距離感
トレントのダンジョンの五階層。
ここからトレントに変わり新たに姿を見せるのが《人食い花》だ。
その背丈は二メートルを超え、分厚い花弁の奥には捕食用の大きな口が開いている。鋭い突起が歯のように並び、絶えず粘つく唾液を垂らしながら獲物を襲う。
本体の花を支えるのは、木の根にも似た複数の蔓のような触手。
それらは地に根を張ることなく、鞭のようにしなり、時に脚のように地を蹴って本体を持ち上げる。
その動きは単なる植物とは思えないほど素早く、攻撃も容赦がない。
左右から挟み込むように振り下ろされる触手は重量も速度もあり、油断すればそれだけで致命傷になりかねない。
以前、僕とリリエットの二人で挑んだときは――
その鞭のような触手の攻撃を必死に捌きながら、反撃を繰り返し、最後には首にあたる太い茎を叩き斬るという形で戦っていた。
――だが、今回は違った。
マリィの手には《パラライズファング》と《ヴェノムエッジ》という、二本の状態異常付きの短剣がある。
迫りくる触手を僕とリリエットが盾で受け止めると、マリィは身軽に飛び出し、二本の刃を素早く触手へ突き立てていった。
次の瞬間、斬られた触手は硬直し、あるいは力を抜いたようにだらりと崩れ落ちる。
麻痺と脱力。どちらの効果も確実に現れ、触手はあっという間に無力化された。
こうなれば勝負はついたも同然だ。僕とリリエットは動かなくなった触手を避けながら本体に迫り、幹へ容赦なく攻撃を叩き込む。
人食い花は抵抗らしい抵抗もできぬまま、無数の光の粒となって霧散した。
――以前に比べ、驚くほど安全で、あっけないほどの討伐だった。
ドロップアイテムを拾い上げる。
今回も落ちたのは――しなる触手。以前と変わらない、人食い花からの定番のドロップだ。
振り返ると、ナズカが唖然としたような表情で立ち尽くしていた。
人食い花との戦闘では彼女の魔法が頼りになる……そう話していたのに、実際はマリィの短剣の効果であっさりと片がついてしまったのだ。
最初の一戦は《ヴェノムエッジ》の効果を確かめるために魔法を控えてもらったのだが、これでは出番がない。驚いているのか、それとも戸惑っているのか――僕には判断できなかった。
「距離があるときはさ、ナズカの魔法で頼むよ。一撃で、ズバッとね」
フォローのつもりで声をかける。
「ああ……そうだね」
ナズカは短く返事をしたが、どこか呆然とした響きが残っていた。
* * *
その後も五階層を探索していったが、ナズカの魔法に出番が回ってきたのは、六度目の人食い花との戦闘だった。
十分な距離がある状態で遭遇し、相手が接近しきる前に魔法を放つ。乾いた音とともに雷光が迸り、人食い花は一撃で焼き尽くされた。
いつもなら「偉大なる魔法使いの雷魔法だ!」と得意げに胸を張るところだろう。だがその時のナズカは――むしろ安堵したように、胸を撫で下ろしているように見えた。魔法の出番がまったくなかったことを、やはり気にしていたのだろうか。
それまでの戦闘はすべて、前衛だけで十分に片がついてしまっていた。
ダンジョンの魔物は人間を見つけると一直線に襲いかかってくる。人食い花も例外ではない。魔法で先制するにしても、鎧を着ていないナズカを危険にさらすわけにはいかない。人食い花が接近して来たら前衛の僕たちが前に出て食い止めるしかなく、そうなればそのまま前衛で倒してしまえるのだ。
魔法で先制する場合は、僕が合図を出すことになっている。だが僕自身、まだその距離感を掴みきれていない。実際には先制できる距離でも、つい慎重になりすぎてしまうのかもしれない。
* * *
その後も五階層の探索を続けていった。
ナズカの魔法の出番は、おおよそ五、六回に一度といったところだろうか。
やはり距離感が難しい。
魔法を撃つには相手との間合いが肝心だが、その判断を誤れば味方を危険にさらしかねない。僕としても、まだまだ改善の余地があると感じていた。
そう思っていた矢先だった。
討伐を終えた人食い花が、これまでとは違うものを落としたのだ。
床に転がったのは、橙色の光を内に宿したように輝く、透明な結晶だった。




