第一部 定義(4)
静寂が訪れる。
あの白い“なにか”は消えた。まだ、それが与えた影響力が大きく、鳥肌が立っている。
一央は有里沙を抱いたままだったことに気づき、急いで離れた。有里沙はそのまま動かない。
一央は近くに落ちていた小ぶりの細長い小枝を拾う。警戒して腰がひけながらも、そいつが消えたあとに残ったぼろぼろのローブに近づく。
そのとき風が吹き、ローブがふわりと浮かび上がった。
ビクッと反応し、一央は慌てて下がる。
風はちょっとした弱いもので、ローブはすぐに落ち着いた。
一央はもう一度ゆっくりとローブに近づき、木の棒を近づけ、一瞬戸惑う。そしてつついた。
ローブをつついた瞬間、地面をこする感触がした。
一央は息を飲んだ。本当に何もなかったのだ。地面しかない。
――なんだったんだ……これ……。
今度はこすってみる。が、やはり何もない。
そうとわかると一央はローブの詮索をやめた。いつまでも続けていつも、意味はないとわかったのだ。木の棒を放り、ローブを見ながら後ずさる。そうしてローブから離れると振り返り、有里沙に向き直る。
「大丈夫、アリサ……?」
こくん、と胸に手を当てたまま前髪で顔が見えない有里沙は俯いた。まだ、恐怖が拭いきれないのか、ぴくりとも動かずにいる。
「……」
いつもの有里沙じゃなかった。ひどく怯えて震え上がっている。昨日なんて、集団でGといわれる黒い飛行物体がネズミの亡きがらをむしゃむしゃ食べているところを目撃しても「べ、別に私は怖くなんかないぞっ」と言っていたのに。青ざめていたが。
有里沙の様子がおかしい。たしかにあれは地上のものとは思えぬ恐ろしさだった。
一央はゆっくりと有里沙に歩み寄り、目の前で手を振る。放心状態のように見えたのだ。
有里沙は自分の顔のすぐ近くで手を振られているにも関わらず、動かなかった。風が横から吹き抜けて、有里沙の髪がふわっと広がる。
一央は、今度は手を叩いて鋭い音を出した。辺りにこだまする。これほど近くで音を出したのだから、有里沙の耳にも届いているはずである。それなのに動かない。
「あれ……?」一央はそう言い、腰に手を軽くあてて頬をかいた。
あれを見たとしても、普通の人間でもここまでは怯えないだろう。普段の有里沙を見ているのなら、なおさら違和感を抱く。
一央は指を有里沙に向けてのばした。目的地は有里沙の頬。
有里沙の頬に触れる、直前に有里沙は動いた。顔を上げてまっすぐ前を見る。一央と目があう。その目は怯えていない。有里沙は「んっ?」と疑問形の表情になった。
「どうしたのだ? カズ」
いきなり有里沙が反応し、一央は意表をつかれた。「えっ……いや、なんでも……ないよ」一央は隠すように腕を引いて背中で手を組む。「有里沙は大丈夫?」無理に話題を有里沙にふった。
有里沙は一央の肩の向こうにある森を見た。鬱蒼たる深い深い森。そして連想される、さっきの白いどろどろしたもの。有里沙は質問に答えずに歩いて行ってしまった。
一央は慌ててその後を追った。
「アリサ……?」
ハッとした表情で有里沙が振り向いた。そして少し逡巡する顔つきになった。
「カズ……」何かを迷っているのか少しの空白が開いた。「今日は……ひとりで先に帰る」
有里沙はそう言うと、踵を返して行ってしまった。
一央には、どうしても、それを止めることも、追うこともできなかった。
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――我々の存在は、ひどく希薄だ。
――疑問はないし、それが自然の摂理だと理解している。
――だがオレを、世界はもはや抑えきれなくなった。
――脆い、存在しているはずのない存在であるのに。
――彼女もいずれ、その一つとなる。
――しかし、彼女は今も世界と共に在る。
――ならば、オレが引きずり込もう。
――……あともう少しだ。
その瞳には、白いどろどろとしたものと対峙する、二人の人間が映っていた。
#
一央は一人、ゆっくりとしたペースで遠回りながらも帰路についていた。所々で目にする家屋が唯一、淋しさを紛らわす。
一央は悩んでいた。有里沙とあの白いどろどろとした“あれ”のことについて。
“あれ”は明らかに人ではない。どうしてあんなものがここにいたのかは謎だった。
――誰かに相談するべきかな……。
そして、有里沙。大丈夫だろうか。“あれ”を見た彼女は、ひどく怯えていた。普段の彼女からは想像できないほどに。
――やっぱ相談しよっかなー。アリサのこともあるし。
“あれ”のことを知っていて、なおかつ有里沙のことも相談できる。自然、ここまで条件があると、一央の中ではその人物が浮かび上がってくる。
――じゃ、このまま倫のとこに……。
そのとき、一央は正面の方から声をかけられた。
「失礼、そこの少年」
どうやら考え込みすぎて、気づかなかったようだ。目の前には黒衣に身を包んだ一人の男がいた。
男と目が合うと、男は満足そうに微笑みながら話を続けた。
「私、このような者ですが」
そう言って黒い革の手袋を履いた右手を見せてきた。名刺が一枚乗せてある。
いぶしかみながらも素直に一央はそれを受けとった。
取った瞬間、手の先から異様な寒気が伝わってきた。反射的に手を引く。
血の気がサッとひいた。
男の手の平に白いどろどろした小さな顔が二、三個置いてあったのだ。
人間のものとは到底思えない、小さな叫び声が聞こえた。そしてすぐに、それは蒸発する。
思わず一歩後ずさった。顔をキッと上げ、男を睨みつける。
男は、ハハッと笑うと、短く刈り込んだ髪に手をやった。
「見覚えがあるようだな。ないと言うのなら、相当きちがいな人間だが」
そう言うと男は、後ろに向き直り、立ち去ろうとした。
「あんたは……」一央は呟いた。
「納藤さんによろしく」
男は手を挙げてそう言うと、そのまま去って行った。
しばらく一央は固まっていた。
そしてゆっくりと動き出し、どさくさで受け取った名刺を見た。そこにはただ名前が一つ、書いてあるだけ。それは、
「村上翔人……」
村上が言った言葉を思い出した。そして決心する。
――納藤倫に会いに行こう。
一央は走り出した。