その一
色々な人間がこの世にいるが、他人のことを分かっている奴なんてほんの一握りだっていやしない。 笑顔で注文を待っているウェイトレスは笑っていても心の中ではこう思っているはずさ。「あぁあ、注文決めてから呼べってんだ、このウスノロが!」とね(もちろん全部が全部じゃあないだろうから断っておくが。だが誰もがどこかで表面とは違う自分を見せているはずさ)。俺も理解されない人間の一人だ。誰しも理解されない部分なんて少なからずその胸の中にある。俺も理解されたいとは常日頃から思ってはいる。だが同情されたり焚きつけられたり知ったような顔でうなずかれたりするくらいなら、理解されるなんてまっぴらごめんだ。
俺は地元の大学を卒業すると、普通の会社へ就職した。毎日が外回りの営業だったが別に嫌じゃあなかった。会社の俺がいた部所内では不倫だの社内イジメだのセクハラだのがあって俺を苛々させたからだ。外回りならばあまり干渉しなくて済むだろう?俺は愛する人を見つけ、普通に恋をして結婚して家庭を持つだけでよかった。だから外回りから会社内での仕事に回されたときに会社を辞めた。
これから俺が話すことは奇妙な話だ。とても真実だとは思えないような話だが、少なくともB級ホラー映画よりはずっと楽しんで貰えると思う。本当の話だから。だから読みたい人にだけ読んで欲しい。くだらないと思うのならここでこのまま耳を塞いだって構わない。信じるもの、そして興味がある人ならばぜひ聞いてくれ。
これを話す理由は、忘れられないからだ。どれだけ時間が経っても季節が変わってもその奇妙な話は頭から抜けない。どうやら無理らしいのだ。だから話す。話せば少しは楽になるし、何もしないと頭の中にとんでもない大きさのハム音が響いて、ついでに頭痛までするんだ。
これは何回目だろう?六十八回まで話したのは覚えているが(俺の親父が死んだときの年齢だ。親父は冬のくそ寒い朝に脳梗塞で簡単に死んじまったが、あれは働きすぎのせいだと思う。夏じゃないだけよかった)。
俺は話しをすることで救われようとなんて思ったことなど一度もなかった。一度も。ただ不安を軽くしてやりたいと思うだけだ。それくらいは構わないだろう?
もう一つ、誰にもこの話を口外しないで欲しい。約束だ。
では話そう。
あの日は八月の、一番暑い日のことだった。
その夏の日差しは俺の髪や頭蓋骨を抜けて、脳から溶かしだす勢いだった。近所の犬はすっかりアスファルトの地面(それも影の中の)にへばっていたし、たっぷりと入った餌箱が空になることなど滅多になかった。
以前の俺は自分で言うのもなんだが、今とは比べ物にならないくらいキレ易い性格で、つまりあの暑さは俺に対してドーピングみたいな効果を発していたのだ。
ドンドンドン!
アパートのドアを叩いている奴がいる。外にいるのは、一人じゃないな。二人・・・いや三人はいるな。感じで分かる。空気と言った方がいいかな。それにさっき階段を上ってくる音も一人分じゃあなかった(どうせ来るなら俺に悟られないように来いっていう話だよ)。奴らは警察だろうな。
俺は考えながら窓の方に目をやった。
俺には捕まる権利がある。捕まって当たり前なのだ。何せ二人も殺してしまったんだから。それまでに殺した一番大きなものはゴキブリだったのに。だが待てよ。悪いのは俺なのか?殺っちまったのは確かだが、何の理由もなく人間一人殺す奴なんていない。あのジャック・ザ・リッパーだって女を殺すのには理由があったはずだ。例えば若い女が夜中にフラフラと出歩くことに腹を立てただとか、例えば異常な精神病者だったとか。俺は考え込んでいた。
ドンドンドン!
紺色のカーテンを透して太陽の光が差し込んできている。埃の微粒子は光の中で輝いて、形のない像を生み出している。まるで踊っているかのようにだ。冷蔵庫の低い唸り声が部屋の中に響いていた。外では蝉が忙しなく鳴いていた。その音が脳の中まで入り込んでかき乱している。頭の中でオーケストラの演奏が行われているようだった。
ため息を一つつく。そして携帯電話を広げ、画面を見たが、いつの間にか充電が切れていて真っ暗だった。端には僅かにどす黒い色に変色した血がこびり付いていて、すでに固まっていた。
ドンドンドン!
