亡霊ピアニスト あの日僕を救った女の子はこの世のものではありませんでした。
「ねぇ、面白いこと教えてあげよっか」
屋上のフェンスにたって下を見下ろしていた僕に金髪の美少女が話しかけた。
「面白いこと?」
話しかけないでくれ。この世にいたい。生きるきっかけを欲していた僕の肉体が彼女の言葉に反応する。風で少女の金色の髪がふわりと揺れる。僕を見上げるようにしながら、ふわりと微笑む。その微笑みが僕を苛立たせた。こういう、人生を存分に楽しんで、それを他人に強要するやつが1番嫌いだ。
「この世には君の知らない面白いものがいーっぱいあるんだよ!」
だからなんだ。それ以上に苦しいことも辛いことも沢山あるじゃないか。そんな反論も受け付けないほどにその少女の瞳は美しく光っていた。
黙ったままフェンスから動かない僕を見て、少女が寄りかかっていた古びたタイヤから身体を離した。動かない僕に嫌気がさしたか…別にいいけど。どうせ止めるなら最後まで引き止めて欲しかった。こんなことを言うのは傲慢だろうか。自分勝手だろうか。
「よっ、と」
は?
少女が僕と同じ位置に、すなわちフェンスの上に飛び乗った。
「君が逝くのなら私も一緒に行こっかな?」
そんな友達の家に遊びに行くように言うな。その時、ふわりと風が吹いた。緩やかな風だったけど、きっかけは、それで十分だった。
「?!」
「危ないっ!」
バランスを崩し、倒れる少女に覆い被さるように落下を防ぐ。
「危ないだろ!君が行くならとかふざけたこと言うな!自分の生死を人に委ねるな!」
少女が驚いたようにこっちを見る。そして、楽しそうに、嬉しそうに、にぱーっと笑った。人が怒っているのに、笑うとはなんだ。
「良かったー。君、生きようと思ってくれたんだね。」
え?
僕が?
何を言っているんだ、と思ったが、少女を助けるためにフェンスから降りてしまい、飛び降りようとしていた僕の覚悟は、気持ちは、綺麗に消え失せていた。
なんてことをしてくれたんだ。やっとここまで来たのに。ドロドロとした世界から開放されるところだったのに。そう言おうとした。しかし、それより前に
「よし!君、好きなこと、ある?」
最初と同じ、ふわふわとした微笑みを浮かべて、少女が聞く。
「ない。」
本当だった。あの日以来、僕は全ての物がつまらない。何をしても、何を食べても、心から楽しめなくなった。喜べなくなった。
ぶっきらぼうに言った僕の返事を聞いて、悲しそうに目を伏せたあと、じゃあ、と顔を起こす。
「わたしのお気に入りの場所、案内してあげる!」
屋上の奥の方、普段なら死角となって見えないところに扉があった。
「なんでこんなところにドアが?」
「ふっふー 知らなかったでしょう?」
呆然とたっている僕に自慢気な表情の少女が得意げに笑う。その顔がなんとも腹立たしくて、強引に話題を切りかえる。
「これ、半分誘拐じゃね?僕、君が誰だか知らないし。」
あ、と、今気づいたというようにフリーズする少女。しっかりしてんだかしてないんだか。
「南坂 麻衣!高校2年生!」
手短な自己紹介をした。言い出したのは僕だ。言わざるを得なくなり、しぶしぶ自分の名前を言う。
「光海 奏音。高2。」
「えっ!?光海って、光海 要さんの!?」
要は僕の母だ。数年前まで天才ピアニストとしてピアノで食っていた。
数年前、というのは、ピアノの腕が落ち、ピアニストを辞めたわけじゃない。演奏中に倒れたのだ。その事で、多くの人は心配し、僕に労いの言葉をかけてくれた。しかし、そうでない人は多かった。わざわざ時間を作って行ったのに、行かなきゃよかった、そんな言葉も沢山聞いた。
母は、そんな奴らのために、わざわざ演奏に行って、倒れ、僕を置いて行ってしまったのか。そう思うと、母を嫌いになってしまいそうで、封印していた記憶だった。
ただ、母をそんな風に言った人間は嫌いだった。大嫌いだった。
そんな思いで、要のピアノを聞くな、美しいあの音色を身体に入れるな、元々は、元々は!!
