第二部 少女の空想(3)
「わたしの顔に見ほれちゃったらだめだぞぉ~、こらぁっ」
有里沙がなんとも可愛らしい声でそんなことを言うと、人差し指を一央の頬にグリグリと押しつけてきた。半端なく痛い。
「あたっ! 痛いってアリサ。ちょっとタイム!」
痛みに呻く一央は押しつけられる有里沙の手を掴んで引き離す。頬は一点だけ極度に赤くなっていた。
「んっ、どうしたのだカズ? もっと喜ばないのか? なら特別にもっとしてやろう!」
有里沙は再び一央の頬を指先でグリグリとしようとする。
この展開を、一央はよく知っていた。一人の先生が裏で策を巡らせ楽しんでいる。一央は既視感バリバリだった。
「いきなり何かと思ったけど……、カオリ先生だよね、また……」
頬に指を突き立てられないように有里沙の両手を一央は掴み、ため息をついた。
有里沙が男女間の事柄に疎いことをいいことに、歌緒里先生はよくこうやって有里沙にあられもないことを吹き込む。そして実行に有里沙は移すわけだが、きまって被害者はいつも一央だった。
……嫌なことばかりでもなかったけど……。
「いつも言うじゃないか。カオリ先生の言うことを鵜呑みしたらいけないってさ。あの赤髪ヤンキー姉さんは自分だけが楽しんでることばかりなんだし」
「? 自分だけなのか?」
「まあ、あんな性格だしね……」
遠くを見るかのように一央は目を細めた。
一回り小さい有里沙が一央を見上げてくる。
「私も楽しいぞ?」
「あのね……」
一央には、理解能力も記憶力も、ましてやカンもたまに鋭い有里沙がどうして歌緒里先生の言う意味不明なことをするのか、今だに理解できていなかった。
「前やられた寝起きのベッドに乱入よりはまだマシだけど……。というかよく懲りずにアリサもやるよね……」
「楽しいからな!」
えっへんと有里沙は胸をはった。
―――というか楽しんでやっていたのかよ……。確信犯じゃん……。
「まあアリサが元気そうでよかったよ。昨日から元気なかった感じだったし」
はっはっはと笑っていた有里沙が口を閉ざした。腰に腕をあてたままだが、胸をはるのをやめる。急にしんとなった有里沙に一央は焦りと不安を覚えた。
「アリサ……? ああ、ごめん。そんな深い意味じゃないんだ。気にしないで」
と、両腕をだらりと下ろした有里沙は先程とうってかわってまじめな雰囲気を醸し出し始めた。
「少し、夢を見たんだ。昔の夢を」
俯いた有里沙から呟かれた言葉は、予想の斜め上をいった。それほどまでに唐突の一言だった。
有里沙と一央は幼なじみだ。当然、一緒にいた時間は長い。よく思い出せない箇所が多いが、有里沙がそんなに悩むようなことはない気がする。
あるとするならば、あのときの交通事故か。だが、あのときに事故が起きたのは一央宅で、有里沙の小林一家ではない。
「昨日悩んでいたのとは関係ない。……あ、いや、過去というのでは関係あるが……。とりあえず、色々と昔の出来事を思い出して、少し混乱しただけだ」
有里沙は物憂い様子で言うと、黙りこんだ。
一央は言葉が出なかった。ただ、目の前の有里沙を見ていると今日の家を出るときに母と交わした会話が思い起こされた。
―――今日、集会場の近くにある教会の辺りでお祭りがあるらしいわよ? アリサちゃん誘って行ってくればいいじゃない。若いんだし~。
目の前の有里沙はどう見てもどこか元気がない。お祭りに行くのは、憂さ晴らしにもちょうどいいかもしれない。なんのお祭りだかは知らないけど……。
淋しげに下がっている有里沙の手。一央はその手を握った。俯いていた有里沙は驚いて顔を上げる。
「……! どうしたのだ?」
「今日は学校サボっちゃおうよ。どうせまたつまらない授業ばかりなんだからさ」
「さぼる? さぼるとはなんだ?」
「とにかく遊びまくるってことさ! 教会の近くでお祭りがやってるんだ。行こう、アリサ?」
一央は有里沙のその冷えた手をひいて走りだした。後からつられて有里沙も来る。
「ちょっ……!」
振り向いてまばゆい笑顔を向ける一央の顔を見ると、なぜだか有里沙は胸が苦しくなり何も喋れなくなった。
心なしか、有里沙は体がほてってきた気がした。