29. 蛇は宰相、ネズミは司書
「ではゲルツ侯爵夫人。本日ご注文いただいたドレスですが、最初の物は一週間後に仮縫いを行いますので」
「ええ。よろしくお願いします」
スージー夫人がニッコニコの笑顔で見送ってくれる。上機嫌の理由は、デザインが好きと言う顧客に対するものだけでなく、これからゲルツ侯爵家が支払う金額によるところが大きいだろう。
「奥様、良かったですね。これからも旦那様にどんどん貢がせましょう」
「フフフ、ケイティったら…」
普通であれば、二、三回通い、漸く常連と認められるだけの量のドレスを、一度にドンッと注文して行くのだ。ニクソン曰く、この数量と金額なら、スージー夫人としてはレオノラが次の得意先と認識することは間違いないだろう、と、事前に言われていた。
(お金の暴力だなぁ…)
いかにも悪役らしい動きだが、一応誰も不幸になってはいないので、レオノラはありがたく現状に甘えることにする。
嬉しさと申し訳なさで複雑な気持ちになりながら、レオノラが応接室から表の店内へ出たのだが。
そこでカウンター越しに言い争う男女の声が響いてきて、思わず足が止まった。
「ですから、我々も嘘の金額をお伝えする訳にはいかないんです」
「そこをなんとか。せめてもう少し、増額できませんか?なんとか、飾りを増やすとか」
「北の国のドレス事情では、これ以上の金額は考えられません」
「それだと困るんです。どうか……」
切羽詰まった男性が頭を下げて懇願しているが、店の従業員だろう女性はキッパリと突っぱねる。
穏やかではない光景にレオノラは一瞬呆然としていると、レオノラ達の案内役だった別の従業員が、その視線を遮る様に前に出てきた。
「大変申し訳ございません。お見苦しいところを。お気になさらず、どうぞお出口まで」
「は、はい…」
流石は商売のプロ。その優雅で余裕気な態度につられ、レオノラは導かれるまま出口を目指す。
未だ口論する男女の横を通り過ぎる際に、案内役が小さく目線を送ったのがチラリと見えてしまった。『店先で何をしているんだ』と言わんばかりの目くばせを受け取った接客員がビクッと肩を揺らす。
「ほ、他のお客様のご迷惑になります。どうぞ、お引き取りください」
「そこをなんとか……お願いします」
尚も食い下がりながら頭を下げていた男が唐突に顔を上げる。通り過ぎる際にその灰色の瞳と偶然目が合った途端、レオノラは固まった。
そして、同じ様に男性側も固まった。
「…っ、ひぃっ!ゲ、ゲルツ侯爵夫人!!」
短い悲鳴と共に顔を真っ青に染めた男性はその瞬間、クルリと出口へ足を向けた。
「しっ、失礼します!」
「あ、ちょっと待って!」
咄嗟のことだった。レオノラはほぼ反射的に体を男性と扉の間に滑り込ませる。
それは、彼が自分の名前を呼んだからでも、青い顔で逃げ出そうとしたからでもない。
レオノラは彼を知っている。
「あなた!」
「ひぐっ!あ、あぁ、あの、も、もうしわけありま…」
「チーズケーキを食べたくない?」
「………はい?」
ポカンと男の口から漏れた言葉は、この場の全員の心情と重なるだろう。
誰が聞いても支離滅裂な提案だ。
が、彼を引き留める為に、レオノラが咄嗟に思いついたのはこの言葉だけだった。
なにせ彼は、チーズケーキと引き換えに攻略情報を教えてくれるほどチーズが好きな、ネズミ司書なのだから。
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