48. 判例(ベルナールside)
馬車の車輪がカラカラと音を立てる中、ベルナールは苛立ちまぎれに舌打ちした。
その頭の中では、まとまらない思考がグルグルと渦を巻いている。
レオノラの理解不能な発言はいつものこととはいえ、今日はとりわけ訳が分からなかった。その不快感に辛抱たまらず、ベルナールは何度か床をガツガツと踵で踏みつける。
それでも一向に不快感は収まらず、仕方なしに無理やり意識を仕事へ向けた。
「…くだらんことに構ってる暇はない」
そう。今はセラフィーネ王女の件でやることが手一杯なのだ。
宰相としての職務も山積してるうえ、急な次期王位継承者の出現で己の地位が揺らがぬよう、采配を徹底しなければならない。
脳裏にまとわりつく不快な考えは無視し、あれこれと今後の予定を頭で整理するうちに、なんとか王城へと到着していた。
執務室に向かう間にも、ベルナールはクリスに命じるべき事項を脳内で確認しておく。
まずは、王女の専属護衛として配置する近衛兵の候補者リストを作らせなければ。
蛇が鳴くような掠れた声でぶつぶつと呟きながら、ベルナールは勢いよく宰相執務室の扉を開けた。既に出勤していたクリスが、その音にハッと顔を上げる。
「ゲルツ宰相!おはようございます。昨日言われた通り、南方地方の麦収穫量の調査結果の報告をこちらに…」
「クリス、次の仕事だ」
「ええぇっ!?ま、まだこっちの報告が終わってないじゃないですか!」
「後でいい。それより…近年、貴族夫婦で一方的な離婚請求が認められた裁判の事例をまとめろ」
「はっ?」
「過去10年、いや20年分。特に、妻から離婚を言い渡して成立した判例を重点的にだ。すぐに動け!」
「は、はいぃぃ!」
ベルナールの一括を背に、クリスは宰相執務室を飛び出した。
唐突な無理難題だが、最近はベルナールのそんな一方的な命令にもだいぶ慣れてきた。仕方ないと肩を落としたクリスは、言われた仕事をこなすべく足を動かす。
そうして法務部を尋ね、資料を依頼した途端、下級文官達が慌ただしく駆け回りはじめた。その様子を複雑な思いで眺める。
余程ベルナールが恐ろしいのか、宰相の指示だというだけで、城内のどの部署も対応を最優先にしてくれる。蛇宰相に睨まれるのは御免とばかりに、最速で資料が集まるので、前部署よりもよほど仕事が早く終わる。
のだが、仕事そのものの量が段違いなので、結局拘束時間は伸びた。
などという愚痴は飲み込み、クリスは言われ通りベルナールの為、裁判記録をまとめるのだった。
***
執務室を転がり出て数時間後。報告資料を手に持ちながらクリスは心底ホッとしていた。
「いやぁ、助かりましたよ。ここ数年、離婚請求が増えてるらしくて、法務部の方でも似た資料をまとめていたらしいです」
「…増えている、だと!?」
「はい…あれ?それでお調べになっていたのでは…?新法案を思いつかれたとか…?」
「……いや。これは我が家の為の調査だ」
「はぇっ!?」
ベルナールの不機嫌そうな声にクリスは思わず変な声が出ていた。
てっきり、セラフィーネ王女の婚姻問題もあり、新法案の準備でもするのかと思ったのに。
「え、ゲルツ侯爵家ですか?離婚の判例がいったい何に?」
「……」
「もしかして、レオノラ様と喧嘩でもされたんですか?それで離婚してくれって言われたとか?」
「言われてない!!」
シャーッと蛇の威嚇するような顔で、ギラギラした緑眼が鋭く睨みつけてきた。
まさかと思いつつ、それしか浮かばなかったので口にしてみたクリスは、ベルナールのあからさまな反応に目をしばたたかせた。
普段の、何を企んでいるのか悟らせない、不気味な表情からは想像もつかない。図星を突かれたと言わんばかりの顔。
と、そこでクリスは改めて考えてみる。
