか! なんだよこれ!
「どどど、どういうことだこれ? お前はわざわざ俺にこんな気持ち悪いコスプレをさせる為に、無駄な労力を使ったのか?」
半ギレ状態でネムに尋ねる。ネムは、自信満々の声で答えた。
「それは、すーぱーうるとらとろぴかるむてきすーつなのである! ネムネムのなんだけど、こんかいはとくべつに、オウサマにかしてあげるのです」
「馬鹿にしてるよね?」
「いいかい? こころのなかで、つよいじぶんをおもいうかべるのだ! そして鉄拳制裁! あーゆーおけー?」
「なんで鉄拳制裁だけちゃんと喋れてるんだよ……」
ああもう、こうなりゃ自棄だ! やってやるよ。戦えばいいんだろ? 秘凜乃には悪いが、精一杯正当防衛させてもらうぜ。
その泥人形の様な怪物は大きな雄たけびをあげ、物凄いスピードで俺の方へ突っ込んでくる。
俺は、格ゲーのキャラのように右手に力を溜め、体を構える。そして、人間何十人分と言うデカさの怪物が、俺を食べようと大きく口を開け飲み込もうとすると同時に、アッパーを繰り出した。
激しい衝撃、まるで思いっきりコンクリートの道路に正拳突きをしたような感覚。ゴキっと鈍い音がした。次の瞬間怪物の頭は思いっきり上に吹っ飛んだ。
「うげあああああああああああ!」
俺の悲鳴は化け物の断末魔に掻き消される。完全に指が変な方向に折れ曲がっている。化け物の歯が何本か吹き飛び、あちこちに散らばった。
だが、痛がっている余裕は無い。化け物は、息を持つかせず追撃をする。再度襲い掛かってくる化け物を交わし、ジャンプする。
すると、まるで水の中にいるように軽くそのまま三メートルほど浮き上がった。自分が思い描いた通りに動いている。これは、すごい。
「くそがぁぁぁぁぁぁ!」
そのまま化け物の頭にかかと落としをした。まるで、餅のように化け物頭は潰れ、地面に突っ伏す。
衝撃が、音となって辺りに轟音が鳴り響いた。手ごたえはあった、しかし固い。
べきっと音がなり俺足首がぷらーんと垂れた。俺はうまく着地できずに落下する。落ちた衝撃はなかったものの、余りの痛みに立ち上がれない。
どうなっているんだ、この化け物。泥人形の様な姿をしているくせに、死ぬほど固い。このままじゃ、俺の身がもたないし、立ち上がることすらできない。どうすればいいんだ……。
じんわりと脂汗が浮き出る。化け物は唸りながら体を起こした。上の歯と下の歯が突き刺さり、口が開けなく名ている。何とか開こうと、化け物はもがいている。
「い、今のうちに……」
俺はゆっくり立ち上がろうとしたけど、痛すぎて体を動かすことすらできない。右手も激痛で支えることもできない。
まずい、まずい、まずい! こんなんじゃ、とてもじゃないが勝てない。死ぬ。死ぬのは嫌だ!
また死の恐怖が俺に襲いかかったきた。今度は、痛みと言う現実を引き連れて。
涙目になりながら体を引きずって下がる。ただ化け物から逃げることしか、考えられなかった。
「オウサマ! 逃げちゃダメ、オウサマほんとはとってもつよいの!」
「無理だ、無理に決まってるだろこんなの! 非現実的で、わけのわからないことに巻き込まれて、逃げない方が可笑しいだろ? 勝てないよ、勝てないんだよ……」
俺は、今にもだ泣きだしそうな気持ちを必死に歯を食いしばって繋ぎとめ、できるだけ化け物から遠ざかろうとした。
「オウサマのちからはこころのちから、おもえばおもうほどつよくなるの。だからおもいだすのね! りんりんのこと。みんなのこと、オウサマのぱぱさんままさんのこと、つよくおもって!」
みんなの事、秘凜乃の事、父さん母さん、ネム。くそ、秘凜乃の事助けたいって思ったのに。結局叶わなくて、最初は邪な気持ちも少しあったよ。もしかしたら、彼女とか。
でも本当は、そんなの関係なくただ助けたかったんだ。秘凜乃の孤独を感じて、それに似たようなものを俺の中にも感じて。
同じ同級生として、友達として。秘凜乃は俺の事どう思ってるかわからなかったけど、俺はただ、特別な理由なんかなくて。ただ、ただ純粋に……助けたかったんだ!
