苦い味
紫の瘴気を纏ったトレントが、猛牛の突進のように一直線に迫ってくる。
ナズカは目を閉じ、集中に入っていて身動きができない。
――なら、僕が止めるしかない。たとえ相打ちになろうとも。
腹の底で覚悟を決め、斧を振りかぶって突進するトレントに向かってあえて駆け出した。
ぶつかる!
衝突の直前、全身の力を叩き込むように、横合いから渾身の一撃をぶつける。
――ガァンッ!
全身に凄まじい衝撃が走り、僕の体は空中へと弾き飛ばされた。
視界が激しく回転し、上下左右の感覚が消える。
まるで地面に吸い込まれるように世界が反転し――ドンッ、と額を強打した。
「ぐっ……!」
息が詰まり、視界が白く弾ける。
地面に転がりながら必死に頭を上げると、トレントは大きく軌道を逸れ、壁へと激突していた。
ナズカは一歩も動かず、集中を保ったまま立ち続けている。
――どうやら狙い通り、突進の方向を逸らすことに成功したらしい。
痛みに顔を歪めながらも、胸の奥で安堵が広がった。
だが、まだ油断はできない――。
僕は必死に体を起こした。視界が揺れる。だが、トレントも態勢を立て直しつつある。ナズカを守らなければ……。
――間に合ってくれ。
胸の奥でそう祈った瞬間、ナズカが瞼を開いた。集中を解いた証だ。
視線が合う。
「撃って――!」
掠れた声を張り上げ、僕はトレントを指さした。
次の瞬間、雷光が奔る。
轟音とともに紫の瘴気を纏ったトレントは雷に貫かれ、痙攣するように震えたのち、光の粒となって霧散した。
「……やった……」
安堵と同時に力が抜け、僕はその場に崩れ落ちた。
すぐに駆け寄ってくる足音。どうやらリリエットとマリィも、もう一体のトレントを仕留めたらしい。
「ユニス!」
リリエットが慌てたように腰を落とし、ポーションを取り出す。
僕は苦笑して手を振った。
「ありがとう。でも、ちょっと吹き飛ばされただけだから」
「血が出ているぞ」
リリエットにそう言われ、額に手を当てる。指先にぬるりとした感触――そこで初めて、自分が出血していることに気づいた。頭を打ったときのものだろう。
強がっても仕方がない。差し出されたポーションを受け取り、口をつける。
「……に、苦い……」
舌が痺れるような苦味に思わず顔をしかめた。
癒しの薬草と空きポーションを融合して生み出したポーション。人に飲ませたことはあったが、自分で口にするのは初めてだった。
――これほどまでに苦いとは。
「ユニス、大丈夫かい……?」
少し遅れて合流したナズカが心配そうに身をかがめ、声をかけてくる。
胸に安堵が広がるはずだった。だが、代わりに込み上げてきたのは別の感情――《《苛立ち》》だった。
「どうして勝手に……!」
思いのほか荒い声に、自分自身が一番驚いていた。
ナズカがびくりと目を見開く。怯えたような表情に、僕ははっとして口をつぐんだ。マリィとリリエットも驚いているのが分かる。
「……ごめん。無事でよかったよ。」
すぐに取り繕うように言葉を重ねる。だが胸の内は、ざわついたままだ。
「う、うん……」
ナズカはそれだけ返し、視線を伏せた。
その後、傷が問題なく塞がっているのを確認し、僕らは地上へと戻ることになった。
* * *
ダンジョンを出て、街へと続く道を歩く。
僕たちの間には重たい沈黙が流れていた。さっきの僕とナズカのやり取りが影を落とし、誰も口を開こうとしない。
――この沈黙の原因は間違いなく僕だ。
あの時の苛立ちが、なぜあんなに強く湧き上がったのか。頭を冷やして考えてみると、理由ははっきりしていた。
僕が怪我をすることになったからではない。
――僕の判断を待たずに、勝手に行動した。
その一瞬、リーダーとしての存在を否定されたような気がしたのだ。
あんなに感情的になるなんて……自分でも情けなかった。
そして、僕の声に怯えたナズカの顔。
いつもの自信に満ちた「偉大なる魔法使い」の顔ではなく、不安を隠しきれない素顔。
頭をよぎったのは、昨夜マリィが言った言葉。
――「きっとルミナスクローバーの元メンバーよ」
確信めいた予感があった。ナズカは追い出されたのだ。仲間から責められ、居場所を失って。
そして今もまた、僕の言葉に押しつぶされそうになっているのかもしれない。
……僕が感情をぶつけてしまったことで、「ここにも居場所はない」と思ったのではないか。
いま、ナズカはどんな気持ちでいるのだろう。
声をかけなければいけない――そのことはわかっていた。
けれど、その一歩が踏み出せない。
もし声をかけるなら、僕はまだ話していないことを打ち明けなければならないからだ。
ナズカがルミナスクローバーの元メンバーだと知っていること。
そして、彼女たちが賞金を追っていたあの頃、僕らが裏でサハギンのダンジョンを討伐するよう誘導したこと。
どれも伝えなければならない。だが、どう言葉にすればいいのか。
考えがまとまらず、喉の奥で何度も言葉がつかえては消えていった。
――結局、その日はナズカに声をかけることができなかった。




