4-13.悪夢は現実に
怒りと屈辱に顔を染めた皇后ハリーデは、声も発せぬまま立ち尽くす。現実を突きつけられて、しかもそれを否定できるだけの根拠を持たないのだ。
古代ロマヌム帝国以前より続く、栄えある大国アナトリアの皇后たるハリーデが、事もあろうに我が子よりもずっと年若い目の前の小娘に、それがただ勇者であるというだけで、逆らえないと理解させられたのだ。
それは、それまで皇后として、国の頂点として長年君臨してきた彼女のプライドを砕くに充分な衝撃であった。
「解ったならさっさと呼びなさい。そこの奥に最初からいるのでしょう?」
だから、レギーナのその再度の要求に反応するのが数瞬、遅れた。
「……………は?」
唖然として動けない皇后に、レギーナはわざとため息をひとつ、漏らす。
「もういいわ。⸺そこに居るのでしょう、皇太子アブドゥラ殿下。入室を許可するわ」
そして自分で隠れている者の名を呼んだ。
皇后の出てきた奥の扉が開かれて姿を現したのは、レギーナの予測したとおり皇太子アブドゥラである。
「なんじゃ、そんなに余と逢うのが待ち遠しかったのか。愛い奴め」
のほほほほと品のない笑い声とともに目尻を下げ、だらしない笑みを浮かべてテーブルに近寄るアブドゥラ35歳。背は高いがそれ以上に目立つ、長年甘やかされて弛みきった腹を揺らしてにじり寄るその姿に、まず挨拶もできないのかという叱咤よりも先に嫌悪が出てしまう。そのせいで思わずレギーナは座った椅子の上で少しでも避けようと身じろぎしてしまった。
「皆まで言わずとも良い。そなたの望みどおり、余の妃としてやろう」
「嫌よ、お断りだわ」
「そう照れずとも良い。そなたの心の裡はちゃあんとこの皇太子に伝わっておるでのほほほほ」
「何をどう聞いたらそうなるのよ!」
押し問答しつつも皇太子は席に着くでもなくレギーナの側まで歩み寄り、その手を取ろうとする。贅肉のついた青白いその手をレギーナは手に持った扇ではたき落とした。
「ほほほ。正式な婚約まで手も触れぬとは奥ゆかしいの。大丈夫であるぞ、この場には余とそなたしかおらぬでな」
いやそこに皇后陛下がいるじゃない。それに周りに何人侍女がいると思ってるのよ。そう言いたかったが嫌悪に喉が詰まって咄嗟に声が出なかった。代わりにレギーナは席を立って一歩引く。
ちょうどレギーナの座っていた椅子を挟んで睨み合う形となり、それでようやく皇太子の進撃が止まる。
「ほほ、まあ良い。ゆっくり愛を育んでいくのも一興じゃとも」
何を満足したのか、皇太子はそんなことを言いつつ残された最後の椅子に腰を下ろす。素早く寄ってきたサロンの侍女がサッと椅子を引き、皇太子の腰の動きに合わせて絶妙なタイミングで椅子を滑り込ませた。なかなか手慣れた動きである。
「何度も言うけどお断りよ。私はまだ結婚するつもりはないわ」
ようやく気を取り直して、レギーナも元のように席に戻る。椅子はべステがサッと整えてくれた。
「本当に照れ屋で愛いのうそなたは。まあ茶でも飲んで落ち着くと良い」
アブドゥラは鷹揚に笑ってそんな事を言いつつ、サッと侍女が用意したカップの紅茶を一息に飲み干した。
テーブルに肘をついてレギーナに身体を向けて、つまりテーブルに対して半身になっているのもそうだが、出された茶を一口で飲み干すなど有り得ないマナー違反である。この国の教育はどうなっているのか。
「それで、婚約式はいつにするかね?余としては今日これからすぐでも一向に構わんぞ」
「なんでよ!お断りだと言っているでしょう!?」
「いっそ婚約などと言わず婚姻でもよいな」
「冗談じゃないわよ!勝手に決めないで!」
「そうと決まれば準備をさせねばのほほほほ」
「勝手に話を進めるなと言っているのが解らないの!?」
どうにも話が噛み合わない。まるで世の女性は全て自分に懸想しているとでも思い込んでいるかのようだ。
もしかしてこの調子で、無理矢理手篭めにしてもむしろ悦ばれるとでも考えていたのだろうか。だとしたら下衆の極みとしか言いようがないが。
ついうっかり相手のペースに呑まれかけていることに気付いて、レギーナはひとつ咳払いして気を落ち着かせる。
とにかく冷静に、今ここで取り乱すのは得策ではないのだから落ち着かねば。そう自分に言い聞かせつつ、彼女は冷静に事実の指摘にかかる。
「だいたい、皇太子妃ならもうアダレトを立てているでしょう?今になって替えるのは外聞が悪いのではなくて?」
「なに、問題ない。アダレトごときが今まで太子妃だったのは、単に余とそなたが逢うておらなんだからじゃ。あやつなぞそなたの美しさに比べるべくもない。こうして余とそなたが逢うたからには、あれは第二妃で充分じゃ」
そりゃまあ御年36歳で子供も産んでいるアダレトと、その半分ほどの年齢の未婚のレギーナとでは比べるべくもなかろうが、それは単に若さの問題でしかない。アダレトだって今でも充分美しいし、レギーナと同じ19歳のころはもっと輝ける美貌だったはずである。そしてレギーナの方も、今のアダレトと同じ歳になった時にどこまで容姿を保てているものやら。
