59. 酩酊
ベルナールが部屋へ戻るのを見届けたあとも、レオノラはしばらく呆然と立ち尽くしていた。だが「奥様」と遠慮がちな声で呼ばれ、ハッと我に返る。
「えぇっと……じゃあ、私も今日は寝ます」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
まだ戸惑いの空気が残るニクソン達に告げ、レオノラはそのまま部屋へ戻った。
ケイティに手伝ってもらって重い夜会用ドレスから着替えても、レオノラは首を傾げたままだ。
ベルナールのあれは、いったいどういうことだったのだろう。怒っているのとも少し違うような気はするが。
本当に体調でも悪いのかと疑ったが、足取りはしっかりしていたし、腕を引かれた時も力はちゃんと強かった。
(まぁ、考えても仕方ないか……)
入浴を終えて寝支度を整える間も頭を悩ませていたのだが、分からないものは分からない。明日も同じ様な状態なら、またその時考えれば良いか。
夜会でそれなりに疲れていたレオノラが、短くため息を吐きながらベッドへ向かったところで……
パタパタと廊下が騒がしくなったと思ったら、扉が強くノックされた。
「奥様、まだ起きてらっしゃいますでしょうか」
「ニクソンさん?……どうしたんですか」
「おやすみのところ申し訳ありません。ですが、旦那様が…」
寝着の上にガウンを羽織って扉を開ければ、ニクソンが申し訳なさそうな顔で立っていた。
「ベルナール様がどうかしたんですか?」
「それが、奥様をお呼びしろとおっしゃいまして…どうも様子が可笑しいのです」
「それは…心配ですね。わかりました」
「申し訳ありません」と深々と頭を下げたニクソンと共に、ベルナールの居室まで急いで移動した。
その扉の前までくると、ニクソンがまたもや強めに扉を叩く。「旦那様。奥様をお連れしました」と中に向かって呼びかけるが、幾ら待っても返事が来ない。
中からはゴソゴソと物音がするので、起きてはいるようだが。
「ニクソンさん。これは……?」
「いえそれが…実は私も、扉越しに命じられただけで。中の様子は分からないのです」
「なら、開けてみるしかないですよね」
念の為、二、三度、ノックを繰り返してから、レオノラはそっと扉を開けた。
開いたその先は、明かりがついておらず真っ暗だった。
「ベルナール様…?……失礼しまーす」
「旦那様?」
夫であるベルナールの部屋に初めて入る訳だが、今はトキめいている余裕はない。
ニクソンと並んで、暗い室内を窓からの僅かな月明かりを頼りにゆっくり進んでいく。
少しばかり暗闇に目が慣れた頃、部屋の奥の窓辺の椅子に座り、何かの瓶を口に運ぶベルナールを発見した。その前に置かれたテーブルには、同じ様な瓶が並んでいる。
「えっ?ベルナール様!?」
グビッと中身を呷る音まで聞こえてきて、レオノラは慌ててその周りに視線を走らせる。
よく見れば、テーブルに並ぶのはどれも酒瓶で、空のものがコロコロと床にいくつか転がっていた。
まさか、あれからこの量を呑んだのだろうか。まだ戻って2、3時間しか経っていないのに。
ニクソンもこの光景は意外だったらしく、驚愕の目でレオノラと視線を合わせる。
そんな二人の存在に漸く気付いたのか、それまでグビグビと酒を呑んでいたベルナールが顔を上げると、ギロッと血走った目を向けてきた。
***
レオノラが王城の夜の庭園で、アレク・フェザシエーラに見惚れながら、その姿を素敵だと言った瞬間、ベルナールの頭は『離婚される!』という恐怖でいっぱいになった。
今夜の夜会では、とにかく側から離れず、余計なことをさせまいと決めていたのに。しかしその目論見は、レオノラがアレク・フェザシエーラをダンスに誘ったことで瓦解した。
嬉しそうにアレクの手を取りダンスの輪へ向かっていくレオノラを、ただ見ているしかできなかった己に、ベルナールは悔しさで頭を掻きむしりたくなった。
かといって、無理に止めることなどプライドが許さない。ただただ喉から迫り上がる罵詈雑言を飲み下すのに必死だった。
