第一部 定義(11)
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地平線にはかけらとしか夕日が見えず、嫌でも夜が近づいている事を体感させられる。有里沙は、有里沙と一央が住むアパートの一央宅にあたる玄関で、ドアノブに手をかけた状態から動いていなかった。どのくらいこのようにしていたのだろうか。だんだんと自分の手が見えにくくなってきていた。
――私は……。カズはっ……。
有里沙の頭の中では堂々巡りが起きていた。何度同じ思考を繰り返しても抜け出せない。繰り返し繰り返し……。
今思えば、あのとき、カズは怯える私を少しでも慰めようとしていたではないか。それなのに私は逃げ出してしまった。カズから逃げた。私が一方的にカズを信じきれずに。
だって、カズに知られてしまうかも知れない。いやだ。カズはきっと、本当の私を知ったら、私を拒絶する。いやだ。カズに拒絶されるのだけは、いや。
有里沙は握ったままのドアノブを見つめた。いつも一央が使っているドア。それだけで、この固いドアになぜか温かい感情が湧く。
カズは私から逃げる。だって、だって私は……。
でも、あのときカズは私を慰めようとしてくれた―――。
同じ思考を何度繰り返したことだろう。何度も何度も行ったり来たり―――。
「アリサ?」横の方から声がした。
そちらに顔だけ向けると、一央と倫が錆びだらけの階段を上って来ているところだった。有里沙は自分の体が強張るのを感じた。
「……」有里沙は何も言えなかった。
一央と倫が近寄ってくる。少しばかりの赤い夕日が二人に影を作る。
「どうしたのアリサ? 母さんに言えば中に入れてくれると思うけど……」一央は閉じたままの自分の居住区のドアを見た。
有里沙は思わず目をみはった。ドアノブを掴んだままだった右手が、するりと落ちる。いつも通りの一央に有里沙は驚かされた。
――カズは……私を……、拒んだりなんかしない……。
もしかしたら表面上だけかも知れない、と内心では有里沙は理解していた。それでも有里沙は、込み上げてくるものを抑え切れなかった。
一央に抱き着き、その肩に顔をうずめる。一央は驚いたようだった。一央の段々と速くなる心臓の鼓動を感じる。
だけど私を拒絶することなく、私は思わず涙がこぼれた。
涙は有里沙の頬を伝い、一央の肩を濡らす。
「ア、アリサ!?」一央は焦ったようだった。
一央は後ろの倫に助けてくれと言わんばかりに顔を向けた。倫はそれを無視し、親指を立てた右手を突き出してきた。にやけてる。
一央は顔を夕焼けよりも赤くし、何が何やらわからないといった様子で有里沙と向き直った。有里沙はまだ一央の肩に顔をうずめたままだ。たまに肩が揺れる。
一央は恐る恐る有里沙の頭に手を置き、出来るだけ落ち着いて一度撫でた。もしかすると手先が緊張で小刻みに震えていたかもしれない。二度、三度と続ける。
「アリサ……」有里沙の耳元で一央は言った。だが、一央は後に続く慰めの言葉が見つからなかった。何も言えない。
一央は優しく有里沙の頭を抱いた。こうする事しかできなかった。
ふと、一央は有里沙の震えが弱まった気がしてきた。大分落ち着いてきたのか、有里沙はもう泣いてはいない。
「大丈夫だよ。オレは側にいるから」言ってからハッと気づく。一央は無意識に言っていた。
「ああ」有里沙が有里沙にしては珍しいしおらしい声で言った。「その……。あ、……ありが、と……」
一央は有里沙の頭を抱いているため、その顔を見ることはできないが、きっと赤らめているに違いない。自分と同じように顔を赤くしている有里沙を思い浮かべると、なぜだか一央は嬉しくなってくる。
倫がため息混じりに声をかけてきた。「オレもいるんだが?」
一央は後ろにいる倫をジト目で睨みつけた。ちょっといい雰囲気だったのに、と。
倫はむっとした顔つきになった。空気が読めるのか読めないのか。ヘタレもいい所だ、と一央は思わずにはいられない。
倫は一央と有里沙の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でる。「オレが二人を護ってやるよ」妙に真剣な目つきで言う。
「あのなー倫。さっきから空気読めって―――」
有里沙のすぐ近くで一央と倫が他愛のない日常を繰り広げる。有里沙はいつもとちっとも変わらない、そんな二人を見ていると、自然と笑みが零れた。
「ありがとう。私は、嬉しい……」
誰にも聞こえない小さな声を、有里沙は一滴の涙と共に零した。