3-1.スラヴィアを出てイリュリアへ
いよいよ三章ですが、この回はイリシャに入るところまでです。
幕間でも少し出てきた、黒死病に関する説明があります。
翌朝、朝食のあとアルベルトはスズに乗って商工ギルドに出向き、改装の終わったアプローズ号を引き取って戻ってきた。
スズを単体で連れ回すのは念のためにラグシウムの衛兵隊に通告していたが、ここまでに幾度も街中で市民や観光客に目撃されていることもあってすっかり知れ渡っており、何も問題がなかった。特に子供たちなどは恐れる風もなくわらわらと近寄ってきたほどだ。
いや君たち、学校どうしたのさ?
アプローズ号を回送して戻ってからは、各々手分けして衣服など荷物を積み込み、いつでも出発できる準備を整える。次の宿泊地までの所要時間なども考慮して、チェックアウトは昼前の朝の遅い時間にすることになった。
今日は雨こそ降っていないが曇り空で、再び旅の空に向かうにはやや残念な天候だが、こればかりは仕方ない。期限が切られているわけではないが悠長に構えていられるわけでもないので、晴れの日まで出立を延ばすこともできない。
というかまあそれを言うなら、世界の終末を遅らせるための蛇王封印の修正に向かう勇者一行としてはあり得ないぐらいに緊張感のない面々である。東方世界にたどり着くどころかまだスラヴィア地方からも出てさえいないのに今からガチガチに緊張されていても困りはするが、もうちょっとこう、世界の命運を背負っている自覚をですね……
「明日のことは、明日考えればいいのよっ」
ああそうですか。
さすがは黄加護の勇者サマ。
「今日の私たちに必要なのは、どうやってダイエットするかよねえ」
確かに。
「とりあえず次のディオクレア、そしてその次のティルカンまではどっちも特大七ぐらいかかる予定だから、それぞれで泊まるとすれば昼食の前後で少し時間は取れそうだけれどね」
「問題は天候たいねえ」
「それ…」
まあものぐさなクレアさんには雨の中車外に出ることさえ億劫でしょうけどね、貴女が一番運動不足なんですけどね?
とはいえ今日は雨は降っていない。今にも降り出しそうな空模様ではあるが降ってはいないのだ。だったら昼食の後にでも鍛錬の時間が取れるかも知れないし、空模様だってラグシウムを離れればもしかすると晴れてくるかも知れない。
というか竜骨回廊にだって時には獣や魔獣が出るのだから、そういうのがもし出てくればめっけものだ。
……まあ、出てきたところでレギーナのことだから一太刀で終わってしまうのだろうが。
まあそんなこんなで駄弁りつつ準備を終えた一行は、予定通り朝の遅い時間になってチェックアウトして、従業員総出で見送られながら宿を出た。次の目的地は竜骨回廊におけるスラヴィア最後の都市ディオクレアだ。
「そういえば、私たちラグシウム辺境伯に挨拶してないわね」
「挨拶状なら西門で衛士に渡したけれど、挨拶に行くようには言われなかったわね」
「挨拶状ば渡して、その上でお呼ばれもせんやったっちゃけんよかっちゃない?」
緊張感のない会話をしながら蒼薔薇騎士団の面々が次々にアプローズ号へ乗り込んでいく。いくら挨拶状を渡したとはいえ、領主である辺境伯に目通りしてないことを今まで気にしていなかったというのは、それはそれで問題だと思うのだが。
というかそのあたりは本来、道先案内人を務めるアルベルトが管理すべき案件のはずだが。
「多分だけど、ラグシウム辺境伯は誰とも会わないよ」
「なしな?だいたいどこ行ったっちゃ領主は勇者に会いたがるばってんね?」
御者台に乗り込み腰を下ろしつつ、アルベルトは左手で海を指差した。
「ラグシウム辺境伯はあそこにいるんだ」
「どこな?」
「あそこ、ってどこよ?」
あそこ、がどこか分からなくてレギーナたちが御者台に顔を出す。
アルベルトが指差しているのはラグシウムの沖合、大小様々な島が浮かぶ中でひとつだけ本土近くにぽつんと浮かぶ、小さな島。
「あの島におんしゃると?」
「あれなんて島なの?」
「あれは……確かアクルメン島、だったかしら?」
「ラグシウム辺境伯は家族でもう10年もあの島に籠っていて、誰とも会わないんだ」
ラグシウム辺境伯は、約10年前の伝染病の大流行で溺愛していた一人息子を失った。失意にくれる辺境伯はそれ以上家族を失うことを恐れ、周囲の反対を押し切って当時無人島になっていたアクルメン島に渡り、そこに元々建てさせていた避暑用の別邸に引き籠もってしまったのだ。愛する妻と娘、それに最低限の使用人と護衛たちだけを連れて。
とはいえ彼は、辺境伯の地位を捨てたわけでもラグシウムを見捨てたわけでもなかった。通信鏡を準備させて本土と連絡を取れるようにし、日用品や食料などを島に運ばせるついでに報告や執務書類なども頻繁に運ばせて、島で政務を執るようになったのだ。
