1-5.襲撃
それから数日は、特に何事もなく過ぎていった。
ただひとつだけ、“大地の顎”のメンバーがひとりも姿を見せなくなった以外は、〈黄金の杯〉亭にとっては至って穏やかな日々だった。
ただ少しだけ、街の方にはざわつきがあった。
なんでも、どこぞのお姫様がやってくるらしい、というのが住民の間で密やかな話題になっていたのだ。
何度も繰り返すがラグは自由都市である。
そしてラグのあるスラヴィア地域自体が中立自治州として事実上独立している。
だから、スラヴィアにおいてはいずれの国家の王族も貴族も公権力を発揮し得ない。ただひとりの人間としてしか、その価値を認められない。権威や権力はスラヴィアには持ち込めないのだ。
唯一の例外が各都市を治める辺境伯たちである。彼らは領主であり領地と領民に責任と義務を負うから公権力を保持するのは当然であった。だがそれを除く、つまり「余所者」には大人しくしていてもらわなくてはならない。
これも、周辺諸国が盟約で決めたことだ。スラヴィア地域内部に有力者を送り込み他国の目を盗んで裏工作をすることがないよう、あらかじめ予防線を張ってあったのだ。
そしてこれの効力は周辺諸国だけに留まらない。西方十王国の諸国も、北のブロイス帝国や帝政ルーシといった軍事大国も、その他の小国も都市国家も、西方世界の全ての国家に適用されるものであった。
もっとも、例えばブロイスあたりが軍を南下させて力づくで破りにかかったりすれば話は別だったが。国際的な盟約で取り決めたとはいえ、明確に強制力があるわけではないのだ。
万一そのような事態になれば周辺諸国は協同して防衛戦力を拠出するように盟約は定めていたが、それでも大兵力と軍備で押し切られる懸念は常に消えなかった。
まあそれはそれとして、公権力無効の取り決めは意外な副作用を生んでいた。
つまり、他国の貴族や王族の亡命先に使われるようになったのだ。何しろいかなる国の公権力も無効なのである。亡命者を捕縛に来た警察権力や国軍も当然そうだし、逃げた娘を捕えに来た貴族の親さえ無力になる。
だから平民と駆け落ちして逃げてくる姫とか、政争に敗れて安全地帯を求める貴族とか、そういう者たちが時折逃れてくるようになってしまったのだ。
それだけではない。例えば一国の貴族が他国に亡命すればその二国間で軋轢が生じるのは避けられないが、逃げた先がスラヴィアならそういった心配もなくなるのだ。だからその意味でもスラヴィアへの亡命は増える一方だった。
そんなわけでラグの住人をはじめスラヴィア各都市の人々には、そうした亡命貴族が来たとしても誰も相手をしないよう、暗黙の了解ができていた。
貴族としては扱わない、しかし人間としては普通に接しなければならない。だがその一方で、そうした貴族にもしも万が一の事でもあれば国際問題にもなりかねないし、最悪の場合、盟約を破られて攻め入られる恐れもなくはない。
だから住人はノータッチを決め込みつつもそれら貴族に危険が及ばないよう、各人が連携してそれとなくその身の安全を確保しなければならないのだ。
あくまでも表向きは何も知らない建前で、けれど裏では全て解った上でそれをおくびにも出さない。それがラグをはじめとする、スラヴィアの住人たちの大きな特徴だった。
で、今噂されているのは、「エトルリア方面から姫様とその御一行がラグに向かっているらしい」というものである。情報があくまでも伝聞なのは、誰も姫様御一行とやらに直接問い質していないからである。つまり予測であり推測であり、それは即ち憶測であった。
そもそもエトルリア方面ってどこなのか。最低でも竜脚半島の付け根に当たるエトルリア連邦と、竜脚半島の過半を領有するマグナ・グラエキア、それに竜骨回廊の先にある西方十王国の諸国まではほぼ確定で含まれるはずで、周辺の小国や都市国家まで含めればそれこそ結構な数になる。それらの国々で亡命した貴族はいないか、貴族の子女はいないか、調べるには時間が足りない。
どこの誰がどういう目的でやって来るのか、それをあらかじめ調べた上で何も知らないふりをする。そうでなければ亡命貴族の身の安全など守れないというのに、これでは先行きに不安しかない。そういう裏取りをしてそれとなく周知するはずの辺境伯直属の情報部は何をやっているのか。
そんな街のざわめきをよそに、〈黄金の杯〉亭では今日もいつもどおりのギルド運営が行われる。何しろその姫とやらはまだ到着していないのだから、今のうちからジタバタしても始まらない。
「じゃあ、行ってくるよ」
受け取った依頼書の控えを片手に、アルベルトはアヴリーに手を振って踵を返す。
「ほんとにホントに、本っ当に!気を付けてね!」
先日の一件から彼女はずっとこの調子である。
「そーんなに心配なら、アタシもそっちに行こうか?」
それを横で聞いていたファーナという冒険者の娘が、ニヤニヤしながら茶々を入れる。
