第一部 定義(12)
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月明かりが差し込むアパートのある一つの部屋で、倫は椅子に座り腕と足を組んでいた。明かりといえるものは月明かりただそれのみ。床に倫の影が伸びている。
今日一日だけで――しかも夕方という短い時間の中で――様々な非日常的な事柄が多発した。倫の短いながらも波瀾万丈であった人生で、こんな事例は彼自身初めてだった。
あろうことか、認められた安全地帯を離れ、生の世界に踏み込んだ霊が多数存在している。ほとんどの霊が理に従い消滅したが、悠理が拾ったという霊だけは違い、倫が手を加えるまで消滅に抗い続けた。
―――有り得ない。
倫は嫌なカンがよぎった。
―――もしかすると、あれは普通の霊ではなく、特別な変異が起こったものなのか?
倫は顎に手を当てた。
―――いや。そんな事例は報告を受けていないし、なにより蔵書の中にもそんな異常なことはない。
しかし、今日のように、思わぬ事が突然起きる可能性もいなめない。過去にそのような事があっても記録されなかったかもしれない。そう考えるときりがなかった。
―――あの空間が人々に、霊の存在を認められていたとは思えないし。
すぐ傍のベッドで眠る一央が寝返りをうった。静かな寝息をたてている一央が倫の視界の隅に映る。
―――まさか……あれか……?
倫は音もなく立ち上がった。そのままベランダに出る窓際まで近づき、引き返す。
―――それはない。オレ自身何度も検証したが、そのような存在は発見できずじまいだ。
部屋を横断し、クローゼットの正面に立つ。
―――だが、だからといって否定できない。見たことがないのは揺るぎない事実だが、見ることができていないだけというのもまた事実。
倫はまた窓際に歩み寄る。部屋を行ったり来たりと何度も横断する。
―――本来の死後の世界、混沌とした異世界か。
部屋の中心で倫は立ち止まった。
―――絶対的存在の死後の存在と、流れから外れた絶対的非在の霊、か。
倫は両手を下ろし、月明かりで染まった部屋から月を眺めた。今日の月はとても綺麗だった。こんなちっぽけな存在の自分には神々しすぎるほどに。
倫は再び椅子に座り直した、そのときだった。
倫はひどい寒気がした。
椅子から乱暴に立ち上がる。急いで辺りを見渡す。辺りには熟睡する一央以外、何か特別なものは見られない。むしろこの強烈な刺すような寒気は――。
ベランダの方から再度、今度はより強く寒気を感じた。倫は駆け寄り等身大の窓を開け放ち、ベランダに入る。
一央の家のベランダに異常はなかった。あったのは隣に住む有里沙の家のベランダ。そこには、大量の霊と思われるものがいる。
「なっ!」
ある円柱の空間に集まり、その中心は霊の壁に遮られ見えない。はみ出した霊がその周りをうろうろとしている。
信じ難い光景だった。
希薄な存在である霊が、たとえ存在を認められた夜であろうとこんなにも密集して現れるとは。更に言えば、現れている量が半端ない。
集団から逸れた霊の一つが倫の方へふらふらと浮遊してきた。行く宛もないかのような飛び方。それでも倫に辿り着いた。
倫の右肩の手前に来た途端、その霊は燃え上がった。音も何も聞こえない。ただ燃え、そして消えた。
「どうなってやがる……」倫が険しい声で言った。
有里沙宅のベランダに円柱状に集まる霊は、ただ闇雲にその空間を漂う。これ以上増える気配はないが、去る気配もない。留まり続けている。
なにより倫が気にしたのは、霊が密集している場所が有里沙の家ということだ。
「今日の異変もひょっとして……。お前が原因なのか、アリサ?」
突然、ただ浮遊していた霊の集団が全て、文字通り消し飛んだ。彼らの儚い純白の体が散り散りになって飛散する。天井や床にぶつかって消えるもの、ベランダの外に落ちるもの。円柱状に集まっていた霊がいなくなり、その中心が見えた。
倫は驚愕に目を開かざるをえなかった。
「こんばんは倫。今夜はお月様がとってもキレイよ……。フフフ」
そこには、一人の少女がいた。