第一部 定義(16)
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アリサはほくそ笑む。思わず抑え切れずにそのまま高笑いしてしまった。目の前で呆然とする倫がいる。滅多に見られるような表情ではない。
「アリサが、二重人格者……!? そんな、まさかな……」倫は自分の額を押さえて自嘲気味に笑った。
「そう思う?」倫を見下ろすアリサが言った。「だけど私は二つの私がいるわ。偽の有里沙と本当のアリサ。滑稽ね。偽など有り得ないのに」
「同じアリサの身体なのになんで髪が白いんだよ……」倫はまだ信じられないかのように聞いた。
「さあ? わからないわそんな事。私の死に方とか中身とかが特殊だからその影響じゃないかしら」
倫はアリサの姿を目に入れる。普段の有里沙とはたしかに違ってはいるが、まだ信じる事は出来ない。倫は立ち上がった。「特殊……?」
「ええ。なんであんな事になったのか、今でもわからないわ。それにどういうことか、あのときの記憶にあまり実感が持てないの。日焼けしたフィルムを見ているみたいに虚ろだわ」アリサは俯きがちに言った。
「フフフ。昔の私だもの。今の私じゃないわ。今の私がたとえあの儀式の結果だとしても、私は私。そういう事なのよ。だから、もうそろそろ偽の私を見ているのも飽きてきちゃったし、捨てちゃおうかなって」
「捨てる……。お前、アリサに何をするきだ!」倫が声を張り上げた。
アリサは淡々と答える。「そのままの意味よ。私がやらなくとも、有里沙がいずれ近いうちにやると思うわ。楽しみに―――」
アリサは突然胸を押さえた。腰と膝を曲げ、苦しそうな顔をする。「あああ……」
倫は何も動けなかった。何が起きているのか、現状を把握できない。
ふと倫はアリサの髪の末端が、白から黒に変わっている事に気づいた。徐々に端から黒色が白色の上を上って行く。肌の純白も、いつもの有里沙のような少し薄い肌色になって行く。
アリサは粗い息づかいを繰り返す。膝をついた。痛むのか頭を両手で押さえ込む。髪は既に全て黒に戻り、肌ももう純白ではなくなった。
「あああ!」
アリサの全身から力が抜けたのが見てとれた。がっくりとその場に腰と腕を落とす。放っておくとそのまま横に倒れるのは目に見えていた。
倫はアリサに駆け寄って体が倒れるのを押さえる。「おい! どうした!」
アリサの小さな手が持ち上がり、宙を掴む。「私……」アリサの手が開き、アリサは自分の手の平を見つめる。「……戻った、のか……」
アリサから有里沙に代わったのだと、倫は理解した。「大丈夫かアリサ!? というかアリサ、お前は……」
二重人格者だったのか、と後に続ける事は倫にははばかれた。聞きづらい。
有里沙は腕を下ろして完全に倫に身体を預けている。有里沙はその小さな口で何かを口ずさんだ。
「どうした? 何か―――」
「カズが……。カズが私に教えてくれた歌だ。名前とかはよく知らない。歌うと、不思議と寂しさがあまり感じなくなるのだ」
倫は何も言わずにただ有里沙の独白を聞く。何も言えなかった、というのが正しいか。
「暗い、暗い闇の中で、その歌は弱々しくも明るい光を放つのだ。私が独りのときはいつも傍にいてくれるのだ。……カズが近くにいてくれている気分になって、私は怖くない。もう一人のアリサに代わったときも、私はあいつの心の奥底で独りで歌って……」
アリサの瞳が潤み、目のはじが銀色の光を反射する。「なあ倫。私はもう少しすると、あいつに取り込まれるかもしれない。私があいつに打ち勝てば、まだ可能性はなくはないが……。残るのは本当に本当のアリサただ一人」
だんだんと小さくなっていく有里沙の声。「あいつは何をするかわからない。もしかしたら、カズを苦しめる事になる。……苦しい……。辛くて胸が痛いのだ……倫……。逃げていた私は、戻れるのだろうか……?」
有里沙の瞼がゆっくりと閉じる。小さな寝息が聞こえるあたり、どうやら眠ってしまったようだ。
「戻れるさ……。オレが、二人を護ってやるんだからよ」
倫はそう言うと、有里沙を抱き上げた。心地好い重みがかかる。倫は思わず笑みが浮かんだ。
「こんな事しているのをカズに見られたら殴られるな、こりゃ」
倫は眠ってしまった有里沙を抱き抱えながら、割れた等身大の窓を跨いだ。