ep10
啓が目を覚ますと腕の中にいたはずの千砂子がいなかった。
飛び起きて母親・義子に知らせに行くと、母もまた啓の元へ来ていた。
「啓、三代子さんが……」
三代子の死と千砂子がいなくなったこと。
二人で顔を見合わせてから、母親は病院とその近辺、啓は病院から家を探すことになった。
急ぎ駆け出すと外は熱気で蒸し暑かった。
汗だくになりながら息を切らして走る。
家まではまだ随分と遠い。
8月某日。
月明かりの下、ぼんやりと公園のベンチに座っている。
膝には小さな娘が寝息を立てている。
どうしてこんなことをしているんだろう。
私は娘の頭を撫でながら、小さな頃の事を思い出していた。
あの日もこうして月を眺めていた。
8月某日。
足早にマンションの廊下をスーツの男が走っている。
「ただいま」とマンションのドアを開けると中は誰もいなかった。
いつもなら「おかえり」と二つの大切な笑顔が飛び込んでくるはずなのに。
啓はおかしいなと二人の名前を呼んで部屋中を探し回るが、何も見つけられない。
クローゼットにあった彼女の帽子がないことに気付いて下駄箱を見ると娘のお気に入りの靴が無かった。
ふと壁にかけられたカレンダーを見て啓はハッとする。
カレンダーは月の満ち引きが描かれて今日は満月だ。
そして夏の一番熱い時期。
昨日の夜、ふと彼女が話していた。
久しぶりに母の夢を見たのだと。
啓は部屋に鍵をかけると家を出て走りだした。
8月某日。
タクシーを拾うために高橋は後輩の佐藤を肩に担いで歩いている。
「あーもう、なんでそんなに飲むんだよ、お前は」
「しぇんぱいこそ~、飲みなさすぎです~」
佐藤はウィッとしゃっくりをしてウヘヘと笑う。
それでも千鳥足で歩こうとする佐藤に高橋は鼻で笑った。
「この先で拾えるか?タクシーは」
「ひろえましゅ。あ、しぇんぱい!ここ!」
佐藤は公園を指差すと呂律の回らないのかウケケと笑う。
「ここね。昔マンションらったんす。俺んダチがここにすんれれ、いつらったか潰されちったんすけどれ。てへへ」
「おう、そうかよ。つかお前しっかりしろ?家帰れんのかよ?」
「むりれすー」
佐藤はそう言うとすうと目を瞑り高橋に寄りかかって寝始めた。
「ちょっ!お前、何寝てんだよ!まじかよ!」
高橋は仕方なく佐藤をおぶさると公園の入り口付近に止まったタクシーに向かって手を上げた。
静かな公園だ。
喧騒とは離れて穏やかな空気の中、娘の頭を撫でながら千砂子は目を閉じる。
目を閉じれば幾らでも思い出せる母との思い出。
助けて上げられなかった大切な母の思い出。
電灯の傍にある公園に備え付けられた時計は深夜一時を差している。
こんな時間にこんな場所でこんな小さな娘を連れまわしている自分はろくでもない母親だろう。
それでもきっとこの子は目を覚ましたら、優しく微笑んでくれるだろう。
千砂子は月を見上げて溜息をつく。
お母さん、ずっとね……悔やんでいたの。
あの時、もっと私が強かったら、私が賢くて、もっと大人だったら、お母さんを助けてあげられたのにって。
千砂子の中にいる子供の千砂子はまだずっと泣いているのだ。
大人になっても傷を抱えたままで、それでも母親のように娘を大切にしよう、母のようにと。
けれどどこかで嫌な自分が出てきては言葉にしそうになる。
自分には出来ない、自分は駄目だ、どうして出来ないの!と。
夫は優しく包んでくれる。
それでもどうしても我慢できずに今日は初めて飛び出してしまった。
娘と二人きりの動物園は楽しかった。
愛らしい娘の顔を見るたびに思う。
母も同じように感じてくれていた?愛してくれていた?大切に思ってくれていた?
暴力を受けて泣き出す彼女を千砂子は必死で慰めようとしていた。
大人が暴れてその腕が足が体に当たっても必死で彼女を抱きしめた。
落ち着いてなく母を見るのは辛かったけど、どうしてもそうしてあげたくて千砂子は子供ながらに一所懸命だった。
結果、母は亡くなってしまったけれど・・・私の愛は伝わっていただろうか?
千砂子は自分の頬が濡れているのに気付いて両手で涙を拭う。
声を押し殺して泣いていると、向こうから「千砂ちゃん」と優しい声が聞こえた。




