第一部 定義(3)
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しゃがみこんで、なにやら地面を、近くにあった木の棒でいじっていた有里沙は、体がこわばっていることに気づいた。しゃがみ続け、脚に血液がたまった影響だろうか。それでもかまわずに有里沙はしゃがみ続けた。
風が吹き、有里沙の体にぶつかる。たなびく髪を抑え、またも口をとがらせた。
――ばか。
少しの時間、待たれているだけなのだが、タイミング悪く、やや不機嫌な有里沙には長めに感じ、淋しさも感じたのかもしれない。
体が唐突に寒気立ち、ぶるっと震える。
――……寒っ……?
たしかにもう秋も中盤だが、体が震えるほどの寒さでもないだろう。有里沙は両手を見つめると、いつのまにか血の気が引いていた。両手をこすり合わせ、息をふきかける。そして再度こすり合わせ、両手を見直す。表面上は血の気が戻っているように見える。
――寒っ。
風が吹くと、寒気がする。
突然、寒さでこわばった有里沙の両頬に、温かい何かが押し当てられた。
「ひゃっ!!」
思わず飛び上がってしまい、いましがた押し当てられた両頬を抑えた。
「ななな、なんだ!!」
素早く体の向きを逆転させ、背後の人物を見やった。
「カズ……!」
両手に計三個の大福――にしては大きくて温かい――を持ったカズがいた。してやったり、と笑っている。
有里沙はむぅっと頬を膨らませる。そしてなぜかファインティングポーズ。
「ごめんごめん。はい、あんまん」
そう言って手に持っているあんまんを一つ、差し出した。
右へ左へとステップを踏んでいた有里沙だが、それを見ると、体の動きが硬直した。口をだらしなく半開きする。
一央の顔を見つめ、一央の手元のあんまんを指差す。一央は笑いながら頷く――苦笑いかどうかは謎――。
「おおっ……」
じりじりとあんまんに近づいていき、一つを掴み取る。そしてまずは一口。
「やっぱり甘いのはウマイなっ」
一央は、ははっと笑い、じゃあ行こうか、と帰り道に復帰する。
それを追いかけて、有里沙は一央の隣を歩く。
「おかわりはあるからねー」一央が朗らかに言った。
有里沙の無言の首肯。口にあんまんが詰まっているからだ。
――よかった。少しは機嫌、直ったかな。
物で釣ったような気がするが気にしない。気にしたら負け。笑顔でごまかす。
有里沙は一つ目をたいらげ、一央の手元の二つ目に手を伸ばし、食べにかかる。
――う、うまいっ。
物で釣られたような気が、心の端っこでしたような気がするが、気にしない。
――私は寛大だからなっ!
どこにつっこんでいるか謎であるが、ほくほくと幸せそうな顔をする有里沙。
――手には甘いもの、隣にはカズ。
ふふふ、っと何かに勝った気分になる有里沙。
その有里沙の横顔を眺める一央。笑顔の有里沙を眺めているせいか、顔がほころんでいる。すると、有里沙におでこを指で押された。
「そんなに私を眺めてどうしたのだ?」有里沙が言った。
「んー? いや、なんでもないよー」
あはは、と一央はごまかした。
有里沙は、キョトンとした顔で一央を見る。やはり、くりくりとしたツリ目が印象的だ。
有里沙は、再度手元のあんまんに視線を戻すと、今度は少しずつはんだ。
しばらく、静かな時間が流れ、有里沙は二個目のあんまんを食べ終わり、一央はただ有里沙を眺めていた。
「……」
押し黙る二人。吹き抜ける風の音がやけに響く。
ほどなくすると、いつのまにか、一央も有里沙ではなく、森の方を見ていた。どこまでも続く深い森には、何もない。もちろん木々は豊かに生え、草花も咲きほこり、中に入れば動物にだって会えるだろう。しかし、ただそれだけ。ここに住んでいる一央にとっては、普段から見慣れた、ただの変哲のない普通の森であるためか、何もないように視界に映っていた。夕日が手助けしてできた、森の大きな影は、一央と有里沙まで届いてはいなかったがすぐ近くまで来ている。
何もないはずの森なのだが、妙な違和感が一央にはしていた。いつも違い、異質な。しかし、普段感じている何かと似たような異常。
