家族のかたち
僕たちは南門から馬車に乗り込み、コルヴィアへと向かった。
馬車の車輪がゆっくりと石畳を離れ、土の道を進み始める。
車内のリリエットは、少し沈んだ表情を浮かべていた。
「不安なの、リリエット?」
リリエットは取り繕おうとしたが、すぐに息をつき、小さな声で答えた。
「そうだな、確かに不安だ……。
ルークを本当に治せるのか、
勝手にダンジョンへ行ったことを父は何と言うか、
今の私を見て、母が何と言うか…。
色々と考えてしまってな」
リリエットは視線を落とし、膝の上できゅっと手を握った。
「ポーションなら、もし効かなかったらまた二人で探せばいいよ」
できるだけあっさりと、僕はそう言った。
リリエットは驚いたように顔を上げ、
そして、ふっと小さく笑った。
「そうか……そうだな。
ありがとう、ユニス」
リリエットの顔に、少しだけ明るい色が戻ったのを見て、僕もほっとした。
「ねえ、リリエットのお父さんって厳しい人?」
僕が尋ねると、リリエットは少し考えるようにしてから答えた。
「まあ、そうだな。
厳格な人だった。
だが、決して冷たい人ではなかった」
そう言って、リリエットは胸元に手をやった。
──首から下げている銀のネックレスを、そっと指先で触れる。
あれは、最初に出会った日に、無一文だった彼女がポーション代わりに渡そうとしたものだ。
確か、父親からもらった大切な品だと言っていた。
「ねえ、リリエットって……男爵家のお嬢様ってことなんだよね?」
「まあ、そうだ」
「だったら、どうして最初に会ったとき、お金を持ってなかったの?」
リリエットは苦笑し、そして少しだけ肩をすくめた。
「家のお金は、男爵家の財産だ。
私が勝手に持ち出すわけにはいかなかった。
だが、この剣と盾は私個人のものだ。
我が家では、十六歳になると、武具を授かる習わしがある」
リリエットは、自分の腰にある聖銀の剣を軽く撫でた。
「元々、コルヴィア家の始祖はダンジョンの主を討伐して、爵位を得た。
その伝統を今に伝えている……と言っても、形骸化してはいるがな。
今では実際に武器を振るうことなど滅多にない。
それでも、形だけでも、これは私のものだ。だから、持ち出すことに迷いはなかった」
「なるほどね……」
僕はうなずき、リリエットの剣を見る。
彼女が誇りを持っていることが、その手の動きから伝わってきた。
「でもさ、そういう家柄なら、ダンジョンに潜ってたのもそんなに怒られることはないんじゃない?
そりゃ、心配はしただろうけどさ」
僕が言うと、リリエットは一瞬だけ考え込んだ。
「そうだと、良いのだが……。
心配……か……。
母様は、私のことを心配してくれただろうか……」
リリエットの表情は、また少し曇った。
──なんて声をかけていいかわからない。
リリエットがポーションを求めていた理由。
それは、弟のルークを救うためだけではない。
──母親に、自分を見てもらいたかったからだ。
「大丈夫だよ」
根拠なんてなかった。
けれど、僕はそう言った。
リリエットに、悲しい顔をしてほしくなかったから。
「……そうだな。ありがとう」
リリエットは、弱々しくも笑ってくれた。
リリエットの表情を見ながら、僕も彼女には言えない不安を抱えていた。
──ルークが治ったら、リリエットはどうするんだろう。
貴族の娘だ。
今までが特別だっただけで、本来ならここで「冒険者の生活」は終わるはずだ。
彼女は、このまま家に帰ってしまうのだろうか。
最初は一時的なパーティだと思っていた。だが今はそう考えると、胸の奥に小さな痛みが広がった。
けれど、直接聞く勇気はなかった。
僕はただ、揺れる馬車の窓から、コルヴィアへ続く道を見つめるだけだった。
昼をすぎ、太陽が傾き始める頃。
馬車はゆっくりと丘を登り、やがて一軒の屋敷が姿を現した。
石造りの立派な門と、その奥に広がる麦畑。
その向こうに建つ、白壁の二階建ての屋敷が、リリエットの生家──コルヴィア家だった。
「……懐かしいな」
小さくつぶやいたリリエットの声は、どこか遠くを見ているようだった。
馬車が止まり、僕たちが外に出ると、門の内側から一人の使用人らしき女性が駆け寄ってきた。
「リリエットお嬢様……!