ただ伝染病の恐怖からか、辺境伯は本土からそれ以上の上陸を決して許そうとしなかったし、自らも本土へ戻ろうとはしなかった。連れてきた使用人や護衛たちも別邸には住まわせず、島に元々住んでいた住人たちが残した家を修復させて住まわせる徹底ぶりだった。
数年して、本土でも伝染病が完全に沈静化して人々が安心して暮らすようになったのを確認して、ようやく辺境伯は使用人の一部を別邸に住み込みさせるようになり、半ば無理やり家族と引き離した護衛たちにも家族を呼び寄せることを許可した。だがそこまでで、辺境伯は市外からやってくる観光客や来客を島に上げることは絶対にしない。数年に一度開かれるスラヴィア各地の辺境伯が集まる会合にも、決して出席しようとしないのだ。
「そうなん。まあ気持ちは分からんでもないばってん」
「何なのよいつまでもうじうじして。情けない男ね」
「人はときに悲しみに耐えられないものよ。察してあげなさいな」
「かわいそう…」
四者四様の反応だが、彼女たちだってその伝染病のことならよく知っている。西方世界全土を数年にわたって席巻し、夥しい死者を出して猛威を奮った病だったからだ。
黒死病。
原因は不明、拡大する要因も不明、治療法も不明。そしてひとたび感染すれば3人のうち1人から2人は死に至る。感染すれば全身が黒ずんでいき、苦しみ悶えて死に至るのでこの名で呼ばれている。
研究とデータの蓄積によって、患者と同じ室内に長く留まっていたり患者の体液に触れたりすれば感染するのが判明していて、だから罹患したと分かれば即座に隔離される。だが分かっているのはそれだけだ。
感染の最初は都市の下水に棲む毒鼠と呼ばれる一般的なサイズの鼠だと言われていて、実際に毒鼠を放置した都市が過去に短期間で全滅した事例があって、それでどこの都市でも定期的に、下水の清掃と毒鼠の駆除を冒険者ギルドが請け負っている。
ちなみに毒鼠というのは通称であって正式な種名ではない。ないが、誰もが毒鼠としか呼ばないので種名は学者ぐらいしか知るものがおらず、学校でさえ毒鼠と教えるほどである。さらに言えば黒死病を媒介するのは下水に棲む複数種類いる鼠の中でも一部に過ぎないが、一般市民は鼠の見分けなどできないのでどの鼠も全て“毒鼠”と呼ばれていたりする。
十数年から数十年おきに繰り返し流行するこの病は、突然に流行を始めて多くの人の命を奪い、そして唐突に終息する。魔術で治療しようにも[解癒]が効かないため毒や呪いの類ではなく、[治癒]も効かないため怪我の類でもない。黒属性の[回復]は効くが、体力を回復させるだけで根本要因の除去には至らず、結局衰弱して死に至る。
それでも[回復]をかけ続ければ病魔への抵抗力をつけた身体が持ち直すことがあり、現状それが唯一と言っていい対処法になっていた。
10年前の大流行は特に酷くて、西方世界全体で数百万とも数千万とも言われる死者を出した。流行はほぼ4年にわたり、その犠牲者の中にはミカエラの母やエトルリアの先代国王、つまりレギーナの父親さえも含まれている。
他人事ではなく、流行期間中に祖父と世界を旅していたミカエラや、父王が罹患したレギーナも、ひとつ間違えば命を落としていたかも知れないのだ。
「あの島には下水を設置してないそうなんだ。それが不便で住人が全員本土へ移住してしまったらしいんだけど、それから10年も経たずに黒死病の大流行があって、それで……」
「あーね。そやけん外から持ち込まれるのさえ防げば島ん中は安心っちゅうわけたい」
「そういう事なのね。臆病になるのは分からなくもないけど……」
レギーナは海上に浮かぶ小さな島を見やる。勇者であってさえどうにもならない悲劇とそれに囚われたままの人々を思いやって、無力感に苛まれて唇を噛み締めた。
「姫ちゃん、中さい入ろう」
その背にそっと手を添えて、ミカエラが促す。レギーナの心境を思いやって、それでも敢えて何も言わずに彼女はそっと親友の心に寄り添う。
その掌から、悔しいのは自分だけではないと気付かされたレギーナは、ひとつ頷いて車内へと戻っていく。それを確認してアルベルトは、スズに手綱をくれてアプローズ号を出発させた。次の宿泊地ディオクレアに向けて。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「さあ、そろそろイリシャに入るよ」
アルベルトがいつもの調子で車内に声を掛ける。それに呼応するかのように車内から慌ただしい足音が聞こえてきて、御者台の連絡ドアがけたたましく開けられる。
出てきたのはミカエラと、レギーナ。
「なんっっっも!」
「起こんないじゃないの!!」
