ep9
千砂子は学校から急いでいた。
早く母に会いたかったし、今日はお兄ちゃんのおうちに行く約束もしていた。
ランドセルが走るたびに揺れて、小さな足でかけていく。
マンションのエレベーターに乗って家に急ぐ。
家の前、滑り込むようにドアを開けて中に入ると、部屋の中がぐちゃぐちゃに荒れていた。
千砂子は靴を脱いで部屋の中を見渡すと、風呂場の水の音に気がついた。
ランドセルを降ろして、風呂場にゆっくり向かう。
風呂場のタイルは赤い染みが出来ていた。
バスタブに倒れこんだ母親の姿に千砂子は飛びついた。
風呂の中の水が薄ピンクに染まっている。
「お母さん?お母さん?」
体を揺すっても返事をしない。
千砂子は泣き出すのをぐっと堪えて母親の頭を撫でると優しい声で言った。
「お母さん、おばちゃん呼んでくるね?待っててね?」
千砂子は濡れた服で家を飛び出すと階段を下りて真下の啓の家のドアを叩いた。
「おばちゃん!おばちゃん!」
激しく叩く音に飛び出してきた啓とその母・義子は千砂子の話を聞き、急いで上に登った。
啓は救急車を呼ぶと千砂子を抱きしめる。
「千砂ちゃん、お兄ちゃんだよ」
「お兄ちゃん」
ずっと気丈に振舞っていた少女は堰を切ったように泣き叫んだ。
救急車が来てから、また騒ぎにはなったが、三代子の様子を見てかマンションの住人は駆けつけた警察に夫を捕まえろと口々に言った。
三代子は病院に運ばれたが、怪我が酷く危ない状況だという。
そんな彼女の傍に千砂子を置いてはおけず、啓は母親・義子に断って千砂子の傍にいた。
どれだけ我慢していたのか酷く泣いた後、啓の服を掴んだまま気を失うように眠っている。
母は小さな子供がこんな風になるなんてと話していたが、啓はこうして千砂子を少しでも守ってやれている自分が嬉しかった。
どこか何も出来ないんじゃないかと思っていたからだ。
深夜過ぎ、啓の腕の中にいた千砂子は目を覚ました。
座ったままで眠る啓の頭を撫でて、母親三代子の眠るベットにたどり着くと小さな手でその頬に触れた。
手に触れる冷たい頬に千砂子は目を閉じると眠る母親の体に抱きついてぎゅっと抱き寄せた。
「お母さん、ごめんね」
眠る三代子の目から一筋涙が零れ落ちた。
深夜二時。
千砂子は裸足で歩いていた。
病院を出る時は履いていたはずなのにどこかへ行ってしまったようだった。
あまり早く歩けないのが嫌だったけど、真っ暗な道を進むのには丁度よかった。
千砂子はただ歩いていた。
お母さんはもういない。
壁にもたれて座り込むと向こうから歩いてくるおじさんが目に入った。
おじさんは千砂子を心配しているらしく、色々聞いてくる。
けれどもう答えるのにもしんどくて千砂子は立ち上がると一目散に逃げ出した。
きっと警察に連れて行こうとしていたんだろう。
けれど警察に行くのは嫌だった。
千砂子は歩き出すとマンションへ向かった。
家に戻って玄関を開けるとぐちゃぐちゃの部屋を見た。
電気をつけると靴痕が沢山あって、お兄ちゃんとおばちゃんは靴を脱いでいたから、きっとお父さんだろうと思った。
千砂子はリビングを抜けてベランダの戸を開けると外に出た。
高い暗い空に月がぽかりと浮いている。
いつだったか母と二人で見上げたんだ。
あの日もとても月が綺麗だった。




