第一部 定義(13)
その姿を捉えた瞬間、倫は昔のある会話が頭をよぎった。この村に来る事になった原因でもある村長の懇願と不安の思い。
―――有里沙という女の子じゃ。
少女が倫を見た。倫にはどうしてもよく知っている少女に見えてしまう。
―――どうも彼女は幽霊らしいとな。
真っ白い長髪、雪よりも純白な肌。月明かりを浴びてきらめいている。ふわりとその長髪が広がった。
―――彼女の観察を頼みたいんじゃ、納藤さん。
少女が右腕を水平にゆっくりと上げた。突如、倫の左頬に鋭い痛みが走った。予期せぬ痛みに倫は肝を冷やす。痛む頬からだんだんと熱いものが滲み出る。
―――彼女が、災厄を振り撒かぬように――。
倫と有里沙に似た少女が目を合わせる。その少女は妖艶な笑みを浮かべ、ただ静かに右腕を水平に保つ。
倫は突然刺すような気配を感じ、咄嗟に両手を前に突き出した。厚い炎を纏っている腕だ。
瞬間的にその両の手の平が切れた。切れ込みが入り、流血する。倫が苦痛に顔を歪める。炎は切れ目に沿って消えていた。
少女はクスクスと笑う。「あら? 起きていたのね倫? 返事がないから寝ちゃったのかと思っちゃったわ。立ちながら寝るなんて、変な人」笑いながらも右腕を下ろした。「とってもお月様がキレイなの。寝ちゃうなんて勿体ないわ」
倫は炎を宿らせた両手をそれぞれ固く握り、臨戦体制をとった。「お前は……アリサ、なのか……?」
少女は心底信じられない、という拍子をぬかれたような顔をとった。「何を当たり前の事を聞いているの? 私はアリサ。それ以外の何者でもないわ。アリサはアリサ。それよりもねえ、お月様がキレイなのよ」自らをアリサと称する少女はベランダの手摺りに身を乗り出した。
倫のこめかみで一粒の汗が月光を浴びて光った。
―――くっ……!
倫は焦り、迷っていた。どうすれば良いのかが分からない。目の前で月を眺める少女は一体誰なのか。あの数の霊を一瞬で消滅させた所を見ると、ただの人間ではない。だとすると、村長の言葉が甦る。
―――どうも彼女は幽霊らしいとな。
その可能性を否定はできない。
―――ならばどうする!?
倫は苦渋の表情を浮かべ、舌打ちをする。顎を引いて少女を睨みつける。
目を輝かせ、月を眺めていた少女だが、ふとした瞬間に冷たい顔付きに変わる。そして少女はゆっくりと倫に向き直った。「どうして?」左手は手摺りを掴んだまま、少女は倫と対面する。「どうして? 見て……。お月様を。輝いている、お月様を見て! 見て!!」
少女は両手を胸の前で組み合わせ、突き抜けるような叫び声を上げた。声が広がるのに合わせて衝撃波も伝わっていく。何かが割れる音で、硝子が割れたのがわかった。
倫は咄嗟に血が滴り落ちる両手を前方へと伸ばし、早口に呪文を唱えた。
有里沙宅のベランダ周囲の窓、床、手摺りを球状にうっすらと何かが纏めて包み込んだ。透明であるが、その部分だけ空間が歪み、光が屈折している。
途端、耳を突き破るかのほど強い音が響いた。爆発音ではないかとさえ思える。
倫は肩を大きく上下させ、荒い呼吸を繰り返す。全身から汗が吹き出す。
倫は抗いもせずに膝をベランダの床にぶつけた。がっくりと肩を落とし、両手を床につける。汗は留まることを知らず、頬を伝っては落ちていき、あるいは服をぐっしょりと濡らす。
倫は顔を上げた。割れた硝子の破片が見えた。しかし、それ以外は何もかも先程と変わっていない。少女は落ち着いたようだったが。
―――上級のっ、空間っ、呪文でようやくたった一人のっ、少女の声を止めっ、られただと……!?