2.調査開始
私たちは昼下がりの乗合馬車に乗り込んで、母の無実の証拠がつかめかもしれないという南方共同領事館へ向かっていた。
「あの、レーレヒル様とおっしゃいましたっけ。どうしてあなた様まで一緒に行くのでしょうか。見たところそれなりに高貴な方のようですが……?」
「あぁ、気にしなくて良い」
「気にしなくていいと言われましても……」
外交部の方々そう呼んでいたのにならって私も様付けで呼んではいるが、身分を明かしてもらえていないのでどうも会話しにくい。
私としてはつい最近かなり醜い不倫事件に関わったばかりなので、これだけ見目の良い男性と一緒に居るところを誰かに見られるのは避けたいところなのだけれども、高位貴族なら使用人に任せたら?という私の遠回しの抵抗は通じなかったようだ。
レーレヒルは婚礼を示す指輪などはしていないようではあるが、これだけの色男であれば両手で収まらないほどの女がいるに違いない。
(婚約中でなければ訴訟はされないだろうけど、私刑はめんどくさいなぁ……)
一応この国では私刑は禁止だが、女社会における男の取り合いはイジメという名のリンチに発展する恐れがある。自分が高位貴族で判事長の娘だからといって逃れられる保証はない。見えないところでチクリチクリと嫌な思いをさせられるのが社交界女性の怖いところなのだ。
「あなたが直接調査に同行される理由が分からないのですが?」
「理由ならある。あんたが調査に行くからだ」
「……どういう意味でしょうか?私達『初対面』ですよ?」
この顔面で意味深な発言をするのは謹んで欲しい。今の発言だけでも勘違いしてしまう女性が星の数ほどいるはずだ。私は『初対面』の部分を強く強調して相手を牽制する。
こういう手合いの男性はちょっと相手に気があるような発言をして、その場の主導権を握ろうという輩が多くて困る。
「あんたはエリア=オキザリスの実の娘だ。その娘が調査するなら見張り役が必要だと思わないか?」
「……私を疑ってるんですか?」
「そう言っている」
水色の瞳が冷水のように冷たく私を睨みつけてくるが、負けじとキッと睨み返した。
この男は見張りと言った。つまり私が不正を働くと考えているらしい。
私だって判事科の人間だ。仕事のプライドだってあるし、そんなふうに疑われるのは心外だ。
「私は揉み消しなんてしません」
「本当か?」
「本当です」
「母親に不利な証拠が出てもか?覆せないほどの証言が取れてもか?」
「そうしたら覆せるほどの無罪の証拠を集めるだけです。私を疑うのは勝手ですが、母を疑うのはやめてください」
「別に俺だってエリア殿を疑ってるわけじゃない。彼女には恩もある。そのエリア殿の裁判を娘のあんたが調査することでエリア殿の無罪判決に難癖をつけられるのが嫌なだけだ」
レーレヒルはまだ私に疑り深げな眼差しを向けてはいるが、母に恩があるというのは本当のようで、それもあって調査に同行したいということらしい。
「母に世話になったとさっき言ってましたよね?」
「あぁ」
「詳細を窺っても?」
「断る」
すげなく断られてしまったが、ここで引き下がっては判事部の名が廃る。それに、母とこの青年の関係性に興味があった。
しかし、ごり押しで聞いても聞き出すのは難しそうだ。
「……母さまは忙しい人です。世界中を飛び回って屋敷で寝ることもできない母のことを私はほとんど知りません」
目を伏せて沈痛な表情を作る。私の武器はなにも姿を消す魔法だけじゃないのだ。
「忙しすぎる母を責めたこともありました。でも、母の私への愛情はいつもめいっぱいで……無理をしてわずかでも時間を作ってくれている母に仕事のことを聞くことような無粋なことは出来ませんでした」
同情を引く作戦だが、実際同情される状況だと自分でも思う。
