第6話:1500万という現実
今まで貯め込んだ個人の全財産、1500万円。
これを赤の他人の借金返済に投げ打つバカな男がいるでしょうか?
ここにいます。
ただし、彼なりの「打算」に基づいた決断です。
電卓の液晶に表示された数字を見て、俺は天を仰いだ。
詰んだ。
完全に詰んでいる。
不祥事による違約金、取引先への未払い、そして銀行への返済。
俺が徹夜で財務整理を行い、不要な資産を売却し、削れるコストを限界まで削った結果、どうしても埋められない穴が残った。
金一千五百万円。
今月末までにこのキャッシュを用意できなければ、高村建設は不渡りを出し、法的整理に移行する。
そうなれば義父は全てを失い、最悪の場合、背任で豚箱行きだ。
「……もう、無理だ」
義父が頭を抱えて呻く。
銀行はどこも相手にしてくれない。親戚も全員逃げた。
万策尽きた。
それが冷酷な現実だった。
「ごめんなさい……私のせいで、あなたまでこんな……」
美鈴が部屋の隅で縮こまり、声を殺して泣いている。
その姿を見ていると、胸の奥がざらついた。
暗い。辛気臭い。
俺が帰宅した時、彼女が玄関で暗い顔をして待っている未来が容易に想像できた。
そんな生活は「快適」とは程遠い。
俺は懐からスマートフォンを取り出し、自身のネットバンキングの画面を開いた。
コツコツ貯めた独身時代の貯金。
株の含み益。
将来のために積み立てていた個人年金と保険の解約返戻金。
全てを合算すると、約一千五百万円。
俺が三十年近く生きてきて築き上げた、俺の自由と安心の結晶だ。
これがあれば、離婚して一人になっても数年は遊んで暮らせる。
それを、ドブに捨てる?
あり得ない。正気の沙汰じゃない。
――だが。
俺は舌打ちを一回鳴らすと、銀行の通帳と印鑑をテーブルに放り投げた。
「……使え」
「え?」
「俺の個人資産だ。かき集めりゃ一千五百にはなる。これを当座の運転資金に充てろ」
静まり返るリビング。
義父も美鈴も、ポカンとして言葉を失っている。
「な、何を言ってるんですか!?」
最初に反応したのは美鈴だった。
彼女は血相を変えて俺に詰め寄った。
「そんな大金、受け取れません! これはあなたが頑張って貯めたお金でしょう!? 泥舟と一緒に沈む必要なんてないんです!」
「うるさいな。黙って受け取れ」
「嫌です! 絶対に嫌! 離婚してください。今すぐ逃げてください!」
美鈴が俺の腕を掴み、必死に揺さぶる。
その目からはボロボロと大粒の涙が溢れていた。
自分が助かることよりも、俺の財産を守ることを優先する女。
本当に、どこまでもお人好しで、馬鹿な奴だ。
だからこそ――放っておけないんだろうが。
「いい加減にしろ!」
俺は彼女の手を振り払った。
そして、涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を指差して、吐き捨てるように言った。
「いいか、よく聞け。俺はな、お前が毎日メソメソ泣いてる姿を見るのが死ぬほど嫌なんだよ」
「っ……」
「お前の親父が破産して、万が一首でも括ってみろ。お前は一生、そんな辛気臭い顔をして生きていくことになるだろうが。俺が家に帰るたびに、お前の暗い顔を見せられる身にもなれ。飯が不味くなる」
俺は彼女の目を見据え、宣言する。
「これは俺の『快適な生活環境』への投資だ。俺の横で笑って美味い飯を作れ。そのための必要経費だ」
とんでもない暴論だ。
一千五百万の対価が「笑顔」と「飯」?
コストパフォーマンスが悪すぎる。投資家が見れば発狂するレベルだ。
だが、今の俺にはこれが唯一の正解だった。
「……あ、あなた……うぅ……」
美鈴はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
義父は床に額を擦り付け、震えながら「すまない、すまない」と繰り返している。
俺は大きく息を吐き出した。
なくなった。俺の金が。
すっからかんだ。
もう後戻りはできない。
俺はこの「高村建設」という泥船のオーナーの一人になってしまったわけだ。
「泣いてる暇があったら銀行に行くぞ。手続きが山積みだ」
俺は美鈴の肩を乱暴に叩き、立ち上がらせた。
彼女は泣きながら、それでも何度も何度も頷いて、俺の手を握り返してきた。
その手は温かく、力強かった。
こうして俺は、人生最大の「誤算」となる一千五百万円の出費を確定させたのだった。
1500万、溶けました。
もう後戻りできません。彼は完全に「こちらの世界」の住人となりました。
さて、ここからは「回収」のターンです。
次回、一気に時が飛びます。
10年後、泥水をすすって這い上がった彼らの姿を描きます。
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