話は変わるが人間関係において最も大切なものがあるとしたら、何だと答える?俺はそれは「信頼」だと思う。信頼は絆を生み出すし、信頼があれば何だって許せる。信頼が置ける奴になら、金だって貸せる。秘密も話せるだろう?
だがあの女は俺の信頼を裏切りやがった。俺は高級なバッグや財布、それに宝石とかも買ってやった(ルイ・ヴィトンとかシャネルとか、俺は奴に買ってやるために、本を買って勉強までしたんだ)。あいつは「将来は一緒になろうね」だとか何とか言って近づいてきた。だから俺は色々と尽くしてきたんだ。夫婦になるなら金はお互いのものだからな。このヘビースモーカーだった俺が一言でタバコを止めたんだぜ。
「タバコは別れた元彼の匂いがするから」
何、止めるまでは簡単だった。酒は刑務所行きの道具で、タバコは金を捨てるのと同じだと考えるようにするまでだ。
あいつの裏切りかい?あいつは外で男を作ってやがったんだ。しかも俺の金で豪遊してやがった。そして俺は知った。あいつは俺をカモにして、この俺を金づるにしてやがるってことを。男も俺の存在は知っていやがった。手に持ったグラスの中の酒が俺の金だってことも。だから俺はそいつらの首をナイフで裂いてやったんだ。その女マユミとその男(こいつは黙って俺の女を盗りやがったから、当然の報いだ。名前は忘れたが)はすぐに死んだ。勘違いしないで欲しいが、俺は彼女を恨んでいたわけじゃあない。俺は彼女を心から愛していたんだ(男は違うが)。ただ制裁を与えただけだ。ただし裏切りは償いきれない行為だから、永遠に反省できるように殺したんだ。
ドンドンドン!
くそっ!しつこい奴らだ。
暑くて重い空気が余計に鬱陶しく重く感じた。
そっと立ち上がると冷蔵庫の前まで、足音を立てないように慎重に進んだ。冷蔵庫を開くと中から空気と冷蔵庫独特の冷たい臭いが漏れ出し、冷蔵庫の唸りは一層ひどくなっているような気がした。よく冷えたミネラルウォーターを一本取り出し、これも音を立てないように飲む。
俺が犯人だっていつばれたのだろう?俺は考えた。だがいずればれることだろうと覚悟していたから以外にも冷静だった。ジャック・ザ・リッパーは結局捕まらなかったらしいが、どうやったんだろうな?
俺は冷蔵庫のオレンジ色の光を見ながら、電源を切っておくんだったと思った。テレビのコンセントも電子レンジもパソコンもPS2も何もかも。そうすれば外の電気メーターだって動かなくて、居留守を使えたかもしれない。ゆっくりと扉を閉め、後退るようにそこから離れた。
冷蔵庫から離れる途中、何度か止まって警察の動きを探ろうとすると、アパートの廊下に面したキッチン横の擦りガラスに人影が現れた。その影は中をのぞき込むように、グッとガラスに顔を近づけて気配をうかがっている。すると額に突然じわっと嫌なものを感じ、体に汗が噴出するのが分かった。暑さからのものも、冷や汗も全部が混じっている。油を頭からぶっかけられたみたいな、どろっとしていて、重い汗だった。そして心臓が高鳴りだした。俺は心臓を両手で抑え、なるべく息が漏れないよう口をつぐんだ。つまりそれだけ心臓の音がでかかったということだ。外の連中にも聞こえるのではないかと思った。蝉のオーケストラより、冷蔵庫の唸りより、どんなものよりも優先して。
俺は二人を殺した。捕まったらどうなるのだろう。その後を考えると恐ろしくなった。二つの殺人を犯したキチガイの殺人鬼として死刑になるに違いない。汗はますます溢れ続けた。動悸も早くなった。汗が一筋頬を伝って首筋を通り、そのままシャツの中へ入っていく。キチガイか・・・キチガイ。そうだよな。俺はキチガイだ。裏切ったのは、俺の信頼を無視しやがったのはあいつらの方なのに、裁判官のジジイは「犯行は短絡的で酌量の余地はない」とか何とか、勝手なことを言って俺を死刑にするだろう。話しても分かってもらえないだろうなぁ。誰も分かっちゃくれない。