「要…素敵だったよね…。どこまでも優しくて美しくて、気高くて、ピアノは柔らかくて…。私、要が大好きだったよ」
要?母をそんなに馴れ馴れしく呼ぶとは…親しかったのだろうか。
扉を開けた。ここは、書庫らしい。毎年の卒業アルバムがあると聞いたことがある。僕が卒業したらここに置かれるのか。
そんなことを考えながら歩くと、書庫にあるはずのない、アンバランスなものを見つけた。ピアノだ。
「すごいよね!!昔のピアノだよ。ちょっと古いけど、まだまだ綺麗な音が出るよ。」
そう言って、その細く白い指で「雨だれ」を弾き始めた。
要もよく弾いていた。恋の歌らしい。美しい音色でただの書庫だったその場所が、生き生きとした活気を取り戻したようだった。
弾き終えた麻衣は、どう?というように笑いながら首を傾げた。
「うん。いいと思う。切ない感じが曲に合ってた。」
そう言うと、にこにこと笑いながらパッと立ち上がった。
「じゃあ、次は奏音くんの番だよ!なんか弾けるでしょ?小さい時の奏音くんTVに出てたよね?」
なんで知ってるんだ…。麻衣の言っていることは本当だ。要の子供としてTVに出てピアノを弾いている番組があったらしいことは要から聞いていた。
仕方なしにピアノの椅子に座る。
その瞬間、あの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。「ごめんね」と笑う要の顔、転がる薬の数々、3日間の冷めたスープ、母がずっと寝てると告げた時の運転係のスタッフの驚いた表情。
鼓動が激しくなる。息ができない。
「奏音くん!?奏音くん!!」
麻衣の声が遠くに聞こえる。あぁ、まだ立ち直れていなかった。
真っ白い天井は少し前まで麻衣と居たあの書庫ではない。保健室だ。
「良かった。光海くん。起きれる?」
麻衣が先生を呼んでくれたのだろうか。後でお礼を言わなくては…
「大丈夫です。」
と、起き上がった僕は衝撃の言葉を聞いた。
「そう?1時間ぐらい前に男の子が奏音が授業に来ない!って慌てて教えてくれたから分かったのよ。ちゃんとお礼、言っときなね。」
男の子?麻衣か?そんなわけない。麻衣は男と間違えるような顔立ちじゃない。金髪の長い髪も女の子らしさを際立たせている。
授業が終わり、大急ぎで席を立つ。屋上に走る。やっぱりそこには麻衣が、変わらずピアノに座っていた。
「麻衣!」
僕を見る麻衣の目が溶けそうなぐらい涙に濡れているものだから、何かを言う気力も無くなった。
「良かった。良かった…ほんとにごめん。奏音くんを苦しめるつもりは無かったの…ほんとにごめん…」
麻衣は何故先生を呼ばなかったのだろうか。近くに女の子はいなかったか、聞いてみれば良かった。
大丈夫。大丈夫。そう、思えば思うほど、母の、要のいない喪失感が溢れてくる。
怖い。いつまでたっても立ち直れない。もう、何年も経ってるのに。
チャイムがなった。いつの間にか家に着いていたようだ。この状態でよく帰ってこれたものだ。
「はーい」
扉を開けると累さんだった。要の妹で、要が死んでしまってから唯一僕の面倒を見てくれている人だ。預かるとも言ってくれたのだが、小学4年生の時も母がいないことの方が多く、そこまで変わらない日常だったから断った。迷惑はかけたくない。
「奏くん元気?おねーちゃんの小さい時のアルバム出てきたんだけど…見る?」
アルバム。見てみたい。僕に多くを語らず、教えず、死んで行った要を。
「ほら!これおねーちゃんだよ!これは小学生!」
要似の細い指がアルバムの幼女を指す。微かに要の面影がある可愛らしい幼女だ。
