第一章 第3話
一階の呼び鈴が、静寂を破った。
「リリ、お迎えだ。丁寧にな」
蓮の指示に、リリはエプロンを脱ぎ捨て、完璧な秘書らしい淑やかな一礼をして部屋を出た。
数分後、部屋に案内されてきたのは、煤けた茶色のコートに身を包み、ハンチング帽を深く被った中年男だった。男は落ち着かない様子で周囲を見渡し、最後にソファで優雅に脚を組む蓮に視線を止めた。
「失礼。……ロケシュ・ヘムラー殿とお見受けする。私はしがない骨董商で……」
「嘘はいい。疲れるだけだ、ダニエル司祭」
蓮は手元のタブレットから目を離さず、氷のように冷たい声で遮った。
男――ダニエルは、言葉を失い硬直した。
「……な、なぜ私の名を。初めてお会いしたはずですが」
「『なぜ』、か。君たちは目で見ているだけで、何も『観察』していないからそうなる」
蓮はゆっくりと顔を上げた。その鋭い瞳は、ダニエルの魂の奥底までスキャンしているかのようだった。
「まず、君の左足の泥だ。その赤茶けた粘土質の土は、ここから三マイル離れた教会の墓地改修現場のものだ。今朝の雨でぬかるんでいたはずだが、君の靴の端にびっしりと付いている。次に右手の指。人差し指の付け根に不自然な凹みがある。それは重厚な聖典を毎日数時間、長年支え続けた者特有の『タコ』だ」
「そ、それは……しかし、それだけで名前までわかるはずが……」
「まだある。君のそのコート、サイズが合っていない。借り物だろう? だが、内ポケットの形だけが不自然に膨らんでいる。君はさっきから無意識にそこを触っている。中にあるのは、枢機卿から預かった私宛の親書だ。……そして、その封筒の裏側。君は緊張のあまり、自分の署名がある場所を指でなぞり続けていたな。指の腹にインクの汚れが微かに残っている」
蓮はニヤリと笑い、傍らのリリに目配せした。リリが手元の小さな板状の道具を操作すると、壁に掛かった黒い板がいきなり光を放ち、鮮明な「風景」を映し出した。
「な……っ!? なんだ、この魔法具は……!」
ダニエルは思わず後ずさった。そこには、つい数分前の、アパートの門の前の光景が「鏡よりも鮮明に」映し出されていたからだ。鏡でも、水晶玉の投影魔法でもない。あまりにも精緻で、色彩豊かな動く絵。
「これが我が家に設置した『神の遠見』だ。君が署名を確認した瞬間、こうして拡大させてもらった。『ダニエル・ケイン』。綺麗な筆跡だな」
画面の中で、自分の署名が壁一面に大きく映し出される。
ダニエルは、あまりの衝撃に膝から崩れ落ちた。魔法力が衰退した現代において、これほどまでの精度を持つ魔法具など、伝説の時代の遺物ですらあり得ない。
(この御方は、女神様の使徒……などという言葉で片付けて良い存在ではない。既存の理の外側にいる……)
「……お、恐れ入りました。女神様が仰った通り……あなたは、過去も、人の隠し事もすべて見通す『神の眼』の持ち主だ」
「買い被りだな。俺はただ、手元にあるデータを整理しただけだ」
蓮はコーヒーを一口啜り、ダニエルを見下ろした。
「さて。枢機卿の使いが、骨董商に化けてまで俺に会いに来た。例の『教会の殺人事件』……犯人がわからなくて泣きつきたいってわけだ。違うか?」
ダニエルは深く頭を下げた。
「その通りでございます。……どうか、その知恵をお貸しください。このままでは、教会は、この国は……」
「いいだろう。依頼は受けてやる」
蓮は立ち上がり、リリが差し出したコートを羽織った。
「ただし、現場では俺が法だ。王族だろうが枢機卿だろうが、口を出せば即座に降りる。……準備はいいか、リリ?」
「もちろんです、ヘムラー先生。必要な機材はすべて鞄に」
リリは楽しげに微笑み、金属製のアタッシュケースを手に取った。
霧深い王都に、未知の論理と科学が、いよいよ牙を剥こうとしていた。




