72. 参考資料
パラパラと紙が捲れた後、パタンと読んでいた本を閉じる音が宰相執務室に響いた。
「おい」
「はい!」
「これも返却しておけ」
「…はい」
時刻はそろそろ昼時に差し掛かろうかという頃。仕事に励んでいたクリスは、ベルナールに言われて立ち上がると、重厚な宰相の執務机に置かれた本をそっと回収した。
手に取った本に視線を落とすと、表紙に書かれた『秘密の庭園の恋』の文字が飛び込んできて、ブッと吹き出しそうになるのを咄嗟に堪える。なんど見ても、蛇宰相が読むには不釣り合いなタイトルだが、クスリとでも笑おうものなら山岳地帯に身一つで左遷される未来は免れない。
それに、巷で流行りの恋愛小説を教材に勧めたのは自分なので、笑う資格はないのだ。
「では、他の本も一緒に図書館に戻してきます。新しいのはとりあえず五冊ほどでよろしいですか?」
「任せる」
「はい。…ちなみに、参考になりましたか?」
「……それなりにはな」
仏頂面のベルナールを前に、クリスは「そうですか…」と小さく返した。
家出したレオノラを追って行ったベルナールが王城に戻った直後、神妙な顔で命じてきた内容に、最初クリスは天を仰いだ。
離縁にまで至らなかった夫婦の、その後の同行をまず調査してまとめろと言われ、クリスは悩みに悩んで否と応えるしかなかった。
そんな命令が飛ぶことになった経緯も理由を説明された訳ではないので予想するしかないが、レオノラとの関係をこの蛇宰相は改善しようとしたのだろう。
それは良いのだが、命じられた内容は現実的ではない上に面倒臭いことこの上ない。
蛇に睨まれるような鋭い視線に耐えながら、クリスがやんわりと聞き出せば、やはり関係改善の為に参考にしたいとのことだった。
だとするなら、この男はもっと初歩的なところから学んだ方が良い。
色々考えた末に、クリスは代案として恋愛小説をベルナールに提案したのだ。
提案した直後に、親の仇でも見るかのような憎々し気な舌打ちをされたが、結果的にベルナールはその案を受け入れた。
そこから、クリスが王城の図書館から借りてきた参考資料を、仕事の合間にパラパラと読んで、ベルナールは既に二十冊を読破している。
仕事の合間に、という言葉通り、宰相の職務を疎かにせず、あっという間に読み切る姿には、クリスも脱帽した。
更に言えば、恋愛小説など下らない、と吐き捨てそうなところを、きちんと真面目に読んでるのだ。
「次の本ですが、何か希望はございますか?」
「今のと同じ作者の作品も入れておけ」
「これですか?たしかに、今流行りの人気作家で、幾つも話題作を出してますね……気になりますか?」
その言葉通り、売れ行きと評判でクリスが選んできた二十冊の中で、ベルナールは既に四回、その作家の名前を目にしていた。
「評価の要因が作風によるのか、展開によるのか。他の作家と比較したい」
「あ、はい…承知しました」
読み物として楽しんだりはせずとも、資料としてベルナールはしっかり参考にしてるのだった。そしてこれだけの数を読めば、世間の女性の好む展開や傾向が分かってくるというもの。
食事へ誘う際の効果的な台詞も、着飾った相手への賞賛の言葉も。
しかしそれをそっくり真似できないのもベルナールだった。気障な台詞を考えるだけで、口がひん曲がる程の苦痛が走る。
それでも、何冊も読み込み、言葉を選ぶ際の最低限のラインを分析し誘った結果、レオノラから漸く及第点を得て外食にこぎ着けた訳だが。
そこから毎日一緒に夕食を取れるようになったことを考えれば、参考資料は有効なのだろう。
本の中の砂糖を吐きそうな展開に胸焼けを覚えることだけは、未だ不快ではあるが。
先の本でもベラベラと饒舌に女へ思いの丈を語っていた男を思い出し眉を寄せるベルナールを前に、クリスは戸惑い気味に口を開いた。
「それで、宰相様…例の農地調査に関する草案は、本当に担当者主体で作って良いのか。それとなく問合せが…」
「何か問題があるか?」
「い、いえ。本来なら問題は無い、というか正しいことなんでしょうが……」
ジロリと睨まれクリスは辟易ろいだ。なにせベルナールの言葉通り、問題はないのだから。そして仕事を正しく他者に振ることで、早々に仕事を終わらせ、妻の下へ夕食の時間に間に合うように帰ることも、何も間違っていない。
間違っていないが、それを蛇宰相がやるものだから、関係各所が戦々恐々とするのだ。
しかしそんなこと言える訳もなく、クリスは口を噤み沈黙のまま、手に抱えた三冊の参考資料を持って退室したのだった。
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