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潮待ちのレール ― 夜航の灯り ―  作者: たむ


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第一章 最終列車のあと

 春口の夜は、最終列車が出てから本番になることがある。


 昼のあいだ、この町は駅と港のあいだを人が行き来し、宿の帳場に名前が記され、商店の戸が開いては閉じることで成り立っている。

 けれど、そうした目に見える動きがひととおり収まったあとにも、春口の時間は終わらない。

 むしろ、人が昼のうちに処理しきれなかったものは、たいていそのあとで濃くなる。

 最終列車のあと。

 駅の白線がただの白い線に戻り、待合室のガラスが夜の色を映し、港のほうで灯りだけが低く並び始めるころ。

 昼には言葉にならなかったことが、ようやく心の中で形を持ち始めるのだ。

 春口は、そういう町だった。


 夏の終わりに湊が春口へ戻った日も、夜はゆっくりやってきた。


 日中はまだ暑い。

 だが日が落ちるのは、もう真夏より少しだけ早い。

 海沿いを走る列車の窓から見えた瀬戸内は、夕方の光を鈍く返し、島影の縁だけを濃くしていた。

 夏が終わるとき、せとうちの景色は急に寂しくなるわけではない。

 むしろ、何も失っていないような顔をしたまま、少しずつ光だけを減らしていく。

 その静かな移行が、この町にはよく似合うと湊は思った。

 第六作の岬で見届けたものもまた、劇的に終わったわけではない。

 父の遅れた朝も、澄江の静けさも、千紘の視線も、消えずに残ったまま、自分の中で置き方だけが変わった。

 ならば次に来るのは、そのあとに残る夜なのだろう。

 そう考えると、春口へ戻る今回の列車は、これまでより少しだけ深いところへ入っていくように感じられた。


 春口駅に着いたとき、空はまだ完全には暗くなっていなかった。

 ホームの白線は薄い灰色を帯び、赤い屋根の待合室のガラスには、海の側の残光がうっすら映っている。

 汐里は改札の外ではなく、ホームの端に近いところで待っていた。

 以前なら、宿へ戻る人の立ち位置だった。

 今は少し違う。

 彼女自身が、春口の駅の時間もまた自分の中に引き受け始めているのだろう。

 宿の主でありながら、駅のホームに自然に立つ人の顔になっていた。


「おかえりなさい」

 彼女が言う。

「ただいま」

「今日は、少し遅い時間ですね」

「今回は、そのほうがいい気がして」

「夜の春口を最初に見るために?」

「ええ」

 湊が答えると、汐里は小さく頷いた。

「私も、そう思っていました」


 駅を出て坂道を下りる。

 港のほうには、もういくつか灯りが点き始めている。

 商店のシャッターは半分降り、昼のあいだ賑やかだった岸壁も、いまは船のエンジン音より人の足音のほうがよく聞こえる。

 春口の夜は、静かになるというより、残るものだけが選ばれていく感じに近い。

 駅の明かり。

 港の灯り。

 宿の帳場の灯り。

 遠くの船灯。

 昼のあいだは景色の中に紛れていたそれぞれの光が、夜になると急に意味を持ち始める。

 第七作は、まさにその光の意味へ入っていく巻なのだろうと、湊は思っていた。


「篠原さんから」

 汐里が歩きながら言った。

「今回の資料、先に少しだけ聞いています」

「夜航便のことですか」

「はい」

「春口に、夜の接続があった」

「ええ。昼の便や列車とは違う時間で動くものが」

「それって」

 湊は港の灯りを見ながら言った。

「かなり大きいですね」

「私もそう思います」

「最終列車のあとにも、町の物語がまだ動いていたことになる」

「そうですね」

 汐里は少しだけ視線を上げた。

「母も、たぶんその時間を知っていたんでしょうね」

「ノートに何か」

「“夜の海では、見えないものほど灯りで分かる”って」

「……」

「昼には見えなかったことが、夜には逆に分かることもあるのかもしれません」


 その一文は、シリーズ全体の構造にまで触れているように思えた。

 昼は、物事の輪郭がはっきりしている。

 駅の白線、発車時刻、港の便、宿の帳場。

 けれど、はっきりしすぎているぶん、人の中の曖昧な感情はかえって紛れてしまう。

 夜になると逆だ。

 世界の輪郭は消える。

 その代わり、小さな灯りだけが残る。

 その灯りで、見えないはずのものの位置がかえって分かる。

 父も、澄江も、その時間を生きていたのかもしれない。

 第六作で「見届ける」ところまで来たあとに、第七作で「夜」を描く意味が、そこではっきりした気がした。


 宿へ着くと、帳場の灯りがすでに点いていた。

 昼の灯りではなく、夜の帳場の灯り。

 第四作では、この灯りが一夜を預かるものだと知った。

 今夜見ると、それにもう一つ意味が加わっている気がする。

 見届けたあとにもなお残るものを、夜のあいだだけ静かに置いておくための灯り。

 宿〈三崎〉は、昼の宿である以上に、夜の宿でもあるのだろう。


 荷物を置いて階下へ戻ると、居間にはすでに篠原が来ていた。

 今日は布鞄のほかに、古い封筒と、灯火表のような紙束を持っている。

 夜に会う篠原は、昼より少し声が低く聞こえた。

 それはこの町の夜のせいなのかもしれない。

 春口では、人は暗くなると自然に声量を減らす。

 港や海や駅の気配を、邪魔しないようにしているのだろうかと時々思う。


「おかえりなさい」