自分の母が訴えられるという緊急事態だというのに、誰に事情を聞けばいいのかすら分からなかった。交友関係どころか行動範囲すら知らないため、アリバイを立証する術もない。
だからこそ、こんな今日あったばかりの知らない青年に着いてこんな遠乗り馬車に揺られているのだ。
私が下唇を噛む様子を見たレーレヒルが、小さく「忙しすぎる、か……」と言ったのが聞こえた気がした。
わたしの訴えのどのあたりが彼の心に刺さったのかは知らないが、彼は先ほどまでの頑なな様子を解いて母とのことを話してくれた。
「5年前、俺が国交の少ないベルルカに留学できたのは外交官のエリア殿の口添えをいただいたからなんだ」
「え!ベルルカって南の隣国を超えた南のさらに南の国ですよね?母はそんな遠い国とも交流があったんですか!」
「あんた、自分の母親の仕事のことなのに本当に何も知らないんだな」
「ですからそれは……」
「おっと、そうだったな。すまない……」
レーレヒルには同情を引く意味でそう伝えたが、外交に関することは秘密も多い。母はうっかり大事な話を漏らしてしまわないようにという意味でも、あまり仕事の話をしないのが常なのだ。
けれど決して親子の仲が悪いわけではない。なので「何も知らないんだな」と赤の他人に言われてしまうのはさすがに少し堪えた。
「当時は国交自体無かったんだが、向こうの外交官の娘とエリア殿が外遊時代に破魔光線テニスの仲間だったらしい。それで国院一席設けてもらって留学できるように直談判したんだ」
「へぇ、そうだったんですか」
破魔光線テニスって何だよというツッコミはともかく、母が父と結婚する前に、国の特待生として外遊経験があるという話は聞いたことがある。竹を割ったような性格の母は誰とでもすぐに友達になってしまうところがあるので、テニス(?)をして他国の友人を作るというのは活発な母らしいなと思ってしまう。
このレーレヒルという青年も苦労ひとつ知らないような涼しい顔をしている割に、留学の為に国に直談判までするとは、意外と根性のある人物のようだ。
「目的地の南方共同領事館はそのベルルカの領事が滞在する場所でもある。エリア殿はこの半年ほど南方の交易路の整備のためにあちこち飛び回っていたはずだから、ここで最近の彼女についての話が聞けるはずだ」
「それで南方共同領事館へ向かっていたんですね」
「そういうことだ。で、あんたはヴァーナム=ディラテイタム公爵についてどこまで知っている?」
馬車の向かいに座るレーレヒルは私の顔を覗き込むようにして私の返答を待っている。大方、私がこの調査にどれくらい本気か品定めでもしているつもりなのだろうが、さて、この正体不明の男にどこまで話して良いものか。
「噂程度の話ばかりが横行する方だというのがヴァーナム=ディラテイタム公爵の印象です」
「確かに悪評は多いな」
「事実と言える記録はほとんど残っていません。ディラテイタム公爵家について、私の家に記録が無いかと調べたのですが、先々代が北方の林業を取りまとめており、建築資材や紙の輸出で細々と財を成していたとありました。ただ……」
「ただ何だ?」
「いえ……先々代は子に恵まれなかったようで、愛人の子を養子に迎えたという記録が残っていたんですが、うちと向こうの先々代が亡くなった時期あたりからぱったりと交流も無くなったらしく、それ以降の事は何も分かりませんでした」
「俺も少し調べたが、先代のディラテイタム公爵は平民の血を引くものが公爵家を継いだ初めての例だったようだな。そのせいか社交に顔を出すことも少なく、その息子のヴァーナム=ディラテイタム公爵も王宮に顔を出すことすらないと聞いている」
なぜそこまで情報が無いのかと気になっていたが、平民出身で社交に疎いのでは情報が無いのも納得だ。
「情報がないのに悪評ばかり、ですか……」