「これは中学生。こっちのちっちゃいのは私だね。」
僕の知る要に近ずいた、ピアノの賞状を誇らしそうに抱えた少女だ。
「おねーちゃんこの頃からピアノ上手だったんだよ」
と、思い起こすようにうっとり微笑む。
そして、パラパラとめくった後に
「これこれ!奏くんにこれを見せたかったの!」
要だ。それも、僕の通う高校の制服をきた要だ。
「これ…」
要は、僕と同じ学校で、学校生活を送っていたのか。青春時代を、同じ場所で過ごしていたのか。
そう思うと、なんともおかしくて、嬉しくて、ほろほろと涙が溢れてきた。
「ばいばーい、またね!」
「はい、また。今日はありがとうございました。」
累さんと離れると、僕はゾクゾクとした高揚感に包まれていた。要が同じ高校ならば、あの場所。麻衣とピアノのあるあの場所に、要の卒業アルバムがあるはずだ。高校時代の要が見れる。
いてもたってもいられなくなり、学校に向かう。低いフェンスを乗り越えて、鍵の壊れたトイレから学校に侵入する。屋上へ走る。そこには変わらず、麻衣がいた。
「は?麻衣…だよな?帰らないのか?」
驚いたように麻衣がこっちを見る。
「なんで奏音くんここにいるの?夜だよ?」
それはこっちのセリフだ。と思ったが、僕には優先すべきことがある。不思議そうな麻衣をすり抜けて、書庫に立つ。
要が高校を卒業した時のアルバムもちゃんとあった。
要もちゃんと居た。楽しそうに笑う姿や、修学旅行で真剣に話を聞く姿。
あぁ、僕は知らなかった要の姿だ。ちゃんと楽しそうだった。僕が物心ついた時から、周りの視線や、期待に苦しんでいる要しか知らなかったから、要は不幸だった。不幸なまま死んで行ったと思っていた。
「こんなこと、要は望んでいないな。」
自分の子供がいつまでもうじうじしてたら不安でしょうがないだろう。
クラス写真があった。
南坂、麻衣…?
なんで、ここに麻衣が?
あちゃーという表情の麻衣が卒業アルバムの向こうにあった。
「見ちゃったならしょうがないか。私、要と一緒に卒業する予定だったんだ。
それより前に病気で死んじゃったんだけどね。
でもね、私、大きな心残りがあったの。
それが要。
要と約束したの。
天才ピアニストになろうねって。
そして、いつか、2人で一緒にピアノを弾こうねって。
たくさんのお客さんの前で、2人の音を奏でようって。
でも、それを叶える前に死んじゃった。
要はちゃんと天才ピアニストになってくれて、有名になってくれて。
でも、そんな要ももう居なくて、奏音くんだけが残っちゃって。
同じ高校目指してたの知ったから、ここで待ってた。
ここでだけ、姿が見えるの。
実体化できるの。
でも、バレちゃったから多分もう無理だね。」
涙を溜めた瞳で、僕を見た。
「最後にお願いしてもいい?」
すーっと静かに深呼吸して、口を開いた。
「ピアノ、弾いて欲しいな。要から立ち直った奏音くんの最初の演奏を私が聴きたい。」
上手く出来ないかもしれない。最近全く触ってないから、忘れてしまったかもしれない。でも、僕もそうしたかった。
初めの演奏は麻衣に聴いて欲しかった。
「いいよ。」
ピアノに触れる。指に軽く力を込める。僕が弾くのは母がピアニストとして初めて弾いた、「愛の夢 第3番」だ。
僕の弾くピアノに麻衣の優しい歌声が重なる。要に届くような、静かで、美しい歌声が僕らを囲う。
「ありがとう。奏音くん。ありがとう。あっちであったら要にも言っとくね。奏音くん立ち直ってたよって!」
軽く手を振った麻衣に、微笑みながら手を振り返す。僕の夜もきっとすぐに明けるだろう。
これで、みんなが前を向いた。