30. チーズケーキ
咄嗟にああは言ったものの、まさか本当に彼がこうして一緒に王都のカフェでチーズケーキを食べてくれるとは思わなかったので、レオノラは大変気まずい思いをしていた。
状況はきわめて奇妙なもの。
どう話を切り出せば良いか悩む女と、青い顔をした男が、チーズケーキの乗ったテーブルを挟んで向かい合っている。
奇妙ではあるが、周りの客は巷で人気のケーキに夢中で、誰も自分達をそこまで気にしていないので、レオノラにとってはありがたい。
しかしその間にも男の顔はどんどん青褪め、首筋を汗がタラリと伝い、握られた拳は小刻みに震えていた。
「あ、あの…私の好物がチーズケーキだと御存じだったのですね」
「へっ?…あ……いえ。咄嗟にチーズケーキが食べたいな、と思っただけで、特に理由は…」
「私の事情を御存じなのでは…?」
「いえ。申し訳ありません。初対面の筈です」
そう。初対面なのだが、レオノラを見た途端に逃げ出そうとしたのだから、彼にはきっと何かマズい事があるのだろう。
よほど夫の蛇宰相が恐ろしいのか、それともあの仕立屋での会話を聞かれたのは都合が悪かったのか。
「本当に…御存知ない、のですか?」
「いえ…まぁ……」
眉を寄せ、疑わしそうにチラチラと向けてくる視線を、レオノラは笑って誤魔化す。
何故、彼がチーズケーキが大好物だと知っていたのか。何故、必死に彼を引き留め、こうして交流を図っているのか。
本当の理由を言う訳にも行かない。
「その、私が何者なのか、は…?」
「…いえ。すみません。逃げられたので、咄嗟に引き留めてしまいました。さっきも言いましたが、初めてお目にかかったかと…」
「私は…二年程前に一方的にお見かけして、お顔は存じておりました」
きっと、レオノラがまだ伯爵令嬢だった頃、社交の場ですれ違ったか何かだろう。
ネズミ司書の特技は人の顔と名前を覚えることなのも知っているので、特に驚かない。
とはいえ、挨拶すらまだな事に変わりはないので、レオノラはいい加減話を進めるか、と笑みを浮かべた。
「この度は急に失礼なことをして申し訳ありません。レオノラ・ゲルツと申します。以後、どうぞお見知りおきを」
「うっ!あの、いえ。こちらこそ。クリス・グレイと申します。王宮外交部の第4室に勤めています……」
司書ではなく、まだ文官なのか。とレオノラは青ざめる男をシゲシゲと観察した。
細長い輪郭と、少し高くなった鼻。口を開くと見える、少し長めの前歯。齧歯類特有の愛嬌を醸し出す顔の造り。灰色に見える色素の薄い黒髪と、同じく灰色の瞳。
極め付けは、チーズが大好物。
いかにもな設定で、案の定ファンの間でネズミのイメージがついた彼は、乙女ゲーム『太陽に願えば~Love Melody〜』で、王宮の図書館に行くと会えるサポートキャラなのだ。
乙女ゲームのサポートキャラといえば、攻略対象の好感度や攻略ヒントを教えてくれる存在だが、彼はそれだけではない。
一回のプレイで3個だけ手に入るアイテム『チーズケーキ』を渡すことによって、様々な恩恵を齎してくれる。
ストーリーの中盤で主人公が女王になる為のステータスの振り直しをさせてくれたり、攻略対象とのレアな恋愛イベント発生の条件になっていたり。
他にも色々あるが極め付けは、クリア後の周回プレイでステータスを引き継ぐことができる点だ。
どんだけチーズケーキ好きで、どんだけチート性能なんだ、と突っ込むプレイヤーも多かった。
しかし、レオノラが何としてでも彼を引き留めて交流を図りたい理由はそこではない。
図書館の司書として登場した彼だが、それは蛇宰相によって左遷された為という設定があった。そんな因縁から、いずれ攻略対象達が蛇宰相を追い詰める為の手助けをするのだ。
さすが悪役の蛇宰相。ヒロイン側のあらゆる人物を敵に回す布石を、着々と積み重ねている。
「それで、クリスさんがあの店に居たのって…」
「ど、どうぞ、ゲルツ宰相様にご報告ください。どの道、宰相様のご提案はお断りする積もりだったのです…」
切羽詰まった様子で、それでももうどうでも良い、と自棄になった様子で俯いた彼が唸るものだから、レオノラは呆気に取られてしまった。
「まさか、私の様な一介の文官ごとき、ここまで周到に調査をされるとは思っていませんでしたが…宰相様を甘く見たのは私の落ち度です。どうせ田舎の閑職に飛ばすなら、好きにしてください。こちらは覚悟はできています」
周到な調査とはチーズケーキを言い当てたことだろうか。それは大きな誤解なのだが、どうしたものか。
さっきも偶然だと言ったが、信じて貰えないなら何度言ってもきっと同じ。
安易にキーワードを出したのはよく無かったのかもしれないが、そうでなければ彼を引き留められなかった。
引き留めたところでどうなるかは分からないが、どうやら今はその”左遷問題”の真っ只中らしい。
少なくとも、彼をこのまま放置すればベルナールによって左遷され、敵の一人となってしまう。
目の前で顔を青褪めさせ、フルフルと震える将来のネズミ司書に、レオノラはどうしたものかと内心頭を抱えた。
ただ一つ言えることは、彼とは件の左遷前に会えた上に自分はその原因たる蛇宰相の妻という立ち位置なのだから、なんとかすればこの事態を好転させることができるかもしれない、ということだ。
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