「俺もそこが気になっていた。最近では珍しくもないが、当時は平民の子が爵位を継ぐというのはかなり好奇の目で見られただろうからな」
「そうですね。その悪評ももしかしたらやっかみや妬みによるもので、実体とは乖離している可能性がありますね」
「……!あ、あぁ。……そうだな」
「なんですか?私、変なこと言いました?」
「いや、母親を訴えた男の悪評を鵜呑みにしないのだなと思ってな」
レーレヒルはかなり驚いた顔をしているけれど、これは職業柄染みついたものだ。
「私たちは王の三番目の瞳です。悪人か善人かを決めるのはあくまで王です。証拠を集める私たちが勝手に決めてしまっては、その証拠を使って判じ事を行う王に支障が出てしまいます」
「そうか」
綺麗事だと言われてしまうかと思ったけれど、レーレヒルは目的地に着くまで口を閉ざしたまま、馬車の窓から見える広大な麦畑を見つめていた。
―――――
「あの、着いたは良いんですけど、暗くなっちゃいましたね」
到着する頃にはちょうど日没となり、南方共同領事館も明かりが完全に消えてしまっていた。隣町は第二の首都とも呼ばれる大きな町なので、晩御飯と宿を調達するのはこの時間ならまだ難しくはないだろうが、領事に話を聞くのは明日になりそうだ。
「今日アポだけでも取れたらよかったんですが、明日出直しですね」
「いや、その必要は無い。先に飯でも食って、今日の夜中のうちに忍び込むぞ」
「はい?何考えてるんですか!?」
他国の領事館に勝手に忍び込むなんて大それたこと出来るわけがない。だが、本人はやる気満々のようで、さっさと夕飯の店を決めて時間を潰すつもりのようだ。
下町の居酒屋は平日だというのに活気に満ちていた。
ただの令嬢であれば尻込みしてしまいそうなたたずまいの店構えだが、同僚たちに連れられるようになってこうした店にも慣れていた。品の良い魚料理ならともかく、むしろこういう下町の人気店の方が肉が格段に旨いのだこれが。
「で、なんで忍び込むなんて話になるんですか?」
「おそらくエリア殿の話はその辺の飲み屋でも聞けるだろうが、ヴァーナム=ディラテイタム公爵のことは忍び込んで調べなければ何の情報も得られないだろう」
「いやいやいや、ここに忍び込めばヴァーナム=ディラテイタム公爵の情報が得られるって本気で言ってるんですか?その根拠は?ここへは母の消息を訪ねに来たんですよね?」
ディラテイタム家が北部の領地を持つ貴族だと教えてくれたのはレーレヒルだ。遠く離れた南方の国々の領事官に記録があるというのはすこし違和感がある。
「ディラテイタム家はかつての王弟が降位して成った家なだけに、元々は十分な金のある家なんだ。だからこそ利益の出にくい仕事を担っていたんだが、先代あたりからどうも金の動きがきな臭い」
「と言いますと?」
「家業の林業だけでは得られないような大金を得ている可能性がある」
「……ッ!私、分かりました!!」
勢いでバンっと机を叩いてしまい、机の上に運ばれていた魚のアクアパッツァがまるで生きているかのようにビョンっと飛び跳ねた。
「今の話で一体何が分かったって言うんだ?」
レーレヒルは興味深げに形の整った目にかかる艶髪を掻き上げた。
「あなた、税務部の人間だったんですね!だからディラテイタム公爵の金の動きに詳しくて、その動向を追っていた!違いますか?」
私はビシッと指まで指して正体を言い当てたと思ったのだが、どうやら違ったらしく、樽で組まれた机にがっくりとうなだれてしまっていた。
「大ハズレだ」
―――――
私たちは深夜遅く、領事館に忍び込むべく料理屋の二階に借りた宿で準備を進めていた。
潜入用に外套やローブを脱いで薄手の軽装になったレーレヒルは盗賊のような格好をしてはいるはずなのに、にじみ出る気品が全く隠しきれていない。せいぜい盗賊役の俳優に見られればいいところだろう。