救いたかった! 笑顔になってほしかった! 明るくなって、みんなと話せたらきっともっと楽しくなれる。それは俺の只の自己満足でしかないのかもしれないけど、それでも俺は。
助けたい! 助けたい、助けたい、助けたい! くそ、俺に力があるのならさっさと力を貸せ! 勿体ぶるな! ピンチで強くなって嬉しいのは、漫画の中だけなんだよ。
今目の前で苦しんでいる人を、助けられる力が本当にあるっていうのならさっさと力を貸しやがれ。
「秘……凜乃……助ける。だから……俺に、なんでもいいから、力を」
俺は思った、助けたいと。それ以外考えない。考えられない。秘凜乃が真っ暗な心の中に囚われているいるんだとするなら、それをぶち壊すための力を。
「力を貸せぇぇぇぇぇぇ! ネムぅぅぅぅぅぅ!」
俺の叫びは真っ暗な心の中を響き渡る。力が湧いてくる、温かい何かが流れ込んでくる。気が付くと、俺は立っていた。自力で立ったのか、何かの力で立ったのか、覚えてない。
熱過ぎるほどに発熱した右手は、絶えず発光している。折れたはずの右手の指が完全に元通りになっていた。左足も、元に戻っている。
右腕の熱が、全身に渡っていく。徐々に体が発光していき、最後には全身光に包まれた。温かい、やさしい白い光に。
体が燃えたぎるように熱い。まるでサウナに入っているような気分だ。けど、不思議と気分は悪くない。むしろ最高だ。
体の、おとぎの国にいそうなかえるの王子様のような服装は、発熱とともに姿を変え、固くずっしりと重くなっていった。
まるで、西洋の甲冑の様な全身に鮮やかなもう用の入った白銀の鎧。ちっぽけで、粗末だった王冠はずっしりと重く、光り輝く宝石と装飾で王の風格を感じる。
まさに、一国を背負う騎士の様な姿になった。体から、助けたいという思いが力となって、熱となって溢れている。
俺自身が発している光で、周りが明るく照らされる。泥人形の化け物は、上の歯と下の歯が突き刺さったまま、目のない顔を必死に眩しそうに隠している。
「今度は負けない。秘凜乃の心を縛っているのがお前なんだとするなら、ここで倒さなきゃならない」
そして俺は大きく息を吸い、足に力を込める。
「なぜなら俺は、秘凜乃の友達だからだ。異論は認めない」
そして、思いっきり蹴った。瞬きした瞬間、もう既に目の前に化け物がいた。まずいと思い、手を前に突き出すも、間に合わない。
そのまま激突、貫通した。しかし、まるで豆腐のようにずるりと抜けた。さっきまでの固さはどこへやら、そのまま俺は反対側の壁に激突した。
激しい音と衝撃はあるものの、体は何も感じない。そのまま綺麗に着地した。後ろを振り返ると、化け物の真ん中に、大きな穴が開いていた。周囲は焼けただれ、ボロボロになっている。
「これはすごいな……」
なるほど、これが心の力か。化け物は、今にも死にそうな鳴き声を上げながら、ボロボロに崩れて行った。そして、その残骸の真ん中に、秘凜乃はいた。依然として真っ黒な制服を着て、無表情。
だけど、今の俺なら何とかできる。理由や根拠はないが、自信が泉のように湧いてきていた。
このまま、秘凜乃の心を遥か上にある出口まで。この暗い穴の中から出してやるんだ。そう思っていた。
俺がゆっくり近づくと、今まで感情のなかった秘凜乃が嘘のように、必死の形相になって叫んだ。
「来ないで、お願いだから来ないで! こんな自分にも自然と友達ができるんだって、これからもっともっと楽しいことや、お話もしていいんだって思ってたけど、やっぱり違った」
「違くない。これからも、いろんなことは話しようよ、まだ一週間ちょっとしか話せてないじゃないか」
「助けてもらってうれしかった。こんな自分でも、生きてる価値があるんだってそう思った。でも、やっぱり違った」
