1.嫌な予感はたいてい当たる
緑が濃くなってきている。
もうすぐ夏も盛りになり、徐々に山の空気も濃厚になるはずだ。
風でざわりと木々が騒ぐのが、窓越しに聞こえてくる。大陸から突風となってやってくる風が、山で緩和される音だ。
例年になく気候がいいのにもかかわらず、シンサー国の村衆は出稼ぎを強いられている。税金が年々高くなっている。同時に物の値段がつり上がり、今では自給自足すらできない。
自分たちの村はまだましだ。他所の村や町では暴動まで起きている。
以前なら軍隊が紛争を未然に防ぎ、紅い軍服を見たら頼もしく思ったが、最近はよくない噂ばかり聞こえてくる。
アルパスも出稼要員の一人だ。出稼ぎと言っても、冬まで村に帰らないわけではない。収穫の手伝いもするので、できれば五日に一度は戻れるような仕事が望ましい。
しっかりした窓枠にもたれ、ガラス越しに外を見ていたアルパスは、大きく揺れ動く木々の緑を見る。風の動きを見るのだ。
ぼんやりと自国の地図を思い浮かべる。
南に位置するシンサー国は、高原や山地(山脈)に囲われている。主要な河川は四つほどあり、下流に豊かな大地を形成している。
アルパスは自分のいる山を越えた先にある海を思い浮かべた。隣国のブッケル国へ行く最短の道は、宿屋から山を越えて五日の行程を必要とする。
「……で、山菜をとるだけでいいんだな。そこの案内人は、けっこう信頼できるがどうかな?」
「できれば大人でお願いしたいよ」
奥のカウンターでまた宿の主人が依頼人と交渉をはじめている。今日は客足が絶えない。
けれど、やはりあの依頼人もアルパスを指名してはこなかった。
自然、顔を伏せて悪態をつく。
「今日は不作だな」
この宿は、一番山に近いところに位置している。近場の村からも二時間は歩かなければならない。宿の名は「峠越え案内宿」と分かりやすい。
依頼人も名前を見れば迷うことなく、この宿屋へ直行できるわけだ。
ゆるやかな陸路もあるが、大きく迂回するため隣国へ至急に行く人や、山そのものに用事がある人は、この宿へとくる。
山を越えて隣国へ入るには、ひとつには商人と契約を結んで一緒に行くことと、もう一つは護衛兼案内の「山の案内人」を雇って山を越える方法がある。
商人との契約コースは、隣国に用事がある一般人が使う手段だが、後者は吟遊詩人や山へ山菜を取りにいく人などが利用する。まれに訳ありの人物も使う手段だ。
中には山を越えるだけなのに、本当に案内が必要なほど危険な旅かと聞いてくる者もいる。
実はかなり危険な仕事なのだ。
山賊もいるし、獣もいる。魔物も出ると聞く、道も険しく、場所によっては磁場が狂っているため一人では決して入ってはならない。
「ああ、今日はもう山越えの仕事はほとんど出払ってて」
「急いでいるんだ。案内ができる者は本当に誰もいないのか?」
「……まぁ、お客さん明日になれば剣の腕も立つ男が帰って来るんだが」
新規の依頼人らしい。どうらやら緊急のようだ。
カウンターでしばらくやりとりをしていたが、ふいに名前を呼ばれて驚いた。
山越え業務はいい金になる。しかし、アルパスにはなかなか指名が来ない仕事なのだ。
「呼びましたか?」
急いでカウンターへ向かうと、依頼人が目を丸くするのがよくわかった。
アルパスは十四歳で、百姓の倅でシンサー国人としても小柄だ。茶色の髪はいいが、少し大きめの緑の目が顔を幼く見せてしまう。なかなか案内人として信用を得るのは難しい。だが、この宿屋で仕事を斡旋されはじめてから、もう二年になる。
客もいろいろいる。けれど、このお依頼人はできたら断りたい。なぜだか顔を見たとたんにそう思った。そうは言ってもお客はお客だし、村に帰ったら今回の報酬でようやく「農地」の修復ができる。
ここ一、二年で課税が増加の一途をたどった結果、うちの農地は栄養がなくなり、荒れ果ててしまっているのだ。しかも、働いても働いても暮らしがよくならない。
村では出稼ぎだけでは手が回らずに、内職をはじめる子供や女たちが出てきている。それで税が払えたとしても、今度は自分たちが食うのに困ってしまう。
アルパスはひとつ気合の息をついて、依頼人と山を歩き始めた。
1.
「道は合ってるんだろうな」
さっきからもう数十回は繰り返されている問答に、さすがのアルパスも忍耐の緒が切れ掛かっていた。とうとう言い返した。
「合ってるって何度言わすんだ! そんなに信用がなければ、とっとと他をあたればいいだろう」
まだ山の中に入って三時間ほどしか経っていない。ここまでは一本道だし、と言っても素人から見たら一本とは思わないだろうが、多少の山登りの知識があれば下れない距離でもない。ちょっとでこぼこしているにすぎない。
山賊にも、まだもうちょっと行かないと出会わないくらいの距離なのだ。その間にこの問答が繰り返されている。
「時間がないんだ……」
それも何度か聞いたセリフだ。
この依頼人は一刻もはやく隣国、ブッケル国へと荷物を国王へ届けなければならないという。山の案内人を斡旋する宿屋「峠越え案内」停で、どうしてもすぐに動ける人をと言われて、雇われたのがアルパスだった。
しかし、アルパスを見た依頼人は、とたんに店の主に向かった。
「だめだ。こんな子供に案内は勤まらない」
と開口一番に言ったのだ。ひと目でそう断言された。けれど、アルパスはそう言われるのに慣れている。
特に反論することもなく店主とのやりとりを聞く。
山越えの依頼人にはいろいろなタイプがいる。山の中に薬草をとりに行きたいという薬師もいるし、商人との契約だとどうしても金額が高いためこちらを取る人もいる。アルパスの請負う人はそんな人が多い。常連だっているくらいだ。
最近多くなってきた山賊に出会わない道を熟知していたし、山歩きが好きなので、何日山に居ても困らないだけの知識があった。
結局、店の主に突っかかっていった人物は、「案内人になったばかりの少年」にしか見えないアルパスに山越えを依頼してきた。
こちらも負けずに「こんな客やだよ」と言いたかったが、山越えは貴重な収入源だ。さらに報酬がいつもの倍以上だったのだ。
「頼む。一刻もはやく行きたいんだ」