体格も、案外筋肉質なようで腕まくりして露わになった筋張った双腕は見るものの目を釘付けにする力を持っている。正直目の毒だ。私はなるべくレーレヒルを視界に入れないようにして話を切り出した。
「ご準備中のところ悪いのですが、やはり領事館に忍び込むなんて見つかったら一発アウトなことは私にしかできないと思うのです。あなたは大人しくここで寝ててください」
「なんだ、忍び込み慣れてるのか?」
「嫌な言い方しますね」
バニッシュの魔法の事は同僚にも話していない。平民との混血化が進み、貴族の中でも魔法を使える者はかなり減っている昨今では、能力を悪用されないよう秘匿するのが暗黙の了解となっている。
平民出身の同僚のミグリは、魔法を使える貴族がいること自体おとぎ話だと思っていると言っていたぐらいだ。もちろん、この勘違いは誰も訂正していない。理由はもちろん、訂正すれば自らの手の内を明かすことになるからである。
「それなら俺も忍び込むのには慣れているから問題ないな」
「はい?忍び込むってあなたもしかして、刑事科の特捜部の方ですか?」
「またまた大ハズレだ。さて、準備も出来たし行くぞ。バニッシュをかけてくれ」
「はい!?」
驚いた。なぜこの男は私の魔法の事を知っているのだろうか。
「今度こそ分かりました……あなた、貴族部の魔法登録事務局の方ですね?」
「今度も大ハズレだ。ほんと、なんで分からないんだ?」
「なんでと言われましても……」
貴族部の魔法登録事務局というのは、魔法を使って悪事を働く貴族がいないように使える魔法を国に申請登録する部署だ。なので、私の魔法の事を知っているのならここしかないと思ったのだけれども、どうやらこれも違ったらしい。
首を傾げながらカラカラと面白そうに「いつになったら正解するんだ?」と笑われてしまったが、顔が知られない方が都合のいい仕事だからと社交をサボっていたせいで世事にも疎いので他の部署のこともあまり知識がない。
「おい、早く魔法をかけてくれよ」
「いえ、ですが私のバニッシュは自分にしか効果がないんです」
「知っている。俺は俺で魔法持ちだ」
「え?どんな魔法ですか」
「見れば分かるから早くかけろ」
「むう……」
私は仕方なく自分にバニッシュの魔法をかけた。私はこの魔法がかかる瞬間のキラキラと光が舞うのを見るのが好きなのだが、他の人に見られるのは初めてなのでなんとなくドギマギしてしまう。
「……綺麗な魔法だな」
「ありがとうございます……って、え?」
レーレヒルの方を振り返ると、私の体を包んでいたのと同じ光の粒が彼の体を包んでいた。そして段々と姿が消えていき、完全に姿が見えなくなった。
「驚きました。あなたもバニッシュを使えるだなんて……」
「いいや、俺はあんたのバニッシュをちょっと『拝借』しただけさ。さぁ、行くとするかな」
「あ、ちょっと!ちゃんと教えてくださいよ!」
レーレヒルの魔法の正体を聞き出せぬまま、私たちは目的の領事館へと向かった。
―――――
てっきり侵入者よけの魔法がかけてあるものと思っていたが、領事館への侵入は驚くほどあっさり成功した。
貴族制を持たない国では魔法はもう何百年も前に廃れてしまっていると聞く。南方は平民自治の国ばかりなのでむやみに魔法の存在を知られないようにすることも外交上の必要な配慮なのだと家庭教師から聞いたことがある。
こうした主要施設にも魔法が使われていないのはそうした考えによるものでもあるのだろう。
「特別貨物出入記録……これだな」
「貨物の記録がどうして領事館にあるんですか?」
「大型の積荷を他国に届けた後、国へ帰って行く空の馬車は密入国者の格好の餌食なんだ。全部は無理でも大型貨物 の分だけはこうして領事館側で確認をとっているってわけだ」