清々しいほど理不尽に、ふたりはガチギレていた。
ラグシウムを出発した一行は、特大八ほどかけて次の宿泊地であるディオクレアに到着し、予定通り宿泊した。そして一夜明けてディオクレアを出発し、その次のティルカンまですでに3分の2以上進んでいる。
なおラグシウムを出てディオクレアに到着したのがラグを出発して9日目、ディオクレアを出発してティルカンに向かっている今日が10日目である。ついでに言えばラグシウム〜ディオクレア間もディオクレア〜ティルカン間も所要時間としては特大七程度だ。ディオクレアまで特大八かかったのは、途中でわざわざ停まって鍛練という名目の魔獣討伐を試みたからである。
まあどこを探しても、魔獣はおろか獣すら見当たらなかったわけだが。
「そんな無茶言わないでよふたりとも。そうそうトラブルなんて起きやしないよ」
荒ぶるふたりの様子に苦笑しつつアルベルトが言う。
そもそも竜骨回廊を進んでいるのに討伐案件に出くわす方が珍しいのだ。
竜骨回廊は西方世界でもっとも大きな街道である。西方世界の主要国であるガリオン王国、エトルリア連邦、イリシャ連邦、アナトリア皇国それにエトルリアとイリシャの間のスラヴィア自治州を通過するこの回廊沿いは、各国と地域が威信をかけて整備し治安維持に務めている。その他の各国を結ぶ主要街道や街々を繋ぐ脇街道なら、まだしも治安に不安のあったり整備が行き届いていない箇所があったりもするが、こと竜骨回廊に限ってはそれはない。
特に今アプローズ号を走らせているのはスラヴィア自治州内である。周辺各国に余計な手出しや口出しをされないためにも各都市は治安維持に神経を尖らせていて、自治州内の竜骨回廊の安全性は西方世界でも屈指と言えるのだ。
そんな場所にそうそう獣だの魔獣だの魔物だのは出てこないし、出てきたところで巡回警邏の各都市防衛隊や冒険者ギルドに即座に制圧・殲滅されるのがオチである。つまり、わざわざ勇者様のご出馬など願うまでもないわけだ。
「なんなのよもう。私たちのために少しぐらい残しときなさいっての!」
言いがかりも甚だしいとはこの事である。真面目に職務に取り組んできちんと成果を挙げているのに、なぜダメ出しされないといけないのか。
「まあ魔獣ぐらいやったら姫ちゃんひと振りで終わらすっけん、そもそもダイエットにやらならんっちゃばってん」
「腕1回振るえるだけでも違うでしょ!」
そしてとんでもない身勝手な言い分である。しかもそれだと運動(とさえも言い難いが)できるのはレギーナひとりだけで、他の面々にはそもそも運動にさえなっていない。ていうかそれだとクレアは車内から出てきさえしないだろう。
「まあ、地道にトレーニングするしかないって事だよね」
「「アンタが言うな!」」
というわけで、道中は今日も平和である。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ちなみに、9日目の昼食はラグシウムで仕入れた海鮮をメインにしたパエリアが出てきた。これはパエリア専用の平鍋をアルベルトが新たに買い込んでいたのである意味想定通りで、ミカエラが予想した通りにイヴェリアスの料理もアルベルトは作れたわけだ。
そして事前にレギーナたちが作りすぎないようにと警告したにも関わらず、平鍋で一度に調理するものだからおかわり自由で、結局全員が満腹になるまで食べてしまって彼女たちはしばらく自己嫌悪に陥っていた。
そして今日の昼食はラーメンという馴染みのない麺料理が出てきた。アルベルトによると東方世界、華国のさらに東方の海上にある極島と呼ばれる島国の料理だそうで、黒麦粉を水とつなぎで練って伸ばして細く切った麺を茹で、それを塩ベースのスープに入れて具材を乗せた、簡素ながらも味わい深い料理であった。
彼によるとスープのベースを変えることで様々に味が変わるらしく、彼はこのラーメンや炒飯を教えてくれた料理人から詳しく習っていたが、ベースとなる調味料の多くが西方世界では手に入らず再現できないとのこと。何でも青豆から作れるらしいが手間と時間がかかり、簡単には作れないのだそうだ。
ミソとかショウユーとかいうらしいが、確かにレギーナたちが聞いたこともない調味料だった。「美味しいし色々使えて便利なんだけどね」とアルベルトは苦笑していたが、作れないものをあれこれ言っても仕方ない。
で、アプローズ号はアルベルトの言うとおり、もう間もなくスラヴィアを抜けてイリシャ連邦に入国するところである。遠くに国境検問所が見えてきていて、あれを抜ければイリシャ連邦、その最北の王国であるイリュリア王国だ。
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