毛先だけを緩く纏めた光沢のある真っ白な長髪に、緋色の瞳が印象的な美人だが、体格は小柄で薄い貫頭衣を着て薄い褲子を履いただけの軽装だ。手甲と脛当てこそ付けてはいるが、他に武器になるような物さえ持っていない。
それもそのはずで、彼女は武器を持たずに身ひとつで戦う「格闘士」という冒険者としては珍しい職業である。去年ラグにやって来て以来、〈黄金の杯〉亭に逗留している。
まだ18歳と若いが、それまで東方世界を含めて各地で相当な修練を積んできたらしく、この若さでもう腕利きに上がっていて、将来的には凄腕も夢ではないと噂されていた。おそらく今の〈黄金の杯〉亭の冒険者のうち、個人の実力としては上位クラスのうちの1人だろう。
「いや、ただの薬草採取なんだから心配いらないよ」
「でもラグ山でも黒狼が出たっていうじゃない?」
「そ、そうよ!ファーナがいてくれたら安心だから!」
「いやいや、俺だって黒狼や樹蛇ぐらいなら倒せるからね?」
苦笑しつつアルベルトは断りを入れる。珍しくきっぱり断るのは、ファーナにはむしろアヴリーの身辺に気を使って欲しいからである。
それに黒狼や樹蛇なら倒せるというのもあながち誇張や見栄ではない。アルベルトだってそれなりに経験を積んできているのだ。
じゃないとキャリア20年が泣く。
まあ、さすがに灰熊が出たら逃げるけど。
ちなみに樹蛇というのは主に森の中の樹上で暮らす中型の蛇のこと。毒はないが締め付ける力が強く、人間の子供であれば絞め殺される事もあるので、ギルドにも時折討伐依頼が出される。
「だって…ホントに心配で…」
「大丈夫だから。本当に心配いらないからね」
涙さえ浮かべそうなアヴリーを何とかなだめつつ、アルベルトはそそくさと依頼カウンターを離れていった。あのままあれ以上話していても押し問答にしかならなそうだったし、それではいつまで経っても仕事に出られない。
ファーナが少しだけこちらを気にしていたようだったが、それは敢えて気づかないフリをした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
北門を出て、アルベルトがまず向かうのは共同墓地だ。アナスタシアの墓に来て、供え物の花を替え周囲を履き清め、墓石に水をかけて丹念に磨いてからいつも通りに話しかける。
「ちょっと最近、街が騒がしくてごめんね?」
謝らなくていい事までつい謝るのがアルベルトという男である。別に彼のせいでも何でもないのだが。
「さて、それじゃ今日も行ってくるよ」
最後はいつも通りにそう締め括って、それでアルベルトは墓地を後にした。
森に入り、しばらく歩いた所でアルベルトは足を止めた。
普段は感じない気配を感じたのだ。
だから彼は、いつもより早めに小路を外れて森の中に分け入る。どうせ相手は普段アルベルトがどういうルートで山中を歩き回っているかなど知らないだろうから、多少変な動きをしてもバレることはないはずだ。
ということでアルベルトはしばらく山の中を滅茶苦茶に歩き回った。採集地に向かわず、下草も刈られていない原生林の中を器用に獣道を見つけてはスイスイと進む。
ひとつ、またひとつと気配が離れては消えていく。やはりこれは人間だ。もしも黒狼なら歩き回るほどに気配が増えていくはずなのだから。
気配が残り3つまで減ったところで、アルベルトは手近な群生地の広場に出た。広場の真ん中まで進み、今自分が出てきた藪の方に向き直る。
しばらく待っていると、その藪をかき分けて出てきた人影がある。
案の定それはガンヅだ。
「テメェ…ちょっと山に慣れてるからっていい気になりやがって…」
精一杯凄んでくるが、肩で息をしながらなので威圧効果も半減以下だ。
「こんな所までやって来るなんて、君も相当しつこいねガンヅ」
「うるせえ!テメエのそのスカしたツラ、今すぐ吠え面に変えてやらぁ!」
吠えているのはガンヅの方だが、それはそれとして彼は両腰の曲刀を抜き放った。
これでもう、彼は言い逃れできない。冒険者同士の私闘禁止の条項に触れたのだ。
とはいえ、それに律儀に付き合う義理はアルベルトにはない。
「ガンヅ、君はどうか知らないが、俺には君と戦う意味も意義もないんだよ?」
「テメエに無くたってこっちにはあンだよ!いいからさっさとテメエも抜きやがれ!」
私闘禁止の掟は破るくせに、無抵抗の相手を殺すのは抵抗があるらしい。よくわからん部分で律儀なガンヅである。
「なんと言われても抜かないよ。そもそも戦うつもりもないし」
それに、戦わずに済ますためにこの群生地に誘い出したのだ。
「それでもどうしても、って言うんなら、そもそも相手の態度とか関係ないんじゃないのかい?どのみち俺を生かして帰すつもりもないんだろ?」
「へっ、解ってんじゃねぇか」