「へぇ、知りませんでした。でもそれと公爵になんの関係が?」
「気候の暖かい南方では、木の成長が早く柔らかいため、建築に適した材木があまり採れないんだ。そこでほら」
「輸出木材:ディライト=ディラテイタム……先代でしょうか」
「そのようだな、しかしその後の記録を見ると……」
「あれ、同じ種類の木材の輸出をしているのに、名前がディライト=ターナー名義になってますね」
調べていくと、それ以降はディライト=ターナー名義でのやり取りが続いているようだった。
「見てください!ようやく見つけました……ヴァーナム=ターナー。10年前の記録ですが、この人が現ディラテイタム公爵のヴァーナム=ディラテイタムで間違いなさそうですね」
「おそらく、貴族名義にして税が上がるのを嫌ったのだろうな。脱税の証拠としては十分だろう」
「……この人を脱税で立件できれば、母の訴訟の件がうやむやになったりしないでしょうか」
原告が罪人として先に立件されてしまえば、起訴内容の信憑性が下がることになるだろう。
「訴訟を退ける決定打にはならないだろうが、有効な手段ではあるだろうな。エリア殿の無罪の証拠がそろわない可能性も考えて、そちらの訴訟の準備も同時に進めておこう」
「そうですね」
ヴァーナム=ディラテイタム公爵について知ることができた。原告側の脱税の証拠を掴むことも出来た。十分すぎるほど順調だったせいで、私は完全に油断してしまっていた。
「関税についても詳しいということは、レーレヒル様はもしかしてもしかして財務部の方ですか??」
「おい、今何か音がしなかったか?」
「え?」
「急いで出した資料をしまえ!音を立てるなよ!」
「はい!」
私は大急ぎで資料をもとの場所に戻していったが、後で戻せばいいやと片付けは二の次にしてしまっていたせいでなかなか片付かない。
「……こっちに向かっている。それはもうそのままでいいからこっちに来い!」
「あ、ちょっと!」
入口を警戒していたレーレヒルが姿の見えないはずの私をひょいっと抱えて隣の部屋の隅の本棚の陰に押し込んだ。
仮にも貴族の令嬢を抱えるなと文句を言ってやろうと思ったけれど、私たちが隣室に入ったところでちょうどさっきまでいた資料室に誰かが入って来たようだった。
「間一髪だったな」
「ええ、それよりレーレヒル様、もうちょっとそっちに行ってください」
「無茶言うな、このすぐ側を通られたらお終いなんだぞ。少し我慢しろ」
入って来た人物の方も気になるがレーレヒルと密着するような姿勢になってしまっていることがどうしても気になってしまう。
バニッシュのかかった者同士の姿は見ることが出来ないので、レーレヒルがどういう姿勢なのかは分からないけれど、体のあちこちに彼の暖かい体温が伝わってきてむず痒い。イケメンなだけあって良い匂いまでする。
(ひいぃ……勘弁してよ)
息を殺していると、自分の心臓の音が立てるドキドキという音がうるさく部屋に反響しているように感じてしまう。このままでは警備員に居所がバレてしまいそうだ。
―――――どれだけ時間が経っただろうか。永遠とも思える時間の後、先ほどの人物がもとの入り口から去って行ったのが気配で分かった。
「ふう……危なかった。警備員がいたんですね」
「いいや、ここに夜間の警備員はいないはずだ」
「え?ということは、泥棒ですか!?」
「いや、それもないらしい。俺達が隠れているこの部屋こそが金庫室のようだからな」
「ええええ!じゃあ一体……」
私たちが逃げ込んだ部屋はどう見ても物置きにしか見えなかったが、よく見ると小さいけれどしっかりとしたダイアル付き金庫が設置されていた。
「おい、これを見ろ」
「……!そんな……」
私はレーレヒルに呼ばれて資料室に戻って驚愕した。先ほど大急ぎで大半を片づけたはずの資料が大量に床に散らばっている。
