少年と雪の魔女
とある辺境の村で、一人の少女が病に臥せっていました。高熱にうなされる少女の黒かった髪は、今や真っ白に染まり、瞳も赤く変色しています。
「兄ちゃんが、絶対助けてやるからな」
大きなカバンを背負って、木を削って作った短剣を腰に差して、少年は病に臥せる妹に言います。
「兄ちゃん……でも、お医者さまも治せないって言ってたよ」
「でも、魔女ならきっと治せる」
「兄ちゃん、魔女の森に行くの? あそこは危ないから行っちゃだめって」
「お前のためだ。危険なんて怖くない」
妹にそう宣言した少年は、村を出て魔女の森に向かいました。鬱蒼とした木々からは、来る者を拒絶するような威圧感すら感じました。
心臓はどきどきと高鳴り、不安と高揚が少年の胸を満たします。
幾重にも重なる葉で太陽の光が遮られた森の中は、昼間だというのに薄暗く、行く手には枝葉が生い茂ります。邪魔な枝を短剣で切ろうとしましたが、鋭さに欠ける短剣では上手くいきません。やむなく手で避けると痛みが走りました。
風に揺れた木々がざわざわと不気味に騒めきます。
どこからか獣の唸り声が聞こえた気がしました。
少年が歩を進めるほどに、あたりはどんどん暗くなっていきます。
森の切れ目が現れる気配はなく、魔女の家に行き当たる気もしません。もう今日は諦めて帰ろうかとさえ思った頃でした。
「私の森を踏み荒らしているのはあなた?」
気怠げな、けれど美しい声が聞こえたかと思うと、いつの間にか少年の目の前に美しい女性が立っていました。
その女性は少年の村にいるどの女の人とも違っていて、森の中には不釣り合いな黒のドレスに、艶めく黒髪をなびかせて、切長の瞳で少年を見下ろします。
「お、お前が、魔女か?」
及び腰になりながら尋ねた少年に、魔女は不気味に、しかし美しく微笑みます。
「ええ。私が魔女よ。何か用かしら?」
「い、妹の、病気を治してくれ」
「妹の病気? そんなものは医者に頼みなさい」
「お医者さまは治せないって言うんだ!」
「無理よ。私に病気を治す力はないわ。お家へお帰り」
「無理? 魔女でも無理なのか!? どうにもならないのか?」
不気味さも忘れて、少年が魔女のドレスに縋り付くと、魔女は鬱陶しそうに眉を顰めました。
「……症状を言いなさい。何の病気かもわからないのでは、なんとも言えないわ」
魔女の言葉に、少年は妹の状態を説明します。
「熱が高くて、髪が白くなって、目の色が赤いんだ。もとは黒かったのに」
「白髪に赤眼……ああ、それなら治せるわ。医者には無理でしょうね。だってそれは」
「治せるのか!? 本当か!? お願いだ、治してくれ! オレにできることなら何でもする!」
「…………なら、一度私の家へ招待するわ。こっちへいらっしゃい」
魔女がそう言ったかと思うと、少年の手の中から今まで縋っていたはずのドレスが消えました。つんのめるようにして数歩踏み出すと、少し離れたところに魔女が立っています。
「えっ、今。あれ?」
「こっちよ」
魔女が歩む先は、不思議なことに木々が道を開けているようでした。行く手を阻む枝葉はなく、魔女のドレスも引っかかることなく滑るように流れます。
少年が慌てて後を追うと、間もなく小さな家が見えてきました。小屋と呼んだ方が良さそうなその小さな家には明かりが灯っていて、少年が空を見上げるといつの間にか夜になっていました。
「おかえり。おや、お客さんかい?」
男の声が聞こえて空から正面に視線を戻すと、小屋の中からおじさんが顔を覗かせています。魔女のような独特な雰囲気なんてない、ただの優しそうなおじさんです。
「妹さんが雪の魔女に呪われたみたいなの」
「おじさんは魔女の手下なのか?」
少年が尋ねると、おじさんは笑いました。笑うと目尻に皺が寄ります。
「ははは、そう見えるかい?」
「違うの?」