「違くない。これからも、生きてていいんだ。一度だけの人生、もっともっと楽しいんでいいんだよ」
「ダメダメダメダメ……」
「駄目じゃない!」
俺はありったけの声で叫んだ。秘凜乃は泣きそうな表情で俺を見ている。
「そうして否定するの?」
「否定したいからだ」
「どうして私を助けるの?」
「助けたいからだ」
「私……ここから、出ていいの?」
「もちろんだ」
そう言って俺は、今にも泣き崩れそうな秘凜乃に手を差し伸べた。秘凜乃は、白く優しそうな手で、俺の手を取ろうとする。次の瞬間、何かが上から落ちてきた。
それは、鋼鉄の格子だった。それが、まるで秘凜乃を取り囲むように落ちた。秘凜乃は隙間から、必死に手を伸ばす。俺も秘凜乃の手を掴み、引っ張ろうとする。
けど無理だ。子の格子をどうにかしないと。どうすればいい、どうすれば……。
「ヒりのハワタさない」
声が聞こえたと思った瞬間、何かに思いっきり吹き飛ばされた。俺はそのまま、壁にたたきつけられる。何があっても動じなかった壁が、大きな音とともにひび割れ、俺はめり込んだ。
衝撃で杯の空気が全部外へ出る。思わず吐きそうになった。
「お……え……」
地面に落ち、その場でしばらくもがく。今まで感じたことのない痛みに、意識が飛びそうになる。
「な……なんだ」
「助けて、条ヶ崎君……助けて……」
秘凜乃は鳥かごの様な物に囚われていた。そして、その鳥かごを押さえつけるようにさらに巨大な、大巨人の様なピエロの姿の何かがいた。
その顔は、ニッコリ優しい顔の仮面に隠されている。そして、気持ちの悪い笑い声をあげていた。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
「なん……だよ、お前。何が可笑しい?」
「ありがとう、条ヶ崎君。君の事は秘凜乃からよく聞いているよ。秘凜乃がお世話になったようだね」
急にそのピエロは、畏まったように話し始めた。気持ちが悪すぎて、また吐き気がぶり返す。
「本当にありがとう。でも、もう君の助けはいらないよ。これからは私が、秘凜乃のお父さんが守っていくからね。だからも……オワりにシシシシシようか?」
ドン! と言う衝撃とともに、その優しい顔の仮面が剥がれ落ちた。そして、ピエロのの真っ黒な顔に文字が浮かび上がる。
『キョウイゾン』
まるで、3D映画のように浮き出た文字が、血の様な赤色になり、ぐにゅぐにゅと動いている。それは完全にホラーだった。
「う、気持ち悪い……」
思わず呟く。だが、すぐに心を入れ替えた。心の強さが力になるんだとしたら、奴は相当手ごわい。さっきの一撃、俺の鎧にヒビが入るほどの衝撃だった。
もうすでに、鎧のヒビは治っているが、それほど秘凜乃はあの父親の存在に捕らわれているってことだ。あいつをぶん殴って、こんな悪夢終わらせてやる。
決意の拳を固く握り、ピエロの様な秘凜乃の父親を睨む。白銀の小手が、真っ赤に発熱して輝く。
「あんたには、きっとこっちの方が分かりやすいよな?」
「ひりひりひりひりひり。ひりノには、ワタしがイレバイインダ。ほかのだれもヒツようナい。ダカラヒリノも、ワたしイガイとセっしょクするな、いっしょうワたしのセワをしろォォォォォォォ!」
ずんっと、重い拳が地面に振り下ろされる。秘凜乃は泣き崩れ、鳥かごの格子を必死に引っ張っている。悲惨な光景だ。
全て終わらせる。もう他人事じゃない、たまたまこういう力を持って、こういうことになってしまったからこそ。俺が責任を持って全てを終わらせる。この力があるからこそ、終わらせられる。
もう比凜乃が王様かどうかなんて必要ない。ただ目の前で苦しんでいる人を救うだけだ。
そしてゴングの鐘は、静かに鳴り響いた。