その中で一冊だけ、無残にも数ページほど破られているものがあった。
「……やられた。破られたのは40年前のディライト=デラテイタム公爵の輸出記録だ」
「そんな……!」
デラテイタム名義での輸出記録はあそこにしかなかった。あの記録があったからこそ、私たちはディライト=ナーターという偽の名義に気づくことが出来た。
そしてその記録が無くなってしまえば、ヴァーナム=ディラテイタム公爵を脱税で起訴することは難しくなってしまう。
「まだ遠くまで行っていないはずだ。追いかけるぞ」
「はい!」
私たちは急いで侵入者のあとを追った。
―――――
明け方、私たちは侵入者の追跡を断念することとなった。
「すみません、私のバニッシュの魔法を自分で打ち消すことが出来たらよかったんですが……」
「いや、気にするな。姿消しの魔法があったところであれ以上の深追いはそもそもできなかった。侵入者の姿が一目見れただけでも収穫だと思おう」
私たちは侵入者の追跡自体には成功したのだが、侵入者が通りがかりの乗合夜行馬車に乗り込んでしまったため、追いかけることができなくなってしまったのだった。
私のバニッシュの魔法は自分で解除することが出来ない魔法だ。魔法を解くためには自然に解術されるまで時間が経つのを待つしかない。
「はぁ、はぁ…………さすがに疲れたな」
「あはは………はぁ、はぁ、私も、もう……足が限界です」
私たちは乗合馬車を追いかけて走っていた。馬に追いつけるはずはないが、せめて他の馬車が通ってしまう前に轍を追って馬車の目的地だけでも把握しておきたかったのだ。
三叉路の草原に身を投げ出すようにして倒れていた私たちに再び光の粉が舞う。どうやらようやく術が解けたようだ。朝日を反射して輝く七色の光の粒は、いつもより幻想的に見えた。
「すまなかったな、プラムベリー。俺があの侵入者の目的にもう少し早く気づいていればあの場で捕えることが出来たんだが……」
レーレヒルの表情は、下唇を噛みしめて本当に悔しそうに見えた。その頬に一筋の汗が流れ落ちる様子はまるで絵画のような美しさで、思わず魅入ってしまう。
「いえ、私の方こそ色々と至らず申し訳ないです」
「この道を東にむかったということは、馬車の目的地はカルムで間違いなさそうだな」
「そうですね、明日先ほどの街で馬を手配してカルムへ向かいましょう。まだあの侵入者が破れたページを持っていてくれているといいんですが……」
「いや、あれはもう既に燃やされてしまっていると考えるべきだろう。持ち続けている理由がないだろうからな」
「そんな……母さまを助ける重要な証拠だったのに」
あれがあればどんな状況からでも一発逆転で原告側を脱税で訴え返すことができる大事な証拠だったというのに、それを目の前で持ち逃げされてしまった。
大事な証拠を目の前で持ち去られるなどというのは失態以外の何物でもない。
「あんまり落ち込むな。俺はむしろこれはチャンスだと思ってるんだ」
「……チャンス、ですか?」
「あぁそうだ。俺達はあいつより先に忍び込むことが出来たおかげでディラテイタム公爵家がターナーという偽名を使っていることが分かったんだ。そして、それがこのタイミングで持ち去られたということは、ディラテイタム公爵にとってそれが知られてはマズい重大な秘密の鍵になると言っているようなものだと思わないか?」
レーレヒルの言うことはもっともだ。確かに調査部が動く直前のこのタイミングで慌てて証拠を消したということは、余程知られてマズいことだったということになる。
「単に脱税の証拠を消しておきたかっただけではないでしょうか」
「いや、それにしてもタイミングがよすぎるような気がしてならないんだ。侵入者の男が素人くさかったのもどうも気になる。相手はもしかしたら俺達が調査でこの南方共同領事館へ向かったのを知って慌てて人を雇って証拠を消させたのかもしれない」
