彼女の理由
とうとう、スリを捕まえることに成功した。
バインドウィップがしっかりと足に絡まり、少女は地面に転がって、逃げる術を失っていた。
黒髪のショートヘア。黒い瞳。年の頃は十四歳くらいだろうか。
そして──頭の上からぴょこんと突き出した、猫のような三角の耳。
やはり──以前、僕たちを出し抜いたスリと同じ少女だ。
「観念しろ」
リリエットが鞘をつけたままの聖銀の剣を突きつける。威嚇には十分な迫力だ。
少女は観念したように、うなだれた。
「上手くいったみたいね。
でも、このあとどうするの?」
ネルコが後ろから僕らに駆け寄ってきて、問いかける。
「衛兵に突き出すの?」
「え……」
僕は思わず言葉に詰まった。
正直、その先のことまで深く考えていなかった。
横目でリリエットを見ると、彼女も少し眉を寄せていて、どうやら同じように考えあぐねているようだった。
衛兵に引き渡せば、処罰は免れないだろう。盗んだものがリンゴ一つでも、それは変わらない。
おそらく、軽くても強制労働。悪ければ、鞭打ちの刑だってあるかもしれない。そこまでさせるのは、さすがに気が引ける。
「ふむ……」
リリエットはしばし考え込んでいたが、やがて何か決めたように言った。
「子供の悪戯だ。ご両親に報告して、きっちり説教してもらおう」
そう言って、僕の方を見つめてくる。
少女はぱっと見で十二~十四歳くらい。子供の“悪戯”というには少し年齢が高い気もするが、つまりは――見逃してやろう、ということだろう。
僕としても、ことを荒立てるつもりはなかった。だから、頷いてリリエットに同意を示す。
だが――
「……両親なんて、いないわ!」
少女が叫ぶように言った。
「パパもママも、ダンジョンから……帰ってこなかった」
その声には、強がるような響きと、寂しさが入り混じっていた。嘘をついているようには見えない。
その場に一瞬、重たい沈黙が落ちる。
やがて――
「ああ、あなた……孤児院の子ね」
ネルコが、ぽつりと口を開いた。少女を見つめるその目は、少しだけ、複雑なものを映していた。
迷宮都市には、今日も各地から人々が集まってくる。
冒険者を志して、自らの意志でこの地を訪れる者もいれば、他に金を稼ぐ手段がなく、仕方なくダンジョンに身を投じる者もいる。中には家族を養うために戦う者だっている。
だが、どんな理由であれ、ダンジョンに潜る限り、全員が無事に帰ってこられるとは限らない。
この都市にはそういったダンジョンによって親を失った子供たちの孤児院があると聞いたことがあった。
「……そうよ。でも……孤児院は関係ないわ」
少女が絞り出すように言う。
「あたしが一人で勝手にやったこと。衛兵に突き出すなら、好きにすればいいわ」
強がった口調だったが、その声にはかすかな震えがあった。恐怖を押し隠しているのがわかる。
少女の頭にある猫のような耳も、しゅんと力なく伏せられていた。
やはり、何か理由がある――そう思ったとき、僕たちは周囲からの視線が増えていることに気づいた。
このままだと、衛兵に通報されるのも時間の問題だ。
「ねえ、君がどうしてこんなことをしたのかは知らないけど、理由を話してくれないかな。もしかしたら、力になれるかもしれない」
そう言いながら、僕は彼女に絡まっていた《バインドウィップ》をそっと解いた。
少女は戸惑ったように僕を見つめる。
僕はそのまま、彼女の前にしゃがんで手を差し出した。
「……」
しばしの沈黙の後、少女はおそるおそるその手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
「……すこし移動しよう。ここじゃ人が多すぎるよ」
彼女から視線を外し、先に歩き出す。
もし、これで逃げるなら――それはそれでいいのかもしれない。そう思いながら、振り返らずに足を進めた。
やがて、すぐに後ろから小さな足音がついてくるのが聞こえた。
リリエットとネルコ、そしてあの少女が、ちゃんと僕の背中を追ってきている。
* * *
門から離れた、人通りの少ない通りに入り、ようやく足を止める。
振り返って、改めて少女と向き合った。
「僕の名前はユニス。こっちがリリエットで、あっちがネルコ。……君の名前は?」
「……マリィ」
小さな声だったが、はっきりとそう答えた。
「どうして、こんなことをしてたの?」
僕の問いに、マリィは少しうつむいたまま、唇を噛んでいた。
けれど、やがて、意を決したように顔を上げる。
「……それは……あんたたちが、あのダンジョンを討伐しようとしてたからよ」
マリィの目が僕たちをまっすぐに見据える。
「あのダンジョンで採れる果物……あれは、孤児院の子たちにとって、本当に大事なものなの。あたしたちには、ただの食べ物以上の意味があるの」
「……食べ物以上?」
「果汁なら、風邪を引いた赤ちゃんでも口にできる。薬なんて買えないから……あれが、命を繋ぐものなのよ」
マリィの声は、熱を帯びていた。
「今、孤児院には双子の赤ちゃんがいるの。何度も風邪を引いて、ちょっとしたことでも命に関わる……」
「……」
「だから、あの果物がなくなるなんて、考えられなかった。あれがないと……次は、あの子たちの番かもしれないから」
マリィの言葉に、思わず息を飲んだ。
「私、孤児院に十年いるけど……その間に、何度も兄弟たちの墓を作った。血は繋がってない。でも、みんな、私にとっては家族だったの。小さな子供って本当に些細な風邪で命を落とすのよ。……これ以上、大切な人を失いたくなかっただけよ」
マリィの両手は、ぎゅっと拳を握っていた。
その姿は、ただのスリとは思えなかった。大切なものを守ろうとして、手段を選べなかっただけの、ひとりの“お姉ちゃん”に見えた。
「じゃあ……ダンジョンの討伐を妨害するために、あんなことをしてたの?」
僕が問いかけると、マリィは一瞬だけ視線を逸らしたが、すぐに頷いた。
「……そうよ」
その言葉に、少し驚いた。
スリとしての行動は、盗みのためじゃなかったということか。果物を守るため、孤児院の子どもたちのために、わざわざ危険を冒してまで。
ある種の抗議活動――なのかもしれない。
でも、正直言って、どれほど意味があるのかは疑問だった。
ドロップアイテムを一つや二つ盗られたくらいで、冒険者が探索をやめるとは思えない。
リリエットが、真剣な表情で口を開いた。
「……ギルドには、相談しなかったのか?」
「したわ。でも……」
マリィは唇を噛んだ。
「私なんか、相手にされなかった」
嘘をついているようには見えなかった。目は真っ直ぐで、悔しさを堪えるような色がにじんでいた。
だからこそ──僕は、ひとつの疑問に引っかかった。
ギルドはいま、ふたつのダンジョンに同時に懸賞金をかけている。
サハギンのダンジョンは、実際に魔物が街道に溢れたから討伐の必要があるのは分る。
だが、トレントのダンジョンはどうだろう?
ネルコは以前、あのダンジョンの果物について「美味しいけど、それだけよ」と言っていた。
本当に、それだけなのだろうか。
畑もないこの迷宮都市で、果物を直接取れるダンジョンは、むしろ貴重なのではないか?
現に──あのダンジョンができるまで、僕はこの街で果物を口にしたことがなかった。
果物は、この街にとっては“贅沢品”だった。
それが今では、ギルドの手を介して孤児院にまで届いている。
そんなダンジョンを、わざわざ“討伐対象”として懸賞金をかける理由が、本当にあるのだろうか?




