ep5
8月某日。
マンションの一室、三代子はベランダの傍で煙草を吸っている。
部屋では小さな机を出して娘が宿題をせっせとしていた。
部屋を片付けたせいかすっきりはしているが、まだ頬がじんじんと痛んでいた。
煙草を持つ指が青く痛んでいる。
あの人が暴力を振るうようになったのは何時からだったろう?出会った頃は優しい人で二人でよく出かけたっけ。
机に突っ伏していた娘が顔を上げると丁度目が合った。
嬉しそうに微笑み、また手元に視線を移す。娘はあの人によく似ている。
可愛らしい顔でまるで天使のよう。
三代子は煙草を銜えると自分の両手を見た。
痣だらけだ。
古いものから新しくついたものまで色が気持ち悪くてよく分からない。
ふと部屋を見渡すとさっきまで泣きながら片づけをしていた自分がそこらじゅうにいた。
どうして?私が悪いの?散らばった洋服をかき集める三代子が泣いている。
掃除機をかけて雑巾がけをしている三代子が嗚咽している。
震える手で雑巾掛けをして、急いで洗濯機を回した。
「お母さん?」
あの人が怒ってる、耳の奥でまだ声がしてる。
振上げられた拳が怖い。
「お母さん?」
三代子の中でぐるぐると恐怖だけが渦巻いていく。
目の前が真っ暗に見えて銜えていた煙草を手の中で握りつぶした。呼吸が荒い。
ハア、ハアと息が上がり心臓がバクバク鳴っている。
怖い……怖い……。
「お母さん!」
ふいに暖かな温もりを感じて、焦点が合った。
娘の小さな体が三代子の体を抱きしめている。
「大丈夫だよ、大丈夫」
娘の小さな呟きが耳に聞こえて三代子は視界が潤んだ。
「怖くないよ」
三代子はそっと娘の体を抱きしめると声を上げて泣いた。
8月某日、早朝。
「佐久間さん、ここですか?」
西島巡査はマンションのドアの前で振り返る。
西島に追いつこうと息を切らしてやってきた佐久間はやっと追いつくと、言葉もなしに何度も頷いた。
503号室。西島は佐久間に頷いてからドアをノックした。
コンコンコン、軽くノックする。
「すいません、警察です。騒音の問題で伺いました」
西島の声に反応したのか先ほどまでしていた人の気配がスッと消えたような気がした。
確かにいる。
「警察です。開けてください」
強めにノックを三度。
ドンドンドンと扉が揺れた。
傍にいた佐久間がビクッと体を揺らして目を瞑る。
もう一度西島がドアに手をかけたときドアノブがゆっくりと回った。
キイッと鉄の扉が開く。
ドアにはチェーンがかけられており、中は薄暗い。
西島が声をかけようとすると少し下から声がした。
「おまわりさん?」
小学生くらいの少女が西島を見上げている。
薄暗い部屋では中の様子はわからない。
「君は一人?誰かいますか?」
西島の言葉に少女はちらりと後ろを振り向いた。
もう一度西島を見ると小さく頷く。
「開けてくれますか?」
少女は西島に首を横に振った。
「だめ」
少女の顔がわからないが何か起きているらしい。
「大丈夫です。開けてください」
西島は少しトーンを落として少女に言った。
少女はもう一度首を横に振るとドアを閉めた。
目の前で閉ざされたドアに西島は溜息をつく。
こうなれば何も出来ない。
そう思って佐久間を見ると彼女もまた眉をひそめた。
「だめねえ……」
「……そうですね」
西島が歩き出そうと一歩踏み出した時、ドアがもう一度開いた。
ガチャンと奥まで開き部屋が一望できる。
少女は頬が赤く腫れて泣いていた。
西島は少女の前に屈んで彼女を確認する。
多分強く殴られた痕だ、体、衣服と汚れや破れがないか見てから、少女の目を見た。
「大丈夫ですよ。奥に誰かいますか?」
少女は頷いた。
「お母さんが・・・」
西島が奥へ視線をやると、部屋の中央で誰かが倒れていた。
403号室。
昼食が出来たと母親の声がしてキッチンへ行き席に着く。
麦茶をコップに入れて僕の前に座った母は箸を両手で持ち手を合わせる。
「いただきます」を合図に目の前の器に手をつける。
あめ色の汁に浸かった蕎麦をすすると母が溜息をついた。
「どうしたの?」
僕は箸を置いてコップに手を伸ばす。
「うん、それがねえ」
母はそう言うと箸で蕎麦をふうふうと冷ましながら言った。
先日、僕が上の階の騒音で飛び出して行った時のことだ。
その家に今朝警察が入ったそうだ。
近所の噂話から虐待があったんじゃないかという理由で、母親と娘が警察に連れて行かれたらしい。
「何それ……やばいんじゃないの?」
僕は先日話をした少女を思い出す。
確かに普通の子と違って少し汚れていた。
「そうなんだけどね……お隣の人が言うにはね?旦那さんが奥さんにえらく暴力を振るっていて、その声が凄かったって」
「でも、さっきの話だとお母さんと娘だけでしょ?そのお父さんは?」
「時々帰ってはって話よ。実際お母さんも見たわけじゃないから」
母は少し冷めた蕎麦をすすった。
「あなたこの間はどうだったの?」
「え?僕?」
「そう、娘さんと話したんでしょ?」
「そうだけど……」
僕は汁を残して器を置くと箸をその上にそろえた。
「確かに……お風呂に入ってない感じはあった。ただ……」
「なに?」
「ただ……なんか、そうじゃない感じがして」
昔小学生の頃、同級生に親から虐待されている子がいた。
明らかに見た目も酷かった。
それに比べると少し違う気がするが、では暴力だけが虐待なのか?と聞かれればそうとは言えないはずだ。
「僕にもわかんないよ」
母は少し困った顔をすると頬杖をついた。
「そうよねえ……でも、何かあったらうちに来るように言ったんでしょ?ならお母さんも出来る限りやってみるわ」
どこかあっけらかんと言って笑った母に、ご馳走様と伝えて部屋に戻る。
そうか、あの子……警察へ。
そう思うとあの日泣いていた彼女の安心して微笑んだ顔が頭に浮かんだ。