知り合って日は浅いが、それでも見た限りベルナールのレオノラに対する態度は夫として褒められたものではなかった。
レオノラがベルナールを嫌っている様子はないが、いつ愛想をつかしても可笑しくない。レオノラが離婚を言い出すのも、時間の問題だったのでは。
だが、それをベルナールが気にするのは意外だった。
折角の弁当の差し入れに礼の一言も言わないのだから、離婚も鼻であしらい損がなければ応じてしまう印象だったが。
「えーと、何があったか知りませんけど、悪いことしたならちゃんと謝った方が良いのでは?」
「あくまで一般的な裁判の判例を調べているだけだ。余計な口出しをするな」
「えぇぇ……まぁ、とりあえず報告しますけど」
今にも射殺さんばかりに睨みつけてくるベルナールの視線を、クリスは見ないようにする。
普段より鋭いとはいえ、ベルナールのこの睨みも最近は慣れたものだ。
週に二度、差し入れで貰うレオノラの弁当を一緒に食べてるうちに、クリスの中にもベルナールに対する親しみが芽生えていた。今更、多少睨まれたところで、田舎へ左遷されるかもと怯えたりはしない。
ペラッと、宰相室にクリスとベルナールがそれぞれの資料を捲る音が響いた。
「妻側からの離婚請求が認められた判例として、最も通りやすいのは…夫による暴力ですね。レオノラ様を見る限り、それは無さそうですが」
クリスの言葉にベルナールは小さくうなずいた。
「次は…結婚後、相手の家が犯罪行為に関与していたと発覚した場合です…これですか?」
「そんなものはない」
あったとしても、宰相が“ない”といえば問題にならない。
それは、ベルナールもクリスもお互い口には出さないところだが。これもきっと論点ではない部分なので捨ておくことにした。
「他には、夫に愛人や隠し子が居た場合ですね。特に、結婚前からの関係を隠していた場合と、愛人との扱いの差が争点になるようですが」
「そんな者は居ない。次だ」
嫌われ者の蛇宰相ならそうだろうな、とクリスはそれ以上のコメントを控えておく。
その後も、あれやこれやと、調べた内容を幾つか挙げるが、ベルナールとしてはどれも問題にはならないものばかりだ。
「あとは…あ、いわゆる”白い結婚“の訴えですね。これもすぐに婚姻関係解消が認められています」
ガタン、と机にベルナールの足がぶつかる音が響いた。
驚いてクリスが顔を上げれば、まるで「しまった」と言わんばかりに口と目を開いて固まる蛇宰相の姿。
「え、“白い結婚”なんですか……?」
「………」
聞こえていないのか、ベルナールは応えない。が、それだけで十分だった。
その姿に、クリスは「はぁっ?」と呆れた声と共に目を吊り上げた。
「それですよ!というより、なんで今まで思いつかないんですか?世の中じゃ思いっきり離婚事由ですよ」
「うるさい!そんなもの、すぐ解消すれば済む話だろうが!」
「…っ!」
「喧嘩中ならレオノラは嫌がるのでは」と返そうと思ったが、クリスはグッと飲み込んだ。流石にそれは、夫婦の問題に対して踏み込み過ぎだ。
「…そう、ですか……」
ポツリと零すクリスだが、そこで「あっ」と新たな問題を思い出し、気まずさに目を泳がせる。
「あ、あ、あぁの!でもゲルツ宰相は、今日は帰れないかと…。例の舞踏会の準備で」
「………」
重い沈黙が続く。
が次の瞬間、ビリビリと空気を揺らすような怒気が部屋の中に広がった。
「…進言した奴らを、一人残らず締め上げてやる」
牙をギラつかせた蛇の殺気のような気迫に、クリスは背筋を凍らせる。
そして、その殺気の交じった八つ当たりの餌食になるであろう部署と文官達に、そっと心の中で同情しておいた。
が、同時にこうも思うのだ。この状況は、蛇宰相の自業自得ではないだろうか、と。
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