水槽の底
宜しくお願い致します。
水槽の金魚が逆さに浮いている。鰭の先から泡がゆっくり立ち昇る。窓の外を染める梅雨の灰色が、ガラス越しの金魚の鱗に鈍い光を宿させている。
「ああ、また」
私は指先で水槽を叩いた。金魚はくるりと身を翻し、ゆらゆらと正常な姿勢に戻る。この奇妙な習性を初めて見たのは、父が出て行った朝だった。母が寝室で嘔吐する音を聞きながら、私はこの奇妙な生態を30分間観察し続けた。
コンビニのレジ打ちを終え、雨に濡れたスニーカーでアパートの階段を上る。鍵穴に差し込んだ瞬間、玄関ドアが内側から開いた。母が血の気のない唇を歪ませている。首筋に紫色の痣が新しい。
「お前が遅いから」
母の吐息に抗うつ剤の匂いが混じる。腕を掴まれた皮膚の下で、私の筋肉が微かに震えた。15年前の記憶が蘇る。父の腕時計が床に叩きつけられる音。母の頭を壁に打ち付ける父の背中。救急車のサイレンが夜の団地に響くとき、私は冷えたオレンジジュースの缶を握りしめていた。
冷蔵庫に補充するペットボトルの水。洗面台に溜まった黒い抜け毛。毎晩2時に鳴り響く母の叫び声。私は金魚の水槽に顔を近づける。酸素ポンプの泡が頬に触れる。水中で開く金魚の口が、自分たちの呼吸を嘲笑っているように見える。
バイト先の店長が腕時計を外す仕草に父の面影を見た翌日、私は駅のホームで奇妙な計算を始めていた。通過列車の風圧を体に浴びた時、踏み切りゲートまでの距離は何歩か。線路の枕木の数え方。携帯の充電残量が13%になった時、母の薬の在庫が尽きるまでの日数。
雨に煙る街灯の下で、私はふと足を止める。美容院のディスプレイウィンドウに映った自分が、母の20代の写真と重なって見える。首筋にできた湿疹を掻きむしりながら、私は深夜のスーパーで半額の惣菜を2品選んだ。
「あんたさえいなければ」
母の寝言が壁を伝ってくる夜、私は水槽の掃除をする。スポンジで苔をこする手が震える。金魚が突然激しく跳ね、水しぶきがメガネのレンズにかかる。瞬間、視界がゆがんだ水滴の向こうに、中学生の自分が見えた。保健室のベッドでカーテンを握りしめていたあの日。家庭科室の包丁を鞄に入れた帰り道。結局使わずに川に投げ込んだ時の水音。
コンビニのレジで客のポイントカードを処理しながら、私は数字の羅列に母の診察日を重ねて計算する。2458ポイント。あと17日分の薬代。レジ横の菓子棚に並ぶチョコレートの包装紙が、ふと父が土産に買ってきた金平糖の缶を思い出させる。
雨上がりの朝、水槽の水が濁っていた。金魚が逆さに浮いたまま動かない。私はメガネを外し、額を冷たいガラス面に押し付ける。酸素ポンプの電源プラグが床に転がっている。コンセントの差込口にこびりついたホコリが、いつからそこにあったのか考える。
母の部屋から漏れるテレビの音。ニュースキャスターが自殺報道を淡々と読み上げる声。私は金魚を手のひらに乗せ、流し台へ向かう。冷たい鱗が掌の汗に吸い付く。排水口の銀色の網目が、駅のホームドアを連想させる。
「ごめんね」
囁きながら指を緩める瞬間、背後で物が倒れる音がした。母が薬の空箱を握りしめ、崩れるように座り込んでいる。頬を伝う涙の軌跡が、私の掌の金魚の形と奇妙に一致している。
水槽の照明がチカチカと明滅し始めた。私は冷蔵庫の上から父の形見の腕時計を取り出す。針は永遠に3時15分を指したまま。中学生の時に止めた時刻。金魚を流しに放つ代わりに、私は時計の竜頭をゆっくり回し始めた。
時計の針が動き出した瞬間、廊下で母の咳込む声がした。私の指が震え、竜頭から手が離れる。秒針が4秒進んでまた止まる。窓の外で救急車のサイレンが遠のいていく。
拙い文章ではありますが、最後まで読んで頂きありがとうございました。