帰ってこられたのですね!」
「ああ、ただいま」
リリエットは短くそう言い、女性の驚きと喜びを受け止めた。
やがて中へ案内され、僕たちは屋敷の中へと向かった。
コルヴィア家の門を抜けて、屋敷に足を踏み入れると、最初に通されたのは、立派なテーブルと暖炉のある応接間だった。
そこには、威厳のある金髪碧眼の男性とほっそりとした黒髪の女性が立っていた。
リリエットの父、コルヴィア男爵と、リリエットの母、コルヴィア男爵夫人だろう。
男爵は剣を佩き、厳しい面持ちで僕たちを見つめていたが、夫人の方は目に涙を浮かべて立ち上がった。
「リリエット……本当に……無事で……!」
「母様……!」
言葉は続かず、二人はそのまま抱き合った。
夫人は細い腕でリリエットを優しく包み、何度もその背を撫でていた。
その光景を前に、男爵の険しい表情にもかすかに安堵の色がにじんでいた。
「お前が勝手に家を出たと聞いたときは――どれだけ心を乱されたことか」
男爵の声には、怒りよりも深い感情が混ざっていた。
「すみません、父様……でも、私は……ルークを救いたかった」
リリエットは父の目をまっすぐに見て答えた。
そして、僕の方に目を向けて頷くと、バックパックから抗生ポーションの瓶を取り出した。
「このポーションを……ダンジョンで手に入れました。ユニスと一緒に」
男爵は小さく息を飲み、わずかに眉を上げた。
だが何も言わず、無言で頷くと手を振って案内を促した。
***
寝室は、静かな空気に包まれていた。
窓から差し込む夕日に照らされて、白いベッドに横たわる黒髪の少年が見えた。
ルークだ。
小さな胸がかすかに上下している。
目を閉じたまま、浅く、苦しそうな呼吸を繰り返していた。
窓際には小さな木棚があり、その上にいくつもの”祈り糸”が並んでいた。
それは、病気や怪我をした子供の回復を願って、母親が編む品だ。僕もずっと昔、風邪をひいたときに母さんが編んでくれたのを思い出した。
かなりの数がある。ルークの回復を夫人がどれほど願っていたかがよく分かる
リリエットは静かにポーションの蓋を開け、スプーンで慎重にルークの唇に運んだ。透明な液体が、少しずつ、ルークの喉を通っていく。
「お願い……効いて」
願うようにリリエットが呟いた、その瞬間だった。
ルークの呼吸が深くなり、こわばっていた眉間がふっと緩んだ。
そして、まぶたがかすかに動き――か細い声が漏れた。
「……リリエット……?」
「ルーク!」
リリエットはベッドにひざまずき、彼の手を強く握った。
その様子を見守っていた母親は、駆け出してルークとリリエットの二人を包み込むように抱きしめ、周囲を憚らず声をあげて泣いた。
***
ルークはその後、少しの間、リリエットと夫人と言葉を交わしてから、再び静かに眠りについた。その寝顔は穏やかで、ポーションの効果は誰の目にも明らかだった。
僕は客室に案内された。
夕食まではまだ時間があるらしく、静かな部屋でひとりぼんやりと天井を見つめていた。
そこへ、控えめにノックの音が響いた。
「ユニス、入ってもいいか?」
「……リリエット?」
ドアを開けると、そこには少しだけはにかんだ顔のリリエットが立っていた。
その手には、小さな祈り糸が握られていた。蒼い糸で丁寧に編まれている。リリエットの瞳の色と同じ、美しい蒼だった。
「これは私が家を出た後、母様が毎晩祈りながら編んでくれたものだそうだ。
私の色を使って……私のことを……ちゃんと想っていてくれたのだ」
リリエットの声は、少し震えていた。
「私、ずっと……愛されてなかったんじゃないかって……そう思っていたから……」
「良かったね、リリエット」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
***
やがて、使用人が夕食の時間を告げに来た。
食堂のテーブルには温かな料理が並び、男爵と夫人、そして僕とリリエットが向かい合って座った。
「ユニス殿――このたびは本当に、ありがとう。
ルークの命を救っていただいた」
コルヴィア男爵とその夫人は、静かに席を立ち、深く頭を下げた。
僕も慌てて立ち上がり、お辞儀を返す。
「あの後、医師が診察して驚いていた。
病の症状が劇的に改善し、回復に向かっているそうだ。
今日はどうか、せめてゆっくりしていってほしい」
少し肩の力が抜けた男爵の微笑みに、場の空気もやわらいだ。
楽しい晩餐だった。
けれど、何よりも僕の目を引いたのは、向かいに座るリリエットの笑顔だった。
笑顔の彼女は、この家に溶け込み、まるで“本来の居場所”に戻ってきたように見えた。
その姿に、なぜか胸がちくりとした。
***
翌朝。
まだ朝靄の残る時間に、部屋のドアがノックされた。
立っていたのは、コルヴィア男爵だった。
「……ユニス殿。少し、よろしいか」
彼は静かに、そして真剣な目で僕を見つめた。
「貴殿には本当に感謝している。
ルークのみならず、リリエットのことも助けていただいた。」
男爵は深く頭を下げた。
「だが、どうかリリエットのことを思うなら――このまま彼女に会わずに、帰ってはもらえないだろうか」
「え……?」
僕が言葉を失っていると、男爵は懐から一つの皮袋を取り出して差し出した。
ずっしりとした重みが、その中に金貨が入っていることを物語っていた。
「これは君がしてくれたことへの礼だ。
金で償えるものではないと分かっている。
だが、それでも受け取ってほしい」
「どうして……そんなことを……」
僕が問うと、男爵は静かに答えた。
「貴殿には心から感謝している。この恩は、忘れはしない。
……だが。これからのことは、別だ」
男爵は一瞬目を伏せ、言葉を選ぶように続けた。
「リリエットは、我がコルヴィア家の令嬢だ。
一度家を飛び出したとはいえ、貴族としての責務がある。
今まではルークのことがあったから、話を止めていたが我が家の一員としてふさわしい家に嫁いでもらう。
このまま、女の身で冒険者のような生活をされては家の名誉にも傷がつく」




