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ep11

 8月某日、

 病院を飛び出てマンションの前にたどり着いた。

 僕は汗だくでエレベーターで上へ向かった。

 ドアの鍵は開いており、ベランダの月明かりの下で少女は座っていた。

「千砂ちゃん」

 僕の呼ぶ声にぴくりと肩を揺らして千砂子が振り返る。

 優しく微笑んでいるが涙で溢れていた。

「一人でお月見?」

 僕は千砂子の隣に座ると小さな頭を抱き寄せる。

「そうだよ。前にね、お母さんと二人で見たんだよ」

「そっか」

 震える声に溢れる涙。

 必死で微笑もうとする千砂子は健気で悲しかった。

 啓は目を閉じて千砂子の頭に頬を寄せた。

「お母さん……死んじゃったの」

 涙声に嗚咽が混じる。

「うん。僕のお母さんが言ってた。三代子さん、優しいお顔してたって」

 僕は涙を堪えて唇を噛む。

「そっかあ。よかった」

 千砂子は僕の胸元を掴むとぎゅっと握り締めた。





 7月某日。

「お母さん!」

 叫び声を上げて千砂子は飛び起きた。

 いつの間にか転寝をしていたようだ。

 時刻は真昼を過ぎていた。

 掃除洗濯を済ませてソファに座り、暖かい陽射しに眠ってしまったようだった。

 けれどエアコンが切れていたせいでダラダラと汗が首筋を流れて落ちた。

「……夢」

 リビングのTVは天気予報が流れている、予報を伝えるアナウンサーが「今週はからはぐんと気温も高くなり暑くなるでしょう」とにこやかに言った。

「そっか……もう」

 千沙子がポツリと零すと玄関ドアが開いて娘が笑顔で飛び込んできた。

「ただいま、お母さん」








 8月某日。

「やっぱりここだ」

 千砂子は目の前にいる啓に気付いて俯いた。

「心配する……せめて何か書置きしていってよ」

 ベンチの前に来ると啓は跪いて千砂子の手を握った。

 啓の額には汗が浮かび、ワイシャツは汗でべったりと張り付いている。随分と探し回ったようだ。

「お兄ちゃん……」

 千砂子はつい昔の呼び方で呼んでしまい、俯いた。

「ごめんなさい。私……」

 啓は千砂子の頬に手を伸ばすと頷いた。

「うん、分かってる。いろんなこと怖くなったんだろ?」

「うん……」

 千砂子はぽつりぽつりと話す。

「なんでかなあ……なんでかお母さんの気持ちを疑っちゃうの。どうしてかなあ……あんなに大切にしてもらったのに、あんなに傍にいたのに」

 涙がまた溢れて千砂子は両手で顔を覆った。

「本当は嫌いだったんじゃないかって、いらないって思われたんじゃないかって」

 胸の中の小さな千砂子が泣いている。

「私がどれだけ頑張ってもお母さん止まらなかったの……、あの時ももっと早く学校から帰っていれば、もっと早くおばちゃんを呼んで……」

 あああっと千砂子は崩れ落ちた。

 膝の上で寝ていた小さな娘は何時の間にか起き出して啓の腕の中にいた。

「お母さん、どうしたの?」

 小さな娘の手が千砂子の手に触れた。暖かい手に千砂子は娘の顔を見る。

 大きな瞳は千砂子を捕らえ、優しく微笑む。

 柔らかい優しい声で「お母さん」と響いた。

 啓は娘の頭を撫でて千砂子の頭を撫でる。

 そして額をくっつけると言った。

「千砂ちゃん、僕がいる。みちるもいるよ。皆君を愛してる」

 啓の言葉に娘の満がウフフと笑う。

「お母さん、好き。お父さん、好き。愛してるのよ」

 小さな手、優しい微笑み、千砂子は満を啓から抱き寄せるとその頬にキスをした。

 ぎゅうっと抱きしめて暖かを胸に閉じ込める。

「僕はね……きっと満がしてるみたいに、千砂ちゃんが感じてるみたいにね……三代子さんも思っていたと思うよ」

 さっきまで胸の中で泣いていた小さな千砂子はもういなかった。

 かわりに大切な娘の満が微笑んで笑っている。

「うん」

 その時満の顔がぐにゃりと歪んだ。

 耳元で大きな声が響いている。

 千砂子はゆがんで行く視界に目を閉じて、そしてまた目を開いた。

 大きく息を吐き出して咳き込むと自分の肩にかけられている手に気付いた。

 目の前には汗だくになった啓が心配そうに覗き込んでいる。

「啓君」

「千砂ちゃん……大丈夫?気を失ってたみたいだったから」

「……夢?」

 千砂子は額に手を当てると俯いた。

 いつから気を失っていたんだろう?一体どこから?

「なんだか……懐かしい夢を見ていたような気がする」

 啓は千砂子の手を握ると頷いた。

「そうか。なあ、満は?一緒じゃないのか?」

 啓の言葉にハッとして膝の上を見る。

 膝の上で眠っていたはずの小さな娘がいない。

 慌てて立ち上がり周りを見渡すも子供の姿はどこにもなかった。




 8月某日。

 この頃はバイクで走り回る連中がいるせいで深夜のパトロールが多い。

 パトカーのランプを見ながら横山は昔から愛用している蛍光のたすきをつけて歩いている。

 夏の暑い日はやはり昼間よりも夜のほうが歩きやすいのだ。

 それでも六十を超えた体にはきついのは間違いないが。

 もうずっと変わらず歩いているコースを辿ると、小さな人影が見えた。

 そういえば昔そんなことがあったと横山は思いかけてフフと笑う。

 懐かしい記憶がそこに蘇ったのだと思ったが横山が隣を通り過ぎても人影は消えなかった。

 それは色濃く小さな少女を映していた。

 可愛らしい洋服にピンクの靴を履いている。

 泣いていたのか頬にはいくつも筋がついていた。

 横山はごしごしと目を擦り現実かを確かめる。

 少女は確かにそこにいて立ち止まった横山をその大きな目で捉えている。

 ごくりと唾を飲み込んで横山は声にした。

「どうしたのかな?迷子かい?」

 少女は人懐こい微笑を浮かべて首を振った。

「お母さんと一緒にいたの。でもお母さん疲れちゃったの」

「うん」

 横山は少女の前にしゃがむと視線を合わせる。

「満と一緒にいるとね、時々怖い顔になる。だからね、お母さんが寝てる間だけ一人でお散歩してるの」

「そうか……満ちゃんというんだね?お母さんはどこに?」

「公園で寝てるの。もう起きたかなあ?」

「そうだね。一人では危ないからおじさんと一緒にお母さんのところへ行こう」

 横山が満に手を差し伸べると満は頷いて手を取った。

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