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井戸水を飲むとまだ冷たさが残っており、沸騰するような気持ちを静かに抑えてくれた。
ファロの所属する天帝の塔には、いくつも教義がある。その中で貪・瞋・痴・慢・疑、という無明な状態は、心に毒をもたらすと言われている。自分のことばかり考える貪、無意味な怒りで我を忘れる瞋、なにも考えられない愚かな痴は、どこにでも蔓延している毒だ。
アスターも、ミハイルも、理性的で、自分の国(エルウィンド州)を守ることだけを考えている。無明とは遠い人たちで、ファロは心底安心した。これが私利私欲を優先する人間だったら、深夜の訪問者は一蹴されていただろう。
難しい顔をしていたミハイルが、アスターの言葉に肩から力を抜くような、がっかりしたような仕草をした。
「策を作るのは、俺なんだぞ? 賊がどこに潜伏しているのか、誘拐された王女がどこにいるのか、生きているのか、死んでいるのかすら分からないんだ。しかも、期限があるんだ」
地図を見ながら途方に暮れているように見える。
「いやいや、ガードルードも知恵を出してもらうし、レイフィール様と、ミルトン様にも相談はできるか」
なにやら一人でぶつぶつ言いだした。
「だがな、賊の本拠地の位置は知りたい」
話しかけられたかとファロがミハイルを見るが、アスターがゆっくりと水の入ったコップをミハイルに渡していた。
「ああ……」
ミハイルはだいぶ喉が渇いていたらしく、無意識にコップを受け取り、水を飲み干してほっとした顔をした。
「ファロ、もっと情報が必要だ」
ほっとした顔のまま、ミハイルは顔をファロに向けてきた。紅茶色の髪と琥珀色の瞳を持つ静かな容姿の参謀長が、問いかけてきている。
「俺は、これからシンサー国の法友に当たってみる予定です、向こうの国でも、自国を立て直したいと思っている人は必ずいます。協力者を募り、情報を集めたいと思います」
アスターが首を傾げた。
「ここからシンサー国に行くには、海軍の船でも半月は必要だが」
「いえいえ、ご心配には及びません。独自のルートがあるので……」
「そんなものがあるのか? 天帝の塔には? どのくらいで行かれるのだ?」
興味をそそられたアスターが、朗らかに問いかけてくる。
「時間はかかりません。先ほども、ラティアからここに、すぐに来ることができました」
「手段は? 馬車か?」
いくども同じ質問を受けているが、ファロは問われれば答える。
「祈りです。祈りの力は無限です、天の創造主様は、念いの力で世界を構築されました。その主の分光である俺たち人間にも、無限の力が宿ると教えられています。祈りによって、場所の移動も可能なのです」
日常とはかけ離れている解説だが、実際に使っている力の説明としては、一番分かりやすいものだ。
アスターは、しんと黙り込んだ。おそらく自分にも使えないか考えているのだ。
ミハイルが不思議そうに話に入ってきた。
「それなら祈りで、賊を蹴散らせないのか?」
「支援ならあるかも。天は人に自由を与え、悪いことをしても、反省したらやり直しができる存在として創られた。例え、地上で反省できずとも、死後に反省する世界があり、そこに行く。だけど、人よ幸せになれと、主は言われています。だから、主の願いに沿っている俺たちは、自分たちも幸せになり、他の人も幸せにしたい」
「なるほど、支援か……」
ミハイルは何を考えているか分からない表情でうなづいた。
何か考えていたアスターが、何か思いついたのか少しだけ目を輝かせている。
「天帝の塔の人たちは、みんなできるのか?」
「いえ、祈りというのは、奥深いもので……。悪魔祓いなどと同じで、できる者とできない者がいるんです」
ほんの少し肩を落としたアスターが、再び地図を見始める。
「では、ファロはシンサー国に入り、賊どもの動きを調査する、俺たちは対賊戦に備えて準備をすればいいのだな。やることは変わらないが、戦相手が変わったのはありがたい。明日にでも、州公、ダローウィン閣下や海軍にも伝えなければならないな」
「明日、というより今日か、朝一でダローウィン閣下に相談し、海軍にも情報を共有する。悪いがそれまでファロには居てもらうことになる」