というかよく考えると、アダレトはレギーナの母にしてエトルリア先代王妃のヴィットーリアとひとつしか違わないのだ。それほど歳の離れた相手に美貌で負けることなど基本的には有り得ない。
だから問題はそこではなくて。
「今さら皇太子妃を替えたりすれば絶対に波風が立つでしょう?殿下は国が荒れてもいいと仰るのかしら?」
皇太子と皇太子妃の確執ではなく、皇后ハリーデと第二妃サブリエとの我が子を代理とした政争と考えれば、どう考えても『これ触らんとこ』案件である。そんなものに巻き込まれたら本当に、東方に旅するどころではなくなってしまう。
「なあに心配は要らぬ。次期皇帝に楯突けばどうなるか、あの女にも第二妃サブリエにも知らしめてやるだけじゃ。それに」
皇太子はそこでわざと言葉を切り、ずいと身を乗り出してくる。
「余とそなたは、真実の愛で結ばれておるのじゃからのほほほほ!」
「うげぇ!」
あまりにも悍ましい一言が飛び出してきて、王女としても勇者としてもやっちゃいけない顔で、出しちゃいけない声を出してしまったレギーナである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「嘘でしょ………悪夢だわ………」
どうにもならなくなってサロンを飛び出し、ほうほうの体で与えられた客間まで逃げ帰り、精も根も尽き果ててティードレス姿のままソファに倒れ伏すレギーナである。
勇者ともあろう者が、論破することさえ出来ずになす術なく尻尾を巻いて逃げ出すことしかできなかった。屈辱以外の何物でもない。
「なんかえらい疲れとんね姫ちゃん」
「もう嫌………有り得ない」
主に精神的に死にかけているレギーナを心配してミカエラが寄ってくるが、それに応える気力さえもなさそうである。
ちなみにグランミロンとはこの世界の数の単位で、100万を指す。元々は「ものすごく多い」という意味で用いられる言葉で、そこから転じて「ありえない(ほど多い)」という意味で使われる。
「姫ちゃんがそんだけやられるやら、珍しかねえ」
「毒の痕跡があるね」
「でも受けたダメージはそれではないでしょう?」
「皇太子がいたわ……」
「は!?」
「そして求婚されたわ」
「なんですって!?」
「え、それもちろん突っぱねて来たとよね!?」
「拒否したけど、全然話が噛み合わないのよ!」
現代ロマーノ語を話してるのに、言語の通じない未知の生物と話してるようだった、と言われ、ミカエラとヴィオレは互いに顔を見合わせる。確かに昨夜の晩餐では気持ち悪かったが、会話が成り立たないというほどではなかったはずだが。
ミカエラは随伴したべステの顔を見た。
「その、皇太子殿下はお気に召された女性に対しては毎回似たようなご対応をなさいます…」
「毒は!?毒もな!?」
「紅茶に麻痺毒、お菓子に神経毒が仕込んであったわ。まあ[魔力抵抗]で弾いたけど」
「毒は……その、まさかそこまでなさるとは……」
べステはものすごく言いづらそうに、またやんわりと控えめな表現を探して用いているが、要するに毎回ああやって断れない雰囲気を作って逃げられなくしている、ということなのだろう。今回は相手が勇者なだけに権力で黙らせることができず、だから毒まで用いて物理的抵抗力さえ奪おうとした、といったところか。
「これは喧嘩を売られた、って解釈でいいかしらね」
「そらあ、五割増しで買わなならんね」
「ミカ、それは払いすぎ…」
「どうでもいいばってん、王族が勇者と婚姻することが何を意味するか、知っとるとやろか」
不意にミカエラが意味深なことを言う。
「知っているとは思えないわね」
「知ってたらやらないよ…」
ヴィオレも、クレアもため息を隠さない。
「あ、あの、それはどういう………?」
「うん、まあ、侍女たちは知らんままの方がいいばい?知っとったら止めんやったことを咎められるやろうし」
「そうね。まあ貴女や貴女たちのご主人様には類が及ばないようにしてあげるから、心配しなくても大丈夫よ」
「えっ!?な、何か処罰でもされるのですか!?」
意味が分からずに狼狽えるべステやその他の侍女たち。
それを見て、ニタリと昏い笑みを浮かべるミカエラとヴィオレ。何だかすごく悪役っぽいのでやめましょうね、あなた達一応勇者パーティなんだから。
なお当の勇者本人はいまだに絶賛撃沈中であり、クレアはいつの間にかひとり素知らぬ顔で茶を飲んでいる。悪巧みの部分だけ素知らぬ顔でいい子ぶる彼女が一番腹黒いのではなかろうか、と混乱する頭でぼんやりとべステが考えたのも無理からぬ事であった………かも知れない。
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