「まあ、似たようなものさ」
「冗談はやめて。それより……治すには雪の花が必要よ。案内してあげるから、夜が明けたら取りに行きましょう。そういうわけだから、明日は留守にするわ」
魔女がおじさんに言うと、おじさんは笑って頷きました。
「わかったよ、気をつけて。少年、偉いな。妹のために冒険か。勇敢な子だ」
「ゆうかん? オレが?」
「ああ。勇敢だとも」
おじさんにそう断言されて、少年は誇らしい気持ちになりました。
魔女の家に一晩泊まった少年は、翌日魔女と共に出発しました。
家とは逆の方向に向かって、魔女と共に森へ入ります。不思議なことに、やはり行く手を阻む枝葉はなく、すべての木々が魔女のために道を開けているようでした。
「魔女は木を従えられるのか?」
「ここの森は、私の庭だからね」
森を抜けると、美しい雪原に出ました。一面真っ白な雪原には、足跡ひとつついていません。
さくさくと雪原に足跡を刻みながら、少年は魔女に尋ねます。
「妹は、雪の魔女っていうのに呪われたのか?」
「ええ。雪の魔女はね、温かい子を呪うのよ。自分が冷たいから、温かさに嫉妬するの。あなたの妹は、きっと心が温かい人なのね」
「雪の花で、その呪いが解けるのか?」
「いいえ。雪の花は貢ぎ物。それをささげてお願いするの。どうか呪いを解いてくださいって」
「お前も魔女なら、呪うのか?」
「呪わないわ。私は、人間には興味ないからね」
さらに歩くと、雪原の中にある凍った池に辿り着きました。池の中心には一輪の白い花が咲いています。
「あれが雪の花だな!」
少年が駆け出したその時。突然池の氷がピシピシとひび割れたかと思うと、けたたましい音を立てて氷が割れて、水底から巨大な蛇が現れました。
「貴様も我が花を目当てに来たのか。食ってくれるぞ!」
重低音で蛇が叫ぶと、空気がビリビリと震えます。ですが、少年も負けじと叫び返します。
「ッ……そ、それは、お前の花なのか!?」
「ああ、そうだ。幾千年前より我の花である」
「い、妹の呪いを解くために必要なんだ! オレに譲ってくれ!」
「くれてやるわけがなかろう! お前など食ってやる!」
鋭い歯を剥き出した蛇が少年を喰らおうと襲ってきます。恐怖に少年が目を瞑った時でした。
「下がりなさい、蛇よ」
魔女の声が聞こえて、少年が顔を上げると目の前に魔女が立っていました。魔女が上げた片手の前で、蛇の頭は微動だにせずに静止しています。
「ま、魔女……?」
「勇敢な子。蛇に怯んで逃げ出すかと思ったけれど。さあ、蛇よ。その花を渡してもらうわ。私たちは雪の魔女に用があるの」
蛇はスルスルと体を池の中に戻していくと、遂に水面に頭を出すだけになりました。
「おお……森の魔女よ。境界の侵害だ。なぜこの場にいる」
「雪の魔女が無闇に呪いを振り撒くものだから、私の森が人に侵された。境界の侵害はそちらの方だ。さあ、花を渡しなさい」
「…………ふん、取っていくがいい。森の魔女と敵対する気はない」
蛇はとぷんと池の中に頭も沈めてどこかへ行ってしまいました。
「す、すごい……」
魔女が指を一振りすると、池の中央に咲いていたはずの花はいつしか魔女の手の中にありました。
魔女が少年の前に屈んで花を差し出します。
「これを持って、この先へ真っ直ぐに進みなさい。氷の城の中に、雪の魔女がいる。この花を渡して、妹の呪いを解くように頼むのよ。いい? 決して道を逸れてはいけない。帰れなくなるからね」
「ま、魔女は? 来ないのか?」
「私の案内はここまでよ。この先の雪原に足跡を刻むのはあなただけ」
少年はごくりと唾を飲んで、花を受け取りました。ここまで来て、引き返すなんてことはできません。
「わかった。ありがとう、森の魔女」
魔女は今までで一番優しく微笑みます。
「幸運を祈っているわ」