「私たちを見張っている者がいるということですか?それは少し考え過ぎな気がするのですが……」
「いや、貴族を相手にする以上は相手も魔法持ちだと考えたほうがいい。どんな魔法かは分からないが、俺達が先に資料室に行けたということはプラムベリーのバニッシュの魔法はまだ相手に知られていないはずだ」
「……急いで戻りましょう。私たちは宿屋の中でバニッシュを使ったので、監視をしている人間はまだ私たちが宿屋にいると思っているはずです」
「そうだな、南方共同領事館に話を聞きに行く必要もあるし、相手にこちらの手の内を悟られるのはなるべく避けたい」
私たちはもと来た道を急いで戻ると、再びバニッシュの魔法をかけ、何食わぬ顔で宿に戻った。
―――――
翌日、日もとうに高く登り、昼食と言っても差し支えない時間になってようやく私たちは昨日晩飯を食べた地階の食事処で朝食をとっていた。
「あの、なんだかものすごく視線を感じる気がするんですが……」
「なんだ、昨日相手がこちらを監視しているかもなんて言ったからか?その可能性はあるとは言ったが気にしすぎる必要は……」
「いえ、そうではなくて……なんだかここの従業員の方々にやたら見られているような……」
「ん?」
私がバックヤードの方を指さすと、クスクスという笑い声を残して雲の子を散らすようにエプロン姿のおばちゃん達が去って行った。どうやら気のせいではないらしい。
食事を運んできたおばちゃんもニタニタという笑いを薄っすら浮かべているような気がしてならない
「あの、こんな時間になっちゃってすみません。お片付けとかの都合もあられるでしょうに……」
「あらぁ、いいのよいいのよぉ!若い美男美女のそういうのはアタシ達にとってご褒美みたいなものなんですから!」
「そ、そういうの!?」
「あらやだ、照れちゃって!2部屋取ったのに1部屋分しか鍵を取りに来なかったって夜番だった子に聞いてるよ!朝も随分ゆっくりだったようだし、お兄さん目の下にクマなんか作っちゃって、夜は随分お楽しみだったみたいじゃないかい?」
「ブフッ!!!」
私もレーレヒルも盛大に飲んでいた水を噴き出してしまった。勘違い甚だしいが、確かにそう見えてしまったことだろう。
あの後私たちは再びバニッシュの魔法を使い、従業員たちが出勤し始める前になんとか宿屋の一室に戻ることが出来たのだが、魔法が解ける時間までまだしばらくあったため、もう一部屋の鍵をもらいに行くことも出来ず、タオルで簡単に身を清めると、2人とも疲れていた為か泥のように眠ってしまい、気づけば術も解け、こんな時間になってしまっていたというわけである。
おばちゃん達にしてみればクマを作って朝まで同じ部屋で眠りこけていた私たちは夜通し情事にふけって寝坊した若人にしか見えないだろう。
「ううう、すみません。私が解術できないせいでとんだ濡れ衣を……」
「いや?俺は別にあんたと勘違いされるなら悪い気はしないな」
「はい!?!?」
「そんなに驚くな。冗談だ、冗談」
悪い気はしないなどと平然と言うあたり、レーレヒルは随分遊びなれている男のようだ。
おばちゃんには美男美女などと言ってもらったが、私は自分の容姿が並だということは重々理解しているので簡単に調子に乗ったりはしない。冗談というのだから冗談なのだ。
……と、心の中で唱えていないと赤面してしまった顔の熱が引いていきそうにない。
私は「冗談、冗談……私は並、私は並」と唱えながら朝食のパンに無心でかじりついた。
「おいおい、そんなに口に入れて大丈夫か?水もちゃんと飲め。食べ終わったら領事館へ向かうぞ」
私たちはいつまでも続くおばちゃん達のクスクス笑いを遠くに感じながら朝食を終えた。
―――――