安い挑発をしてみたら、ガンヅはアッサリと乗ってきた。アルベルトに煽られるまでもなくそのつもりだったという証拠だろう。
ガンヅはそのまま、一気に間合いを詰めてきた。足元に咲き誇る紫の小さな花を踏み荒らし、双刀を翻してアルベルトに斬りかか…
る前に、アルベルトはすでに逃げている。
「っ!テメエ!戦うことさえ出来ねえ腰抜けが!」
「だから戦うつもりもないって言ってるだろ!」
すたこらさっさ、と表現するのがよく似合うほど、アルベルトは一目散に逃げる。
紫の花を蹴散らしてガンヅが追う。
蹴散らされる花から花粉が舞うのがアルベルトには見える。
「テメエッ!チョコマカと逃げやがって!」
「そりゃ逃げるでしょ、俺だって死にたくないもの」
アルベルトはどこにそんな体力があるのかと思うほど軽快な足取りで逃げ回る。ついさっきまで原生林の藪の中を小走りに近いスピードであちこちウロウロしていたというのに。
大柄でいかにも体力のありそうなガンヅの方が肩で息をして苦しそうである。
アルベルトはガンヅの足元を見る。
彼の足元はブーツではなく、脛当てでもなく、ただの布のズボンに革靴だ。裾から脛の皮膚がチラチラと見えている。
というかそもそも鎧さえ着けていない。携行が許されている武器の双刀と、首から提げた緑の認識票以外は普段着だった。
ということはつまり、彼は今日はオフであるかのように偽装していた、ということになる。偽装というより、こうしてアルベルトを待ち伏せするためにわざわざ身を空けていた、と言ったほうが正しいだろう。
「…ぐっ!な、なんだ?痛え!」
そろそろかな、と思ったところにガンヅが苦悶の声を上げた。
彼が立ち止まってズボンをたくし上げると、その脛の皮膚が紫に変色し始めている。
「君の恰好はさ、山に入る服装じゃないんだよね」
「ああ?何を言ってやがる⁉」
「山に入るのなら、ちゃんとそれなりの準備が要るんだよ」
アルベルトの足元は革の長ブーツになめし革のズボン。ズボンは裾を絞れるようになっていて、その上からブーツを履き、さらにその口も革紐でしっかりと縛られている。こうすることで虫や毒草の花粉など、有害なものが入らないように予防しているのだ。
ついでに言えば上着はなめし革の厚手の長袖シャツで、その上から革鎧の胸当てを着用している。腕には手甲こそないが、これまたなめし革の手袋を填めて、シャツの袖口を革紐で縛ってある。さらに襟元も肩巾を詰め込んで隙間をなくしてあった。
そして腰には当然、使い込まれた片手剣が提がっている。
季節もすっかり花季になって、この出で立ちだと少々暑いくらいだが、山の森で出くわす様々な危険に身を晒すことを思えばこのくらいの防護は当然のことだ。
ガンヅの脛が紫に変色しているのは、毒草の花粉を直に浴びたからだ。
この広場に咲き乱れる紫の小さな花がウェナム草の花で、これは花粉と花びらと根に毒がある。直接触れるだけでも痛みを伴うかぶれや湿疹を起こし、うっかり食せば深刻な中毒症状を引き起こす。幼い子供などは誤食して死ぬことさえある。
毒として使う場合は根と花びらを煮詰めて抽出したエキスを飲み物に垂らしたり、食べ物に塗って使う。だが一方で花びらと根の毒は一般的な解毒薬の材料にもなるので神殿から採取依頼が寄せられるのだ。
その際花粉は必要ないので、採取の時は指で花を弾いてふるい落としてゆく。
そういうことをするから尚の事防護が必要になるのだ。そして、ふるい落とされた花粉はその周りにあるウェナムの花に受粉して、また次の株を生やすのだ。
「君がさっきから蹴散らしてる紫の花、それウェナムだよ」
「なんだ、それがどうし…ウェナムだと!?」
あたり一面毒草の群生地だと知ってガンヅが青ざめる。
知らないって怖いよねえ、とアルベルトは実感するが、だからといって事前に教えてやる義理もない。友好的ならもちろん警告するが、そもそも自分を殺そうとする相手にまでそうしてやるのはお人好しが過ぎるというものだろう。
「そら、解毒薬だよ」
アルベルトが腰の道具袋から小瓶を取り出してガンヅに投げ渡す。彼はその「お人好しが過ぎる男」だった。
「早く群生地から出て、変色した皮膚にそれを塗り込むんだ。しばらく待てば症状が収まってくるはずだよ」
ガンヅは一瞬だけ逡巡したが、目の前に落ちた解毒薬を拾うと一目散に広場の端のウェナムの生えていない場所まで走っていき、一生懸命薬を塗りこみ始めた。
だがこれで、群生地のただ中に立っているアルベルトにはもう近付けない。
「それを塗ったら、大人しく帰りな。この先に川があるから、それ伝いに下れば麓まで降りれるから。ここでの事は“なかった事”にしてや⸺」
そこまで言った時だった。
背中に軽い衝撃と強い痛みを、アルベルトは感じた。
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