魔女と別れて、少年は雪原をまっすぐに歩きます。たまに振り返って、まっすぐに足跡が続いていることを確認しながら、道を逸れないように歩いていくと、やがて眼前に氷でできた大きな城が見えてきました。
つるりと滑る氷の階段を上って、正面の大きな門から中に入って、また中にある階段を上ります。すると、正面に空の玉座のようなものが見えてきました。その玉座もまた氷でできています。
「魔女は……留守なのかな」
「ここにいる。人間がこの場所に何の用だ」
凍てつくような冷たい声が少年の背後からしました。驚いて振り返ると、森の魔女とは対照的に真っ白いドレスを纏った美しい女性がいました。抜けるように白い肌に、真紅の紅を引いた口が弧を描きます。
「い、妹の呪いを解いてくれ!」
「呪い?」
「あっ! あの、これ、雪の花……」
握り締めていた花を差し出すと、手の中の花は溶けかかっていました。
「その溶けかけの花がどうしたというの?」
「あ、あの……さっきまで、溶けてなくて。も、もう一回取ってくる! だから、妹にかけた呪いを」
「…………ああ、花を差し出せば解いてもらえると言われたのね。そんなお人好しは……人間なんかに惚れ込んだ森の魔女かしら」
雪の魔女はくすりと笑います。
「そうだ。森の魔女が助けてくれた! 解いて、くれないのか?」
「その花に、価値なんてないのよ。それは脅し。人間があの蛇から奪えるわけないもの。森の魔女がお前に味方したという証明。仕方ないわね、解いてあげるわ」
「ッ本当か!?」
「ええ。だから、あなたは帰りなさい。もう二度と来ないで。この美しい雪原に、人間の足跡なんて似合わないもの」
雪の魔女が手を一振りすると、少年の手の中の花がたちまち溶け崩れました。そしてそれに気を取られた一瞬の間に、周囲の景色は様変わりしていました。
手元から顔を上げれば、もう氷の城なんてどこにもありません。雪の魔女の姿もありません。そこは、元いた森の中で、目の前には行く手を遮る枝葉が鬱蒼と茂っていました。
「おい! いたぞ!!」
男の声が聞こえて、驚いて振り返ると村の大人がいました。すぐに他の木の影からも大人たちが顔を覗かせます。
「いたか」
「良かった」
「一晩もどこへ行っていたんだ」
大人たちに保護されて、少年が村へ戻ると、妹の髪と目の色はすっかり元に戻って、熱も下がっていました。
少年を出迎えに出てきた妹を見て、少年はほっと息を吐きます。
「良かった。魔女さまが、治してくれたんだ」
「兄ちゃん、魔女に会ったの?」
「うん! 聞いてくれよ! 森の魔女がいて、雪の魔女がいたんだ。雪原があって、大きな蛇が」
「雪原? でも、今は雪が降るような季節じゃないよ」
「で、でも! ほんとに見たんだ! 嘘じゃない!」
少年が言い張っても、妹は首を捻るばかりです。それを聞いていた大人も笑って言います。
「魔女に幻でも見せられたんだろう。あの森には、魔女がいるからな」
「おじさんも、魔女に会ったことあるの?」
「あるわけないだろう。でも、ずっとそう伝えられている。あの森には魔女が一人住んでいて、立ち入ってはいけないんだ」
「一人? でも、男の人もいたよ」
「男の人? ははっ、やっぱり夢でも見たんだろう」
森を振り返れば、もうそこに最初に見た時のような威圧感は感じませんでした。それに、その奥に雪原がある様も想像ができませんでした。
「人間なんかに惚れ込んだ」と雪の魔女が言っていたのを思い出します。
「…………でも、やっぱりいたんだ」
まるで家族みたいに、魔女に「行ってらっしゃい」と、「気をつけて」と言っていた男の人が。
それから、少年は何度か魔女にお礼を言いに行こうとしました。
けれど何度森に踏み入っても、もう二度と少年が魔女の小屋を見つけることも、森を抜けた先に雪原を見ることもありませんでした。