あぁ泣きたくなってきたな。
俺は大きく体を伸ばした。それから顎をしゃくって両目の間を軽くマッサージした。これは俺なりの緊張のほぐし方みたいなもんだ。そうするとあれだけ溢れ続けていた汗がぴたりと止むんだ。どうして落ち着くのかは知らない。ただいつもやっている。それだけのことだ。絶対に理解して貰えないことを悟り、さらに暑すぎる気温が自分を冷静にさせたのかもしれないし、狂っていただけかも。とにかく俺は落ち着いたんだ。心臓も気づいたときには普通に戻っていた。
耳を澄ますと冷蔵庫と蝉の他に時計の音と、それに外の奴らの話し声も聞こえてくる。
「どうします?」
「・・・いや・・・もう少し・・・」
俺はもう一度水を飲んだ後に、カーテンの横まで行って、隠れるように壁に体を寄せた。そっとカーテンに指をかけて少し除けると、外をうかがった。道の向こう側に白のクラウンが停まっていて、脇に若い男(多分警察官だろうが)が立っている。こうしていると向こうじゃあなく俺の方が奴らを監視しているようだ。俺はスナイパーで奴らがターゲットのようにな。
ここから逃げられるか?俺は窓から下を見た。憎たらしいほどに太陽の光を浴びた雑草が青々と茂っている。裏にある木の葉の隙間から木漏れ日が落ち、キラキラとコンクリートの塀を照らしている。ここを飛び降りて逃げなきゃならないのか?そうするしかないのか?しかしここは二階だが雑草の下には小石が沢山ありそうだぞ。しかもあの塀にだってもしかしたらぶつかるかもしれない。痛そうだ。俺は悩んでいた。
そのとき俺は奇妙な音に気がついた。そしてそれが何なのかすぐに悟った。それは鍵を開けようとする音だった。警察の奴らが大家から鍵を借りて、強引にでも入り込もうとしている。大家め。俺は一度だって家賃を連帯したこともないし、部屋だって汚れちゃあいない。それに夜十時を過ぎたら静かにしているじゃないか。それなのに。俺は思った。だが同時に警察が踏み込んでくるまでにはもう時間がないことも分かっていたのだ。また心臓の音が速まりだした。
俺はカーテンを開き、続いて窓を思い切り開いた。太陽光線が目に入り、一瞬目の前が真っ白になる。下の若い奴が俺を見つけて何やら慌てた様子で電話をかけている。俺は下を見た。やっぱり痛そうだと思った。
ふふふっ、これは別に笑い話じゃあないんだが。もしあのとき両手を壁につけて潔く警察の奴らに捕まっていたなら俺はこんな話はしていないだろうし、俺自身もずっと楽な人生を進めたかもしれない。もちろん最後は死刑で終わるだろうが、塀の中の方がずっと俺を守っていたはずだ。
ガコンッ!
背後で音が響いた。ついに入り込んできたのだ。しかも土足で。地響きに似た足音と俺の心音とが混ざり合っておかしな音楽が鳴っている。肩越しに振り返ると血相を変えたスーツ姿の男数人が、スーツの胸の辺りに手を突っ込んで走って来る。
「警察だっ!」男が叫んだ。
俺はミネラルウォーターのペットボトルを投げつけたが、そいつは虚しくもテーブルの端に直撃してスーツの男の足元へ転がった。さらに蹴り飛ばされたペットボトルは回転しながら床を滑り、ベッドの足に当たってようやく停止した。
大声が下からも後ろからも聞こえてくる。だが俺にとっては蝉の鳴き声と同じで結局は何と言っているのか理解することはない(あいつらだって理解しないんだ)。
俺はもう一度外を見た。視界がなくなるほどの光が俺を照らしていた・・・




