毒牙
「……なんとか、勝てたね」
僕は深く息を吐きながら、背中を伝う汗の流れを感じていた。誰も怪我をしていない。結果としては完勝と言っていいはずだ――ただし、あの最後の一撃には肝を冷やされた。
切断されたはずの大百足が、なおも這い寄ってきたときの、あの不気味さと恐怖。反射的に斧を投げていなければ、足を噛まれていたかもしれない。
「……最後、切断してからも動いてたわよね」
マリィがやや引き気味の声で呟いた。
「ああ、私も完全に仕留めたと思っていた。あの時、対応が遅れてしまった。すまなかった、ユニス」
リリエットが申し訳なさそうにいった。
「いや、あれぐらいなら大丈夫。むしろ、よくあそこまで斬りきったね」
僕が笑って返すと、リリエットは静かに頷いた。
「甲殻は確かに頑丈だったな。体の節、関節のような部分を狙うべきだったな。マリィは最初の攻撃で、よくそこを狙えたな」
「ふふん、短剣の取り回しはこういうとき便利なのよ。でも、攻撃の後、動きが全く鈍ってなかったわね。麻痺は効かないと思ったほうが良さそうね」
マリィの言葉に、僕は小さく頷く。
「そうだね。毒を持ってるから、麻痺にはある程度の耐性があるのかも。それとも、体の構造が特殊だからかな。とにかく――動きが完全に止まるまでは、油断しないでおこう」
簡単な反省会を終えて、ドロップアイテムを回収する。
てっきり、装甲のような硬い甲殻が落ちていると思っていたのだが、そこにあったのは意外にも黒く禍々しい牙だった。
鑑定。
《大百足の毒牙:素材》
慎重にそれを拾い上げる。嬉しい誤算だ。大百足の防具の話を聞いて、このダンジョンに来たが、毒牙ならマリィの短剣に融合できる可能性がある。これまでの傾向からして、毒や状態異常に特化した武器が作れるかもしれない。
* * *
その後も僕たちは探索を続け、五体の大百足を討伐したところで、今日は引き上げることにした。体力的にはまだ少し余裕があったものの、みんなの表情には疲労の色が浮かんでいた。原因は、明らかに精神的なものだった。
大百足という魔物は、端的に言えば「かなり気持ち悪い」。見た目も動きも、生理的に受け入れがたいものがある。とくに最後の五戦目は、僕たちの精神力を大きく削った。
マリィは、短剣の麻痺が効かないので、代わりに大百足の弱点を探ることにした。そして注目したのが、頭部に生えた長い触角だった。僕が噛みつきを盾で受け止めている隙に、マリィが短剣で片方の触角を切り落とすと――。
その後の光景は、まさに地獄だった。
大百足はのたうち回り、大暴れを始めたのだ。僕たちはすぐに距離を取り、誰も怪我はしなかったが、その異様な動きと呻くような音は、強烈な嫌悪感を呼び起こすには十分だった。
最後はリリエットが隙をついてとどめを刺したが、あの動きは、思い出すだけでも寒気がする。
僕たちは黙々と来た道を引き返し、地上へと向かう。
帰る途中、遭遇した大蜘蛛を見て、マリィが「今なら可愛く見えるわ」とぽつりとこぼした。その言葉が、妙に印象に残った。
無事にダンジョンを脱出し、今日の成果を改めて確認する。
大百足の甲殻が四つ、毒牙がひとつ、そして大蜘蛛の絹糸が複数――。
結果だけ見れば、上出来だった。
* * *
「ねえ、ダンジョンだけど、明日からどうしようか?」
僕はみんなが、地上の空気を吸って、一息ついたタイミングで切り出した。
そもそも僕たちがこのダンジョンに挑んだのは、大百足の甲殻を使った防具の噂を聞いたからだ。融合はまだ試していないけれど、すでに甲殻はいくつか手に入っている。そう考えると、ある意味では当初の目的は達成したと言ってもいい。
「もしかして、違うダンジョンに行こうって話かしら?」
マリィが、どこか期待に満ちた目で僕を見つめてくる。
「うん。というか……大百足は、正直ちょっと僕の想像を超えてた」
「あの不気味さのこと?」
「うん、見た目も動きもキツかった。それに、五階層以降になると複数体が同時に出てくる可能性があるでしょ? そうなると、ちょっと厳しいかなと思って」
僕が使う《蒼花紋の盾》は、虫系の魔物の敵対心が上がる効果がある。いままでこの効果はパーティにとって有利に働いていた。
だが、それは一度に一体しか敵が出てこない前提での話だ。複数体が同時に現れたら、全ての攻撃が僕に集中してしまう可能性もある。さすがに、それをさばききる自信はない。
「なるほど、そう考えると、深層へ進むのは得策とは言えないな。盾を買い替えるという手段もあるが……それなら、いっそ別のダンジョンを検討するのも賢明かもしれない」
リリエットが頷く。
「僕たちの強みは“融合”で装備を強化できることだと思うんだ。だから、色んなダンジョンを回って、素材を幅広く集めておいた方がいい気がして」
「良いとこ取り、というわけか。ふむ、それなら次に行くダンジョン選びが課題だな」
そこへマリィが、ぽつりと声を上げた。
「ねえ、そういうことなら――明日は探索、お休みにできないかしら? 次のダンジョンに向かう前に、少しだけ休憩ってことで。あたし、寒くなる前に下の子たちのために縫い物をしたいと思ってたの。最近ずっとダンジョン続きだったから、手が回らなくて……」
マリィは元々は孤児院の子供たちのためにダンジョンに潜ることなったのだ。その彼女が「休みたい」と言うのなら、それは大切な時間なのだろう。
「なるほど、そういうことなら……私も、実はずっと手紙を書こうと思っていたのだ。だが、なかなか時間が取れなくてな。休みにするなら、この機会に便箋に向き合ってみるのもいいかもしれない」
リリエットは、家を飛び出してこの街に来た。ダンジョンを攻略するまでは帰るなと命じられているが、それでも母親や弟――ルーク宛ての手紙なら、あの男爵も目をつぶってくれるだろう。
「よし、それじゃあ明日は探索なし。みんなそれぞれ、好きなことをして過ごそう」
二人は、静かに頷いた。
――さて、そうはいったものの僕は何をしようかな。




