その四
言葉には根拠など全くなかった。手の汗は酷くなるばかりで、手にオイルを塗っているかのようだ。もしくは俺が殺した奴らの血のようにどろっとしていて滑る。もしかしたら本当は血だったんじゃあないか、なんて思ったりもするんだが、何せスポットライトが見事に照らすものだから、確証はないんだ。
「俺はちゃんと寝たよ、三時間も。酒は抜けてるんだ。それなのに・・・どうして無理やり検問なんかするんだ!あんなことしなければ事故は起きなかったんだぁ・・・」男が言った。男の声には涙と嗚咽が混じっていた。
俺は慰めようなどとすでに思っていなかった。そんなことは無駄だ。ただ必死に男の手に掴まった。
「離すなよ!お前!」
「旦那ぁこのままじゃ二人とも落ちちまう。・・・あんたさっきあの恐ろしいピエロに『俺を降ろせ』って叫んでたよなぁ、確か。つまり俺を助けるつもりはないんだな?そうだな?・・・なぁ旦那ぁ降りてくれよ・・・」
俺の背中に寒気が走った。
「馬鹿言うな!二人してじゃないと俺は助からないんだ!よく考えろ!くそ!」俺は叫んだ。
だが男の耳には届いていない。
「・・・俺?二度だ・・・二度目だな?」俺は呟いて首を振った。「・・・一人なら支えられる・・・一人なら・・・はぁはぁ俺は悪くないぞぉぉぉ」
どれだけ強く掴もうとしても汗のせい(もしくは血のせい)でずるずると手が抜けていく。俺は何かを男に叫ぼうとした。ピエロにだったのかも。ひょっとしたら叫んでいたかもしれない。覚えていない。覚えていることは手が離れたことだけだ。
スローモーションのようだった。
俺がもう一人別の場所にいて、第三者となって自身を見ているように色んな角度から自分が見える。ゆっくりと、怯えた顔(殺した二人のような顔)で落ちていく俺自身。受け手の男は半分白目を剥いて、口元をひくつかせながら笑っている。
高いところからスポットライトの灯りが俺だけを射していた。何も音が聞こえず何も感じなかった。風さえも。
*
土砂降りの雨がコンクリートの床を打つ音。電波を引いていないテレビの騒音、砂嵐のような音。一説によるとこのテレビの砂嵐の音は母親の腹の中、羊水の中の音で、誰もが胎児であったころ聞いたことのある音のため、特に小さな子供は落ち着くのだそうだが。とにかく俺はこの土砂降りの雨の音の中で目が覚めた。
「俺は何をやっているんだ・・・?」
殺風景な冷たい部屋。コンクリートの打ちっぱなしの部屋。鉄のドアが一つあり、部屋の隅に鉄格子がはめてある。そこから外の光が入ってきていて、ついでに幾らか雨も吹き込んでいる。部屋の中央には小さなデスクがありその前の椅子に俺は座っていた。対面した席に、あのアパートに乗り込んできた刑事が座っている。卓上のライトが俺の顔を照らしてくれたおかげで、そこは空中ブランコの台の上ではないと分かった。
そこは取調室だった。
俺は窓から飛び降りられず、結局警察に捕まったのだろうか。今がいつかは分からないが(あのときはイライラするくらいに晴れて暑かった)俺はこうして警察で取調べを受けようとしている。もちろん殺人容疑で。だが正直ほっとしたのは確かだ。空中ブランコの恐怖に比べれば。あのピエロに比べれば。
あれは夢だった。
「夢・・・か?」呟いた。
シャツは汗で体に張り付いて気持ち悪く、雨の湿気がさらに気持ち悪くさせていた。そして寒かった。それから声を張り上げて笑った。警官は手に持ったペンでデスクを叩きながら俺を見つめた。照明の陰に隠れて俺を見るその目は、哀れなもの、嫌悪するものを見るときのそれだった。
「お前が何を見たかは知らないが、初めるぞ?いいか?」刑事が言う。
「はい・・・それにしても少し寒くないですかね、この部屋?」俺は調子よく答えた。
両手で体を擦った。そして刑事を見やったが、刑事は何も答えない。それどころか俺を無視するかのように、手元の資料にペンで書きたくっている。俺は黙ってその様子を見ていた。
しばらくして刑事が書き終わると、デスクの上の照明をずらして、俺達二人のちょうど中間を照らした。刑事の顔が照らされて浮かび、目のところにだけ影が落ちている。雨は止むことなく降っている。
刑事は突然話し出した。
「人は罪を償わなければならない。相応の」
「えっ?」俺は驚いた声を上げて乗り出した。
「チャンスは一度きりだ。お前は失敗したな?罪を償ってもらうぞ!」かすれた声。
俺はわけの分からない悲鳴を上げて、飛び上がったかと思うと、椅子から転げ落ちた。体を引きずって壁まで達した。壁には気がつかなかったが緑色の短い苔が生えている。上からは吹き込む雨が降りかかる。
何という驚きだったろうか。照明の下の刑事の顔がいつの間にかあのピエロの顔になっているのだ。ペンだと思っていたのは、奴の細長い指だった。頭の朱色のちぢれっ毛は暗がりの中で茶色くなっている。
ピエロは立ち上がって俺を見降ろしている。俺はサーカス場のことを思い出していた。あの光り輝く場所は夢ではなかったのだろうか?あの労働者風の男も俺と同じように?