一央はしばらくして足を止めた。森の方から何かの気配がする。そしてそれに伴った微弱ながらの寒気と。
ふと気づくと、すぐ目の前に一央の顔を覗き込む有里沙の瞳があった。急に立ち止まったので、どうしたのかと思ったらしい。
「どうしたのだ? カズ」
心なしか、口を小さくして言う有里沙の吐息が、白くなっているように見えた。
一央は嫌な思いを振り払うように首を振った。
「なんでもないよ」
有里沙はまだ何かが気になるようにいぶしかむ顔をしたが、納得してくれた。一央から離れて、先を歩いていく。
少しのあいだだけ、一央は森を眺めたが、すぐにやめた。いつもと変わらない、何もないただの森だ。
小走りをして、一央は有里沙の横に追いついた。
有里沙は今しがた追いついた一央の顔を見ると、話しかけてきた。
「カズ」ちょっとためらいがちに言う。「あんまん……うまかったぞ……」
一央は微笑んだ。
「よかったぁ……」
そう聞いた有里沙は、心の底から嬉しいといった表情になった。
それを見た一央は赤面する。あはは、と頬をかき、俯く。
そのとき、とてつもない寒気がして、体が硬直した。恐ろしい寒気だ。体を突き抜ける寒気がひしひしと――。
動かぬ体を無理に動かす。そして森を見る。きっと顔は青ざめていたに違いない。
――いた。
寒気の発生源。
森の影の中にいる。
地面まで届く長いローブを着た人物だ。ローブの陰になり顔が見えない。
そいつが一歩、踏み出した。脇を寒気が通り抜ける。
そいつは少しずつ寄ってくる。
一央は動けなかった。そいつがすぐそばまで迫ってきている。あともう少しで森の影を抜け、こちらに辿り着く。
後ろで息を呑む音が聞こえた。有里沙だ。その音を聞いた瞬間、体の硬直がとけた。後ろに下がり、有里沙を抱き留める。
ついにそいつが影を出た。
影を出た瞬間、そいつ全体から湯気が立ち上る。何かが焼けるというより溶けているような湯気。
風が吹き、そいつの頭にかかっていたローブのフード部分がはずれる。そいつの顔が見えた。
顔、顔、顔――。白い大小様々な顔が集まって一つの顔となっている。頬から飛び出した一つの小さな白い顔が断末魔の叫びを上げたかと思うと、溶けて蒸発した。鼻先にある顔も蒸発する。目から飛び出していたいくつもの小さな顔も溶けて消えた。
そいつが叫び声を上げた。顔全体を被う様々な顔からもだ。
そいつの右肩と思われるところが、ぐじゅっという音と共に消えた。右袖口から白いどろどろしたものが降ってくる。地面にぶつかり、霧散して消えた。
そいつはそれでも止まらない。
一歩一歩、たしかにこちらに近づいてくる。
左足が崩れた。相変わらずのどろどろした、所々足の形をしたものが広がり、蒸発する。
前のめりにそいつは倒れた。
左腕を一央と有里沙に伸ばしてくる。
一央は有里沙を抱いたまま後ずさりした。
人間のものとは思えない叫び声を、そいつがまたもあげる。
一央に左腕が届きそうになる。もう数秒と待たずに着くだろう。
青い顔をした一央だったが、胸元でぴくりとも動かなかった有里沙が身をよじらせる動きを感じとると、我に返ってより強く有里沙を抱いた。
左腕がせまってくる。そいつの小指と薬指が溶けて爛れた。
一央は腹をくくると、おもいっきり力任せにそいつの左腕を蹴り飛ばした。
左腕が飛び散る。白いどろどろしたものが辺りにばらまかれる。
とっさに一央は有里沙を庇い、背中にそれを被った。
――異様な冷たさを感じた。死んだ人間を触ったような。いや、もっと冷たい。
背中の上で小さな叫び声と、蒸発する音が聞こえた。それと同時に、余韻は残るが背中の冷たさも消えた。
顔だけを再びそいつに向ける。
そいつはもう上半身の半分だけしか残っていなかった。
――人間、じゃ……ない……。
一央は無意識に感じとった。
そいつはもう頭しか残っていない。鼻がもげ、地面にぶつかる直前に蒸発した。右目も溶けて消える。
「アぁぁあ゛あ゛アァ゛ぁァあア……ィぃい゛……アァぁ゛ぁあ」
そいつが声を絞りだした。
そして、ぐじゃっという音を盛大に撒き散らし、崩れ、蒸発した。
後には、古ぼけたローブだけが残った。