なぜ妻は嬉しそうに他の男を見つめる。なぜあの憎たらしい小僧が妻の腰に手を回している。夫の自分が触れたことのない場所に。
やはり、妻はあの小僧を気に入っているのだろうか。
そんな不安に胸が押しつぶされそうな中、レオノラが姿を消したものだからベルナールは大いに焦った。やっとアレク・フェザシエーラとのダンスを終えたというのに、そのままどこかへ行ってしまったのだ。
会場中を探しても姿はなく。ならば外か、と警護に配置された衛兵達に確認しながら、レオノラの後を追った。
そうしてようやく見つけ出した時、レオノラは王女と踊るアレクの姿を夢中で見つめていたのだ。『二人の邪魔をするな』『諦めろ』と言ったのは、もしや自分に言い聞かせていたのでは。
やはり、妻はアレク・フェザシエーラを求めているのでは。
離婚される。その後妻は、フェザシエーラの小倅と再婚する。
グルグルと脳を巡るその可能性をどうにかして追い出したくて。ベルナールは自室の部屋の棚の酒瓶に、手を伸ばしていた。
グラスに注ぐこともせず、二本目の瓶を空けた頃、忘れたかった不安感は消えていた。
代わりに、苛立ちと怒りが込み上げてくる。
「所詮、あの女だって顔の良い男を選ぶんだ」
言葉を吐き出せばますます苛立ちが募る。
なにがこの顔が好きだ。なにが仲良くしたいだ。
自分がこんな風に捨てられるなどプライドが許さない。ならば、先にこちらから離婚を叩きつけてやれば良い。屋敷を追い出して笑ってやれば、きっとあの女も後悔する。その様を見れば、こちらの気も晴れるかもしれない。
そう考えて、なんとなくこちらから宣言してやろうと、ベルナールは扉越しにニクソンを呼びつけ妻を呼ぶよう命じていた。
しかし、その間に次の瓶を空にしたところで、追い出されたレオノラがあっさりとアレクに助け出される情景が脳裏に浮かんだ。
……いやだ。本当は離婚などしたくない。
意識が酩酊し、その思いを声に発したかどうか分からない。ただ、「嫌だ」という強い気持ちが背筋を這い上がった。
離婚も嫌だ。妻が、妻でなくなるなど、考えたくもない。アレク・フェザシエーラと再婚して幸せになるなど、もっと嫌だ。
離婚などと言わずに、これまで通り過ごして欲しい。
白い結婚のままが良いならそれでも良い。永遠に触れられずとも構わない。欲しいものがあればこれまで以上に何でも揃える。望みはなんでも叶えるから。
グラグラ揺れる視界でベルナールがまた次の瓶を空けた頃、その隣に二つの気配が立った。
『えっ?ベルナール様!?』
耳に馴染む心地よい声の正体が、妻だと分かるとベルナールはギロッとその姿を睨みつけた。
ほんの一瞬前までの情けない考えは過ぎ去り、また別の想いが胸を支配する。
そうだ。とにかく、この女から離婚という考えを打ち砕かなければ。
「き、さま……お、思い上がるなよ!」
「はっ?」
「幸せな結婚ができるなどと思うな!絶対に、私の全てを使って、邪魔してやる!不幸に嘆くことになるぞ!」
急に立ち上がったからか、クラリと酒が体を巡るのを感じたが、ベルナールは構わず、声を張り上げた。
アレク・フェザシエーラと再婚などしようものなら、あらゆる手を使ってその結婚生活をぶち壊してやる。
あの小倅を、廃嫡させてやる。まだ爵位を継いでいない令息であれば、それも可能なはず。たとえフェザシエーラ公爵家と全面抗争になるとしても。
「あの、ベルナール様…何を?」
「平民にしてやる。その後も、永遠に追い詰めてやる」
恍けているのか、キョトンとした顔の妻に、ベルナールは更に苛立ちが募った。
「結婚したことを後悔させてやる!覚えておけ!」
「……えぇぇ」
「だから、出て…うっ…出てい…ひっく…」
出ていくな。どこにも行かないでくれ。そう思ったままを口にしたのか、する前だったか。
急に目の前が暗くなったベルナールは、そのまま床に倒れ込んだのだった。
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