60. 別居ではない(ベルナールside)
なんとも鬱陶しい朝日をまぶた越しに感じ、ベルナールは自分を揺り起こす誰かの声で意識を浮上させた。その瞬間、頭が割れそうな痛みに低く悪態をつく。
「うっ…くそっ!…なんだ…」
「旦那様、そろそろお目覚めになられませんと。お仕事に差し支えるかと…」
「ニクソンか……まだ早いだろうが」
「ですがお酒の臭いを落として、入浴を済ませていただきませんと」
ニクソンに指摘され、そういえば昨日は酒を飲んだあと、そのまま寝たことを思い出す。モゾリと身じろぎすれば、着たままの夜会服が皺だらけだった。
たしかに、こんな様では仕度に手間取るだろう。と、ベルナールは仕方なく、痛む頭を押さえて身を起こした。
入浴やら身支度やらを終わらせた頃には、昨夜の王城で見た不愉快な光景も思い出されて、ますます頭痛が酷くなった気がする。
何度か舌打ちを繰り返しながら、どうにかダイニングの席に着けば、すぐに朝食が運ばれてきた。
そこに感じた違和感に、ベルナールは眉間に皺を寄せ、背後のニクソンを振り返った。
「おい……アレはどうした?まだ寝ているのか?」
「……アレと申しますと?」
「アレはアレだ!」
「アレとは…奥様のことではございませんよね?」
若干の棘を含んだ声色に、ベルナールのこめかみがピクリと動く。怒鳴りつけても良いところだが、無表情のニクソンから初めて感じる圧に口をへの字に歪ませるだけに留めた。
「それ以外にないだろうが」
「そうでございますか。しかし奥様はいらっしゃいません」
「はっ?」
「旦那様…もしや、昨夜のことをお忘れで?」
「昨夜…」
言われて思い出せるのは、昨夜の王城での不愉快な光景だ。
アレク・フェザシエーラに見惚れる妻が、いつ離婚を言い出してくるか。そんな唾棄するような考えに囚われ、酒を飲んだところまでは覚えている。
「部屋で酒を飲んだ」
「そうでございますね。そして、奥様を呼び出してこう申されました」
何のことだと恍けた顔をする主人に対し、ニクソンは昨夜、レオノラと一緒に聞いた言葉を一字一句違わず告げた。
それを聞く内に、自分の失態を思い出したのか、ベルナールの顔から血の気が引いていく。
そんな主人の様子を冷めた目で見ながら、ニクソンは止めの一言を報告した。
「そうして、奥様は出ていかれました」
「はっ?なっ!!?ど、どこに行った!?」
「ご実家にしばらく戻られると、昨夜出立されました」
レオノラの家出を知らされたベルナールは、ただただ混乱して固まっていた。
しかしそんなことをしている間に時は過ぎ、王城に出仕する時間になる。
まだまだニクソンを問いただしたい気はあったが、今は次にするべきか考えるので精一杯だった。
茫然自失のまま城へ向かい、宰相執務室の扉をぶち開ける。その途端、中で既に仕事をしていたクリスがハッと顔を上げた。
「ゲルツ宰相様、おはようございます。ところでレオノラ様はどうされたんですか?暫く弁当の差し入れができないって、今朝急に手紙が届いて…」
「クリス、法務大臣に連絡を取れ」
「はっ?え、な…急にどうされたので?」
「離婚に関する法の解釈を是非話し合いたい、と要請しておけ。別居だろうが、白い結婚だろうが、何だろうが、離婚を認めさせない可能性を考える」
急に訳の分からない指示を飛ばしてきたベルナールだが、この展開に既視感を覚え、クリスは引き攣る表情を必死に取り繕った。
「それと、めぼしい裁判官数名に探りをいれておけ。金で判決を譲りそうな奴を把握しておきたい」
「い、いやいや!ダメですって。可笑しいでしょ。そんなことしてどうするつもりですか?」
「あの女が離婚などとふざけたことを言い出した時の為だ!」
「だから!そこが間違ってるんですってばぁ」
チラッと聞こえた「別居」という言葉とベルナールの様子から、おおよそ事態を察したクリスはため息を呑む。
「レオノラ様出て行っちゃったんですよね?」
「違う!ただ実家に少しの間戻っているだけだ!」
「それを出て行ったって言うんですよ…そういう時は普通に謝りにいくところじゃないですか」
「………」
納得しかねる顔で黙り込むベルナールに、クリスはどう説明したものかと頭を巡らせた。
「ここは、外交と考えましょう。相手国が怒ったら、まずは相手を訪ねて、不満を聞いて、話し合いの場を設けるでしょう。そうでない場合、国交が途絶えますよ」
「………そ、そうか…」
「それと、奥さんが家出したのに夫が迎えにいかない場合、高い確率で離婚になりますからね」
「なっ!!?そ、そんなことこの間の判例調査では言ってなかっただろうが!」
「裁判になるまでもない、一般的なケースなんですよ!」
思わず声が大きくなってしまいクリスは慌てるが、ベルナールは青い顔で何かを考え込んでしまい、こちらを咎める気はなさそうだ。
しかし、そこでハッとこの会話の行き着く先に気付いてしまい、クリスの背筋に冷や汗が流れた。
「あ、えっとゲルツ宰相…?」
「分かった。とにかく、連れ戻しに行く……早急に必要な処理は今日中に終わらせていくが、あとはお前がやっておけ」
「あぁやっぱり…」
大量の書類が押し付けられる未来に、クリスは小さく呻く。
なんだって、上司の夫婦問題のしわ寄せを食らわなければならないのか。しかも、その夫婦問題だって明らかに上司に非があるのに。
恨み言が喉まで出かかったが、いつもチーズを差し入れしてくれるレオノラの顔を思い出し、クリスは代わりに気遣う言葉を並べていた。
「無理強いをしてはいけませんよ。あくまで穏便に、レオノラ様の不満を聞き出すんです」
「……チッ!」
折角のアドバイスに飛んできた派手な舌打ちに、やはりこんなところ辞めてやろうか、とクリスは若干投げやりになった思考を、頭を振って追い出したのだった。
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