「貴様の運命は振り子によって決まった!」ピエロが不気味に叫んだ。
目の前が次第に薄れていく。
全ての感覚が消える。
*
「こいつはもう駄目だな。救急車はまだか?もう必要ないがな・・・」
スーツ姿の刑事が死体を目の前にして話している。額からは汗を流し、屈みながら死体の前に座り込んでいる。汗の雫が一滴、死体の上に落ちた。刑事の顔は歪んでいるが暑さからか、死体を見たからだろうか。
「もうすぐ来るそうです」若い刑事がスーツの刑事に言った。若い刑事は背広を脱いでYシャツになっているが、背中には汗の模様が浮かんでいた。
「そうか・・・」とスーツの刑事。「しかし、こいつは・・・まぁ、運が悪かったとしか言えんな・・・」
二人の刑事は立ち上がって死体を見下ろし、何も言わずに目を瞑って手を合わせた。
死体は茂った雑草の中に顔を埋め、木漏れ日がその体の上に揺れている。コンクリート塀にはまだ新しい深紅の血が付いている。
その死体は俺の死体だった。そして俺はその死体を刑事の真後ろに立って見ていた。
俺は恐ろしかったが、だがしかし冷静だった。
心臓の音は聞こえない。
遠くに救急車のサイレンが聞こえた。
蝉の鳴き声だけはやけにうるさかった。
*
これが俺が体験した奇妙な話の一部始終だ。俺は今は幽霊となってこの場所にいる。どうやら離れられないらしい。自縛霊とは少し違うと思うが、詳しくは分からない。
ピエロは死よりも恐ろしいこと、などと言っていたが、それが最近になってようやく分かりかけてきた。腹が減るし喉も渇く。だが何も触ることなんて出来ないしもちろん食べることも出来ない。話していないと頭痛が酷く耐えられなくなる。それにあのピエロの影に怯えることもしばしばある。多分永遠だろう。俺はこの場所から離れられないんだと、最近認めたばかりだ。そして成仏出来ないんだということも認めるしかなかった。
人が死ぬことは肉体と、それから魂までもが死んで初めて死ぬということなんだと思う。魂までもが死んで、あの世へ行って、そしてようやく救われる。だから俺は死ぬことは出来ない。
最近道路の向こうに首吊り女の霊が現れた。四六時中あの状態のままでもがいている。俺はあの状態よりはずっとマシな方だと思うことにした。
奇妙だが決して俺だけの話ではない。あの労働者風の男も首吊りの霊もきっと同じように何かを味わってこうしているに違いない。みなにも起こらないとは言い切れない。いや死ぬ前には罪を償わなければならないのかも。誰もがだ。
俺には叶わなかったが、誰かに理解される一番の方法は素直に笑いかけることだと思う。高尚上品な笑いは必要ない。笑うのが苦手なら鏡の前で不細工な面と格闘するんだな。それでも駄目なら誰か愛する人間を見つけるのが手っ取り早い。そうすれば笑えるに違いない。それでも駄目なら俺と同じ道を辿るかい?
今度もしピエロに会えたら音楽くらいは聴けるように交渉してみたいと思う。なるべく静かな音楽がいい。
ところで永遠はいつになったら終わるのだろう。
知っている奴はいるかい?
ありがとうございました。
「走り出したら止まらない」了です。
誰もが自信で納得ができないような体験をしたことが、一度はあると思います。
それを他人に言う人もいれば、胸にしまっている人もいるでしょう。
この話たちに共通して言えるのは、他人からしたらどれもB級の作り話に聞こえるんじゃないでしょうか?
だから面白いのだと思います。
現実から非現実の世界への交差を、スピード感が出るように書いてみました。
感想を聞かせてもらえたら嬉しいな。