 篠原が言う。

「こんばんは」

 湊が座ると、彼はすぐ本題に入った。

「今回は、夜です」

「ええ」

「春口の夜航便の記録が少し出てきました」

「夜航便」

「今ほど整理された定期便ではありません。漁や荷の都合、天候、急な運搬、いろいろな事情で遅い時間に動いた接続です」

「昼の便とは別の」

「そうです」

「そして」

 汐里が言う。

「昼には処理しきれなかったものが、そこへ流れていた」

「私は、そう考えています」

 篠原は静かに頷いた。


 灯火表らしい紙を広げる。

 そこには、港の見張りに必要な灯りの見分け方が簡単に書かれていた。

 船灯。

 灯台。

 対岸の家の灯り。

 夜の便の合図。

 沖へ出る船の明かり。

 春口の夜は、昼のように景色で読むのではなく、灯りの種類で読む世界だったのだろう。

 それは鉄道の時刻表とも、港の便ともまた違う“夜の地図”なのかもしれなかった。


「これ」

 湊が言う。

「面白いですね」

「どういう意味で」

「昼の春口は、駅や港や岬みたいに“場所”で読める」

「ええ」

「でも夜は、灯りでしか分からない」

「そうです」

 篠原が答える。

「見えないものほど灯りで分かる。澄江さんの一文は、そのまま港の実感でもあるんでしょうね」


 そのとき、外で最終列車の接近音がした。

 ホームはここから見えない。

 だが、坂の上を渡るレールの振動は宿まで届く。

 湊は耳を澄ませた。

 やがて少し遅れて、停車の気配、扉の開閉、また動き出す音。

 最終列車だった。

 昼のシリーズなら、ここで一日が終わる感じがしたかもしれない。

 しかし今夜は違う。

 むしろ、このあとからが第七作の時間なのだと、音そのものが告げている気がした。


「行きますか」

 汐里が言う。

「港へ」

「ええ」

 篠原も立ち上がった。

「最終列車のあとの岸壁を、まず見たほうがいい」


 三人で宿を出る。

 夜の春口は、昼より狭い。

 見える範囲が減るからではない。

 灯りだけが残るぶん、人の気持ちがそこへ集まりやすくなるからだろう。

 坂道の角には街灯。

 商店の奥にはまだ消えない明かり。

 港の岸壁には低い照明。

 そして沖には、小さな船灯がいくつか揺れている。

 夜の海は見えない。

 だが、見えないからこそ、その中に浮かぶ光が一つずつ意味を持つ。


 岸壁へ着くと、海は黒かった。

 昼なら見えるはずの防波堤の先も、いまは形にならない。

 ただ、遠くに灯りが三つ、少しずつ位置を変えている。

 船なのか、対岸なのか、灯台なのか、湊にはまだすぐには分からない。

 だが篠原は迷わず言った。


「あれは便ではありません」

「どうして分かるんですか」

「揺れ方です」

「揺れ方」

「便の灯りは、もう少し規則的に動く」

「……」

「夜の春口は、そういう見分け方の町なんです」


 その言い方に、第七作の核心が宿っている気がした。

 昼は形で見る。

 夜は揺れ方で見る。

 人の感情もまた同じなのかもしれない。

 昼には言葉にならないものが、夜には小さな揺れ方として現れる。

 父も、澄江も、もしかしたらそうやって自分の中のものを見分けていたのではないだろうか。


 港の風は、もう昼の熱を持っていなかった。

 代わりに、海の冷たさと、終わりきらない一日の名残を少しずつ運んでくる。

 最終列車のあとの春口。

 駅の時間が終わったあと、港の灯りだけが町の続きを受け持ち始める。

 その移行の感じが、ひどく美しく、そしてひどく寂しかった。


「相沢さん」

 汐里が黒い海を見たまま言う。

「はい」

「第六作で、見届けるところまで行きましたよね」

「ええ」

「でも、そのあとも残るんでしょうね」

「たぶん」

「昼に見届けても、夜になるとまた別の重さで」

「そうだと思います」

 湊が答えると、彼女は小さく頷いた。

「だから母は、灯りのことを書いたのかもしれませんね」

「ええ」

「見えないもののほうが、夜にははっきり分かるから」


 篠原はしばらく黙っていたが、やがて岸壁の先を指した。


「昔は、この先にもう少し暗い場所がありました」

「暗い場所」

 湊が訊く。

「夜航便を待つ人が立つような」

「待合ではなく」

「ええ。待合というより、灯りを見る場所ですね」

「岬に似ていますね」

 汐里が言う。

「そうです」

 篠原は答えた。

「ただ、岬が“見届ける場所”なら、こちらは“まだ何かが来るかもしれない夜”の場所です」


 それは、大きな違いだった。

 岬では、追うことをやめて見届けるほうへ移った。

 だが港の夜は違う。

 最終列車のあとでも、まだ何かが来るかもしれない。

 便。

 灯り。

 返事。

 あるいは、昼に言えなかった感情そのもの。

 第七作は、その“まだ終わっていない夜”を描く巻なのだろう。


 岸壁に立ったまま、湊は沖の灯りを見ていた。

 見えない海の上で、小さな明かりだけが揺れている。

 父もこんな夜を見たのだろうか。

 澄江もまた、この灯りの中で宿の帳場へ戻ったのだろうか。

 千紘の不在は、昼より夜のほうで強くなったのだろうか。

 まだ何も分からない。

 けれど、第七作が開く扉はたしかにここにあると感じられた。

 春口の夜は、見届けたあとにもなお残るものを静かに照らし始めていた。

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